■攻勢を続けるドイツ軍

 1942年明けてから春を迎えるまで、全ての戦線はおおむね膠着状態となります。特に陸上戦線においてはこれが顕著でした。これは、ソ連戦線は冬とその後の泥濘時期で軍そのものが動けない事が最大の原因で、地中海方面では双方が占領の蓄積に努めており、ともに攻勢に転じれる戦力がなかったからに他なりませんでした。
 もちろん、大西洋では熾烈な通商破壊戦が展開されていましたが、これはドイツ軍は一見確たる戦果を挙げていましたが、米国からすら船舶を購入するようになった連合国(日英)の造船スピードが、ドイツ軍が艦船を沈めるスピードを完全に上回っていた事、対潜戦術がキルレシオ的に満足できるレベルに到達していた事から、連合国側はそれほど大きな問題と見なく、対するドイツの焦りの方が大きくなりつつありました。
 また、ドーバー海峡を挟んでの双方の戦略爆撃は、2個航空艦隊もの日本軍航空隊の増援を受け、カナダですら大量の航空機を製造するようになったRAFの数的優位に進展しており、連合国軍が300機単位の大規模な夜間戦略爆撃をルール工業地帯などに行えるまでになっていました。
 一方のドイツの爆撃は、独ソ戦開始と共に小規模となり、ソ連戦線に兵力を吸い取られた事から、冬を迎える頃には必然的に散発的なものにならざるをえませんでした。
 こうした説明からなら、一見連合軍(+ソ連)がドイツの攻勢を押さえきり、反撃の狼煙を今にもあげようとしているように見えますが、実際の連合軍はまだまだ攻勢を仕掛けるだけの力はありませんでした。
 反対にドイツ軍の方が、戦争の帰趨を決するべくソ連に対する大規模な攻勢計画をしているぐらいで、この当時のドイツにはまだまだ十分な力を保持していたのです。
 また、『砂漠の狐』として知られるようになったロンメル将軍率いる北アフリカの枢軸軍も連合国の最重要拠点であるスエズを奪うべく、新たな攻勢を行おうとその機会を狙っていました。
 戦線はまず北アフリカから動くことになります。
 この時枢軸国側、連合国側の双方が攻勢を企図していましたが、連合国の意図を見抜いたロンメル将軍が、それに先んじて新たな攻勢を開始します。
 この時の最終的な目標は、前年から攻防戦の続いているエジプト国境近辺に存在するトブルクでした。
 ドイツ軍は過去ここを包囲するまで追いつめましたが、連合国軍の海空の物量とオーキンレック将軍のねばり強い防戦により包囲を解き一時後退にすら追い込まれましたが、再びここまで進撃を行い、二度目のトブルク攻略戦に挑むまでに再起したのです。
 そして、ドイツ軍の巧みな戦術によりついに6月21日、トブルクは陥落します。
 このとき、連合国側は戦闘が始まった頃は、十分に撃退できると踏んでいただけに、このショックは大きく、日本軍は急遽満州にあった精鋭軍団の派遣と、大量の軍需物資の緊急輸送を決定する事になります。
 しかも、ロンメル率いるドイツアフリカ軍団は、その後も進撃を継続し、7月1にアレキサンドリア防衛の最終防衛線であるエル・アラメインに達します。
 しかし、ここで枢軸側が息切れしてしまった事と、なりふり構わない増援の投入によりこれ以上進むことができなくなります。
 そして、ここで連合国側はそれまで北アフリカで戦っていたオーキンレック将軍に代わり、第25軍の本格参加と同じくして日本の山下将軍、この戦いの後に「砂漠の虎」の称号を得る事になる指揮官が交代する事になります。

 一方、ドイツ軍に取っての主戦線、ロシア戦線では6月28日に「プラン・ブラウ」を発動させ、ソ連軍の経戦能力を奪うための大攻勢を開始します。
 この作戦の主目的は、ソ連最大の油田地帯であるバクー油田地帯を自らの勢力圏とする事と、ヴォルガ川を経由して英国から届けられる援助物資のルートを途絶させる事にありました。
 つまり、これによりソ連軍に対する兵站物資の供給を完全に絶ちきり、赤軍を根無し草にするのが最終目的とされました。
 そして、すでにモスクワを陥落されレニングラードも風前の灯火であるソ連にとって、ここを失うことは単なる戦略的な敗北を意味するばかりでなく、戦争そのものを失うことを意味していました。
 当時ソ連軍は、遅きに逸した予備役の動員により数だけは1000万近い兵員を抱えるようになりますが、当面与える兵器については、精鋭部隊を除き小銃が二人に一人あたる程度というひどい状態で、自慢のカチューシャはおろか、戦車、航空機、火砲、トラックなど全ての物資が不足していました。
 しかも、せっかくウラル山脈に疎開した工場群も、移転したばかりでまだまだ稼働状態に至るにはほど遠く、しかもモスクワを失ったとき、当時は保持できると言う予測もあった事から当地域の工場の疎開が遅れており、ウクライナの工場はもちろんないというどうしようもない状態でした。
 本来なら、ソ連(ロシア)を天敵と認識している日本をしても、援助してソ連を支えなければいけないと考えるところですが、この時日本ばかりでなく英国もソ連へのこれ以上の援助は不要と考えるようになっていました。
 これは、独ソ双方の統計数値をほぼ正確に予測できた事と、明に暗に行ってきたアメリカ合衆国の本格参戦が具体化しようとしていたからです。
 前者については、ドイツはソ連との戦いで既に膨大な軍需物資と100万単位の兵員を死傷させており、経済的、人口学的にこれ以上の戦線拡大はおろか、日英よりも早く根を上げるしかない状態である事を掴んでいました。
 後者についてはもはや説明すら必要ないでしょう。世界の三分の一、ドイツの二倍の潜在的国力を持ち、連合国全てを上回る潜在的国力を持つ大国が自分たちの陣営に参加するのですから、わざわざ体制の違う共産主義者と手を結ぶ必要などなかったからです。

 そしてこれを薄々知っていたドイツの攻勢も、それ故に急がれたものとなります。
 「プラン・ブラウ」は6月28日に開始されますが、2個軍集団を投入した圧倒的な破砕力の前に、ソ連軍の犠牲的な防衛戦もその大半が無意味とすら言えるレベルに達し、9月初旬にソ連指導者の名を冠した街、スターリングラードを陥落させる事に成功します。
 その後もドイツ軍は、各地で絶望的な防戦を行う取り残されたソ連軍に苦戦を強いられますがおおむね順調な進撃を継続し、10月までには作戦目的であるバクーを制圧。そればかりでなく、とって返した機甲軍団の増援を受けたモスクワ南部の部隊と共同で、ウラルへの道を開く事にすら成功します。
 しかし、この時点で再び「泥将軍」と「冬将軍」の増援を受けたソ連軍は一息付くことになり、辛うじて完全敗北から逃れることに成功します。
 もっとも、それは執行猶予を貰っただけに過ぎず、翌年にドイツの攻勢が再開されれば、ソ連の完全敗北は確実でした。
 この1942年のソ連赤軍の敗北を呼び込んだのは、ひとえに物量、中でも鉄量の不足が原因でした。
 このためソ連兵は、不十分な装備と貧弱な弾薬で戦わざるをえず、しかも機動性と言う点において著しくドイツ軍に対して劣っていた事から、どれほどたくみな撤退を行っても結局の所ドイツ軍装甲部隊に包囲殲滅されてしまい、為す術もなく壊滅してしまったのです。
 ただし、一度だけソ連軍に反撃のチャンスがありました。
 それは、スターリングラードで市街戦が発生しそうになったからです。ソ連軍はここを防衛拠点としてまたとない地点と認識していたため、要塞化の準備もしており実のところドイツ軍がここに入り込んでくるのを待ちかまえていました。しかも、ねばり強い防戦はソ連軍の得意とするところであり、反対にねばり強い拠点への攻撃はおもに物量差の問題からドイツ軍の不得意な分野でした。
 そして8月に入りドイツ軍は、スターリングラード市を包囲しました。もしもこの時ドイツ軍がここの占領に固執したら、ここでの市街戦が発生していれば、ドイツ軍を消耗戦に引きずり込み進撃を停止させる事すら可能だったかもしれませんが、すでにそれまでの戦いで市街地に閉じこもったソ連軍のねばり強さを知っていたドイツ軍は(ブレストの戦いなど)、一つの街の占領に固執するよりも、もっと大局的な機動戦を行う方針を堅持し、ここを歩兵部隊で包囲してしまうとさっさと前進しヴォルガ川を渡河、さらに下流のアストラハン市へと進撃、ヴォルガ河下流域を完全に制圧してしまったのです。
 また、一方の部隊は、モスクワ正面の友軍と共にウラル方面で頑張るソ連赤軍を牽制、機会を捉えての戦術的殲滅作戦を継続し、じわじわと前進し上流のサラトフ市まで前進、結果としてスターリングラード市を戦略的には全く無価値な街としてしまい、同方面のソ連軍は包囲されるだけに終わってしまいました。
 1942年内のドイツ軍の対ソ夏季攻勢は、1941年の最初に計画したA=Aライン(アストラハン=アルハンゲリスク)の占領をほぼ達成し、ソ連の主要産業地帯の大半を占領下におくことに成功します。
 これは同時にソ連の近代国家としての死を意味しているに等しく、英国が細々と行っている生半可な援助は輸血としての効果すら薄いというのが実状でした。
 もっとも、ソ連指導部はまだ負けたとは思っておらず、ソ連赤軍もまだ500万もの兵員を抱え、ウラル山脈で最後の防戦を決意してしました。
 そればかりかソ連は、冬に入ってからのモスクワ奪回を目標としたドイツ軍に対する大規模な反攻計画を計画していました。
 1942年11月19日、ソ連軍は二つの大きな軍団をもって、南方制圧で手薄になっているモスクワ正面に対する大規模な包囲作戦を開始します。
 参加した兵力は南北双方で6個軍にも及んでいました。
 これに対してこの地域を守備していたのは、ドイツ中央軍集団の約半数の2個軍に同盟各国でしたが、もともとこの地域は42年内は固守が大前提であったため、モスクワに至る主要ルートの全てが縦深が極めて重厚な野戦陣地とされており、配備されていた部隊も防衛を念頭においた重装備の歩兵部隊と重砲兵部隊ばかりでした。
 また、独立重戦車大隊3隊が製造されたばかりの超重戦車を受領して編成、当地に派兵されており、強固な「移動トーチカ」としてソ連軍を待ちかまえていました。
 そして現地ドイツ軍は、ソ連軍の反攻が始まると計画的な後退を行いつつ遅滞防御につとめ、機動防御のための援軍が来援するまで耐えしのぐ事に成功します。
 11月26日ドイツ軍は、アストラハンを包囲していたB軍集団のマンシュタイン将軍を中心として反撃用の一個機甲軍を新設し、12月10日には、ソ連軍の片翼の南方軍に対して激しい機動攻撃を展開しました。
 この反攻作戦は功を奏し、一時はモスクワまで60kmまで迫っていたソ連軍親衛隊は後退を余儀なくされ、また自らも包囲の危険があることから攻勢発起点までの全面撤退をせざるをえず、ソ連軍の一大反攻作戦はとん挫する事になります。
 このモスクワ近郊での戦闘はその後年内いっぱい継続され、双方合わせて4個軍集団が行った大規模な機動戦により、結果として独ソ双方の軍に翌年に備えるべき余力を奪い去り、冬の間は大人しくせざるをえない打撃を与える結果だけを生みました。
 そして、装甲兵器と鉄量の喪失による損害からの回復が難しいソ連赤軍にとり、この反攻失敗によるダメージは致命的と言っても良く、特に機甲戦力は一部装甲車両をのぞいて、回復不可能なほどのダメージを受けていました。
 一方、モスクワ防衛にも成功し夏季攻勢の成果も保持する事のできたドイツ軍でしたが、度重なる大攻勢作戦と今回の防戦による損害は主に人的面で極めて深刻で、一刻も早いソ連戦線の終結が軍中央で叫ばれるようになります。
 また、ロシア、北アフリカと攻勢を続けていましたが、ドーバー海峡を挟んでの制空権獲得競争では、事実上片方の腕を縛られた状態で戦っているルフト・ヴァッフェの不利は覆うべくもなく、41年秋ぐらいから本格化してきた連合国側の戦略爆撃は、ドイツ軍の兵器生産にも少なからぬダメージを与えるまでに深刻化します。
 しかも、42年までにアレキサンドリアに至るまでの通商ルートを盤石なものとした日本軍の本格的な兵力移動がついに本格化しており、日本軍の主力が欧州にやってくるまでに片方の戦争を片づけねばいかなる事態になるか、それを想像させるには十分な圧力を日本軍はドイツに与えつつありました。
 そして、ドイツの劣勢は、とある重要事件により加速度的に進む事になります。


■アメリカの参戦と北アフリカ戦線