■バトル・オブ・ユーロ
1942年6月3日にアメリカ合衆国が連合国側に参戦し、連合国は一気に戦略的な優勢を確保する事に成功しましたが、アメリカは巨体で有るがゆえにその戦力の動員にはしばらくの時間が必要であり、ある程度ため込んでいた現有戦力の移動も必然的に段階を踏んだものとなりました。 真っ先にアメリカ大陸から大西洋を渡ってきたのは、日英と円滑な連携をするための司令部組織と通信部隊、そして各部隊の先遣部隊と連絡士官たちでした。 海軍だけは、レンド・リースにより以前から交流や作戦協力していたため、大きな混乱もなく連合国の戦列に参加する事ができ、それがシチリア島攻略でも証明されたわけですが、他の部隊はそれまで米本土を離れたことのない部隊がほとんどだった事もあり、欧州の空気になじみ、日英と円滑な作戦を行うまでにはある程度の時間が必要とされました。 このため、米軍が連合国の一翼として欧州で戦力化されるのは1943年に入ってからようやく本格化します。 そして、アメリカ軍が本格的に欧州戦線に参加するまでに、連合国にとって最も重要だった事は、ドイツ陸軍を一日でも長くロシア戦線に留め置くための、ソ連を一時的に延命させるのための軍事援助であり、そしてドイツそのものを疲弊させるための欧州大陸への戦略爆撃でした。 そして、特に海洋帝国である日英がそれまでの中心だった事から、どちらも遠距離侵攻の爆撃機には事欠いておらず、1941年の冬からドイツ本土のルール工業地帯を中心に継続的に大規模夜間爆撃を行っていました。 そしてこれに、アメリカ陸軍航空隊も進出が容易な航空機と言うことと、英本土の受け入れ態勢が比較的整っていた事もあり早々に戦列に加わる事になります。 これは、アメリカ軍内部だけで見ると当の陸軍航空隊以外の他の部隊が地中海で活躍、海軍にいたっては大西洋のUボート・ハントでそれ以上の活躍をしているという事への焦りが原因だったと言われる事もありますが、実情は陸軍航空隊の戦略爆撃を推奨する一派が強く、欧州への大規模派遣を求めた事が原因であると思われています。もっとも、この一派は別に焦っていた訳でもナチス打倒に燃えていた訳でもありませんでした。自らの戦術(戦略)ドクトリンが正しいかを証明したかったからであり、またこの戦争において多いに活躍し戦後の発言権を強くし、独自の軍隊、つまり陸海軍しかないアメリカ合衆国で空軍という新たな軍を作り上げるのが目的だったのです。現在の状態を見れば、それが成功したかどうかは言うまでもないでしょう。 ちなみに、海軍に属する陸戦部隊の海兵隊も同様の動きを示しており、各上陸作戦だけでなくそれ以外の軍事行動にも深く関り、陸軍航空隊共々、戦争に数々の貢献と混乱をもたらす事になります。 また、これをアメリカ国内の各種メーカーが強く後押ししていた事も最近の情報公開で分かっています。
少し話はそれましたが、1943年に入る頃には米陸軍航空隊、戦略爆撃を任務とする第八空軍は、英本土に専用の大規模飛行場すら持つようになり、日英と共に戦略爆撃機を欧州大陸に送り込むようになります。 しかし、その爆撃方法は、日英とはいささか異なっていました。 規模こそ日英と同じ300機程度によるものでしたが、時間帯がまるで違っていたのです。 それまで、日英軍は夜間爆撃を旨としており、奇襲的な昼間爆撃や空母機動部隊による局地集中攻撃以外の大規模爆撃は、全て夜間爆撃によっていたのですが、自らの器材と損耗回復率に自信のある米軍は、大規模昼間爆撃による戦略爆撃を選択したのです。 確かにこれは、日英の夜間爆撃と交互にされる事によりドイツ防空網に24時間体制の負担を強いてより多くの戦争資源を防空戦に投入させる事になり、また昼間爆撃による爆撃精度の向上はありましたが、当然昼間しか飛行できない単発戦闘機による大挙迎撃を許し、自らもその姿をさらす事から地上からの迎撃も容易にし、攻撃側にも大きな犠牲を強いる戦闘方法でした。 しかし、米陸軍航空隊はあえてこの攻撃方法を選択したのです。 主に投入された爆撃機は、1936年に最初の量産が始まった「B-17」の「G型」と呼ばれる防御力を著しく強化したタイプで、これを「P-38」などの長距離侵攻可能な戦闘機が護衛していました。 確かに「B-17」は、強じんな防御力を持ち、多数のブローニングM2機関銃による圧倒的な防御砲火を誇っていましたし、護衛戦闘機が随伴できた事から、爆撃開始当初は日英の貧弱な爆撃機による夜間爆撃よりも損耗率は低いと言われ、それは日英の関係者ですらそう予測するような雰囲気すらあったと言われています。 しかし、いざ作戦を始めると、それは大きな楽観であった事を思い知らせることになりました。 大規模昼間爆撃という新たな連合国側の作戦に、開始当初こそ混乱を見せたルフト・バッフェでしたが、体制を整えると実にドイツ人らしい調整のとれた迎撃により、米軍に夜間爆撃を上回る損耗率を与えるようになったからです。 もっとも、その損耗率ぐらいなら米軍の潤沢な物量を以てすれば、器材や人員の補充と爆撃の継続は十分とは言わないまでも可能であり、損害も与えたダメージによる費用対効果を考えれば一応は納得しうるレベルに収まっていた事から、米軍はこの作戦を日英に対抗するように終戦まで継続する事になります。 もっとも、日英側としても新参の戦友に辛い戦場をあてがったように思われる事に抵抗があるのか、昼間爆撃が始まってからしばらくして、ドイツ軍の英本土爆撃停滞によりゆとりのできた昼間戦闘機を爆撃機の護衛に付け、特に長大な航続距離で定評のある日本海軍航空隊は、かつてのライバルを献身的なまでに護衛し、ドイツ空軍機と熾烈な制空権獲得競争を行うようになりました。 そして、日本海軍航空隊そのものも、1943年春ぐらいから本格的投入の始まった「連山」による爆撃を開始すると、米軍共々昼間爆撃も行うようになり、ドイツの戦争遂行能力に対してそれまで以上にダメージを与えるようになります。この爆撃効果は、1943年のドイツ軍の生産力など各種統計データがこれ以上はないというぐらい証明されており、戦後このデータを入手した日米関係者に自らの努力は報われていた事を教えました。
一方、シーレーン獲得競争についても、米軍の参戦により一変しつつありました。 これは1943年に入るころには、日英側がドイツ潜水艦を制圧する目算がたつほどの戦術的、戦略的な優位を獲得しつつあった事で、ドイツ海軍にとって試練の始まりが本格化しつつあった時だっため、その効果は劇的でした。 日英の優れた対潜水艦戦術、数々の専用装備、実際の戦いの経験の全てが米海軍に供与され、その見返りに膨大な数の護衛空母と護衛駆逐艦が日英へと供与されます。 対米開戦当初こそ、ドイツ海軍も米船舶をおおっぴらに狙えるようになった事はありがたく、開戦当初の米軍の稚拙な護衛をあざ笑うかのごとく戦果を挙げましたが、その戦争の夏も対米開戦三ヵ月で終わりを告げ、対米参戦半年を経過する1943年に入ると、それまでの敵が二倍に膨れ上がったような状態になっていました。 いかなドイツ潜水艦隊と言えど、稼働潜水艦数に対して相手の護衛艦の数の方が三倍もあるのでは、対処のしようがありませんでした。しかも牧羊犬たちは、空からの友人達の援護を無尽蔵といえるぐらいに受けており、かつての狼達が人間から駆逐されたように、水中を住み家とする灰色狼の群れも次第に、追いつめられていくことになります。 しかも、日英米の三大海洋帝国の造船ドックが生み出す船舶量は、戦闘艦艇を含めないでも44年統計で何と年間2000万トン以上に達しており、その上戦標船により統制の効いた船団を組んでありとあらゆる海洋から欧州外縁を目指していました。そして、最盛時でも月間70万トン程度の戦果しか挙げれなかったドイツ海軍に、この膨大な数は43年夏以降とても対応できる数字ではなくなっていました。 まさに、海洋帝国連合による物量の優越を絵に描いたような情景と言えるでしょう。 そして、1944年にはドイツ潜水艦隊は、大西洋上から駆逐され、地中海、ビスケー湾、北海、バレンツ海など占領下にある拠点がある欧州沿岸においてさえも、制空権を獲得できていない地域での活動は、半ば自殺行為とすら言える状況にまで追いつめ荒れることになります。
海と空は当面それでよいとされましたが、連合軍にとっての問題はいくつかありました。 その中でも最大の懸案は、ソ連が43年秋までに実質的に崩壊するであろうと言うことと、現在の連合軍にそれを押しとどめる事はできないと言うことでした。 これは、43年冬までの戦闘で、ソ連赤軍の全ての意味での損害が、すでに致命的レベルに達している事が最大原因でした。このため、アメリカ参戦により無尽蔵と言える援助を与えられるようになった物資を、いくら供与しようともソ連にはそれを効果的に活かす人材がすでに枯渇していたと言うことです。 しかし、それでも自国国民の血を流させるよりは他国に頑張ってもらい、一日でもロシアの大地にドイツ軍主力を拘束する事は必要なので、延命でよいからソ連に援助を与える事でこの件はよしとされてしまいまいた。 海洋帝国連合と化した連合国に、退勢著しいソ連はその程度の価値しかなかったのです。 そしてそれよりも、その時間を利用して自分たちも何らかのリアクションを起こすことが最重要とされていました。 一番よいのは、もちろんフランス方面に大軍を投入して西部戦線を構築する事でしたが、日英米共にそれだけの戦力をこの時点では用意できそうにはありませんでした。 これは、42年秋の「ディエップ作戦」にて、ドイツ軍がどのような反応を示すかが確認できた事からもそれを補強しており、少なくとも44年に入らねばフランスへの大反攻は不可能と連合軍では判断されていました。 そこで、戦局を優位に展開し、双方の戦力格差と橋頭堡の関係から選ばれた戦線が、イタリア半島でした。 ここなら、43年2月に電撃的に侵攻したシチリア島が橋頭堡として確保されており、付近には同侵攻作戦で使用された膨大な海空戦力もそのまま存在し、また半島という限られた戦場に投入するぐらいの陸上兵力なら十分揃えられるという事がこの作戦の実行を実現しました。 また、イタリア半島は、欧州大陸にとっての下腹部的立地条件にあり、実情以上にドイツを圧迫できる効果も期待できましたし、何よりイタリア本土侵攻で、イタリアのムッソリーニー政権の転覆、そしてイタリアの降伏が期待された事は言うまでもないでしょう。 なお、この作戦はアメリカとイギリスが1個軍団拠出する以外は、距離や本国の位置的な問題からこの地域に膨大な兵力を駐留させていた日本主導で行われる事になり、日本陸軍だけでこのイタリア侵攻に1個方面軍(軍)8個師団もの兵力投入が決定されました。 作戦開始は、1943年4月20日。 ドイツが、ソ連に対する最後の攻勢に対する牽制効果を期待されての早期作戦発動でした。
作戦名称は「撃(ストライク)作戦」。総司令官は、日本南欧方面軍司令官にも同時に就任した山下大将が指名され、圧倒的な海空戦力の元、電撃的なイタリア侵攻、当面は43年内のローマ占領が目標とされました。 もちろん、イタリアが早期に降伏しこれにドイツが干渉しなければ話はかなり変わる事が、わずかながら期待されていました。 作戦は一種の二重包囲作戦が選ばれ、狭い海峡しかないシチリア島からイタリア本土へ二手に別れて上陸する部隊と、イタリア半島を100kmほど内陸に入ったアドリア海、地中海の双方からの強襲上陸も企図され、3方向からの機甲戦力を投入した圧倒的な電錐戦法により、チュニジアとシチリア島で逃した生き残りのイタリア残存戦力と、ドイツ軍の一部を捕捉殲滅するものでした。 連合軍がこれほど大胆な作戦を選択した背景には、戦略的には電撃的に在イタリア枢軸軍殲滅によるイタリアの早期降伏を狙ったのは当然ですが、戦術的にチュニジアとシチリア島ですでに多数の枢軸軍兵力を捕捉殲滅していた事から、イタリアに逃れられた当方面に枢軸軍機甲兵力が著しく減退していたからに他なりません。 その上、全イタリア軍に数倍する海空戦力が付近に展開しており、その気になればローマにすら強襲上陸ができると言われていた事も影響しています。 さらに、ドイツ軍がロシアでの戦いを重視して、イタリアへの兵力派遣を最小限にとどめ、その補完としてイタリア軍に物資の供与しか行っておらず、それも連合軍の爆撃でイタリア半島南部にまでロクに届いていない事も補強材料とされていました。 しかしそれでも、あまりにも大胆な作戦内容であり、連合軍総司令部は当初作戦の修正を求めましたが、現地司令部と言うよりも日本軍南欧方面軍司令部は、分析に基づいた連合軍と枢軸軍の兵力比較と配置状況、双方の兵力格差、そしてなにより現地枢軸軍の機動力の不足を順序立てて説明し、さらに危険な地域への上陸は日本軍が行う事として、作戦を了承させてしまいました。
1943年4月半ばに入ると、アレキサンドリア、ジブラルタル、チェニスなどからシチリア近海に再び連合軍の大艦隊が集結を始めました。集まった洋上兵力は、シチリア島攻略の時よりもさらに強化され、さらに多数の戦闘艦艇が、多数の揚艦船を護衛していました。 そして、4月19日深夜、短距離上陸を図ろうとする部隊が多数シチリア島を出発する事で「撃(ストライク)作戦」はゼロ・アワーをむかえます。 上陸作戦は、まずシチリア島に最も近い位置にあるイタリア半島最北端部(長靴のつま先)の二箇所から始められました。 これは、当然ですが在イタリア枢軸軍を半島端におびき寄せるためのもので、このためどの作戦よりも派手に行われ、圧倒的鉄量の投入で現地軍を文字通り粉砕し、上陸一日目にして盤石と言える橋頭堡を確立する事に成功します。 次の段階で、約丸々1個師団の空挺部隊がやや内陸部の各地に降下(つま先の付け根のあたり)、飛行場、橋、トンネル、重要幹線道路、鉄道要所などを奇襲占領し、その目的の80%以上を達成します。 そして、その段階でゼロ・アワーから丸5日目に本命の二重包囲部隊がイタリア半島の両方から海軍部隊の濃密な援護を受けつつ強襲上陸を敢行し、お互いの部隊を求めて強引な前進を開始しました。 この強引な攻撃を前に枢軸側もこれをある程度予期していたことから、果敢に抵抗しましたが、いかんせん物量が違い過ぎることと、制空権制海権を失っていること、そしてなにより軍団規模の洋上からの挟撃作戦など予想だにしていなかっため、ゼロ・アワー7日目には戦線が崩壊、現地にいた30万もの枢軸軍は、その時点でごく細い脱出路から、ローマ目指して撤退する事こそがその目的となっていました。 ゼロ・アワー10日目、ついにイタリア半島南端部の包囲網はナポリの前面で閉じられ、実に20万もの枢軸軍が包囲される事になりました。 大半は、イタリア軍でしたが、中にはアフリカから撤退を続けていたドイツ軍部隊も多数含まれており、この敗北は枢軸軍全体の戦争計画そのものにも重大な影を落す事になります。 実際の影響として、ソ連の大攻勢を前にしたロシア戦線から陸軍が1個軍が丸々引き抜かれ、空軍も第二航空艦隊が全て移動を命じられたのですから(これまでは実質半数程度でした)、この事からもドイツ軍の同様が見て取れるでしょう。
なお、この地域には、イタリア海軍最大の根拠地タラント港を含む南欧の重要拠点が多数含まれており、これにより地中海のシーレーンは完全に連合国側のものとなります。 そして、それ以上に大きな変化は、この大敗に重大なショックを受けたイタリアにおいてムッソリーニが失脚し、新政府が即日連合国側に降伏を打診した事です。 時に1943年4月29日。日本とっては最大の祝辞とされる天長節のその事でした。 日本軍が主力だった事と、この天長節が重なり日本の喜びは非常に大きく、司令官であった山下大将は砂漠の虎として半年前から有名でしたが、この成功で日本で最も有名とすら言われる程の英雄されました。 そこで、国民から山下将軍に相応しい地位を用意すべきだとの声が上がり、政府も軍もこれを押しとどめる事が出来ず、結局彼の元帥昇格を認めました。もっとも、本来日本では実質的な階位としての元帥は存在しませんので、今まで通り形式としての元帥の位が授与され、実際彼が得たものは勲章をもってこれに報いられただけに過ぎませんでした。彼が本当に「元帥」の地位でいられたのは、海外に派遣されていた間だけだったのです。 なお、山下将軍が野戦昇進という日本としては珍しい経緯で元帥になれたのは、欧米各国の最高司令官とのバランスを取ると言う目的があったとされ、ちょうどよい機会に過ぎなかったからだと言うのが、現在での通説となっています。 この証拠に、以後山下「元帥」は、連合軍全体の南欧方面軍司令官となり、実際の軍指揮以外にも日本の権益代表としての役割も果すようになります。 そして、この山下将軍の「元帥」昇進は、イタリア防衛を実質的に司るようになったドイツ空軍のケッセルリンク元帥との意地を賭けた戦闘開始のゴングでもありました。
イタリア本土上陸作戦は、予想以上の成果を以て成功しました。このため一時世界は、イタリア降伏により戦争に対する楽観論が占めましたが、イタリア降伏一週間後の1943年5月5日に、この作戦で有名となったオットー・スコルツェニー率いるドイツ特殊部隊がムッソリーニを救出し、ドイツの傀儡という状態でイタリアは交戦継続を決めた事で変化を見せます。このさらなる変化により、進駐を受入れる部隊と徹底抗戦をする部隊とが各所で出現し、イタリア南部は一時的に大混乱を向える事になります。 そして、ローマ前面の「グスタフ・ライン」と呼ばれる枢軸軍の防衛線あたりで戦線は膠着し、連合軍としてもさらなる増援を投入しなかればこの地域の突破は不可能となり、4月の激変が嘘のように5月のイタリアは一部戦線の地獄以外は停滞してしまいました。 そしてその停滞の間隙を突くように、ロシアの大地ではドイツの国運を賭けた大攻勢が開始されようとしていました。