■アメリカの参戦と北アフリカ戦線

 1942年3月17日、アメリカ連邦議会は「武器無償貸与法案」を可決、英国、日本など連合国に対する膨大な軍需物資の支援を加速させます。
 また、アメリカ船籍の船舶が日英の護衛艦に守られながら、アメリカ東海岸から欧州、北アフリカを目指すようになります。
 この国際法や国際常識を無視したと言って良いアメリカ政府の措置に、ドイツを始めとする枢軸国側は激しく非難しますが、これ以上強大な敵を抱える事など悪夢以上の事だったため、それ以上の行動にでる事はなく、ドイツ海軍自慢のUボートもこれを虚しく指をくわえて見送らざるをえませんでした。
 しかも、この無償貸与法案が可決するやアメリカ船籍の船団を、アメリカ海軍の艦艇が護衛にあたるようにすらなり、しかもアメリカ政府はアメリカ船籍の船を攻撃するものに対しては反撃を行うと、事実上の宣戦布告すら行います。

 しかし第二次世界大戦勃発当時、当のアメリカ世論は欧州大戦参戦には極めて消極的でした。
 それは、連合国を構成している主な国が、建国以来の潜在敵と言って良い大英帝国と、20世紀に入ってから激しく対立している日本帝国だったからです。しかも、第1次世界大戦から後を考えれば、ドイツとの親密度の方が高いぐらいだったのですからなおさらでしょう。
 確かに日英両国は曲がりなりにも立憲君主国で、共産主義や全体主義と戦っているわけですから、いちおう同じ自由主義国としては、貿易や援助ぐらいなら特に問題を感じていませんでしたが、いざ自らが血を流すとなるとアメリカ市民がこれを許容する事はなかななにありませんでした。
 しかし、ドイツの重大な政策の一つが、これを動かすことになります。
 それはユダヤ人問題でした。
 ドイツ第三帝国は、強力に人種隔離政策を実施しており、計画的なホロコーストによりユダヤ人、ロマなどドイツ第三帝国が劣等人種と認めた民族を収容所に送り、強制労働に従事させ、果てには計画的虐殺を実施するようにすらなります。そして、それが1941年後半ぐらいから加速度的に大規模化、残虐化しており、これを放置する事をアメリカ市民が是としなかったのです。
 市民達は、もっと日英へ援助を送るべきだとの声を強くしました。それが、早期の無償貸与へと実を結んだワケです。
 そして、連合国からいくつかの「真実」がアメリカ大陸にもたらされると、この動きはさらに加速度をあげる事になります。
 市民達は政府に訴えます。ホロコーストを実施している悪魔の政府を打倒せよ、欧州で不当に抑圧されている人々を救済せよ、と。
 また、一方で連合国側は、英国のパレスチナ地方でのユダヤ人に対する援助、万民平等の国是を持つ日本のいくつかの美談などを計画的にリークし、アメリカ世論を反独親日英へと誘導します。
 この動きは、ついにアメリカ大統領ウェンデル=ウィルキーの口から、連合国への参加と対独参戦を宣言させるに至ります。時に1942年6月3日の事でした。
 そして、不当に抑圧された住民を救うため、さらに強大なドイツの攻勢に苦しむ日英を、騎兵隊よろしくさっそうと救援に登場するアメリカという、アメリカ市民が最も喜ぶシチュエーションでもって、アメリカ軍は欧州戦線へと登場する事になります。
 しかも、1942年に入るあたりから、師団の戦時動員や海軍艦艇の大西洋への移動など、かなりの準備を進めていた事から、ドイツの予想よりもはるかに早くアメリカ軍は欧州へとやって来ることになります。

 当然、日英を始めとする連合国各国もアメリカの勇気と英断をこれ以上はないぐらいに称え、賞賛し、やってきたアメリカ兵士たちを諸手をあげた歓迎しました。
 日英が喜んだのは当然でしょう。
 このアメリカ参戦の結果、戦争は後どれだけ時間がかかるか、という問題にまで矮小化したからです。
 しかも、それまでスピキオとハンニバルとまではいかないまでも、対立状態にあったアメリカとの関係が大きく改善し、戦後の事を考えてもかなり楽観できる状態だったのですから、連合国、特に日英政府の喜びはひとしおだったでしょう。
 一方のアメリカ政府としても、美味しい場面で颯爽と国際社会への完全復帰を果たし、しかも持ち前の工業力で以て、戦争の主導権すら握る事で今後の国際社会をリードできるかも知れない未来が見えてきたのですから、内心の喜びはかなりのものと言えるでしょう。
 もっとも、連合国が半ば強引にアメリカを戦争に引込んだのは、日本人達がロシア人と手を結ぶ事を嫌ったため、その補完として打った手が半ば偶然に功を奏しただけで、もし連合国がソ連邦と親密な同盟関係を即時に結んでいたら、このアメリカ参戦はありえなかっただろうと言うのが、今日では一般的な見解になっています。

 こうして、まるで一目ぼれの相思相愛とも言える状態で、連合国側はアメリカの参戦を迎え入れ、海洋帝国連合となった連合国は、ドイツとの戦いに気持ちも新たに取りかかることになります。
 この時点での懸案は、北アフリカ戦線でした。
(ロシア戦線はすでにどうしようもない状態だったので、この時点でほぼ傍観が決定します。)
 日本からの通商ルートとして最重要のスエズ運河を何としても死守し、出来うるなら地中海の通商航路を盤石なものとできれば、連合国のさらなる優位も約束されたようなものでした。
 このため連合国は、ドイツ軍主力を足止めし消耗させるためにソ連へのそれなりの援助を行いつつ、北アフリカの安定化を図る事になります。
 作戦はいくつかの段階に分かれていました。
 事前段階としての地中海の制海権・制空権の獲得です。
 そして本格的段階として、第一段階はエルアラメインまで迫っているドイツ軍の撃退、第二段階はアメリカ軍主体による逆方向であるモロッコ上陸作戦、第三段階は東西からの挟撃による枢軸全軍の北アフリカからの駆逐、最終段階として、シチリア島攻略による地中海の安定化と、そしてそれに続く欧州反攻の足がかりを築くとされました。
 米軍の参戦により、戦力が豊富になった連合国軍であるからこそ取れる、贅沢な作戦内容と言えるでしょう。
 なお、この時の戦争遂行能力差は、ソ連を除いた連合国と枢軸国では3対1以上に開いており、どの戦場においても連合国の勝利は約束されたようなものでした。

 まずは地中海での制海権の獲得競争です。
 なお、この時エルアラメインには、英国の第8軍が防衛の主力として展開し、その後方に英第7機甲師団を含む日本軍の第25軍が機動打撃力として待機していました。
 42年春の時点で、日本の膨大な戦略物資がスエズ運河を通して北アフリカには流れており、この時点で反撃を行ってもよかったのですが、指揮権を引き継いだ日本の山下大将は、しばらく攻勢防御に徹し、ドイツ軍に無理な攻撃を強要して、徹底的に消耗させる作戦をとります。
 これは、7月から約3ヶ月間の長期にわたり、この間に在北アフリカ枢軸軍は無理な攻勢作戦と山下の巧みな防戦により完全に消耗してしまい、稼働戦車50両という状態にまで追い込まれてしまいます。
 すべては、アメリカの参戦と日本の補給の円滑化に焦ったドイツ首脳の無理な攻撃が原因でした。
 いっぽう、地中海でもこの時激しい戦いが展開されていました。戦いの焦点は、地中海の真ん中に存在するマルタ島です。
 この地をなんとしても保持しようという連合国側と、ここを無力化する事で、自らの補給路を円滑化し連合国のシーレーンを途絶しようと目論んだ枢軸側の思惑が激突した戦いでした。
 もっとも、島自体はかなり強固に防衛されているため、島をめぐる攻略戦ではなく、島を支える連合国の大規模な補給船団を枢軸軍が攻撃するという戦闘になりました。
 連合国作戦名称『ベスタベル作戦』。
 作戦骨子は簡単で、大規模な補給船団を入れる事で、マルタを盤石の体制とし、北アフリカへの枢軸軍の補給ルートを完全に途絶しようと言うものでした。
 以下がその時の船団構成です。

◆『ベスタベル作戦』参加部隊
BB:「富士」、「阿蘇」
BC:「ロドネー」、「アンソン」
CV:「イーグル」、「ヴィクトリアス」
CV:「翔鶴」、「瑞鶴」
CG:2(英0:日2)
CLA:4(英3:日1)
CL:4(英3:日1)
DDG:4(英0:日4)
DD:20(英12:日8)
高速輸送船:12隻
高速油槽船:6隻

 参加部隊は、大きく護衛全般を行う空母機動部隊と輸送船団のコンボイに分かれており、完全な日英合同の艦隊を構成していました。
 また、これ以外にもマルタ島やクレタ島の航空隊も多数支援する事になっており、護衛に付く空母もその艦載機を普段の編成から変更し、戦闘機が全体の三分の二をしめる編成が取られていました。
 これに対して、枢軸側はイタリア空軍の主力とドイツ第二航空艦隊が全力で殴りかかることを計画しており、航空機1000機、潜水艦20隻、Sボート23隻などが用意されました。
 本来ならこれにイタリア海軍の水上打撃部隊も参加する予定でしたが、連合国側が46cm砲搭載の「富士級」を投入している事が分かると、手のひらを返したように作戦中に投入中止になっています。
 戦闘は、シチリア島に艦隊が接近した段階から連合国軍の予想をはるかに超越する攻撃が開始され、主に空を舞台として激しい攻防が行われます。
 さらに、マルタ島に接近するとこれらに水中からの刺客も忍びより、連合国艦艇に大きな犠牲が出る事になります。
 作戦そのものは、日英海空軍の献身的働きにより船団の約三分の一が入港に成功、これによりマルタ島の基地機能が完全回復し、作戦は成功裏に終わります。
 しかし、この作戦において連合国軍は、空母「イーグル」喪失を始めとして大きな犠牲を払い、決して楽な戦いでなかった事を数字の上からも知る事ができます。
 ですが、この作戦の成功の意義は極めて大きく、これ以後枢軸国側の北アフリカでの活動は極めて低調なものへと落ち込むことになります。

 そして次は、エルアラメインでの戦いです。
 意図的な消耗戦に終始していたエルアラメインも、10月に入ると激しく動き始めます。
 10月24日、それまでじっとモグラ叩きのような戦闘に終始していた連合国が、満を持して攻撃を開始したからです。
 日本軍が主導した事から「撃」作戦と命名されたこの戦闘で、英第七機甲師団と日本の第一戦車師団、第一近衛戦車師団が強力な突破兵団をいくつも編成して、「電錐(ドリル)戦法」と言う日本軍独自の電撃戦によりドイツ軍の内陸部の戦線を強引に突破、以後補給不足から満足な機動防御すらロクにできないドイツ軍の戦線を蹂躙、ドイツ最高司令部が戦線の死守を命じた事も重なり、戦線の完全な突破に成功します。
 なおこの作戦当初、連合軍は全く意図していなかったのですが、枢軸側の現地軍は総司令官のロンメル将軍を欠いており、当初指揮系統すら乱れていたためこれに対応する事ができず、しかもその後連合軍の攻勢が強く戦線を立て直す事にも失敗し、機動戦力の後退こそなんとか成功させましたが、多くの歩兵部隊が連合軍に包囲殲滅される事となります。
 この戦いで、日本の山下将軍は一躍有名人となり、虎が獲物に襲いかかるような素早く激しい攻撃の様から『砂漠の虎』の異名を贈られる事になります。
 なお、この頃には枢軸側はマルタ島への効果的な攻撃を行う余力すら失いつつあり、無傷の輸送船がマルタ島に入港できるようにまでなります。

 さらに、連合国の攻勢は続きました。
 ついにアメリカ軍がやってきたのです。
 1942年11月8日、大西洋を押し渡った米大西洋艦隊は、モロッコ沖に到着するや上陸部隊を展開、予想に反して激しい抵抗を示すフランス軍を難なく撃破すると盤石な橋頭堡を築く事に成功します。
 作戦の成功は、奇襲効果と物量の投入という戦争に最も重要な要素が、最も正しい形で行われたからこそであり、正当な戦術を駆使することを得意とする米軍の面目躍如たる情景でした。
 上陸した陸上兵力こそ1個軍団+1個海兵師団に過ぎませんでしたが、洋上戦力は太平洋艦隊の過半の艦艇を受け取った大西洋艦隊の総力出撃と言えるもので、大型空母を中核とする空母機動艦隊、新鋭戦艦で構成された水上打撃艦隊、輸送船団を護衛し上陸を直接的に援護した両用戦艦隊と、実に重厚な布陣をしいており、とても現地の枢軸軍が対抗できるものではありませんでした。
 そして、当然と言うべきか枢軸軍に大きな物的・心理的ダメージを与えることに成功します。
 しかもこの時在北アフリカ枢軸軍は、苦難に満ちたエジプトからの退却戦をリビアの砂漠にて行っており、対応するべき戦力はどこにもありませんでした。
 「思いの外」奮闘したヴィシー・フランス軍も、圧倒的物量を誇る米軍を前にしては、軍人としての義務を果たす以上の抵抗を示すことは無意味とすら言える状態でした。
 このため、北アフリカを東西から進撃する連合軍の進撃速度は、驚異的なレベルに達し、日米双方が攻撃を旨とする将軍達が率いていた事も重なり、年内には枢軸軍をチュニジアに追いつめることに成功します。
 枢軸軍による、戦線にゆとりの出てきたロシア戦線からの援軍すら間に合わない程の早業でした。

 東西から押し寄せた連合国は、チュニジア近辺の陸海で固い握手を交わし、「悪の独裁国家」とされてしまった枢軸陣営に対するさらなる攻撃を強化します。
 次なる作戦目的は、当初の想定通り枢軸軍を北アフリカの大地から駆逐する事です。
 この時、枢軸軍1個軍団に対して、連合国軍は、日英米それぞれが1個軍近くを持ち込んでおり(日米はそれぞれ2個軍団)、編成上の陸上兵力の正面戦力差だけで3倍以上、実数では4倍以上に達していました。
 もちろん、空でも2個航空艦隊あるかどうかの枢軸軍に対して、その3倍以上の部隊を主に日米が持ち込んでおり、海については語る言葉すらないほどの戦力差が開いていました。
 こうなっては、枢軸国としては海の向こうに援軍を送ることなど夢物語であり、政府中央がどれだけ死守命令を連呼しようとも、いかにして犠牲を少なく撤退できるかに焦点がしぼられていると言うのが、戦術レベルので実情でした。
 反対に連合国軍にとっては、イタリア本土へいかに犠牲を少なく足がかりを作るかという次なる目的のために、チュニジア、そしてシチリア島でどれだけの枢軸軍戦力を殲滅できるかが作戦の焦点と言っても過言ではない状態でした。
 そしてここで、勝利を確信し新参の大軍を迎え入れた連合軍に作戦の齟齬が見られる事になります。
 分かりやすく言えば、日英と米の認識の食い違いとそれまで敵対していた日英と米の心理面での衝突です。
 そして、そのどちらもが戦争では重要な要素と言え、それ故この点を枢軸国側につけ込まれ、連合国軍は圧倒的な戦力を持ち、包囲殲滅すら約束されたような戦場からドイツ軍を取り逃がす事になります。
 しかし、制海権、制空権の有無の差はそれでも大きく、チュニジアの大地で枢軸軍は25万人もの兵力が降伏せざるを得なく、枢軸軍が北アフリカの戦争を完全に失ったことを内外に思い知らせる事になります。
 時に1943年2月17日の事でした。

 連合国軍による地中海の攻勢も最終段階を迎えます。それは、日本から英本土へと続く補給線を盤石なものとするために、イタリアの一部であるシチリア島を攻略する事です。
 また、この作戦は欧州大陸への足がかりを作るという意味も持っていた事から、ソ連が崩壊しつつある今、連合国にとって一刻も早く発動しなければならない作戦となっていました。
 このため、本来なら準備期間として半年を必要とすら言われたシチリア島攻略作戦の発動を、1943年4月に発動させる事に成功します。
 以下がこの作戦のために用意された連合軍の兵力です。

◆◆シチリア島攻略部隊序列◆◆

●右翼本隊
(日・第八艦隊、海上護衛総隊)(艦載機:常用約120機)
BB:「富士」、「阿蘇」、「雲仙」、「浅間」
CG:「鳥海」、「摩耶」、「伊吹」、「鞍馬」
CL:「酒匂」
CVE:「雲鷹」、「沖鷹」、「熊鷹」、「蒼鷹」
DD:16隻、DDE:20隻、DE:22隻
各種輸送・揚陸船舶:約250隻(上陸部隊12万名)

●左翼本隊(米地中海艦隊(旧太平洋艦隊が中核))
BB:「コロラド」、「カリフォルニア」
BB:「テキサス」、「ニューヨーク」、「アーカンソー」
CG:「ルイスビル」、「シカゴ」、「ニューオーリンズ」
CL:「ブルックリン」、「フェニックス」
CL:「ミルウォーキー」、「ローリー」
DD:32隻
各種輸送・揚陸船舶:約150隻(上陸部隊8万名)

●打撃戦力(混成艦隊)
BB:「St. デイヴィット」、「St. グレゴリー」、「St. パトリック」
BB:「クイーンエリザベス」、「ウォースパイト」
BB:「紀伊」、「尾張」、「駿河」、「近江」
BB:「インディアナ」、「モンタナ」、「サラトガ」
BB:「リシュリュー」
CL:5隻、DD:12隻

●支援艦隊(英:K部隊)
BC:「フッド」、「ロドネー」
CG:2隻 CL:2隻 DD:12隻

●前衛艦隊(米:大西洋艦隊より)
BB:「ノースカロライナ」、「ワシントン」、「サウスダコタ」、「アラバマ」
CG:「ヴィンセンス」、「クインシー」、「アストリア」、「ミネアポリス」
CL:「ヘレナ」、「セントルイス」
CL:「シンシナティー」、DD:16隻

●空母機動部隊
 第一機動艦隊:(艦載機:常用約300機)
BB:「高千穂」、「穂高」
CV:「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」
CV:「伊勢」、「日向」
CG:「利根」、「筑馬」
CL:「能代」 DD:12隻

 第二機動艦隊:(艦載機:常用約200機)
BC:「金剛」、「榛名」
CV:「翔鶴」、「瑞鶴」
CVL:「千歳」、「千代田」
CL:「大淀」、「仁淀」
DDG:4隻、DD:8隻

 第三機動艦隊:(艦載機:常用約200機)
BC:「比叡」
CV:「千鶴」、「神鶴」
CVL:「日進」、「瑞穂」
CG:「最上」、「熊野」、「鈴谷」
DDG:4隻、DD:8隻

 英機動部隊(英・H部隊)(艦載機:常用約70機)
BC:「インドミダヴル」、「インディファティガヴル」
CV:「フォーミダヴル」、「ヴィクトリアス」
CG:「ノーフォーク」、「サッフォーク」
CLA:2隻、DD:8隻

 米機動部隊(英・大西洋艦隊主力)(艦載機:常用約320機)
CV:「エンタープライズ」、「ホーネット」
CV:「ヨークタウン2」、「ワスプ」
CG:「ノーザンプトン」、「ソルトレークシティー」、「ヒューストン」
CL:「サヴァンナ」、「ナッシュヴィル」
CL:「アトランタ」、「ジュノー」
DD:16隻

◆上陸部隊20万名+空挺部隊2万名
 英第8軍、日本第25軍(団)、米第一軍団
(3個機甲師団、3個機械化師団、3個歩兵師団、3個空挺旅団ほか多数)

◆作戦参加基地航空戦力:約3900機
 英国空軍
 日本海軍航空隊
 日本陸軍航空隊
 米陸軍航空隊
 自由フランス空軍など

 圧倒的。この言葉以外では表現できない程の戦力の集中であり、この当時の日英米が投入できた洋上機動戦力の過半がここに集められていました。
 つまり、世界中の洋上機動戦力の過半がこの作戦に投入されていたのです。
 一つの局地的な作戦にこれほどの戦力が投入された背景は、もちろん戦力の集中という戦争で最も重要とされるファクターが要求した事でしたが、それ以外にも日英米それぞれの「メンツ」という一種の政治的な問題があったからです。このため、この作戦にはそれぞれの国の戦艦の過半が参加しており、まともな洋上稼働戦力を保持しない(その意思のない)枢軸側に対して、もはや無意味とすら言える戦力を集中していました。
 しかも、上陸する部隊間だけでしたが、チュニジアでの戦いの反省が活かされ、指揮系統・軍司令部の意思の統一、作戦目的の一本化、連合国軍将兵間の心理的間隙の補完などに対して可能なかぎりの対応がとられ、半ば応急措置的なものでしたが、この戦いで明確に効果を発揮し、以後の作戦への試金石としての役割を十分に果たすことになります。
 なお、日本海軍の比率が大きいのは、英国が英本土の防衛やシーレーンの維持のために多数の大型艦艇を各方面で必要としている事から、一ヵ所に戦力を集中できないためと、アメリカは一度日本軍に壊滅的な打撃を受け、その後も海軍の再建が低調だったからに他なりません。

 肝心の作戦そものは、絶対的とすら言える制空権・制海権のもと順調に進められ、試験的に多数投入された各国の空挺部隊の活躍、各国がこぞって参加させた機甲打撃戦力の効果的運用などもあり、陸戦には一日の長があるドイツ軍相手に局地的に一部窮地に陥る事態こそ発生しましたが、大きな問題も発生する事無く作戦を完了させる事に成功します。
 特に、撤退を前提にして作戦を遂行していたドイツ軍の主力のイタリア本土脱出を、潤沢な戦力を利用した効果的な港湾と空軍基地の破壊により、多くを阻止する事に成功した事は大きな成果であり、以後の南欧戦線の順調な進展を決定づける事になります。
 そして、日英米連合軍にとっての戦いの焦点は、北アフリカ・地中海から離れ、欧州本土へと移る事になります。


■バトル・オブ・ユーロ