■独ソ決戦・「砦」

 スターリングラード包囲戦とその後のソ連軍の追撃により、ドイツ軍は大幅な戦線の後退を余儀なくされましたが、親衛隊の打撃力とマンシュタイン将軍、ロンメル将軍などの活躍により43年2月にハリコフを奪回するなど、ようやく復調が見られるようになります。
 また、モスクワ正面の戦線を整理するなどして、大きな予備兵力の確保にも成功しており、ドイツ軍の大規模な反撃の機運も大きくなっていました。
 そうした中、前線の司令部からクルクス突出部に存在するソ連野戦軍を撃滅する作戦が提案されました。

 そして1943年5月15日、ドイツ軍東方軍の命運を賭けた戦いが始まります。
 「砦」作戦、俗に言う「クルクス大戦車戦」です。
 作戦の格子は、クルクス市を中心に突出部として残されたソ連野戦軍を、その根本から包囲しこれを殲滅する事にありました。この作戦が成功すれば、ソ連軍は野戦軍の主力を失いその攻勢能力を大きく削がれることになります。また同時に、ドイツ軍も戦線の整理に成功し、その負担を大きく軽減できる事を意味していました。
 ドイツ軍が、クルクス突出部と呼んでいたそこは、43年に入ってからのドイツ軍最大の脅威でした。そこには、ソ連野戦軍の40%ひしめいており、周辺には機甲戦力に至ってはその大半が集められていると見られていたからです。そして、それは概ね事実でした。
 しかし、逆から見れば、そこを撃破する事に成功すれば、ソ連野戦軍に致命的なダメージを与えられることを意味しており、いかに連合軍各国に援助物資を受けていても、その損害の回復は容易でないと考えられました。
 この方針に従い、戦車、装甲車両約3500両、航空機約2000機、兵員180万人、ドイツ東方軍が結集できる全ての余剰兵力がここに集中されました。
 なお、当初作戦は、作戦指導を取り戻したいヒトラーの要望により、新鋭戦車と新鋭戦力の揃う6月末を予定していましたが、ドイツ軍前線からの早期作戦開始要請がこれを前倒しにさせたのです。
 この総統の言葉を覆させたのは、マンシュタインを始めとするドイツ軍前線部隊の首脳部だけでなく、親衛隊(SS)やヒトラーがひいきにしているロンメル将軍、スターリングラード包囲後の得意の大局的な作戦指導により大きな発言権を持つようになったパウルス将軍などの前線の将軍からの再三に渡る要望でした。
 また、この作戦は西欧、南欧での連合軍の陸上侵攻が低調な事から、43年春には東部戦線で多くの予備兵力を保有する事に成功していた事も、この作戦の早期発動を後押ししていました。
 しかし作戦は、将軍達が強く主張した5月頭ではなく、政治的妥協として、1週間のちの5月15日とされました。
 一方、再び攻められる側となったソ連軍の対応ですが、当時暗号をあまりにも詳しく解読していた事から、ドイツ軍の作戦開始を当初計画の6月22日と誤断しており、その線にそって防衛計画の立案が進められます。
 クルクスに至るルートの全て、クルクス・バルコンと呼ばれる突出部全体の陣地要塞化を進め、親衛隊を中心とした膨大な予備兵力を集中させ、ドイツ軍を圧倒する戦力が集中されるはずでした。

 しかし、ドイツ軍の作戦は、一カ月以上早い5月15日に開始されます。
 これは戦術的にドイツ軍が奇襲に成功する事となり、第一撃の航空攻撃により、この地域の一時的制空権奪取に成功すると、ソ連軍が築きつつあった強固な防御陣地に向けての強引な進撃を開始しました。
 ドイツ軍のクルクスに向けての進撃は、優秀なソ連野戦陣地の前にドイツ軍の予定していた程スムーズには進展しませんでしたが、それでも制空権を確保していた事や、ソ連軍の後方陣地の構築が不完全だったことなどから第一線、第二線突破の後は、比較的順調に進撃を続けます。特に唯一新型重戦車「6号戦車」、通称「ティーゲル」の名を冠した重戦車中隊を持ち、さらに大規模な戦力を持ち攻撃力の高いSS装甲3個師団を擁する南方からの攻撃は激しく、ドイツ軍も大きな損害を出しますが、薄い防衛戦しか張っていなかったソ連軍を前に一週間で事実上の戦線突破に成功します。
 あと一日で前線を突破される。これに強い危機感を抱いたソ連野戦軍は、予備兵力の親衛隊の投入を決意。プロホロフカ、オボヤンでの大規模な反撃を開始します。
 そして5月22日、史上最大規模の戦車戦がロシアの大地で繰り広げられる事となりました。
 オボヤン・プロホロフカ戦車戦とも言われる戦いは、当初、疲れの見えるドイツSS軍団に対して、最精鋭の親衛隊機甲軍を投入したソ連軍が、ドイツの「ティーゲル」の前衛に苦しめられながらも数的優位に進展しました。しかし、プロホロフカでの戦闘がたけなわになった頃、最も西側を突破していた国防軍の装甲軍、二個装甲師団を中核とするロンメル上級大将の軍団がオボヤンの側面突破に成功し、ソ連野戦軍の後方を蹂躙する事に成功した事で一気に覆り、以後の戦局をドイツ軍有利へと傾かせる事になります。
 ドイツの二つの戦車集団から挟撃を受けたソ連戦車軍団は、その多くが撃破され、予備陣地は蹂躙され、ソ連軍の予備機動戦力は枯渇しました。この戦いにおいて、ドイツ軍の誇る重戦車通称「ティーゲル」が本来の意味でのデビューを飾り、以後数多のタンク・キラーと無敵神話を織りなす事になります。しかし、この戦いでの活躍がよっぽど印象強かったのか、以後ソ連戦車兵の間では「ティーゲル」の事をヴァンパイアと呼んで忌み嫌うようになりました。これは、「ティーゲル」が特に防衛戦において真価を発揮したことから、「ヨシフ=スターリン3型」の登場まで払拭される事はなかったと言われます。

 その後クルクス市は、最後の進撃に成功したドイツ軍により完全に包囲され、5月29日の降伏へとつながります。
 しかし、ドイツ軍がクルクス近郊で包囲に成功したソ連軍は膨大な数に上りましたが、当然脱出しようとする兵力も多く、そしてこの脱出を全て防ぐ戦力はドイツ軍には存在しませんでした。
 この地域での戦闘が完全に終息したのは皮肉にもヒトラーが当初作戦開始を主張した6月22日で、それまでに約53万人のソ連軍捕虜が投降することで幕を閉じます。

 なお、この戦いにより独ソとも野戦軍の主力が大きな損害を受け、約一年間にわたり小競り合い以外の戦闘を行えない程のダメージを受けることになります。
 これは、連合国軍の爆撃で苦しむドイツ軍だけでなく、連合国各国から援助を受けるソ連軍においても変わりありませんでした。しかもソ連軍の場合は、この戦争の間に誕生した熟練した兵士・士官・将校たちをこのクルクスの戦いで多数失っていた事は人的に極めて大きなダメージであり、野戦軍の建て直しは尋常でなかったと言われます。
 また、作戦を指導したマンシュタイン将軍とこの戦いで決定打を放ったとされるロンメル将軍は、共に元帥へと昇進し、共に軍での影響力を増し、その後の戦局にすら影響を与えるようにすらなります。

 クルクスを巡る戦いの後、東部戦線は停滞を迎えますが、44年夏にはいると再び大きな動きが見られます。
 野戦軍を立て直したソ連軍が、西欧での動きに呼応して全面攻勢を開始したからです。
 ソ連赤軍1000万とも言われれる大軍がついに動き出したのです。
 この当時ドイツ軍東部戦線は、マンシュタイン将軍が実質的な指揮権を握っていると言っても過言ではない状態で、クルクス以後各地の将軍達と共に、東部戦線全体を巨大な縦深陣地に作り上げ、可能な限りソ連軍の進撃を遅らせる準備が行われました。
 これは、レニングラードからスモレンクスを経てクルクス、ハリコフからアゾフ海へとつながる長大な線になっており、この線が守られる限り、ドイツの敗北は考えられないとすら言われました。
 ソ連側の夏期攻勢作戦、「バグラチオン作戦」と名付けられた作戦の格子は、依然強大なドイツ南方軍集団ではなく、それよりも弱体な中央軍集団を大兵力で正面から突破し白ロシアの中心都市ミンクスを奪回し、爾後の作戦で部隊を大旋回させ一気に北方軍集団をも大包囲しようという野心的な作戦でした。

 1944年6月23日にソ連軍によって開始された「バグラチオン作戦」は、直接参加兵員数100万人、戦車・装甲車両など4000両、航空機5000機の大部隊でした。
 対するドイツ軍は、依然強固な守りを見せる南方軍集団こそ健在でしたが、中央軍集団はわずか60万人しかなく航空兵力、装甲兵力ともにソ連軍の三分の一にも満たない数でした。しかも、連合軍が大陸反攻を開始した事から航空兵力がさらに引き抜かれるなど弱体化していました。
 ドイツ軍は、中央軍集団を預かるモーデル将軍の指導によりねばり強い防戦に務めますが、圧倒的な物量を投入するソ連軍の前に後退を余儀なくされます。
 ですが、南方軍集団からの側面援護により全面崩壊を避けられ、ミンクス手前の防衛戦で何とか持ち直す事に成功します。
 ソ連軍の大攻勢が中途挫折を余儀なくされたのは、やはりソ連軍がクルクスで大きく消耗していた事と、日英を中心とする連合軍の援助がソ連の膨大な野戦軍を賄いきることが出来ない事から、補給物資の問題的にその進撃が思うに任せなかったこと、また1年間大きな戦いのなかったドイツ軍が、まだそれなりに抵抗力を維持していた事などが影響していました。
 特にドニエプル川西岸に至る防御線は巧妙を極め、44年いっぱいソ連軍を押し止める事に成功しています。
 そして、結局ソ連軍は、終戦までドイツ領土に本格的に侵入する事はできませんでした。
 このため、もしクルクスでソ連軍が勝利していれば、ソ連軍の進撃は半年から一年は早まっただろうと言われることになります。

■オペレーション「オーヴァー・ロード」