■欧州大戦終結
1945年にはいると、一人の男がたった十数年で作り上げたドイツ帝国は、その断末魔にありました。 制空権はドイツ全土において完全に連合軍に奪われており、一部のジェット機部隊などが頑張っている以外は、新兵の操る航空機が虚しく落とされるばかりで全く為す術のない状態でした。人造石油工場を始めとする製油施設を戦争半ばから徹底して叩かれた事で、早期に燃料不足に陥ったのがこの致命的な状況を作り出していたのです。しかも、皮肉な事に航空機工場そのものは、石油工場よりも順調に稼働しており、飛行場の格納庫には燃料がなく飛べない機体がただ並べられている状態となっていました。 海も絶望的でした。海洋帝国である日英のプレゼンスは、この段階でバルト海の制海権すら完全に奪っており、あげくにツーロンが陸からの進撃で陥落し、北アフリカの諸地域が復活したフランス政府に帰属した事で、大量の艦艇を取り戻したフランス海軍が完全に稼働状態に入り、地中海で身動きすらとれないイタリア軍相手のプレゼンスを、日英と共同で展開しているありさまでした。 また、対潜戦闘も連合軍が絶対的と言って良い優位を獲得しており、Uボートが強固なブンカーから離れることは、絞首刑の死刑階段を上ることと同じとすら言われる状態でした。 もちろん、陸も例外ではありません。 東部戦線は、43年夏の得点がいまだに影響しており、ソ連軍はようやく全てのソ連領土の大半を奪回し、ワルシャワに迫ろうとしていましたが、いまだドイツ軍は全面崩壊する事なく戦線を維持していました。ですが、それもあと半年は持ちそうにない状態です。 また、西部戦線では、日英を主力とする地上軍がドイツ領土深く侵攻し、エルベ川を渡河しようと言う位置まで進撃していました。つまり、ベルリンは目と鼻の先だったのです。 そして、西部戦線で連合軍を止めるべき兵力は、先年末の無茶な反撃作戦ですっかり消耗しており、現地部隊が絶望的な抵抗をおこなう以外存在しないと言う状態でした。
こうした中1945年2月8日、連合軍による「ブリュタブル作戦」が発動されます。もちろん目標はベルリン。大ドイツの帝都です。 同時に、「弾(グレネード)作戦」として、いまだ保持されている南ドイツ一帯に対する攻勢も計画され、二つの作戦を以て完全にドイツを占領することを目的とされていました。 なお、西部戦線の全部隊は、ドイツを占領したらそのまま進撃を継続し、東欧の全てを解放する事も合わせて命令されていました。進撃が停止するのは、部隊がソ連軍と握手するまでとされていたと言われています。
この攻勢作戦に、日英を始めとするソ連以外の全ての連合国軍が動員できる全ての兵力が投入されました。これはドイツ軍が、ロシア戦線を放り出してでも、首都を守るために増援を西部戦線に差し向け、頑強な抵抗をすると予想されたからです。 投入された兵力は、西部戦線の全てを合わせると約70個師団に達し、これは当時西部戦線にあった陸上兵力の9割に相当しました。 しかし、侵攻は思いの外順調に伸展します。それは、あまりの抵抗の少なさに前線の将兵が首を傾げた程でした。 なぜそうなったのか、ドイツ軍には東欧にも西欧に回すべき予備兵力すら存在しなかったのか。解答は意外な所にありました。 原因は、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの命令です。 彼は、「ラインの守り」が完全に失敗した45年初頭にある指令を出したのです。要約すれば「西部も渡してはならないが、それ以上にスターリン(ソ連)に、欧州の石ころ一つ渡すことは許さない。」と言うものです。これは、その後正式にドイツ軍全体に対する指令として全軍に通達され、このため精鋭の第6SS機甲軍なども東部戦線へと移動する事になります。 また、東部戦線にある将兵たちが、すでにソ連軍に奪われた東プロイセンのダンツィヒ東部におけるソ連軍の現地住民に対する非道を知っていたため頑強に抵抗した事も、ソ連軍の進撃を低下させる事につながりました。しかも、なけなしの補給すらも情勢が逼迫している西部戦線にでなく、東部戦線優位で行われると言う状態ですらあったと言われています。 もちろん、西部戦線にある日英に対しても、ドイツは敵愾心は大いにありましたが、少なくとも無法なソ連軍よりも「マシ」な相手であり、戦時法を尊守する方に占領される方がまだマシだろうと言う考え、そして、東方の蛮族からの侵略からの祖国防衛という伝統的考えが全ドイツ人にあった事も無視できないでしょう。 ソ連に降伏すれば良くてシベリアでの強制労働、悪ければその場で虐殺ですから、それを考えれば正統な捕虜扱いしてくれる日英軍がマシと将兵達が考えるのは、当然と言えば当然でしょう。特に、一般市民をまともに扱う日英軍と虐殺、略奪、暴行、連行の対象としてしか見ていないソ連軍とでは、その差は歴然としていると言えるでしょう。 ただし、ドイツの一般親衛隊がロシアの大地で行った蛮行が考えなければという但し書きが付きますが。 ちなみに、この時の連合国(日英)軍の攻勢の間に、ドイツ領内にあった多数の強制収容所が進撃とともに解放され、劣悪な環境下で死の狭間にあった多くの命が救われる事になります。この助けられたユダヤ人の中には、戦後に自らの日記を発行し、一躍「時の人」となったアンネ・フランクも含まれていました。 また、ドイツ北部の平原を突っ走り、手当たり次第に地方を占領(開放)して歩いた日本軍は、日本兵の規律が行き届いていた事と、日本政府そのものが西欧への政治的意図が低い国と見られていた事もあり、後に大きな感謝を寄せられる事になります。
なお、この時点で連合軍は、日本遣欧総軍と英第21軍集団が共にベルリンを指呼におさめる位置にいましたが、英国がドイツを事実上単独占領する事が政治的に決まっていたので、日本遣欧総軍はドイツ北部の平原をベルリンをかすめつつ一気に東進し、ポーランドを目指すことになり、ベルリン攻略は英第21軍集団が行うことになりました。 なお、日英の突破のさなか、それまで西部戦線を支えていたH、B、Gの各軍集団は、ベルリンを防衛するB軍集団以外は事実上崩壊しており、北部を守るH軍集団に至っては、日本軍に対して3月21日に司令部そのものが降伏し、消滅していました。 このため、日本軍の進撃はもはや無人の荒野を行くようであり、一番の問題が次々に降伏してくる軍、ドイツ市民、解放された収容所の扱いと自軍の伸び続ける補給線だったと言われています。 そして、3月26日遂にベルリンは包囲され、英第21軍集団によるベルリン攻略戦が開始されました。 この当時ドイツ軍は、4個装甲師団を含む12個師団や臨時編成の国民擲弾兵大隊多数が帝都ベルリンを防衛しており、編成表からならベルリンを攻撃しようという英軍に迫るほどでしたが、実際は兵力の著しい不足と火砲、装甲車両の不足から全く対抗できる戦力ではありませんでした。また、ワルシャワを死守するためなどに、本来ベルリン正面にあるべき歩兵師団を東部戦線に派遣するなどして、その防御力を低下させていました。 ベルリンの攻防は、日本軍からもかき集めた5000門と言う常識を超越した砲兵を集中した連合軍の攻撃により開始され、3月31日のアドルフ・ヒトラーの自殺により事実上幕がおります。その後掃討戦が継続しましたが、4月2日に正式にベルリン防衛部隊の司令部が降伏した事で完全に終息しました。 なお、この軍司令部降伏とヒトラーの自殺のどちらをベルリン陥落にするかで、英軍将兵の賭がどうなるかが前線将兵の最大の話題でした。この例を見るまでもなく、連合軍にとっての戦争はこの時点で事実上の終戦を見ていた事がよく分かると思います。
4月2日にベルリンは陥落しましたが、戦争そのものはその後しばらく継続する事になります。 これは、4月5日にヒトラーの死亡と共にドイツ総統を引き継いだドイツ海軍のデーニッツ提督が、連合軍が提示した無条件降伏を受け入れる事で一部停戦が実現します。そして、4月7日に降伏が正式に署名され、4月8日が来ると共に停戦が発効しました。 これをもってドイツは連合軍に無条件降伏し、後は武装解除などの降伏における処理が進むはずでした。 ところが、東部戦線では依然として戦闘が継続しており、しかも停戦命令を無視しているのが、ほとんどソ連軍の方だったため問題が大きくなりました。 しかも、ドイツの降伏に前後して、イタリアを除く全ての国が同じく無条件降伏を受け入れるか、連合軍との停戦を受け入れていたのに、それらの国に対してもソ連軍による「解放」が継続されていたのです。その上、ソ連軍の行動は、連合軍内での進駐協定すら無視した動きすら見られていました。 ソ連軍は、ドイツ軍がいまだに抵抗を続けているからだと説明しましたが、ドイツ側はソ連軍がこちら側の軍使を無視、場合によってはその場で射殺すらして、無理矢理戦闘を継続していると抗議していました。 これに連合軍の困惑は大きなものとなります。 しかも、ソ連に対する不信感がもともと大きい日本は、この報告を聞くと「進駐」行動を止めるどころか加速させ、その足跡をポーランド奥深くに進めることで、さらに事態をややこしくすることになります。 さらに日本軍は、ソ連軍と戦っているドイツ軍に物資の援助すら与えた事が発覚した事からこの混乱はピークへと向かいます。 そして日本軍は、何の抵抗も受けずにドイツを経てバルト海に流れるウィスラ川を越え、ソ連軍と直に対峙する所まで前進してしまいます。 本来なら、ここで共に戦ってきた戦友同士の熱い握手と言う光景が見られるはずでしたが、折からの相互不信から数キロの距離を挟んでの事実上の日ソ軍による睨み合いになってしまいます。 この時点で、ようやく双方の政府が活発に外交活動を開始し、現地軍の自重もあり最悪の「同士打ち」は避けられましたが、ソ連と他の連合国側との間に決定的なまでの溝を作り上げてしまうことになります。 このため、最初の取り決めの分割占領ラインではなく、なし崩し的にその時点で双方の軍が占領している地域が、事実上の分割ラインとされてしまい、このためポーランドはワルシャワを境に東西に分割され、ルーマニア、ブルガリアがソ連に、他が日英などの手に委ねられることになります。また、ドイツ、ルーマニア、チェコスロバキアの領土の一部とソ連がフィンランドから奪回した地域の一部が、占領地域の関係から既成事実的にソ連領とされ、バルト三国からもソ連軍が引き上げることはありませんでした。 そうした混乱の中、ドイツ降伏から混乱続くイタリアは、ムッソリーニーを4月28日に失脚させ、ドイツ降伏から丁度一ヶ月後の5月8日に連合軍との停戦が成立しました。もっとも、これに関心を寄せる国は殆どなかった事は言うまでもありません。 しかし、このイタリアの降伏を最後に、本当の意味での戦争は終結し、世界はようやく平穏を取り戻すことになります。
その後ドイツのポツダムにて講和会議が開催され、ニュルンベルグでは、今回の欧州での戦乱の総決算として国際軍事裁判が日英仏主導で開催される事となり、一応の決着が見られる事になります。 なお、ソ連は講和会議にも軍事裁判にも一応参加していましたが、ドイツ降伏以後の停戦無視が原因で、他の連合軍との仲がかなり冷え切っており、この講和会議と軍事裁判以後、日英仏(後に独も参加)vsソ連+共産主義諸国による「冷戦」の時代へと突入する事になります。
そして、第一次世界大戦に引き続いて、この第二次世界大戦でも参戦せず、戦時貿易によりその国富だけを増大する事に成功したアメリカ合衆国は、自分では民主主義と自由主義を標榜するとしながら、その国力に見合った役割を全く果たしていないと、日英政府から強く非難されます。 これは、主に物資面で連合国によく協力したと思っていた合衆国、とりわけ義勇軍すら出した事を誇りにしていた合衆国市民にとって大きなショックであり、このため戦争中に修復しかけていたと思われていた日英との関係が再び冷却化し、特に太平洋を挟んで再び日本との対立を強くしていくことになります。 なお、合衆国は確かに連合国側の勝利の一助となる多数の物資を渡しましたが、これはその9割以上が純粋な「貿易」によるもので、戦争後半に本来の意味での援助として渡された物資も、日英政府から買い上げた戦時債務の返済を思えば、安いとすら表現できない量でしかありませんでした。
戦後、英宰相の座を降りたウィンストン・チャーチルによる「鉄のカーテン」演説と、「ワルシャワの壁」もしくは「(東経)22度ライン」が東西冷戦を象徴するようになります。 また、勝手に孤立感を深くしてるアメリカについては、「20世紀の大陸封鎖」という言葉が贈られ、その言葉どおりしばらくは、大陸に閉じこもることになりました。 そして世界の政治地図は、ソヴィエト連邦+共産圏、アメリカ合衆国と米州機構、日英を中心とするそれ以外の世界という構造となり、イデオロギー的に同質であるもの同士が対立していると言う、いびつな対立構造へと流れていくことになります。
しかし戦争が終ってみて、この戦争における一般の日本人達の一番の疑問は、戦争が終結しても対立が続いたり発生している事などではなく、「なぜ自分たちは、これほど一生懸命に、しかも異常なほどの熱意を以て、欧州の大地で血を流し続けたのだろう」と言うことでした。 確かに今回の欧州大戦への積極参加で、世界的にも日本の国際的地位は不動のものとなり、英国の相対的な影響力低下もありその外交的影響からも脱しました。国際的にも、英米ソについでの完全な大国にのし上がることにも成功しています。当然、アジアにおける覇権も約束されている様に思えます。文字通りの世界的な大国の地位を掴むことができたのです。 しかし、国民からすれば長期に渡る戦争のせいで、国には莫大な借金返済が発生し、金持ちになるはずの戦争でむしろ貧乏になったのではないかと言う考えがありました。 しかも、海の向こうのアメリカは、戦争に参加しなかったくせに、いやだからこそこの戦争による景気で経済の建て直しに成功しており、自らと対象をなしているので、その思いはひとしおでした。
もっとも戦争を演出した一人である日本政府は、この戦争は外交的な大成功を掴んだ事で大きな満足を得ており、これ以後の日本外交は異常なほどの世界的な視野での大国意識を持ったものに変化していきます。(これまでは、地域大国の域を出ていなかった。) また、ドイツの無条件降伏と長期に渡る戦争で、欧州列強の優れた技術を導入もしくは奪取に成功し、また戦時生産により必然的に発生した生産合理化などで、日本の産業は未曾有の発展を遂げる事に成功しており、単独でもどの列強にも互せるだけの力を持つに至ります。 これは、各種の工業の躍進以外でも、戦後ドイツの技術奪取から始まった核分裂反応技術とロケット技術などにより見るべき成果を挙げるようになります。 さらに、戦時債務についても、自らと周辺地域での経済の躍進を考えれば、10年程度で健全な財政状態にできると見られてもいました。
そして、日本の優位、つまり亜細亜の優位は、戦後西欧列強から東南アジア各地の植民地が独立していくに従い強くなり、大国日本の地位を不動のものとしていくことになります。 しかも、この植民地の独立により、それまで世界をリードしてきた英国、フランスの地位は相対的に低下しました。 そして、それを表すかのように、1948年度に行われた国連総会において、新興独立国の意を代表する立場にたった日本は、世界的な主導権を勝ち取り、政治的に国際社会をリードしていくようになります。 もっともこれは、少なくとも亜細亜において、日本がそれまで英国が行っていた「警察官」としての役割を肩代わりする事を現しており、戦後も日本の国益に合致した世界平和のためにあまたの紛争に介入していく最大の理由となります。 また、日本が欧州に深く関った事は、ポーランド連邦共和国内において、日本欧州駐留軍(陸軍2個師団、航空機約200機、各種艦船30隻)として政治的戦力を残す結果を生んでおり、英国、フランスそして再生したドイツと共に世界レベルでの反共同盟の重要な一角を占める事にもなりました。 もちろん、日本経済の生命線にして東の防波堤たる満州にも深く関っていました。
なお、日本海軍は、大戦中結局一度も大規模な水上打撃戦をしなかったので、八八艦隊の戦艦たちから欠員が出ることもなく乗り切ることになりました。 しかし、戦後必然的に発生した軍縮の中、一隻また一隻と予備役に編入または退役する事になります。 ちなみに、戦争も終わった1945年8月半ば、ようやく満載10万頓の超巨大戦艦「大和」が就役します。同艦は戦後、今日に至るまで何度も改装されつつ日本海軍の象徴として、太平洋最強の女帝として洋上に君臨していますが、その完成が戦後だったと言うのはあまりにも皮肉と言えるでしょう。 ですが、同型艦「武蔵」は、戦争中に一時建造が中止され、戦後数年を経て空母に改装される事が決定し、1950年代に入り満載排水量がこちらも10万トンに達する史上最大級の超大型空母としてのデビューを果たすことになります。 (なお、通常動力の軍艦として、同二隻の記録はいまだに破られていない。) もちろん、3、4番艦は建造すらされませんでしたし、「大和」の就役を以て日本海軍の戦艦建造も終止符が打たれることになります。
しかし、海軍そのものが大規模に縮小される事にはなりませんでした。 欧州大戦で契機を回復させたアメリカ合衆国が、大戦で肥大化した日英に対抗するために海軍の大拡張を開始したからです。
To Be Next!?