■ソ連崩壊?
1943年5月15日、独ソ開戦丸2年目を迎えようとしていたロシアの大地は、再び大きく動くことになります。 ドイツ東方軍が、これで最後とするための三度目となる対ソ大攻勢を開始したからです。 この時、枢軸軍がロシア戦線に投入していた兵力は合計で450万人、うちドイツ軍が350万人を占めていました。 対するソ連赤軍は、数だけなら枢軸軍のそれに倍する約800万人、これだけを比較すると枢軸軍の攻勢は無謀以外の何ものでもありませんでした。 しかし、実情から算出される兵力比較を見るとこれが正反対だった事が見て取れます。 一般に、正規師団に対して動員師団の戦力は、練度などの差から実質3分の1程度と言われます。これは特に攻撃的任務に投入した場合の数字と言われますが、このロシア戦線の場合はさらに格差が広がる事になります。 確かに、赤軍内の親衛隊と言われる部隊こそ練度、装備共にドイツ軍ともほぼ互角でしたが、その数は800万人もの大軍団の5%程度と極めて低く(それでも約30個師団にもなるが)、大軍団の大半は戦後動員された新規兵力か、さらにひどい場合は義勇師団、労働者大隊など素人で構成された単なる武器を持っただけの一般人による部隊で、その人員構成も町の大人を根こそぎ動員しただけという惨状の部隊も珍しくありませんでした。 つまり、機動力などまるでない練度も低い兵力がソ連赤軍の過半を占めており、その半数は西欧の常識からなら兵力とすら呼べないものでした。(と言うよりも、本来守るべき市民を無理やり動員した義勇師団など本末転倒と言え、この存在こそ当時のソ連を象徴していると言えるでしょう。) また、ドイツ軍に多大な心理的、物的ショックを与えた「T-34」戦車でしたが、工場移転とモスクワ陥落による後遺症から、43年春を迎えようとしている現在でも、生産は必ずしも順調とは言えず、親衛隊や独立戦車旅団など一部機甲戦力に優先的に配備され、一般部隊には全く行き渡っていませんでした。もちろん、「カチューシャ」や「スターリンのオルガン」の通称で有名なロケット砲や、「シュツルモビク」地上襲撃機の生産も十分とは言えませんでした。 そして、ソ連(ロシア)軍にとっての最大の特徴である重厚な砲兵戦力すらも、砲の数こそそれなりに揃えられましたが、工業力の減退による砲弾不足から満足いくレベルからはほど遠く、冬の間に作り上げたウラルに至るまでの何重にもおよぶ防御陣だけが、前線の兵士たちの唯一のよりどころでした。
対するドイツ軍ですが、イタリア戦線に急きょ1個軍が転出されましたが、基本的に3個軍集団、しかも練度、装備ともに全ドイツ軍で最も高い部隊が集中されていた事から、兵力の質が著しく低下しているソ連軍に対して、十分攻勢に出れるだけの兵力を保持していました。特に、攻撃する側と言うことでイニシアチブなどを握っており、兵力の集中密度も選択できる事は大きなアドバンテージでした。 特筆すべき点としては、42年の冬から強固な「移動トーチカ」としてソ連軍を迎え撃った「6号重戦車(ティーゲル)」の量産型が、今度は攻勢突破用の新規兵力として各部隊に配備されていました。101、102、103と新たに編成された独立重戦車大隊が3隊が各軍集団の直轄予備として存在し、国防軍の中でも大型師団に編成されたグロス・ドイッチュランド(GD)師団、鍵の師団マークでも有名なSS第1(LAH)師団、SS第2(ダス・ライヒ)師団、SS第3(トーテムコップ)師団がそれぞれ師団直属の重戦車中隊として保持しており、その全てがほぼ定数を満たし、ティーゲル重戦車の総数は200両以上に達していました。これは、この戦車が量産に向かない高価な重戦車であると言う事を加味すれば、ドイツ軍がこの戦車に大きな期待をかけており、また生産に非常な努力が払われた事を伺い知る事ができます。 無敵の戦闘力を持った鋼鉄の獣たちは、白を基調とした冬季迷彩から今度はイエローを基調としたドレスに着替えており、持ち前の巨大な存在感をより一層際立たせていました。 その姿はドイツ人の誰もが想像し望むであろう戦車の姿だったとすら言われます。 また、その派生型とも言える長砲身の88mm対戦車砲を固定装備した「フェルディナント」駆逐戦車も2個大隊が重駆逐大隊として編成され、同様に突破部隊の中核に組み込まれていました。しかし、前線の指揮官から最も期待されたと言ってよい「5号中戦車(パンター)」は、連合軍の爆撃により量産が遅れ、ついにこの攻勢には間に合いませんでした。もっとも、初期型の「パンターD」は技術的な欠陥を抱えていましたから、この攻勢に間に合わなかったのは、むしろ幸運と言えるでしょう。そして主力の中戦車については、「3号」、「4号」戦車の長砲身搭載型が多数配備されていた事から十分な戦力があり、さらには「3号突撃砲」や「マルダー」などの(対戦車)自走砲兵火力も充実しており、支援兵力にも不足はありませんでした。さらに、戦車以外では、「ネーヴェル・ヴェルファー」として知られる費用対効果の高いロケット弾が、量産が容易な事から砲兵部隊に広く配備されていました。 ただし、『戦車キラー』として有名な37mm砲を搭載型「Ju-87(ストゥーカ)」など空の新規兵力は、この初夏の時点では姿を見せておらず、そういう意味では陸軍の一部を除いて全体としては従来のままの兵力で、ドイツ軍が最後の大攻勢に挑んだと言えます。 しかし、そうした新兵器だけがドイツ軍の原動力でないことは、これまでの戦いでドイツ軍将兵自身がこれ以上ないと言うぐらい戦場で証明してきており、いまだドイツ軍に多数抱えられた熟練兵たちこそがこの攻勢の主役であり、いかに新規戦力があろうとも、それなくしてソ連軍の撃滅は不可能だったと言えるでしょう。
なお1943年春の戦線は、ドイツ軍がA-Aラインと呼ばれる、アストラハンからアルハンゲリスクを結ぶラインより東を占領下においており、当然そこが攻勢発起点となっていました。 北から順に、北方、中央、南方の軍集団の区分に戻され、攻勢正面には中央と南方軍集団が当る事になります。 大戦略レベルの作戦は、攻勢正面に当る中央軍集団が、陽動を目的として圧力を加えている間に、ウラルの下腹部から装甲戦力の半数を与えられた南方軍集団が包囲するように進撃を行ない迂回突破が成功すると、ウラル前面に展開するソ連赤軍を、中央軍集団と共に包囲殲滅する事にありました。 そして、この後本来なら進撃を継続し、ウラル山脈の向こう側にあるソ連の臨時首都を攻略し、ソ連政府を軍門に下すのが筋となりますが、費用対効果の問題からソ連赤軍そのものの撃滅に成功したなら、以後は政治的解決を図る努力がなされる事になっていました。 これは、ソ連政府がさらに東方に疎開でもされたらやっかいだった事と、後々を考えればドイツにとって必要な地域を押えてしまえば、後は正式に停戦してしまった方がはるかに安上がりだったからに他なりません。 ドイツはソ連とだけ戦争をしているわけではなく、この戦いの後、さらなる強敵との本格的な戦争が待ちかまえていたのですから、全てを蹂躙し尽くすまでと言う感情的な戦争よりも、はるかに現実的と言えるでしょう。 ただ、何にせよドイツ軍が意図しているのは、史上最大規模の包囲殲滅作戦であり、これが成功するかどうかは戦争の帰趨を大きく左右することは間違いないでしょう。
1943年5月15日午前3時15分、1941年の「バルバロッサ作戦」発動と全く同じ時間に、ドイツ軍による三度目の対ソ夏季攻勢作戦が開始されました。 ちなみに、作戦名称は「砦(チタデル)」。ウラル山脈に立てこもるソ連に対する当てつけのような作戦名称でした。このあからさまな名称を嫌ってか、参謀本部などではドイツ総統が作戦名を決める前の色を作戦名称とする慣例に従って名付けられた「ケース・パープル」を主に使用していたと言われています。 作戦名称はともかく、ドイツ軍の大攻勢は今更奇襲攻撃もないので、定石通りの何時間にもわたる砲撃によって幕を開けます。 ソ連軍もこの攻撃は予期していたものなので、奇襲効果こそありませんでしたが、互いに陣地を築き動かなかった事から、その配置は制空権を持つドイツがより詳細に掴んでおり、当初からかなりの効率でソ連軍の一時制圧に成功します。 そして、さらに夜明けをまってルフト・ヴァッフェが大挙して出撃し、友軍の頭上を護ると共にソ連軍の頭上に爆弾の雨を降らせ、砲兵の生み出した戦果のさらなる拡大を図りました。 そして、陸と空からの弾幕の中から、ドイツ軍の装甲集団が大隊戦闘団単位で10箇所以上の戦線を突破しました。もちろん、その先頭の半数は「ティーゲル」が占めており、本来なら突破は難しいと思われた、巧妙に構築されたPak(対戦車砲)の巣を強引に突破する事に成功します。 その様は、まさにヒトラー総統が望んだ虎たちの姿であり、あらゆる攻撃をモノともしない「ティーゲル」の群は、異様なまでの巨体とその威力により悪魔的なまでの心理的圧力をソ連軍の前線将兵に与え、最初の突破先頭以後、「ティーゲル」が現れただけでソ連軍が後退を始めると言った光景すら見られるようになります。
ドイツ軍による三度目の攻勢開始から二ヵ月が経過しました。ドイツ軍は、各地で大きく前線に成功し、数多くのソ連軍部隊の撃滅にも成功していました。 しかし、撃破した敵兵力の多くは、ソ連軍自らが友軍の撤退の為に残した死守部隊ばかりであり、装備・練度の低いとしか思われない兵力がそれにあてがわれているとドイツ軍は見ていました。 つまりソ連軍の本島の主力は、いまだウラルの前面で健在で、ドイツ軍が攻勢の限界点に達するのをじっと待っているものと予測されました。 確かに、攻勢開始から二ヵ月でドイツ軍は大きく前進に成功し、広大な占領地域を得ることに成功していましたが、当然これは距離の増大による補給船の負担の増大も意味しており、しかも長期間の戦闘で前線部隊の稼働率も大きく低下し、攻勢開始時点に比べればその攻撃力は半減したとすら言える消耗を強いられていました。 要するに、ソ連軍は追いつめられた今回においてすら、それまでと同様広大な国土そのものを巨大な縦深陣地として利用し、ボナパルトの再来を今度こそ行おうとしていたのです。 またソ連にとって幸いな事に、連合国側からの補給物資は、アメリカが参戦した事で潤沢になっており、太平洋からシベリア鉄道経由で日本の形ばかりの援助物資と共に続々と運ばれており、少なくともウラル防衛の為に物資不足に陥るという事態は避けられそうでしたし、アメリカから運ばれた工作機械や潤滑油などの援助のおかげで、ウラルに疎開した工場の稼働率も上昇しており、1日でも長くドイツ軍を足止めすれば、それだけソ連軍の戦力は増大する事になりました。 かくして、ドイツ軍を始めとするドイツ軍は、ヨーロッパ・ロシアの最深部でにわかに物量戦を開始したソ連軍に足止めを余儀なくされ、戦術目的を達しつつあるにも関らず、戦略目標を達成できないというジレンマに陥る事になります。 特にこれは、ソ連軍が一年かけて構築したウラル陣地線(陣地要塞)の主防御線にぶつかった時点でピークに達し、最終目標を目前にして再び泥将軍の地面からの攻撃を受けるまえに、このウラル防衛線に達するかどうかが戦争の帰趨を決するだろうと全てにおいて判断されるようになっていました。
また、ソ連以外の連合国の動きも夏以降になるとより活発化しており、これもドイツ軍をひどく苦しめる事になっていました。 1943年初夏ぐらいより、本格稼働したアメリカの戦時生産物資が、ほぼ安定化した通商路を通り、大西洋と太平洋を押し渡ってユーラシア大陸各地へともたらされていました。 これは、日本軍と同様続々と欧州大陸にやってくる将兵の数が如実に示していましたが、中でも重爆撃機による効果はこの頃より特に大きな成果をおさめるようになります。 1943年6月の段階で、日英両国だけで1000機爆撃が可能なだけの機数が確保されていたのに、これに大挙して展開した米陸軍航空隊の第8空軍がそれに倍する数を展開しており、1943年6月21日の丸一日の間に通称『2000機爆撃』と呼ばれる大規模爆撃を昼夜兼行で展開するようにすらなります。 この爆撃は、6〜9月にかけて毎週のように行われ、連合国側は三ヵ月の間に実に10回の2000機爆撃を行い、この期間だけで10万トン(0.1メガトン)もの爆弾の雨をドイツ西部を中心に欧州の各地投下し、ドイツの工業生産全てに対して一時的に大きな混乱をもたらすことに成功すると共に、市街中心部廃虚にしたハンブルグ市での無差別爆撃による10万人の犠牲者を始め、実に30万人もの一般犠牲者、120万人の空襲被災者を出す惨禍も記録しました。 ドイツ軍がこの連合国側の爆撃を防げなかったのは、もちろん2000機という数をもって行われた飽和爆撃に、ドイツ空軍が対応できなかったからで、しかも連合国側は単に爆撃機を2000機送り込むだけでなく、昼間は「P-38ライトニング」、「P-47サンダーボルト」、「P-51ムスタング」、「二式戦飛燕」、「三式戦疾風」などが爆撃機と同じ数かそれ以上随伴し援護しており、夜間爆撃にすら、「P-61ブラックウィド」、「モスキート」、「月光」などの夜間戦闘機が随伴し、ドイツ側の迎撃を妨害、場合によっては反対に挑戦を挑み大きな犠牲をしいてたからです。 ただし、これほどの大規模爆撃は、この当時の連合国にとってはいまだ負担が大きく、9月以降は通常の1000機爆撃態勢に戻りました。 もっとも、1000機爆撃であったとしても、それが毎週のように行われるとあっては、この当時のドイツ空軍が対応しきれる能力を越えており、しかも連合国側が製油施設や人造石油工場を重点的に爆撃し始めた事から施設の破壊による航空燃料の不足も始まっており、43年夏を境に欧州中部の制空権すらおぼつかなくなるようになります。 そして、占領地域である東欧やロシア・ウクライナ地域への工場の疎開が本格化するようになります。 そして、爆撃による被害が工場の移転により多少持ち直すのは一年後の44年夏から秋になってからで、この頃には一度退勢に追い込まれた状態をドイツ軍が覆すことはとても叶いませんでした。
しかし、陸での戦闘は制空権さえ獲得できれば、ドイツ軍の優位に展開していました。 つまりドイツ軍が制空権を握っているロシア戦線は、依然優位に戦闘を展開していると言う事でした。 ソ連軍の伝統的戦術の前にソ連赤軍の捕捉撃滅と言う戦略目的こそ達成できませんでしたが、9月の段階でウラルの欧州側からの玄関口と言ってもよいクィビシェフ市を包囲するまでの前進に成功し、もちろんヴォルガ河の全面的な渡河にも成功しており、占領地域的にはドイツの勝利と言ってよいぐらいでした。 ただし、完全勝利を掴むにはもう一度決定的な戦果(勝利)が必要とされ、このためドイツ軍はウラル山脈めざしてさらに前進をする事になります。 時に1943年9月初旬の事です。 そうです、ドイツ軍に残された時間はあと僅かと言うことです。でなければ、ドイツ軍の前進を何よりも拘束する泥将軍が、ロシア人の援軍として秋雨の訪れと共にロシアの大地全土を覆い尽くしてしまうからです。 ロシアのことわざに次のような言葉があります、『秋、スプーン一杯の水はバケツ一杯の泥となる』。 過去の攻勢では、この自然の脅威が到来する前に戦闘の帰趨を決することができたため事無きを得ていましたが、今回の攻勢は今までよりも長い距離の進撃、本土からはるかかなたの大規模陸上戦による補給負担の増大という悪条件によりただでさえ進撃が難しいのに、これにソ連以外の連合国が今更のように膨大な軍事援助をソ連に供与するようになり、これでソ連軍が兵站面で息を吹き返して、地道な遅滞防御に終始した事でさらに進撃速度を低下させる一因になっていました。 これらの影響で、ドイツ軍が目指した秋までのウラル到達をはばみ、この時点での攻勢開始となったのです。 そして、恐れたいたように、9月半ばから始まった秋の雨期の到来により一斉にロシアの大地がぬかるみだし、ティーゲル重戦車から歩兵に至までのありとあらゆるドイツ軍の脚を取り、進撃速度を低下させ、兵站物資の前線への補給を極めて難しいものにしてしまいました。 これは、10月に入るともはやどうしようもない状態となり、ドイツ軍の進撃は自然に停止してしまいます。 そして、ウラル近辺の冬は、モスクワ近辺などよりもさらに厳しく、11月には全てのものを凍らせてしまうシヴァの女王のようにドイツ軍に襲いかかり、これをずっと待っていたソ連軍の反撃を呼び込む事になります。 そして、冬になるとアメリカから高純度の潤滑油を供給されていたロシア空軍の方が高い稼働率を獲得し、常に劣勢であった制空権を握り返し、ソ連地上軍の反撃を助長する事になりました。
人間の限界を超えたロシアの冬の戦いは、44年2月にソ連軍の反撃が一段落し、ドイツ軍が結局100〜200km後退する事で膠着します。 ですが、ウラルでの厳しい寒さは、ドイツ軍のありとあらゆるものを凍りつかせ、兵士のすべてを凍傷にしましたが、いかに冬に強いロシア兵といえどこの耐えきれるものではなく、独ソ双方で100万人以上の兵士が冬の女王の贄とされたと連合国側がまとめた統計数値が示していました。 そして、この戦いによりソ連、ドイツとも陸上戦力の面で攻勢に出れる力をどちらも喪失し、戦線は完全に膠着する事になります。 しかし、ソ連は首の皮一枚で存続する事になったのです。 そしてこれは、日英米が最も望んだ形での独ソ戦の結末でもありました。
一方、連合国側が優勢な制空権を維持しているイタリア戦線においても、ドイツ軍は苦戦をしいられており、スエズ運河を通ってはるばるやってくる日本軍の大軍を前にして、できうる限り敵に出血を強いながらの陣地戦に終始する以外の戦術は極めて難しい状況でした。 ですが、南イタリアの地域が狭い地域で地形も平たんな場所が少ないことから防衛にとても向いており、じわりじわりと土地を明け渡していましたが、ロシア戦線でのソ連赤軍のような醜態をさらす事はドイツ軍はありませんでした。もっともこれは、当地の防衛を任されているといってより空軍元帥ケッセルリンク将軍の精力的な作戦指導があったればこそであり、これは敵側の連合国側も全面的に認めていました。 ただ、ドイツ軍にとって残念な事に、イタリア戦線は二次的な、ドイツ軍を主戦線から別の場所に拘束するための戦線に過ぎず、ドイツ軍がロシアの泥と氷の大地から脚を抜け出そうと躍起になっている頃、連合軍の最大規模の攻勢が開始されようとしていました。