Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.8.17
2002.5.27修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩ゆかりの史蹟を訪ねる (二)」
乱発生の地と天満寺町を行く

井形 正寿

『大塩研究 第20・21号』1986.3より転載


◇禁転載◇


 大塩平八郎は天満川崎、四軒屋敷で寛政五年一月二十二日に生まれた。七歳の時、不幸にも両親とは前後四ヶ月の間に続いて死別、祖父政之丞と祖母清によって育てられた。幼にしてすでにこの祖母により古本大学の句読を授けられたという。十四歳の時、与力見習として父名平八郎を襲名し祖父について奉行所勤務をした。二十歳にして朱子学を学び、のち陽明学に転じた。二十四、五歳のころから、町奉行所与力の公務のかたわら、自邸内で子弟の教育にあたり、三十歳ころには陽明良知の哲学と知行合一の学風を樹立し、自らの人格の陶冶に務め、教を受けるため邸内に起居するものが常に十数人をかぞえるようになっていた。文政八年(一八二五)一月入学盟誓八カ条を制定したことは、学塾としての洗心洞の濫觴である。

 平八郎は、文政十三年(一八三○)に与力を辞めたあとは洗心洞で著作と講学に専念した。門弟は与力、同心をはじめその子弟、諸藩の家臣や近在の農民などであって、挙兵の時はこれらの門弟が参加した。

 この大塩平八郎と深いかかわりあいのある洗心洞近辺と大塩家の菩提寺がある天満寺町や南浜墓地を探訪する。

(1)東町奉行所跡(大阪市東区大手前之町)

 地下鉄谷町線天満橋下車、大阪合同庁舎第一号館東南隅に東町奉行所跡碑が立っている。もともと、奉行所は合同庁舎と大手前病院のあたりにかけてあったようだ。敷地は弐千九百六拾五坪(約九、八○二平方メートル)である。

 江戸時代の初めには、東・西両町奉行所がこの地に相接して併立していたが、享保九年三月の大火(妙知焼)で西町奉行所だけは本町橋東詰に移転した。両町奉行所の下に与力各三十騎、同心各五十人が所属していた。大塩の乱には焼けなかったが、隣接する谷町代官所の役宅は類焼している。

(2)川崎東照宮(大阪市北区天満一丁目二四−一五 瀧川小学校)

 東町奉行所跡から天満橋を渡った橋詰の一つ東の道を北ヘ五、六分のところに瀧川小学校がある。その正門横に東照宮跡の大阪市の史跡顕彰碑が立っている。少し廻り道だが、一つ東の川崎橋を渡っていただきたい。その方が大塩平八郎蹶起の当日、急拠東照宮を砲撃の目標に変更した意図がよくわかる。昭和五十三年に架橋されたこの川崎橋から大阪城も町奉行所のあった辺りも手に取るように見える。東照宮の北隣が大塩屋敷であったので、与力瀬田済之助がはだしのまま奉行所から大塩屋散へ逃げこんだこともうなづける距離だ。

 この東照宮へ大塩勢が砲撃を加えた経緯などについては本誌十七号の『洗心洞通信』(16)◇天満東照宮のその後−に譲ることとするが、乱後全焼した社殿は直ちに再建に着手され天保十年(一八三九)に竣工している。明治六年(一八七三)廃社となって、その跡地は後年、瀧川小学校となった。

(3)洗心洞跡(大塩平八郎屋敷跡 大阪市北区天満一丁目二五−1造幣局官舎北一号館)

 瀧川小学校の北の辻を東へ入ったところに、東町奉行所配下の与力中嶋藤内家の役宅門が移築され、造幣局厚生クラブの門となっていて、与力屋敷の一端がうかがえる。

 この鉄筋四階建の厚生クラブの北側に造幣局官舎一号館があり、その東北隅に洗心洞の史跡顕彰碑が立っている。この碑には「大塩中斎の屋敷、洗心洞は当造幣局官舎にあった。天保八年(一八三七年)の乱のさいに砲弾が当って裂けたという槐が残っている」と刻まれている。

 当時の与力は五○○坪、同心は二○○坪の屋敷地を賜わっている。この大塩屋敷の辺りは通称四軒屋敷といわれてていた。

(4)大塩の乱の槐跡(大阪市北区天満一丁目二五)

 洗心洞跡北の国道一号線南側、歩道の傍にある。この槐(えんじゅ)はもともと大塩屋敷向いの与力朝岡助之丞の裏庭にあったと伝えられ、大塩屋敷から撃ち込まれた砲弾の第一発が当ったといわれるゆかりのものであったが、一昨年枯死したので伐採された。

 同年(一九八四)建設省大阪国道工事事務所が建てた史跡顕彰碑には「ここに天保八年(一八三七)二月大塩平八郎の乱の砲弾で裂けた樹令二百年の槐があったが枯死した。よって新たに若木を植え歴史の証人の生命を伝える」とある。その年の春、槐の若木が植えられ大きく育っている。なお、伐採された槐の古木は二つに別けられ、朝岡助之丞四代目の朝岡三治家(和泉市在住)と成正寺に引き取られ、大切に保管されている。(槐の伐採の経過は本誌十八号の『洗心洞通信』(17)を参照)

(5)蓮興寺(日蓮本宗興門派、要法寺末 大阪市北区末広町一−三五)

 地下鉄谷町線南森町下車、北へ寺町西角、寺の正門に「大塩家墓所」の碑が立っている。

 洗心洞−槐跡と続いて歩く時は東天満交差点北の扇町商業高校から東寺町の通りを龍海禅寺(緒方洪庵墓所)天徳寺(篠崎小竹墓所)善導寺(山片蟠桃墓所)などの寺々を通って十四、五分の距離である。戦前までは天徳寺北裏の与力町公園附近には、往時の与力屋敷かみかけられたという。

 本堂北側の同寺墓地に先代、大塩平八郎敬高と大塩政之丞の先妻及び後妻などの墓三基がある。

 墓地北西の隅にある三基の墓を北から順次紹介する。

 台石は「大塩」とある。己心院は先代大塩平八郎敬高、清心院は同人妻。了眠(忠之丞)妙生は敬高夫妻の子である。左側面の年月は敬高の妻の歿年を示している。  次の墓は、台石に「大塩氏」とある。

 この墓は高さ一メートル三○位の小さな五輪塔で本種院は大塩政之丞の先妻、秀顔、暁夢は何れも政之丞とその先妻の子である。

 その南隣に高さ二メートルからある大きな五輪塔は大塩政之丞の後妻、西田清の墓である。しかし、今次の戦災などにより、碑面の損傷はげしく、碑の正面に刻まれていた「寿正院妙誠日耀大姉」左右側面の文字など全面剥落して一字も見えない。台石に「大塩氏」と刻まれたのが僅かに残っているだけだ。

 この蓮興寺は大塩平八郎の継祖母(寿正院−西田清)の実家−西田家と、母(清心院)の実家−大西家の菩提寺であったことから、この三基の墓がある。

(6)成正寺(日蓮宗、大阪市北区末広町一−一七)

 蓮興寺から二つ西の寺が成正寺である。寺の入り口に大阪市が建てた「中斎大塩平八郎墓所」の顕彰碑が立っている。

 大塩家の喜提寺ともいうぺきこの寺には享保九年(一七二四)以後の新寂帳が残されており、その帳には大塩家の戒名十九人が記載されてあり、また宗門改帳が二冊現存し、政之丞より平八郎に至る大塩家の経過が克明に記録されていることからしても、菩提寺の感を深くする。  また戦前在野の大塩研究家として知られた石崎東国の伝えた檄文もこの寺にある。  墓は初代大塩六兵衛以下の一族のもの九基があり、うち七基は裏の境内墓地にある。残り二基は本堂前に並んでいる。  墓地の北側に七基一群の墓がある。その北端中央の屋根、台座付の高さ二メートル近くあるのは、

 この覚性院は大塩六兵衛(初代)、了性院は同人妻、定解は三代大塩喜内の子(久米次郎)である。この墓は大塩の乱後、大塩家の墓であることを秘していたとされている。

 その東隣にあるのは、

 この墓の左右側面は欠損欠字しているが、正面は判読できる。達心院は大塩波右衛門(二代)、延樹院は同人妻である。

 次は中央の西隣にあるのは、

 この至岸院は大塩左兵衛(四代)、誠月院は同人妻である。秀顔、暁夢は大塩政之丞の子であるが、岸光、一乗院はわからない。

 右三基の前列の東側にあるのは、

 この耀山院は大塩政之丞(六代)である。筆跡は中斎であるといわれ、嫡孫とは大塩平八郎のことである。

 その西側にあるのは、

 この本種院妙因(日量は欠字)は大塩政之丞(六代)の先妻、己心院儀覚(日住は欠字)は大塩平八郎敬高(七代)了眠は大塩平八郎の弟(忠之丞享年二才)である。

 以上の大塩六兵衛夫妻の墓以外の四基の墓は昭和三十三年(一九五八)十月同寺無縁塚の墓地整備中に地中から発見されたものである。この四基は成正寺故有光友逸師によれば天保五年(一八三四)七月の大火に破損して埋められていたものと推定されている。次の二基の墓(大塩成余、同敬高)は以前本堂前に立っていたが、四基発見の機会に現在の場所に一緒に移されたものである。

 最前列の東側は大塩政之丞成余(六代)の墓である。

 その西側は大塩平八郎敬高(七代)の墓である。

 右二基(大塩成余、同敬高)の墓は大塩平八郎が建立したもので、碑文は二基とも大塩平八郎の筆跡であるといわれている。碑文の傍点(ゴチック)の箇所は現在欠字となっている。

 大塩敬高の墓は旧碑火災のため焼毀したから天保六年十二月に再建したとあるが、この火災は前年の天保五年七月の大火によるものであろうか。

 了眠はさきにも書いたとおり、平八郎の弟である。

 以上七基は墓地内の墓であるが、本堂の前に大塩平八郎父子の二基の墓がある。平八郎の墓は明治三十年、格之助の墓は大正五年に建てられた。しかし今次の戦災によって破壊されたので、縁者、子孫らによって昭和三十二年七月再建されたものである。

 二基の東側は大塩平八郎の墓である。

 その西側は大塩格之助の墓である。

 成正寺には天満与力の朝岡、吉田、磯矢の三家と同心吉見家などの墓もある。大塩に大砲を打ら込まれた朝岡家、反忠の密訴者吉見九郎衛門の吉見家と大塩家の墓が共存するという事実に、何か感興を覚えるものかある。

 油掛町美吉屋五郎兵衛宅へ大塩平八郎の逮捕に向った与力内山彦次郎の、墓所である寒山寺は、この寺町の西端にあったが、今は箕面市へ移転した。

(7)南浜墓地(大阪市大淀区豊崎一丁目二−七)

 地下鉄谷町線中崎町下車、北へ直進して、阪神北大阪線を西へ曲って右側。入口に導引之地蔵堂がある。

 ここは行基菩薩の開基とされる三昧火の古跡で大阪七墓の一つといわれた墓地である。

 この墓地の入口をはいった右側手前、東向に大塩家の墓が二基ある。この一つは、

 この春岳院は大塩喜内(三代)、本覚院は大塩助左衛門(五代)、耀山院は大塩政之丞(六代)、覚信院は石川吉次郎(政之丞の子)の四柱を合祀した墓である。碑文にもあるとおり、従来あった旧碑が損壊してその文字も判読しかねるので、子孫が先祖の墓を確認できないことをおそれて大塩平八郎が文政元年建て替えたという。平八郎の筆跡である。

 もう一つの墓は続いて右側にある。

 この林道信士は大塩政之丞の子である。

 大塩家の墓がここにあることについて成正寺先代有光友逸師によれば「南浜は荼毘所があった共同墓地であるから、成正寺の墓地が狭隘であるため建碑の余地がなかった時に建立したものであろう」(本誌十六号所載)とされている。

 この二基の傍に大塩と阿波とのかかりあいがあるとされている塩田鶴亀助夫妻の墓がある。

 この南浜墓地はいつもカギがかかっている。地蔵堂入口の柱にカギがブラ下っているから、このカギで出入すること。最近は墓地の管理者である大阪市環境事業局と地元町会の世話人によって、墓地の環境美化に一段の整備が行われていることに厚く敬意を表したい。     (本会副会長)

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