■オペレーション「オーヴァー・ロード」

 1944年、連合軍はドイツ潜水艦隊をほぼ完全封殺する事に成功し、戦略爆撃も終末段階を迎えるまでの優勢を獲得することに成功します。
 つまり、大陸反攻の時期が迫っていると言うことでした。
 この当時英本土には、欧州各国と英連邦軍以外にも、日本とその衛星国から派兵されていた100万人もの陸兵がひしめいていました。英本土にこれだけの日本陸軍が展開できた理由は、地中海戦線を制海権、制空権が確保できた段階で見切りを付け、大陸反攻のための戦力蓄積に徹したからです。このため、いまだにイタリアは枢軸国として健在で、フランス領の北アフリカの各地もヴィシー・フランスの勢力圏に属していましたが、実質において何の役割を果たさなかったのですから、連合軍の戦略判断がいかに正しいかを示す好例でしょう。
 なお、軍を派遣している詳細を見てみると、英国とカナダを始めとする英連邦各国以外では、日本帝国が最大の兵力を派遣しており、その衛星国と言える韓国と満州国がそれぞれ1個軍団程度を派遣していました。他にも、自由フランス、自由ポーランドなど亡命政権の各軍も参集しており、史上稀に見る多国籍軍を構成していました。
 このため、連合軍全体の統制には非常な苦労が伴われ、日本などはとても自分たちではこれを統制できないとして、その責任の大半を英国に押しつけているというのが実状でした。
 この混乱の外にあったのは、圧倒的な母艦航空隊戦力によりバルト海の制海権すら掌握してしまった日英の海軍で、長年の同盟と長きに渡る戦争により、その親密度は混成艦隊でも全く問題のないレベルに達しており、彼らは自慢の艦隊の三分の二を北海正面に回し、圧倒的なプレゼンスと展開していました。

 大陸反攻に対して連合軍が準備した兵力は、1000隻の艦艇と8000機の航空機、そして第一波上陸軍20万名を上陸させるための5000隻もの上陸用舟艇でした。
 さらに、英本土にある160万もの陸兵と4万両もの車両を短期間に送り込む計画でした。もちろん、それらに対する円滑な補給を実現するための部隊と組織も作られます。
 これらは、単なる大侵攻作戦というだけでなく、兵站の戦いと言えるものでもありました。それは、英本土に集められた膨大な物資や兵力を必要な場所、必要な時に集中できなくては全く意味がなかったからです。
 しかも、いきなり港を攻めて補給のための港湾を確保すると言う作戦をとるわけにもいかなったので、「マルベリー」と呼ばれる2つの仮設港が建造され、設置されることすら計画されました。しかも、この港の能力はドーバーの港と同じ能力を持つと言う規模の大きなものでした。
 さらに、大陸に円滑な燃料供給を行うため、海底にパイプラインも敷設され、タンカーによる運ぶ手間と危険を大きく軽減する措置もとられました。

 では、ここで少し日本の洋上兵力について見てみましょう。
 この当時、日本帝国海軍は、そのほぼ全力を欧州へと展開していましたが、護衛艦隊、潜水艦隊を除く編成は以下の通りとなります。

◆大西洋艦隊(1944年4月編成)
●第一機動艦隊:(艦載機:常用約280機)
CV:「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」
CVL:「千歳」、「千代田」
CG:「利根」
CLA:「綾瀬」、「初瀬」
DDG:4隻、DD:12隻

●第二機動艦隊:(艦載機:常用約300機)
CV:「翔鶴」、「瑞鶴」、「千鶴」、「神鶴」
CLA:「水無瀬」、「音無瀬」、「黒瀬」
DDG:4隻、DD:12隻

●第三機動艦隊:(艦載機:常用約340機)
CV:「大鳳」、「海鳳」、「翔鳳」
CVL:「龍驤」、「龍鳳」
重巡洋艦:「熊野」、「鈴谷」
DDG:8隻、DD:8隻

●第四機動艦隊:(艦載機:常用約200機)
CV:「伊勢」、「日向」
CVL:「日進」、「瑞穂」、「瑞鳳」
CL:「大淀」、「仁淀」
DD:8隻、DDE:8隻

●第二艦隊(第一遊撃部隊)
BB:「富士」、「阿蘇」、「雲仙」、「浅間」
BB:「紀伊」、「尾張」、「駿河」、「近江」
CG:「妙高」、「那智」、「羽黒」、「足柄」
CL:「酒匂」 DD:16隻

●第二艦隊(第二遊撃部隊)
BB:「加賀」、「土佐」、「長門」、「陸奥」
BB:「高千穂」、「穂高」
CL:「能代」 DD:16隻

●第八艦隊
BC:「金剛」、「榛名」、「比叡」
CG:「鳥海」、「摩耶」、「伊吹」、「鞍馬」
CL:「矢矧」 DD:16隻

◆地中海艦隊
●第三艦隊
BC:「葛城」、「赤城」、「愛宕」、「高雄」
CG:「青葉」
CL:「阿賀野」 DD:16隻

 また、これ以外にも、英国が「キング・ジョージ5世」級3隻、「聖者級」4隻、「I級」4隻、「フッド」4隻など合計24隻もの戦艦・巡洋戦艦と多数の航空母艦を保有しており、全欧州に圧倒的なプレゼンスを展開していました。
 なお、地中海にいまだ有力な打撃戦力が留め置かれているのは、実質的に活動を停止しているとは言え、無視できない海上戦力を有しているイタリア海軍と、降伏以来港に閉じこもったままのヴィシー・フランス海軍の存在があったからです。もっともこれも戦艦に余裕のある連合軍が「念のため」配備しているに過ぎず、実質的には艦隊の休暇配置に近いものがあったと言われています。
 なお、この時点において、ドイツ大海艦隊はバルト海の奥地に戦艦数隻を中核とする有力な水上打撃艦隊を有していましたが、開戦以来睨みを利かせる連合軍高速戦艦群に活動を大きく制約され、ロクな作戦行動に出ることはなく、唯一北海で活動した戦艦「テルピッツ」や巡洋戦艦2隻は、活動不能に追い込まれるか、不利な通商破壊戦で戦没していました。
 このため、ドイツがこの時点で維持してる艦艇は、戦艦「ビスマルク」以下数隻の装甲艦と重巡洋艦だけであり、連合軍では特に大きな脅威でないと考えていました。
 それでも、戦艦に余裕がある事と、開戦以来一度も大型艦同士の水上砲撃戦を行ったことのない日本海軍の強い要請で、バルト海の入り口に水上打撃艦隊を派遣して、万が一の事態に備えていました。

 また、この頃の日本海軍の編成についてですが、上陸作戦に備えてのいくつかの変更が行われていました。最も大きな変化は、空母部隊から全ての戦艦を召し上げてまで、純粋な水上打撃部隊がいくつも編成されていた事でしょう。これは別に艦隊決戦をしようと言うわけではなく、大上陸作戦において効率的な艦砲射撃を実施するための配置であり、これは英国海軍においても同様の措置がとられ、来るべき作戦では、その気になれば35隻もの戦艦を艦砲射撃にあてがう事が可能な配置となっていました。
 ただし、戦争がこれだけ長期化しているにも関わらず、大型艦において新鋭艦艇が驚くほど少ないのも、ある視点から見るなら異常と言えるかも知れません。
 これは、日本帝国がもともと海軍主導の軍備であり、八八艦隊の戦艦群に代表されるように大型艦に執心だったのが、蓋を開けてみると、日本本土で建造される艦艇の大半が護衛艦艇、せいぜい護衛空母であり、唯一、大型空母とそれを護衛する防空艦の建造が優先されているだけと言う状態だったからです。また、航空機の開発・増産に異常なほどの熱意が傾けられていた事も海軍の新造艦の低調を助長していた事も無視出来ない要因でしょう。
 空母の建造が優先されたのは戦中の活躍故であり、もし空母が初戦で活躍していなければ、これすら建造順位が大きく下げられていた事は間違いないでしょう。これは先述しましたが、「大和」級戦艦の建造が大きく遅れた事と、超甲巡の建造が中止された事などからも予測できる事です。
 なお、大上陸作戦に際して、空母機動部隊は、制空権の完全な掌握と事前の海岸陣地に対するピンポイント攻撃が任務として割り振られており、英本土から殺到する基地航空部隊と連携して、ドイツ空軍にトドメを刺す事が期待されていました。
 特に18隻もの高速空母から1100機以上もの航空機を一時に集中できると言う事は、軍事において最も重要とされる機動力と集中性と言う点において卓絶した能力を持っている事であり、これを全く持たないドイツ軍に対して大きなアドバンテージで、それ故期待も大きなものがありました。

 一方、連合軍の総反攻を真っ正面から受けることになるドイツ軍でしたが、その防衛はお世辞にも十分とは言えませんでした。
 ドイツ宣伝省は、大西洋岸の防衛体制を「大西洋の壁」と称して、さも鉄壁であるように宣伝しましたが、その実質は各戦線に物資を取られた事と、連合軍の執拗なまでの爆撃ではなはだ準備不足であり、「大西洋の壁」と称するにはほど遠い状態でした。
 しかも、現地防衛を担当するルントシュテット将軍とロンメル将軍の考え方の違いから、防衛計画も水際防御か引きつけてからの内陸撃破のどちらにも定まらず、実際の軍の配備も折衷的な内容と徹底さを欠いていました。
 また、ロンメル将軍は、連合軍がカレー方面でなく、ノルマンディー方面に上陸すると予測し、この方面に数百万個の機雷を敷設し水中障害物を設置するなどの防衛体制の強化を行っていました。
 一方、ロンメル将軍以外のドイツ軍首脳が連合軍の上陸地点だと予測していた、ドーバー、カレー方面は、旧式の戦艦からそのまま転用した装甲砲台の設置など、それなりに強固な沿岸防御が施されており、この方面だけに関しては、見た目上「大西洋の壁」と言う言葉も誇張ではないと思わせるものがありました。

 1944年の5月下旬から連合軍全部隊は、それぞれの出撃準備地点での待機に入り、「D-day」の時を待っていました。
 しかし、機密保持の点から出撃の日時はおろか、いったいどこに上陸するのかも末端の兵士達には発表されませんでした。
 このため、異常な緊張が連合軍将兵の間に広まりましたが、将校たちは作戦の準備がある程度進んだ段階で発表がありました。
 作戦名称は「オーヴァー・ロード」。上陸地点はカレーからオーステンデに至るフランスからベルギーにまたがるフランドル地方の海岸線が選ばれました。
 そして、この上陸地点のちょうど中間あたりには、連合軍にとって勝利の始まりとされる小さな港町が存在していました。その名を「ダンケルク」と言います。
 また、欺瞞作戦として英南部に大部隊を集め、実際司令部まで作り、さもノルマンディーを目標にしているかのような体勢も作られました。
 カレー=ドーバー方面は、ドイツ軍の過半が予測上陸地点と見ていただけに、その防備も他と比較すると強固でしたが、当然連合軍側もドイツ軍が強固な防御陣を布いている事は予測しており調査も十分に行っていました。そして、ドイツ軍の強固な陣地を破壊するために、多数の戦艦で全てを吹き飛ばす計画をするなどの最大限の対策が立てられました。
 第一波として上陸する20万名は、8個師団の各部隊と各種支援部隊から構成されており、参加師団は英第3師団、英第50師団、加第3師団、英第79機械化師団、日第一特別陸戦師団、日第五師団、日第三近衛師団、日第二戦車師団で構成されていました。
 また、これに前後して、英第6空挺師団、日第一空挺師団(海)、日第一空挺師団(陸)がドイツ軍後方に降下する事になっており、これらを含めると26万名もの兵力が一カ所に集中される事を意味していました。
 これに対して即時対応可能な現地のドイツ軍は、現地海岸の張り付け師団の歩兵2個師団を除けば、歩兵2個師団とSS第一装甲師団と第二装甲師団があるだけでした。これでも他の地域に比べればマシな方で、この点からも「大西洋の壁」が虚構であることが伺えるでしょう。

 1944年6月5日が、「D-day」に決定されました。これに従い、兵員や物資の輸送計画が立てられていたため、おいそれと作戦の延期はできなかったのです。しかし、この日に低気圧が接近し一時は作戦発動が危ぶまれましたが、奇跡的に低気圧の隙間が発生し、6月5日早朝作戦が発動されます。
 「オーヴァー・ロード作戦」の開始です。
 なお、この戦闘のマスコミなどへの通称名は「ダンケルク上陸作戦」とされました。
 連合軍海軍の全力に護衛された、各種8000隻もの大船団がドーバー海峡を押し渡り、掃海艇を先頭にして一路フランドル地方の海岸を目指しました。
 6月5日午前1時、ドイツ軍のラダールにおびただしい数の光点が映し出され、ドイツ軍も連合軍の総反攻を察知します。
 しかし、これを水上で迎撃できる戦力は、近在に駆逐艦や水雷艇が若干あるだけで、多数が存在していたSボートも連合軍の圧倒的物量の前には、作戦を遅延させる事すらできないまま壊滅していく事になります。
 その後、ビスケー湾やノルウェーで待機していた約60隻のUボートが上陸を阻止すべく戦闘加入しましたが、こちらも十重二十重の連合軍の海上護衛部隊の前に阻まれ、4分の1に当たる15隻もの損害を出し後退を余儀なくされました。しかも、戦果は輸送船や護衛艦艇など30隻の撃破に成功しただけで、こちらも作戦を遅延させる事は全く出来ず、虚しく帰路につくことになりました。

 6月6日、火曜日、午前5時30分。連合軍海軍艦艇の支援砲撃が火蓋を切ります。
 上陸地点は4箇所が設定されていましたが、それぞれの上陸地点に戦艦多数を含む1個艦隊が陣取り、距離2万5000からドイツ軍が設置した強固な沿岸砲を第一ターゲットとして砲撃を開始します。
 最初の戦闘に参加した戦艦は、日英海軍とも14隻の合計28隻で、これは太平洋戦争以来最大規模の戦艦による砲撃戦となり、上陸部隊が海岸に取り付くまでの1時間の間に、彼女たちから合計1万5000トンもの大型砲弾が海岸に向かって放たれました。
 この作戦に際して限界いっぱいまで砲弾を搭載していた彼女たちは、交代の戦艦が現れるさらに2時間後まで砲撃を続け、合計4万トンもの鉄量をドイツ軍の頭上に叩き付けます。この4万トンと言う数字は、強引にTNT火薬に換算すれば初期型の反応弾2発分の破壊力と同じであり、この数字からも連合軍がこの作戦に、いかに戦力を投入したかが分かるでしょう。しかも、この後も補給を行いローテーションを組み何度も英本土とフランドル海岸を往復し、連合軍の橋頭堡が盤石となる6月17日までに延べ10万トンもの大質量砲弾の雨を降らす事になります。これにより大半の戦艦が砲身の交換が必要となったと言われます。
 特に、天候に殆ど左右されずに支援を継続できることから、多少アバウトな攻撃ながら上陸部隊から重宝され、航空部隊よりも信頼をおかれたと言われます。
 この砲撃は、ドイツ軍海岸砲陣地に初期の段階で致命的なダメージを与え、大半の陣地がただのコンクリートと鋼鉄のガレキの山と化しました。さしものドイツの土建技術も、日英の戦艦がそれまでの鬱憤を晴らすかのごとく打ち出す1.5トンの砲弾の連続した射撃までは耐えることが出来なかったのです。
 また、日本軍は陸上砲撃用の秘密兵器である「三式弾」を、碁盤の目のように区切った敵陣地に向けて等配分に大量に打ち込み、海岸一面を火の海にした地域もあったと言われます。
 なお、連合軍の各航空部隊は、44年春から継続された爆撃により、上陸地点に続く全ての道路、鉄道、橋梁などを破壊し、上陸開始日も目に付く全ての敵を吹き飛ばしていきました。
 もちろん、上陸地点の制空権は「絶対的」と言うレベルで、上陸した大半の将兵はドイツ空軍機を見ることすらありませんでした。

 午前6時35分、最初の上陸部隊が海岸に取り付きます。
 そして、どの上陸地点においても守備に就いていたドイツ軍の度肝を抜きました。
 上陸してきた連合軍は、どの部隊も多数の水陸両用車両と共に、奇妙な形をした装甲車両を多数含んでおり、ドイツ軍が予想したよりも遙に機械力を投入していたからです。これは、日本軍、英国軍の区別はなく、強いて言うなら、さらに奇妙な船とも戦車ともつかない水陸両用車両を多数有する日本軍の海軍特別陸戦師団が異彩を放っていると言えたでしょう。
 機械力を前面に押し立てた連合軍の進撃の前に、ドイツ軍も出来る限りの抵抗を行い、上陸地点となった海岸の各地で激戦が展開されましたが、戦闘開始12時間に大勢はほぼ決し、連合軍のどの海岸堡数キロの縦深を確保する事に成功します。
 上陸した連合軍将兵の決死の活躍と、火力と機械力の差が勝敗を決したのです。
 このため連合軍は、その日没までに大量の機甲兵力の上陸と海岸補給地の設置に成功し、確保した陣地を盤石のものとします。
 連合軍は、夜中までに17万名の上陸に成功しましたが、死傷者は1万人近くにも達しました。これは、ドイツ軍の抵抗が尋常で無かったことを、何よりも雄弁に物語っていると言えるでしょう。
 まる一日経過した後、上陸部隊司令官モンゴメリー将軍により高らかな勝利宣言が出される事で「オーヴァー・ロード作戦」は幕を閉じます。

 その頃、海岸部以外のドイツ軍は何をしていたのでしょうか。この上陸の時、ロンメル将軍の持論である水際撃滅を装甲師団が中心になって行っていれば、迎撃は成功していたとも言われます。また、後方に待機していた歩兵師団もロクに戦闘加入しなかった事も、連合軍の上陸作戦に大きなプラス要因となりました。
 これは、連合軍の作戦開始時にドイツ軍で最高司令官が不在で、ヒトラーが就寝中であり、機動打撃力である装甲部隊に命令を出す者がいなかった事が致命的だと言われています。
 また、歩兵部隊は、上陸開始に前後して降下した連合軍空挺部隊との偶発的な戦闘により大混乱に陥ったから、海岸部への進出ができなかったと言われています。
 後者においては概ねその通りと言われていますが、前者は命令云々よりも、連合軍空軍がありとあらゆる移動経路を吹き飛ばし、フランス・ベルギーの交通輸送能力に大きなダメージを与えていた事が最大原因だった事が後で判明しました。
 戦略爆撃を一時中止に近い状態までして行われた爆撃は、フランス・ベルギーの輸送能力の半分を奪い去りました。しかも、フランドル地方の輸送能力は30%程度にまで落ち込む程のダメージを与えていました。これが、連合軍の戦術爆撃と共にドイツ装甲部隊の行動を大きく制約したのです。

 その後、6月12日には全ての上陸部隊が陸で連結され、さらなる増援部隊の上陸にも成功し、連合軍は欧州反攻の大きな足がかりと作り上げることに成功します。

■西部戦線崩壊