■各個撃破
日本が、ソ連(ロシア)との同盟に難色を示した事は大きな波紋を呼ぶ事となります。 そして、結果としてソ連は共産主義国と言うことで、自由主義陣営が集う連合国に参加する事ができなくなりました。 英国など欧州各国は、本次大戦で日本からすでに大きな援助を受けており、しかも日本軍のない戦争などもはや考えられない事などから、この日本の民意を受けた日本政府の意志を無視することができず、単独での同盟なら問題ないとする条件で日本を納得させる事にこそ成功しましたが、連合国側としてソ連が迎え入れられることはありませんでした。 そして、日ソ両政府は満州や極東地域での睨み合いを継続したまま、共通の敵と言って良いドイツとの戦いを個々に継続する事になります。 しかし、英国などの各国の同盟も最初はうまくいきませんでした。すべては、日本がソ連との即日同盟に強い難色を示したからです。 このため、同盟を拒否されたソ連も日本政府に対する態度を硬化し、ドイツ軍がソ連国内深く侵攻しているにも関わらず、極東ソ連軍を増強するそぶりすら見せ(これは7月にはたち消えとなった)、独ソ戦前よりも日ソ関係が冷却化し、それが同盟関係を結んでいる英国などの交渉に影響したのです。 英国がいかに、個々の国々で事情があると説明して、関係を持とうとしても猜疑心の強いソ連政府首脳はなかなか同盟に応じようとはせず、7月16日にスモレンスクが陥落してようやく事態の本当の深刻さを悟り、援助を含めた英国との軍事同盟に踏み切る事になります。 しかし、ソ連の対ドイツ戦参加は、連合国に大きな福音をもたらすことになります。 それはドイツの陸空軍の戦力の過半が、ソ連戦線に傾注されたからに他なりません。これにより、欧州戦線各地の制空権が事実上連合国側へと移行する事になり、特に日本軍がひしめく地中海戦線の制空権は完全に連合国側のものとなり、英本土への戦力、物資の移動がこれまでになくスムーズに運ぶようになります。 そしてもちろん、北アフリカに存在する枢軸軍の動きが著しく低下した事は、遮蔽物の少ない砂漠地帯で制空権を失ったのですから言うまでもありません。
ドイツがソ連に一方的な戦争を吹っかけた頃、日本の外交的興味が他の国に向いていた事もソ連との同盟を拒んだ理由でした。 日本が興味を示し、積極的に外交活動をしていた相手は、かつての敵アメリカ合衆国でした。 この当時と言うよりも第二次世界大戦が始まると、総力戦であるが故に日本も膨大な物資を必要とするようになり、いくら物資があっても足りない状態となる事が予想されました。つまり、まだまだ貧弱な工業力しかない日本で生産される分だけでは、とうていドイツとの戦争は継続できないだろうと、日本政府に想像させるには十分な事態となります。 そこで日本政府は、巨大な生産力を持つかつての敵に、自然と目を向けることになり、その思惑はかつての敵を自分たちの味方として戦争に介入できないかと考えるようになります。 このため、連合国として欧州での戦争に参戦すると、その時から貿易量の増大を前提とした交渉をアメリカ政府との間に進めます。 この日本政府の動きは、合衆国としても純粋にビジネスとして代金を払ってくれるのだし、商品が最も消費の大きな軍需産業なのだから、相手が先年戦った相手だからといってこれを断る理由は特になく、むしろこの戦争に経済的に深く関わり、国内経済を立て直すチャンスとして、日英政府の要請に積極的に応えるようになります。 また、日本は主にメディア面でこの戦争を国家社会主義や共産主義から自由主義を護るための戦いだと主張しました。さらに、ドイツやソ連が押し進めている人種差別政策についても、誇張表現まで使って情報をリークし、アメリカ世論の誘導に利用しました。 これは、日本にとっての本当の敵はドイツではなく、ソヴィエト連邦だったからです。ハッキリ言ってドイツが欧州で大人しくしてくれるなら、ドイツなどどうでも良いぐらいの相手だったのです。ですが、英国が思わぬ窮状に接したため、予期せぬ戦争の深入りとなってしまったと言うのが、日本政府の現状であり、今回の独ソ戦もドイツとただちに講和して、ソ連との戦いを始めたいぐらいでした。 これは、ノモンハンでの大規模国境紛争などの問題も解決していませんから、日本がもし連合国に参加してなければ、英国との同盟関係になければ、ソ連極東に侵攻していただろうと極論する戦史家もいるぐらいです。 話が少しそれましたが、日本のアメリカに対するラブコールは、時を経ずしてそれなりの成果をあげる事になります。 グリニッジ標準時1941年12月7日深夜、つまり合衆国における7日の昼間に米議会は「武器有償援助法」を可決、同国で製造された武器を極めて安価での供給を始めることになります。なお、この法案には、その他の兵站物資は含まれていなかった事から、その大半はさらなる法案が米議会を通過するまで、普通に購入しなければなりませんでしたが、連合国の兵器生産と物資の調達に大きな利益をもたらすことになります。 なお、この条約の対象とされた国は、大統領制度、立憲君主制度を布いている民主主義国家に限定されており、この法案通過に前後してアメリカ政府も自由主義の守護を歌い上げるようになります。 これは、後のアメリカ参戦へとつながる、最初の大きな動きでしたが、アメリカ参戦が現実となるまでに、連合国、ドイツ、ソ連はしばらく三つどもによる血みどろの戦いを演じることになります。
6月23日に開始された独ソ戦は、7月半ばにはソ連国境から600kmも内陸にある交通の要衝であるスモレンスクが早くも陥落、8月にはレニングラードが実質的に包囲下になり、9月には鉱工業地帯にして最重要農業生産地域であるウクライナが大包囲戦の末ドイツ軍の手に落ち、ソヴィエトは建国以来最大の危機を迎えることになります。 この時までにソ連赤軍が失った戦力は、開戦からたったの3カ月で300万人にも達していました。 普通の国ならこれだでけ降伏してもおかしくない損害でしたが、陸軍大国にして大人口を抱えるソ連だったため、これだけでは降伏するには至らず、独ソとも戦争の重点をモスクワ正面にしぼり、戦争の最初の帰趨を決する戦いを始めます。 ドイツ軍作戦名「タイフーン」。 作戦は10月に入り開始されます。 ここでも、ドイツ軍の機甲戦力を前面に押し立てた機動戦術は有効に機能し、硬直した指揮系統により混乱するソ連赤軍を各地で包囲殲滅していきました。 その後ドイツ軍は、例年より早く現れた「泥将軍」とそれに続く最も偉大な将軍である「冬将軍」の正面からの攻勢を受け、その進撃速度を著しく低下させる事になります。 本来なら、この「冬将軍」の増援を受けたロシア兵による大反撃が、ナポレオンの時と同じく始まるはずでしたが、それは思うに任せませんでした。 これは、開戦一ヶ月は全く極東赤軍が動かなかった事、そしてその後も欧州正面への赤軍移動が低調だった事、そして結局日本の満州駐留軍に対抗するため、極東赤軍の約半数が移動する事ができなかった事が原因でした。 また、外国からの援助物資は、日本が全く渡さず、アメリカも相手が共産主義国であると言う事と、貿易でなく援助しか要求しない事からこれに応じず、英国が細々としかも10月に入りようやく開始したに過ぎないため、全くアテにできない事も大きく影響していました。 このため、大反攻の前に投入すべき予備兵力を予定よりも遅く、しかも小規模にしか投入できず、軍事的には全く無駄に消耗してしまい、大反攻に使うべき兵力の過半すらドイツ軍のモスクワ進撃を阻むために逐次投入されました。また、ウラルやモスクワの重要産業のウラル山脈への疎開のため、一時的に生産が停滞化しましたが、それを補うべき物資は自国でのみ調達しなければならない状態なのに全く足りず、ために前線の一部は兵站不足により自然瓦解と全ての歯車が狂っているかのような状態へ陥りました。 このため、11月19日から再開されたドイツ軍によるモスクワ攻撃を阻止しきる事に失敗し、11月30日をもってソ連はモスクワ放棄を宣言するに至ります。 もちろん、それまでに全ての予備兵力を消耗していた事から、同方面での総反攻など出来るはずもありませんでした。 モスクワ陥落の影響は極めて深刻で、政治、経済、交通の中心であり、産業でもウクライナについで重要な拠点だった事から、急速にソ連赤軍の統制力と反撃能力は低下する事になります。 特にモスクワ陥落による首都の臨時移転と、軍の最高司令部の移動により中央統制型の国家である欠点が如実に現れ、11月末から翌年の2月の間、本来なら全戦線において反撃すべき時に適切な司令が全軍に伝わらず、無理して行われた各地で行われた反攻も調整の取れたものとはならず、ドイツ軍の冬営を成功させるばかりか、冬季反攻を完全にとん挫させ、無駄に兵力を消耗する結果に終わります。 特に中央からの指示のない現地部隊は、兵員の質が高いとは言えない事から、その犠牲は戦果と比較するとあまりにも大きなものでした。 唯一ウクライナ方面での若干の反撃が成功した事が、なぐさめと言えるかもしれませんが、この冬の間にソ連軍はさらに傷を大きくし、以後の戦争継続に暗い影を落とす事になります。
ドイツ軍の他方面での攻勢は、沈静化すると見られましたが、ソ連戦には直接関わりのない兵力を用いて活発に行われることになりました。 これは連合国にとって、ソ連戦でドイツに攻勢に出る余裕はないという心理的間隙をついた形で行われたため、大きな効果をあげる事になります。 ドイツ軍が攻勢に転じたのは、通商破壊でした。 北大西洋方面で行われた、航空機と潜水艦を用いた立体的な通商破壊の効果は極めて大きく、連合国側に大きな物的、心理的ダメージを与えることに成功します。 また、インド洋方面や大西洋西部にもドイツ軍潜水艦が多数侵入し、連合国の足下を掬う事になります。 インド洋はすでに日本海軍がバスタブのごとく思っていた事から、物的な損害よりもその心理面でのダメージが大きく、この地域での対潜水艦対策の立て直しのため、本来なら欧州へと振り向けられるべき兵力の多くが当地に投入され、連合国側の反撃を遅らせる効果を生むことになります。 一方、アメリカ合衆国の聖域と思われていた大西洋西部でドイツ潜水艦が活発に活動した事は、この頃戦争には関係ないと思い込んでいたアメリカ市民に対して大きなショックを与える事になります。 これは、本次大戦を国内経済の建て直しのために、できうるなら商売と援助だけで切り抜けたかった合衆国政府にとっての半ば奇襲攻撃になりました。 41年内は撃沈された合衆国船舶こそありませんでしたが、市民のドイツに対する恐怖心と敵愾心を醸成させるには、これ以上はないと言うぐらいの効果を発揮し、「有償」だった援助法案を翌年には「無償」へとさせ、合衆国商船を合衆国海軍が護衛する事態にまで進展させる事になります。 合衆国政府は、市民に対して冷静に対処するよう再三再四訴えましたが、対岸の火事をそう思わせなくなったドイツ軍による無差別通商破壊は、戦争の激化に比例して激しさを増し、市民の声も大きくさせる事になります。 この合衆国の極端なまでの反応は、ドイツ政府にとっても意外なものでしたが、これ以上敵を、巨大な生産力を持つ合衆国を敵としての戦争など悪夢以上のものでしたので、アメリカでの反独感情が大きくなる頃に、大西洋西部での通商破壊は低調になりましたが、一度燃え上がった火は容易に消える事はなく、ドイツを大きく失望させる事になります。
通商破壊の成功により、地中海での日本軍の圧力が低下すると、枢軸側の北アフリカへの補給も多少円滑化し、現地のロンメル将軍の活躍もあり同方面での戦術的な優位を枢軸側が握るようになります。 しかし、しばらくは双方とも戦力の補充が第一とされ、双方はしばらく補給戦へと移行する事になります。 そして、必然的に戦いの焦点は、地中海での海上補給線の要とも言えるマルタ島へと移ることになります。 地中海のほぼ真ん中にあり、しかもイタリアと北アフリカのちょうどその間に立ちふさがるように存在するマルタ島は、連合国にとってはかけがえのない海上補給の要衝であり、枢軸側の交通線を破壊するための拠点でした。 反対に枢軸側にとっては、この拠点を連合国が握っている限り、軍事的に活動している限り、北アフリカの補給線は常に不安を抱えているという事を意味していました。 このため、連合国はこの島を維持すべく、万難を排して補給と維持を続け、枢軸側はこれをせめて軍事的に無力化すべく攻撃を継続しました。 また、日本からの護送船団がここを交通路として使用しており、強力なコンボイを編成して、強引な突破を定期的に行っていました。 このため、単なる一つの島の攻防戦ではなく、双方付近一帯にかなりの大兵力を投入しての激しい戦いとなりました。 もっとも単にこの海域を突破するのが目的の日本の護送船団と枢軸国側の戦いは、日本が平然と空母まで同伴させてこの海域の突破を図ったり、通過の前に強力な空母機動部隊で付近の基地を叩いたりしたため、概ね連合国の優位に運ぶ事になります。枢軸側も必要以上に日本の護送船団を狙うと、異常なまでの日本軍の反撃を呼び込む事を悟ってからは、通過する船団は潜水艦以外はあまり相手にしなくなり、もっぱらマルタの無力化に努力を傾注するようになります。 ここでの戦いは42年8月まで継続され、その時をもって連合国側の勝利と呼んでよい状態に落ち着きますが、これを俗に言う「マルタの攻防」と言います。
そして、日本本土と満州国境でドイツとの戦いだけを見ると遊兵と化している日本陸軍の主力部隊は、基本的にはそれまでと同様にソ連軍との睨み合いにのみ終始し、欧州方面に派遣されているのは、北アフリカ戦線への参加をしようとしている第9軍(団)の3個師団と、次なる作戦のためにアレキサンドリアで待機している第25軍団の3個師団とだけでした。 もちろん、日本の衛星国の韓国、満州などの地上兵力も対ソ戦備として本土に拘束されており、派遣される予定すらありませんでした。 しかも、英本国軍もいまだダンケルクからの打撃から完全に回復しきっておらず、英連邦軍の動員も戦争二年目でようやく本格化したという状態でした。 このため欧州方面で地上兵力は、とてもアクティブな反撃ができる状態でなく、北アフリカでの攻勢防御のみに終始する事になり、ドイツのソ連侵攻を半ば助ける形になります。
そして、ソ連の調整の取れない、戦術的には無意味とすら言える反攻が続く中1941年から1942年へと移行していきます。