■西部戦線崩壊

 連合軍の欧州本土上陸を許してからのドイツ軍は、以前にも増して防戦一方に追いやられます。
 頼みの空軍も、折からの連合軍の人造石油工場と石油精製工場に対する爆撃によりその活動を大きく低下させており、大きな期待を以て投入された各種のジェット機、新型機も、そのいずれもが数が少なすぎた事や技術的に未熟だった事などから、膨大な物量を誇る連合軍に対して大きな効果を挙げることは出来ませんでした。
 もう一方の頼みの綱である陸軍は、連合軍をかろうじてフランドル地方・リール市で敵の侵攻をくい止めていましたが、日に日に海峡を越えてくる連合軍の兵力は数を増し、西欧からかき集めた兵力だけでは、いずれ限界に達することは明白でした。
 もちろん、ダンケルク橋頭堡への大反撃など夢物語であり、ドイツ軍は連合軍の戦術爆撃機に怯えつつも防戦に務めるのが精一杯でした。

 ではここで、ついに陸戦が主体となった西部戦線で、この頃に使用された双方の装甲車両について見てみましょう。
 まずは、精強を以てなるドイツ軍ですが、44年夏当時の主力は、「6号ティーゲルI」、「5号パンター」、「4号H型」などです。他にもうすぐ投入可能となる「7号ティーゲルII」がありました。もちろん、戦車を補完する戦力として期待された、突撃砲と呼ばれる対戦車自走砲も各種存在していました。どれも、連合国軍の同程度の車両と比較すればそれよりも優秀で、表面上のカタログデータだけなら対抗出来るのは、ソ連軍の車両だけでした。
 一方の連合軍は、英軍の「チャーチル」、「クロムウェル」がこの当時の主力となります。さらに、ドイツ軍と同様に「コメット」、「センチュリオンI」ももうすぐ配備が予定されていました。また連合軍もう一方の主力である日本軍は、「百式改戦車」、「三式戦車」、「四式戦車」、「二式改重戦車」などが主力を占めていました。さらに、ドイツ軍同様「三式砲戦車」などの強力な突撃砲も多数有していました。
 基本的に個々の性能だとドイツ軍が優位である事が、カタログデータなどから見ることができます。
 ドイツ軍や英軍については今更言うまでもないと思うので、ここでは外様である日本軍について少し見てみましょう。
 第二次世界大戦において、日本陸軍はその当初二流陸軍と言われていました。これは、39年のノモンハン事変での戦車戦でソ連軍に事実上の敗退を喫した事から付いた風評でしたが、この後大幅な装備の改善が見られるようなります。
 また、41年夏からソ連が連合軍に参加し、一部技術交流などが行われた事などから、陸軍大国ソ連の優れた技術がいくつか流入した事により、その技術的フィードバックで装備の点においても大きな進歩が見られるようにもなります。
 これは、「百式戦車」が47mm速射砲または改良型でも57mm速射砲だったのに比べて、「三式戦車」では75mm砲、「四式戦車」には高初速の75mm砲または英軍供与の17ポンド(76mm)砲の簡易版と言える77mm戦車砲、「二式重戦車」シリーズでは45口径88mm砲またはその88mm砲の改良型の65口径砲が装備され、砲が大きくなるにつれて装甲も分厚くなりました。特に「二式改」の前面装甲は傾斜装甲で120mmにも達し、ドイツ軍重戦車を凌駕するような化け物へと進化します。そして対ドイツ戦車戦の切り札として投入された「三式砲戦車」に至っては、海軍の100mm両用砲を改造した戦車砲を搭載し、ドイツ軍の全ての戦車を撃破する能力を保持するまでに進化します。なお、「3式砲戦車」は英国にも多数供与され、英本土でも似たようなタイプの車両が44年夏ぐらいに開発されています。
 戦車の形状も、あか抜けない印象の強い「百式戦車」シリーズに比べて、「T-34」のラインを導入した「三式戦車」以後は洗練されたスタイルになりました。
 なお、日本軍の戦車は「○○式」と呼ばれた事から、欧州では「T-○○」や「タイプ○○」と呼ばれましたが、連合軍で最も強力な対戦車戦闘能力を持ち、強固な傾斜装甲に覆われた「3式砲戦車」だけは、日本以外の兵士達からその強力な主砲を揶揄して「CANNON(キャノン)」の称号が贈られました。ただ、日本兵からはその日本語訳である「加濃」、「カノン」と呼ばれたと言います。
 また、一部では日本や英国の戦車の供給が間に合わない部隊が存在した事から(特に同盟国軍部隊)、アメリカから急遽大量に輸入された「M4(シャーマン)」シリーズを装備した部隊もありました。

 フランドル地方での双方の激しい戦いは、圧倒的制空権を確立していた連合軍の比較的優位に進展しましたが、ドイツ陸軍のねばり強い防戦の前に大きく進撃する事は適わず、連合軍はリール前面での停滞を余儀なくされていました。
 しかし7月25日、一週間ほど前から開始されていた英軍による陽動作戦により、ドイツ軍がドイツ国境側に引き寄せられた事を確認すると、日本軍の近衛機甲軍を中核とした3個軍団による大規模な突破作戦が開始される事で、戦線が大きく動くことになります。
 岡村大将麾下の近衛機甲軍に属し、先頭を行く近衛第一機甲師団と第二機甲師団は、共に「二式改重戦車」、「三式砲戦車(カノン)」を先頭にしてその脇を「三式戦車」、「四式戦車」で固め、強引な戦線突破を図りました。そして、戦車戦では依然ドイツ軍に歩がありましたが、濃密な航空支援と砲撃との連携でこれを退ける事に成功します。
 日本軍機甲部隊の目標は、ドイツとフランス中央部を分断する事にありました。当然ドイツ軍との間に激しい戦闘が発生しましたが、地上戦での消耗を嫌った連合軍は、重爆撃機までも大量投入して膨大な鉄量による事前爆撃を行います。この攻撃で、ドイツ軍は甚大な損害を受け後退を余儀なくされましたが、それでも果敢に防戦に務め、日本軍がアミアン市に達した7月31日までに、双方10万人にも達する死傷者を出すほどの激戦となりました。
 しかし、この攻勢により完全にドイツ軍の戦線突破に成功した連合軍は、その後さらに進撃速度を強化し、部隊を旋回させつつパリに向けての進撃と、在フランスドイツ軍の包囲撃滅を目的とした大きな旋回運動を開始します。
 これに対して、僅かながら余力を残していてドイツ軍も可能な限りの反撃を行いましたが、連合軍の圧倒的な航空戦力の前に反撃は初日で挫折せざるをえず、反対に反撃作戦のために一カ所に固まっているドイツ軍を、連合軍がより強く包囲する作戦を始動させます。
 この連合軍の野心的な包囲行動により、ドイツ軍20個師団、10万人がサンカンタン市で包囲される事となり、最終的にその半分が降伏を余儀なくされました。
 この時、ドイツ軍西部戦線が崩壊したのです。

 この戦いにより、パリへの道は大きく開かれます。
 これまでの一連の戦いを「ダンケルク橋頭堡の戦い」と呼びます。
 そして、ダンケルク橋頭堡を突破した連合軍は、圧倒的な進撃速度を維持しつつ、8月25日にはパリの解放に成功し、秋までに全フランスとベルギーの大半を解放することに成功します。
 しかし、一連の攻勢作戦により、さしもの連合軍の補給線も伸びきり、再構築が必要となった事から、フランス解放後計画されていたオランダ方面への大規模な攻勢作戦は、一時延期される事になりました。
 一方、防戦一方となったドイツ軍でしたが、7月20日の「総統暗殺未遂事件」や、相次ぐ司令官の交代、ロンメル将軍の負傷など上層部において大きな混乱に見舞われ、こちらも連合軍の建て直しのスキを突いた攻勢作戦を行うどころではありませんでした。ただし、連合軍の進撃が鈍った事から戦線の再構築に成功し、かろうじてドイツ国境で踏みとどまる事に成功します。

 そして、ここに一つの野心的な作戦が、21軍集団から提案されます。
 作戦の格子は、オランダのデルタ地帯に架かる5つの鉄橋を空挺部隊で占領し、そこに機甲部隊を投入して一気に突破する作戦です。
 これにより、ドイツ軍が防備を固めるジークフリート要塞線を北から迂回し、ドイツ領内に一気になだれ込める事が可能となり、「クリスマスまでに戦争を終わらせる」可能性がありました。
 この作戦は、「マーケット・ガーデン作戦」と呼ばれ、9月17日に開始されます。
 第一撃目の空挺作戦に、英第一空挺師団、日本海軍第一空挺師団、日本陸軍第一空挺師団の合計3万6000名が投入され、その後ポーランド空挺旅団、韓国第一空挺旅団の8000名が投入予定でした。
 また、これに呼応して突進する機甲戦力として、英第30軍団の3個師団と、日本軍の第二近衛機甲軍(団)の2個師団が準備されました。さらに、機甲部隊への円滑な補給のための前線補給師団が特別に準備され、これを側面から援護する予定でした。
 また、陽動と限定的な攻勢作戦として、その周辺地域一帯に対する侵攻も行われる予定になっていました。
 そして、この作戦に連動した形で、地中海方面の戦線拡大を延期してまで、日本軍の第一特別陸戦軍団、3個海軍陸戦師団によるオランダ沿岸への強襲上陸作戦も同時に計画され、一気にこの方面を突破する作戦へと拡大する事になります。
 そして、この海からの作戦の追加により、「マーケット・ガーデン作戦」が局地攻勢でなく、ベネルクス全体を全て解放するための大規模作戦へと変更される事になりました。
 モンゴメリー将軍が計画した当初は、空挺部隊と機甲部隊のみによる作戦だったのですが、これ程の大作戦となった背景には、英国から出されたこの野心的な作戦に、基本的に攻撃する事を是とする日本側が大いに賛同し、この作戦を聞くや、日本軍が全く別個に進めていた作戦をさらに追加提案し、二つの奇襲作戦を複合させることで、ドイツ軍の混乱を誘い包囲殲滅しようと言う戦略判断になったのです。
 なお、当初日本軍が独自に考えていた強襲上陸作戦は、さらに大規模だったために作戦予定日も10月でした。ですから、この空挺作戦に合わせるために無理矢理規模を縮小し、同時発動にこぎ着けたと言う裏話もあります。
 そして、最終的に決定した作戦は、オランダのデルタ地帯にある全ドイツ軍を空海からの強襲で包囲殲滅する作戦と言えるものになります。

 連合軍の作戦は、必然と言うべきか海からの作戦の方が準備の関係から、事前にドイツ軍に漠然と再度の強襲上陸作戦があることを察知させる事になり、ために作戦発動までに海岸部にドイツ軍の部隊のかなりが移動していくことになりました。
 この時、連合国軍は、ドイツ軍の動向を詳しく察知していませんでした。これは、それだけ作戦が急だったと言うことです。
 しかし、「マーケット・ガーデン作戦」は、予定通り9月17日に開始されました。当然、海と空からの同時奇襲攻撃となります。
 この連合軍の作戦に対してドイツ軍は、フランドル上陸と同じく、空挺部隊は上陸予定地域の後方に降下するものとごく常識的に、そしてオーヴァーロード作戦の時と同様だろう思い込んでいた事から、デルタ地帯に多数の精鋭装甲師団を待機させましたが、これが全くの肩すかしを受けることになります。
 このドイツ軍の誤断もあり、空挺部隊は連合軍の作戦通りにアルンヘムにつながる重要な5つの橋梁に対して行われ、この大半を確保する事に成功します。
 特に作戦1週間前までアルンヘムにはドイツ軍のSS第9、第10装甲師団がいたのが、これが海岸部に移動してしまい、入れ替わりに戦時動員された戦力も低い歩兵師団がこの地域の防衛を担当しており、精強な英第一空挺師団にライン川に架かる橋を奪取させる事になります。
 そして、ドイツ軍予備兵力のかなりが海岸に集中された事から、アルンヘム目指して突進してきた連合軍に有効な反撃を行うことができず、9月25日には連合軍にアルンヘムとそれに連なる橋(道)を明け渡すことになります。
 一方、ハーグ・ロッテルダムを目標に強襲上陸をしかけた日本海軍の攻撃は、上陸開始当初こそ圧倒的な海空戦力の援護により順調に伸展しましたが、上陸の翌日にはSS第9、第10装甲師団を中核とした強力なドイツ機甲戦力の反撃を受け、部隊は海岸に釘付けにされる事になりました。
 しかし、海に近かった事がかえって連合軍に幸いし、常識を超越したと言われる艦砲射撃の援護を受けつつ防戦に務めました。そして、アルンヘムに向けて突進する機甲部隊が報告されると、こちらの方がこの方面の全ドイツ軍の脅威として映り、動揺が広がりドイツ軍部隊が移動しだすまで持ちこたえることに成功します。
 ちなみに、この艦砲射撃の威力は、フランドル上陸作戦からさらに洗練されたいた事から絶大な威力を発揮し、またドイツ軍が強硬な攻撃を行った事から、丸々一個装甲師団が壊滅的打撃を受けるほどの損害を受けていました。
 この戦闘で改めて戦艦の持つ砲撃能力を大きさを双方は知ることになったのです。ただ、連合国側にとっては残念な事に、これ以後大規模な上陸作戦は行われる事はなく、この戦いの記録は、戦訓としてのみ教書や報告書にのみその効果の高さを後世に教えるだけでした。
 そしてその後、10月までにこの方面での残敵掃討も終了し、さらにアムステルダムなどのオランダ主要部も解放され、連合軍は作戦を成功させました。

 この「マーケット・ガーデン作戦」と、その後進出してきた各後続部隊の急激な進撃により、連合国軍は西部戦線にあるドイツ軍の最後の頼みだった、ジークフリート・ラインを迂回突破する事に成功します。
 そして、この戦略的条件を以て、ドイツ軍に立ち直るいとまを与えず、さらなる攻勢作戦を企図します。
 攻撃目標は、ルール工業地帯。ドイツ産業の心臓部と言ってもより重要な産業地帯を占領する事で、ドイツの戦争経済を完全に破錠させるのが目的とされました。
 全ては、連合軍司令部の掲げた大目標、「クリスマスまでに戦争を終わらせる」ためでした。
 もっとも、日本軍将兵にとっては「クリスマス」は全く馴染みのない習慣だったので、「正月」と認識されていたと言います。
 作戦名称は「ブルー・ボルト」。
 この作戦には、連合軍の大半の機甲戦力の投入が予定されていました。これは、ドイツ軍が予備兵力を投入して必ず反撃してくると見られていたからで、ドイツ軍が立ち直っていないこの好機に、重要な産業地帯を占領するだけでなく、ドイツから予備兵力を奪い、戦争そのものを決しようと言う意図を持った作戦だったのです。
 この作戦を成功させるために、フランドル上陸作戦の後、一旦は後方で再編成をしていた空母機動部隊を北海に呼び寄せるなど、少ない作戦準備期間ながら可能な限りの戦力が整えられました。

 あえてドーバー正面が欧州反攻の地点に選ばれたり、「マーケット・ガーデン作戦」が決行されたりするなど、誰がどう見ても連合軍は、戦争の一日も早い終結を急いでいるようにしか見えませんでした。
 もちろん、誰であろうとも戦争が早期終結するに越したことはありませんでしたが、これほど連合軍が作戦を急いだのには、いくつか理由がありました。
 一つ目は、連合軍を構成する主要な国々は、基本的に海洋帝国であり巨大な陸軍を保持する事が様々な理由からできず、地上兵力の予備兵力に乏しかったからです。
 二つ目は、英国が欧州での戦後を見据えて、少なくともドイツ全土、できうるなら東欧の大半も共産主義勢力に渡すことなく、自らの影響圏にしようと言う思惑を持っていたからです。
 三つ目は、戦費の問題でした。1939年秋から戦争を続けている日英は、1944年に入ると戦費の面で大きな不安を抱えるようになっており、戦後の資本建て直しのためにも、一刻も早く戦争を終結させる必要があったのです。
 他にも理由がないわけではありませんが、以上のような理由から連合軍の西欧からの攻勢は、一段とその激しさを増すことになります。

 そしてまた、足早に攻勢作戦が開始されました。
 「ブルー・ボルト作戦」は、10月20日未明をもって開始されます。20個もの日英の機甲師団、機械化師団を中核とした攻撃は、強力な空軍の砲兵の支援のもと圧倒的な破砕力を発揮し、ドイツ軍第一線を苦もなく突破する事に成功します。
 この日英の攻撃に対して、ドイツ軍西方軍の防衛計画は、連合軍が予測したよりも低い戦力、不十分な戦力しか整える事ができませんでした。
 これは、多くの第一級師団が新たな装備を受領するために一旦後方に下がっていた時期に、連合国軍の攻撃が実施されたからです。
 このため、一応の予備兵力として配備された師団も国民擲弾兵師団である場合すら存在し、新鋭戦車・兵力を投入し意気あがる日英機甲部隊に為す術がありませんでした。
 ルール工業地帯直前の防衛戦では、ようやくドイツ陸軍の第一線師団のいくつかが配備につき、機動防御と反撃を行いましたが、例によって移動中を連合軍空軍機に阻止攻撃され、爆弾とロケット弾の雨をかいくぐってようやく前線に到着しましたが、その時には完全に時期を逸しており、後退するより他ない戦況でした。
 11月初頭までに大勢は決し、ドイツの心臓部の一つであるルール一帯は連合軍の占領する所となります。
 ただし、後方に下げられていた故に、ドイツ軍精鋭部隊の脱出を許すことになり、これがドイツ軍にとっての最後の切り札を与える事になります。
 ですが、主要工業地帯を敵の手に抑えられたドイツの反撃能力は、これ以後補給と補充の面で急速に衰えることになります。
 つまり、ドイツ軍はもう一度大きな作戦を行えば、戦力が枯渇してしまうと言うことでした。


■ドイツ本土決戦