■戦略爆撃
1942年春、世界大戦は、英独の間の戦略爆撃とそれを撃退するための防空戦、そして水面下での制海権獲得競争は別として、特に大きな戦闘は発生せずに推移する事となります。 唯一、東地中海では、チュニジアにかろうじて止まった枢軸軍残存部隊と、連合軍の間で散発的な戦闘が行われますが、日本からの膨大な護送船団がアレキサンドリアに到着するようになった連合軍が、物量に任せて押し切る形で推移し、海を隔てた補給戦で到底太刀打ちできない枢軸軍は、実質的に北アフリカ戦線での攻勢をあきらめ、イタリア本土、シチリア島の防衛へとシフトするようになります。 また、それまで苛烈な戦闘が行われたマルタ島でも、戦局の推移と共に連合軍の大規模な空軍部隊が駐留するようになり、これも西地中海の一部をのぞいて連合軍の制海権を確かなものとする要因となりました。 そしてこの間は、ある程度枢軸、連合共にインターバルの時間として機能したのです。 特に、日本軍、英連邦各地の戦力が地中海、英本土へと流れ込み、連合軍の反撃準備は着々と整えられていくことになります。
1942年も5月に入ると、今度はソ連軍による局地的反攻が開始されます。もっとも、これはあえなくドイツ軍に撃退され、あまつさえ甚大な損害を出し、かえってドイツ軍に自信を取り戻させるという結果に終わります。 しかし、この動きを契機として、戦争と言う巨大な機械は活発な活動を再開します。
口火を切ったのは、連合軍でした。1942年5月30日深夜、英爆撃軍団がドイツ・ケルン市に対して、初の1000機爆撃をしかけたのです。それまでの夜間爆撃が300機程度の規模だったと言うことから考えれば、常識を超越した物量の投入と言えるでしょう。 この攻撃は、最初の超大規模空襲と言う事で、大きな物理的ダメージを与えるだけでなく、ドイツ軍首脳にも大きな心理的ダメージを与える事に成功します。その後、英国の1000機爆撃は、費用対効果の問題から何度か行われただけで一時中断されますが、これが後にドイツ軍の誤断を誘う事になります。 そして、この頃から激しくなった連合軍による(夜間)空襲は、ドイツ市民に物的、心理的に大きなダメージを与える事になります。 この夜間爆撃は、基本的に英国軍が主体となりましたが、ようやく四発爆撃機を大量に送り込むようになった日本軍も、1941年末頃からこれに参加するようになり、42年も夏を超えると英国と交互に300機程度の機数を出撃させるようになります。 もっとも、日本軍がこの当時主力としていた四発爆撃機は「一式陸上攻撃機」で、この爆撃機は、もともと双発として設計が進んでいたものを無理矢理四発機に改設計したもので、このためあちこちに無理がたたっており、42年夏から投入された43型でもこの問題は根本的な点で解決されず、航続距離と爆弾積載量4トンという数字こそ合格点でしたが、防御力においては貧弱の一言に尽き、かろうじて20mm動力砲塔を多数搭載する事で防御力の均衡をとっているような機体でした。戦略爆撃に使用するには、明らかに力不足な機体だったのです。 しかし、それでも日本軍パイロットは愚直に出撃を繰り返し、持ち前の精密な爆撃でドイツを苦しめていきます。なお、日本パイロットたちがこの受難から解放されるには、43年から就役を開始した「連山」タイプの登場まで待たねばなりませんでした。 なお、連合軍とは反対に、ドイツ軍による英本土空襲は、英国側の夜間防空網がドイツよりも整備されていた事もあり芳しくなく、爆撃効果に対して割の合わない爆撃機の損害を強いられることとなります。
そして、この前後に地中海方面で日本軍による大規模な作戦が企図されます。それは、ドイツ軍の生命線とも言えるプロエシュチ油田破壊です。 この作戦は、日本海軍航空隊に属する航空機が軒並み長大な航続距離を持ち、クレタ島からなら戦闘機すらも、ルーマニアに対して侵攻が可能と言うカタログデータから計画されたものでした。 そして、この作戦が実施されれば、実質的に日本軍独自による欧州初の爆撃作戦となる事から、新たな(派手な)戦果を求めていた日本軍部の意向により強引押し進められる事になります。 作戦に投入される戦力は、日本海軍・海軍航空隊・第13航空艦隊に所属する2個航空戦隊のほぼ全力、戦闘機、爆撃機合計約400機にものぼりました。 作戦の格子は、日本軍にしては至って簡単で、黎明強襲爆撃で一時的制空権を確保して、一帯に高密度の絨毯爆撃を行いこれを破壊すると言うものでした。 もちろん、一度成功すれば何度も反復攻撃すると言う点においても、他の地域への爆撃と大差ないものでした。 ですが、当地の枢軸側の防空体制を考えれば、敵地に対する爆撃に大きな経験を持つ英国からすれば、どう見ても無謀に思われました。しかし、結局さらに大規模な戦力を投入し、可能な限り万全を期して行われると言う事で連合軍全体としても作戦が承認されることになります。 英国としては、自ら痛い目に合わなければ言うだけムダだろうと言う判断だったのでしょう。 また、この作戦を欺瞞するために、地中海のありったけの戦術航空機を投入してのシチリア島攻撃も計画されます。 これは、シーレーンの保護を考えたら、現時点ではこちらこそ主作戦と呼んでも差し支えないものであり、このため英国は日本軍から無理矢理戦力を融通させるなど、むしろこの作戦を熱心に推し進めます。
そして1942年6月3日、日本軍によるプロエシュチ油田攻撃が行われました。 作戦は、結果として満足できるものとなりました。 ただし、そのあまりの犠牲の多さに日本軍首脳部は真っ青をとなり、以後爆撃に対する考えを改め、重防御の重爆撃機の開発を極端なまでに熱心に押し進めるようになります。 日本軍首脳を真っ青のさせた損害は、爆撃機の損害にありました。作戦に参加した一式陸攻約200機のうち、生還したのはわずかに64機。実に7割もの損害を出す結果となった事でした。軽防御のため、ある程度の損害を覚悟していた軍首脳としても、決して許容できる損害ではありませんでした。 幸いにして、制空戦闘に参加した零戦による戦闘機隊は、低空での戦闘なら依然ドイツのBf109シリーズに対してほぼ互角であったため、生還率は問題となる程ではありませんでしたが、それでも3割近い犠牲を出し遠距離侵攻が如何に難しいかを日本軍に実感させる事となります。 もっとも、戦時生産が軌道にのっていた航空機生産において、この損害はそれ程大きな痛手とは言えず、この損害のショックは主にパイロットの損失の多さにありました。 そして皮肉なことに、膨大な一式陸攻の撃墜の多くは、制空隊の奮闘もあり油田地帯上空で発生し、ために、多数が自らが大量に搭載していたオクタン価の高いガソリンで自らの翼を炎に包みつつ地面に激突、油田など各種施設に多大な損害を出す事になったのです。また、一式陸攻が搭載していた爆弾の大半が、散開型の焼夷弾、通称「三式弾」だった事もこの損害を大きくしていました。 このため、爆撃によらずとも、油田地帯全体にわたって広範な油田火災が発生し、枢軸側の懸命の消火活動にも関わらず、プロエシュチ油田の産油能力を一年以上にわたり、半分程度にまで落とす成果を上げる事となります。 そしてこの大損害は、戦略的にも大きな波紋を広げる事になります。 ドイツが人造石油製造の先進国であり、この油田に対し連合軍の予想より遙かに低い依存度しかありませんでしたが、それでも実質産油量の2割を一時的に失った事を意味していました。 また、この油田に頼り切っていたイタリアなどは、以後の活動は全く低調となり、海軍に至ってはほぼ活動を停止する事となります。 また、この攻撃は、ドイツ総統に対しても大きな心理的ダメージを与えることに成功し、ドイツの戦略を大きく揺るがす事となります。 枢軸軍の一方的な攻勢に終止符が打たれたからです。