■ドイツ本土決戦
1944年も秋に入るとドイツの劣勢は、まったく覆すことなど不可能と全てのドイツ国民に実感させるレベルにまでなります。 空では毎日のようにどこかの国の爆撃機が、大挙どこかの大都市に飛来し全てのものを吹き飛ばし、前線は西部においてはドイツ国境を突破して深く侵攻してきていました。海軍など、ドイツ国内奥地の軍港に逼塞している以外は、影も形もありません。 かろうじて、東部戦線が戦争中盤の反撃に成功したことから、いまだロシア領内で頑張っていましたが、それも長くは持ちそうにありませんでした。 明らかに、ドイツは敗北しつつあったのです。
対する連合軍は「クリスマスまでに戦争を終わらせる」と政治的な目的の達成という大前提に立ち、圧倒的な海空戦力を前面に押し立てて、ベルリンに向けての最後の大攻勢を企図していましたが、問題が全くないわけではありませんでした。 順番に見ていきましょう。
最大の問題だったのが、どう言う形で戦争に幕を引くかです。当然、ドイツの政治中枢とドイツの全占領地域を解放・占領した上での、ドイツ無条件降伏と言うかたちが最終的な目標なわけですが、主にソ連軍以外の連合軍の地上戦力の不足から、陸上侵攻は西欧正面に絞られ、そのためにいまだイタリアすら降伏していない状態でした。 さらに、ドイツ軍の激しい抵抗の前にいまだロシア領内でもたついているソ連は、戦後を踏まえてドイツの分割占領を言うぐらいならまだしも、自らの軍隊がベルリンを占領すべきだとして、日英などに強い要請を出すなどその足並みにも乱れを生じさせていました。 ドイツの占領は、主に英国の主張から単一国による占領をすべきだと言う意見が、ロンドンでは占めていました。これは、英国以外で最大の兵力を派遣している日本が、戦争を早期に終わらせ一日も早く動員解除して、兵力を日本に引き揚げたいと強く考えていた事も影響していました。日本は、ドイツを自分以外のだれが占領しようとそれ程気にしていなかったのです。そして、そんな面倒な事、日本は全くと言ってよいほどしたがりませんでした。 それは、日本がこの戦争中に実質的にアジアの経済を握る事に成功し、日英と共に世界の海洋をコントロールできるようになっていたからに他なりませんでしたので、ハッキリ言って、連合国がフランスを開放した時点で日本にとっての戦争は終わってもより状態でした。 これに対してソ連は、ドイツ全土の英国、ソ連、フランス、日本など主要各国による分割占領を主張しており、ロンドンの意見と真っ向から対立していました。なお、この意見には、隣国で欧州での影響力の拡大を狙うフランス、ポーランド亡命政府も同調していました。 そして、バルト三国の解放を進めていたソ連が、再びこの地域の実質的併合を画策している情報が伝わると、ロンドンの意見が徐々にソ連に対して疑念を持って見るようになります。 特にソ連、ひいてはロシアを本来不倶戴天の天敵と認識している日本の不信感は大きく、日本本土や満州などでの警戒態勢を上げる準備するそぶりすらを見せました。 当然これは、ソ連の態度を硬化させました。しかし、まだこの時点では他国の調停もあり、日本側も謝罪し、ソ連も解放した国は全て独立を復帰させる事を表面的には約束したので沈静化しました。 戦争の決着の付け方とその後の占領政策については、結局何度かの首脳会談を経た後、最終的に再度カイロで行われた、チャーチル、スターリン、永田会談で、枢軸国に対する無条件降伏と連合国側諸国による国家ごとの単一国家による占領・進駐で決着を見ます。 当然ドイツ全土は英国の占領分担となりました。 ここでは、政治的寝技に長けた英国が勝利したのです。
次の問題は、連合軍に爆撃以外で半ば無視されて、現在では戦っているのかいないのか、いまいちハッキリしないイタリアの処遇でしたが、これもドイツが片づいたあと(無条件)降伏しないようなら、一気に地上侵攻して叩きつぶす方向で調整が進みました。 ハッキリ言って、連合国の誰もがドイツが降伏したら自然に他の国々のファシスト政権は崩壊して、降伏するだろうと見ていたのです。また反対に言えば、ドイツ戦が片づくまで、イタリアに侵攻すべき兵力が日英に存在しないと言う大きな理由もありました。
それ以外は、純粋に戦術レベルに関する事でした。 箇条書きに挙げると、西部戦線での地上兵力の不足、東部戦線での補給体制の貧弱さ、ドイツ占領地域での爆撃対象の選定、ドイツ軍新兵器への対処などです。 西部戦線での地上兵力の不足は、44年夏までには日英などが植民地や衛星国、友好国などから兵力を経費と武器・弾薬を日英持ちで拠出させる事で何とか決着が付きました。これにより45年初頭には、国籍は様々でしたが膨大な地上兵力が西欧、南欧に出現が可能となり、これらの兵力は、側面を固めたり後方警備と東欧解放に貢献する事になります。また、本土を開放されたフランス軍も連合軍の援助で1944年秋以降復活しつつあり、後々の影響力確保という目的もありましたが、徐々に兵力をドイツ・東欧方面に派遣しつつありました。 なお、これらの地上兵力に混じって、正式には参戦していないアメリカ合衆国から派遣された1個軍団、2個師団程度の義勇軍の存在があり、宣戦布告なき大国の存在は多彩な連合国の中にあっても異彩を放っていました。 東部戦線での補給体制の貧弱さについては、ソ連軍が無理な攻勢を実現するために、必要以上に前線の兵力を増強しすぎているとロンドンでは分析しており、1000万人にも達するとされるソ連赤軍の兵力を、連合軍の援助物資では物理的に維持しきれないとスターリンにキッパリ伝え、これにソ連側も本当に物理的に不可能な事を数字の上で悟ると、さんざん文句を言ったあげく、結局は自助努力で対応する事となりました。しかしこれは、当然前線でのソ連軍兵力の減少を意味し、さらに編成上での混乱も招き一時的に攻勢を鈍らせる結果になります。 ドイツ占領地域での爆撃対象の選定は、日本軍、中でも遠距離攻撃の片方の中核である日本陸海合同航空隊が、いまだに生産施設のない純粋な都市への爆撃、特に市街地への無差別爆撃に難色を示しており、結局戦術思想の違いと言うことで、終戦までこの問題が解決する事はありませんでした。 なお、日本軍航空隊は、航空機工場、石油精製工場、各種車両工場、鉄道、道路、港湾などの交通機関への爆撃を何よりも重視しており、これに関する限り効果の面から無差別爆撃が極めて有効だと容認していましたが、それ以外の爆撃、特に単なる一般市街に対する無差別爆撃などは全て余芸だと考えられていました。これを日本軍に好意的な研究者は、「武士道」の実践だと絶賛しています。 もっとも、日本政府(軍)がドイツの一部工業施設や市街地への爆撃を避けた一番の理由は、「戦後誰がドイツを復興するんだ、うちにそんな金はないぞ。それに、何もかもなくなった国から、どうやって賠償請求を取り立てるんだ。」と言う戦後を見据えたあまりにも現実的なものが理由でした。このあからさまな本音には、無茶苦茶な事を言い立てるソ連以外の全ての国が沈黙せざるをえなかったと言われています。 ただ皮肉な事に44年に入ると、重防御に加えて高度10000mで最高600km/hの飛行をこなし、6トンの爆弾を腹の中に抱える「連山改」の群が、ドイツ本土爆撃の任務を黙々とこなすようになっており、しかも昼間爆撃を常とするようになり、「飛燕II」、「疾風改」などのお供を必ず連れているため、ドイツ空軍において最も脅威度が高い敵と認識されていました。 最後にドイツ軍新兵器への対処ですが、これは有名な「V-1」、「V-2」兵器と呼ばれるロケット爆弾がその主な脅威対象で、「V-1」については対処可能、「V-2」については対処不可能でしたが、結局どちらも事前に発射基地を徹底的に爆撃するという、いかにも直接的な解決方法が取られることになりました。そしてこれは、ドイツ軍の実戦配備が事実上フランドル上陸作戦以後だった事もあり、結局大きな問題となる事はありませんでした。また、新たな兵器として出現したロケット飛行機、ジェット戦闘機は、日英側でも開発、実戦配備が進みつつあった事と、まだまだ実戦向きの兵器でなかった事から、連合国にとって大きな脅威とはなりませんでした。 地上兵器は、全体から見ればそれほど脅威でもありませんでしたが、地上部隊の士気の維持もあり、ドイツ軍が送り出した史上最強の戦車である「7号戦車」、通称「ティーゲルII」への対処として、英国の「センチュリオンI」(17ポンド砲装備だったが極めて重装甲)と日本の「二式改重戦車」と「(試製)五式重戦車」(100mm砲を旋回式鋳造砲塔に収めた重戦車)を早期に実戦投入する事でその回答とされました。 そして、様々な問題をそれなりに乗り越えた連合軍は、ドイツ本土への最終的な攻勢作戦の第一段階の発動をついに始動させます。
1944年11月16日、西部戦線の連合軍が大きく動き出します。 全ては、「クリスマスまでに戦争を終わらせる」ためです。この時期、冬の寒さが厳しくなり始めるこの時期に連合軍があえて動き出したのは、まさにこの目的のためで、それ以外の何者でもありませんでした。 もちろん、連合国軍広報部では、ドイツ軍の防衛体制が整っていないのを突いての矢継ぎ早の電撃的な攻撃と説明されましたが、全ての将兵にはそう認識されていました。 また、既成事実により、ドイツの寸土たりとも共産主義陣営に占領させたくない、と言うロンドンの政治的意向が強く働いていた事は言うまでもないでしょう。 戦争はこの時点で、すでに政治的な要素が最も要求されるものとなっていたのです。
攻勢作戦の名称は、日英それぞれの作戦担当地域が異なっていたことから、「ランバージャック作戦」と「決(号)作戦」と呼ばれました。 作戦の主体となるのは、英第21軍集団と日遣欧総軍(軍集団)でした。西部戦線には、これ以外に南部ドイツ軍と対峙する、日英の構成国・同盟国を中心に多国籍で構成された第6軍集団がありましたが、補給問題と機甲兵力量の関係でこちらの同時攻勢は見合わされました。 ではここで、この攻勢作戦に参加した日本陸軍・遣欧総軍の編成を紹介しておきましょう。
◆日本陸軍・遣欧総軍 ●(近衛)第6方面軍 直轄 第3空挺師団<幸(ラッキー)> 近衛嚮導機甲旅団<頭(リーダー)>
近衛第1機甲軍 近衛第1機甲師団<隅(コーナー)> 第1機甲師団<拓(リクレイム)> 第2師団<勇(ブレイブ)>
近衛第2機甲軍 近衛第2機甲師団<宮(パレス)> 近衛第3機甲師団<範(モデル)>
●第5方面軍 第17軍 第54師団<兵(ソルジャーズ)> 第56師団<龍(ドラゴン)> 第109師団<胆(カレイジャス)>
第8機甲軍 第2機甲師団<撃(ストライク)> 第3機甲師団<瀧(ウォーター・ドラゴン)> 第9機甲師団<武(サムライ)>
●第7方面軍(1個軍(団)欠) 第10機甲師団<鉄(アイアン)> 第1師団<玉(オーブ)> 第4師団<淀(ビック・リバー)>
●総予備 第4機甲師団<鋼(スティール)> 第5師団<鯉(カープ)>
これ以外に西欧正面にあったのは、陸軍の第1空挺師団、第2空挺師団(1個連隊欠)、第7機甲師団、第6師団、第8師団と海軍の第1空挺師団と第1から第3の海軍特別陸戦師団が存在していました。しかし、通常師団以外の大半が後方で再編成や改編・休養状態であり、文字通りこの時点での日本陸軍の機甲戦力の総力を挙げた作戦と言って良いでしょう。 もちろん、これらを支援するために軍団レベルや軍レベルでの砲兵や工兵、防空、輸送などの直協部隊が配備されていました。 また、50番台師団により2個軍(団)が編成されて、南欧での侵攻用にシチリア島とアレキサンドリアへの本土からの移動を開始していました。また、それとは別に50番台師団のうち1つが、ドイツ南部戦線を担当する第6軍集団総予備としてありました。 なお、師団の中には、当初歩兵師団だったものが、この戦争中に機甲師団(戦車師団)に改編成されたものもあり、このため数字の大きな機甲師団が存在しています。 ちなみに、本来師団番号を隠すための秘匿通称記号である、師団ナンバーの後に付く漢字一文字が欧州戦線の将兵の間ではよく用いられたので、これを英語名称ともども併記しています。 また、この当時の日本陸軍の個々の編成ですが、機甲師団は言うまでもなく戦車を中核とした機械化師団ですが、これ以外にも師団番号が一桁のものと50番台は全て機械化師団でした。例外として空挺師団に改変された第3(空挺)師団があり、その代わりとして国内警備用として編成されたが、急遽欧州に派遣された第109師団が機械化師団への特別改変を受けています。 なお、日本軍は、満州事変まで第1〜第17が常設師団で、これ以外に近衛師団が存在していただけでした。 これが、満州事変、満州国の建国による師団増設、ソ連との対立激化により開戦頃には近衛+24個師団までが編成されました。ここまでが全て続き番号になっています。 その後、第二次世界大戦が勃発すると、近衛師団や機甲師団、空挺師団の例外を除き、欧州派兵用に50番台以降の師団番号を持った師団が新設され、さらに100番台の国内警備師団が留守師団として増設されました。 このため、各師団番号に大きな開きが出ているのです。 なお、空挺師団と機甲師団はこの例外で、師団創設の経緯により番号にばらつきがありました。 そして、二桁番号を持つ戦前からの常設師団の大半は、一桁番号師団の人員面での補充師団的扱いとされ、最後までヨーロッパに派遣される事はありませんでした。もっともこれは表向きの理由で、日本軍のホンネはソ連が完全に信頼できないと言う事と、日本陸軍そのものの余力を残しておこうと言う意図がありました。また、50番台師団の大半は戦時用の新設師団と言う事もあり、その多くが戦略的優先順位の低い南欧作戦向けに待機していました。 なお、日本の衛星国からの派兵は、韓国が第1軍団として首都師団(猛虎(ワイルド・タイガー))、第3師団(白骨(ホワイト・ボーン))、第6師団(鉄壁(アイアン・ウォール))を派兵しており、満州国からは機甲師団1個を含む4個師団が、タイ王国からは1個近衛旅団と2個歩兵師団が、フィリピンからも1個師団が派兵されていました。そして中でも異彩を放っていたのは、日本の領土とされている台湾から、同島の住民のみで1個師団が編成され、日本陸軍の1部隊として派遣されている事でした。これは将校・士官以外は全て現地での志願兵から編成されており、その民族的特性を活かし日本軍にとっては貴重な本格的な山岳師団やレンジャー師団的な位置づけで存在し、アルプス地方の侵攻に備えていました。 これらの部隊の大半は、英連邦軍などと構成される第6軍集団に属しており、これらだけで1個軍を丸々構成して、便宜上日本風に第一三(方面)軍と呼ばれていました。
1944年11月16日未明、連合軍の前線に配備された全ての重砲がその火蓋を切ります。この砲撃は全く途切れることなく、夜明けを迎える午前10時頃まで続き、その後は戦術爆撃機に攻撃を委ね、体勢を立て直すとさらに夕方から砲撃を再開しました。 二度目の砲撃が終盤にさしかかると、完全に機械化された戦闘工兵部隊が、地雷原、戦車障害物、鉄条網などの徹底した撤去と前路啓開を行い、その道を通って翌日の午前6時を以て、全軍団が前線の強引な突破を図りました。 まさに圧倒的鉄量の投入による被害の極限、その典型的な攻撃の姿と言えるでしょう。 各軍団の先頭を進んだのは、連隊規模の戦車・砲戦車を先頭にした強力な諸兵科統合部隊で、日英双方で10以上もの突破兵団がドイツ軍の前線を随所で蹂躙し、往年のドイツ機甲部隊もかくやと言う前進速度で、ドイツの平原を押し進んでいきました。 砲爆撃で叩かれているとはいえ、一カ所、二カ所程度ならドイツ軍もまだ対処可能でしたが、突破してきたのが10箇所もあってはちょっとした機動防御程度では処置の施しようもなく、戦力が大幅に低下し、機動力すら失っていた前線部隊の大半は、蹂躙、包囲、降伏と言うプロセスを経て48時間以内に全てが西部戦線のドイツ軍の編成上から消滅していきました。 その後連合軍は、圧倒的な制空権のもと順調な進撃を続行し、日本軍の先鋒部隊の一部はエルベ川を望むまで進撃しますが、作戦から丁度一ヶ月たった時、大きな転機が訪れます。 ドイツ軍の待ち望んでいた大規模な低気圧が西欧を覆ったのです。この低気圧により航空機の活動は著しい制約を受け、必然的に連合軍の進撃速度も鈍り、一時的な停滞を余儀なくされました。 戦場の女神は、連合軍にクリスマスまでの戦争終結をさせてくれなかったのです。この低気圧の存在は、司令部の人間にそう思わせるに十分なものでした。 そして、この天候の悪化を突いて、ドイツ軍が最後の大反撃に討って出ます。 作戦そのものは至って単純で、西部戦線に残存する全ての機甲戦力をドイツ中央部正面に侵攻している英第21軍集団側面に叩き付けて、これを突破し大きな包囲行動をしつつ、南ドイツで頑張っている友軍まで達し、最終的には包囲殲滅する事にありました。 これが成功すれば、日英を主軸とする西部戦線の連合軍は、進撃が大幅に遅れる事となり、少なくとも半年は時間が稼げるよ予測され、場合によっては陸上戦力に不安を感じている日英に対して停戦すらできるのではと見られていました。 作戦名称は「ラインの守り」、俗に言う「ヒトラー最後の賭」と呼ばれるものです。 投入された兵力は、10個装甲師団を含む25個師団で、編成的には日本陸軍遣欧総軍とよく似た軍団編成をしており、総兵員数27万人、装甲車両1000両に達していました。もっとも日本陸軍は、元々師団規模が若干大きく各種支援部隊も充実しており、ほぼ万全の体勢の師団ばかりだったので前線の兵員数だけでも、ドイツ軍の1.5〜2倍以上に達していました。 作戦期間はたったの一週間で、それまでに英国軍の包囲完成が予定されていました。作戦期間がこれほど短く設定されたのは、低気圧が通過し連合国軍空軍が活動を再開し、陸上兵力が立ち直る時間がその程度だと判断されていたからと、それよりも重要だったのが、燃料問題からそれ以上の作戦が事実上不可能だったからでした。 これに対する英第21軍集団の作戦担当正面の兵力は、2個軍団、6個師団で、しかもその大半が休養中か新編成の師団ばかりでした。
ドイツ軍の攻勢は12月16日早朝、突然の短い準備砲撃により開始されました。 その砲撃は、連合軍のそれと比較するとあまりにも少ないものでしたが、突如攻撃を受けた英軍を混乱に陥れるには十分なものでした。 ドイツ軍の攻勢は、連合軍の空軍部隊が悪天候のため活動できない事から順調に伸展し、連合軍がすぐに投入できる戦力もないことから快調な進撃を継続しました。 特に強大な戦力を保持していた第6SS機甲軍は、大きく前進する事に成功します。それはまるで往年の電撃戦を彷彿させるものがあったと、多くの戦史家は語っています。 しかし、包囲、孤立した連合軍の各部隊は、自軍の優勢を信じている事などから孤立しながらも各陣地でよく持ちこたえ、ドイツ軍から貴重な時間を奪います。 特に、次のエルベ川突破のための作戦準備で、後方に待機していた日本陸軍の第8(機械化)師団と陸軍第1空挺師団(ナラシノ・バスターズ)は、フルダで包囲されながらもドイツ軍の猛攻に持ちこたえる事に成功しています。
12月18日までに、連合軍の包囲は適いませんでしたが、ドイツ軍が大きな突出部(バルジ)を形成する事に成功します。しかし、連合軍は必要以上にパニックに陥る事はなく、次期攻勢の主力と位置づけられていた、日英合同の第3軍を始めとする予備部隊の投入も開始され、さらに21軍集団司令のモンゴメリー将軍が南の守りを固めてしまい、このためドイツ軍が所定の目的地に達する可能性は、早々に消滅する事になりました。 しかもドイツ軍は、折からの燃料不足が祟り、道中ばにも達せず燃料不足で進撃を自然停止させてしまいます。また、自慢の重戦車たちは、トランスポーターを全く使用しない無理な進撃がたたり、燃料不足も相まって停滞、そして撤退が始まると自国内での戦闘であるにも関わらず自滅、放置されていきました。 そして戦闘は、皮肉にも連合軍が終戦記念日を予定していたクリスマスがピークとなります。これは、ついに西欧の天候が回復し、連合軍空軍戦力が完全に息を吹き返したからです。 復活した空からの暴力に対して、ドイツ軍は燃料が底を尽いていた事から為す術もなく、連合軍戦術爆撃機の格好の目標とされてしまいました。 しかも、重爆撃部隊も後方兵站と集結地を合わせて徹底的な爆撃を行い、ドイツ軍の最後の予備兵力を完全に叩きつぶしてしまいます。 12月26日、山下大将率いる日英合同第3軍は、第7軍団に属する日第七機甲師団(ノーザン・ブル)と英第七機甲師団(デザート・ラッツ)を先頭として、包囲下にあったフルダを解放しドイツ軍の追撃態勢に入ります。 そして、事実上の作戦失敗後も上層部の硬直した指導から、諦めず攻撃を継続するドイツ軍の反撃を大晦日までに完全に封じ込み、ドイツ軍の予備兵力を残らず殲滅する事に成功します。 ここに、西欧での陸上戦の決着は着いたのです。
なお、「クリスマスまでに」と言うスローガンが失敗した連合軍司令部は、これに代わる目標として今度は、「イースターまでに」と言う同様のスローガンを掲げます。これは3月31日が期日となるので、前線の将兵にも受け入れられやすく、表面的には「またか」とバカにされつつも、英国人が大好きな賭の対象とされたと言います。