■大陸反攻

 1944年6月6日黎明、西欧の海岸は連合国側の多種多様な艦船で、文字通り埋まっていました。
 特に、英仏海峡の外れにあるノルマンディー半島沖合には、実に8000隻ものさまざまな揚陸艦艇・舟艇や輸送船、戦闘艦艇が殺到しており、第一波として上陸を予定していた部隊だけで、実に10個師団にも及んでいます。もちろんこれは、空から降下した2個空挺師団を除いての数字です。
 ただし、この海岸には上空を覆う航空機の一部と若干の艦船をのぞいて、日本軍の姿はありません。
 彼らの姿は、同時間の地中海に面したフランスのとある海岸にありました。
 アレキサンドリアを最大の策源地とする、戦闘艦艇300隻、上陸用船舶500隻、上陸用舟艇2000隻以上にも及ぶ、ほぼ日本軍だけで編成された大上陸部隊は、南フランスの港湾都市マルセイユ近くの沖合にあったのです。
 この時、地中海から瀟洒な建物の並ぶ南フランスの海岸に上陸しようとしていたのは、以下の地上兵力になります。

上陸部隊総指揮官:今村大将
第一波
 日本 第一海軍陸戦軍団(本間中将)
  海軍・第一海軍陸戦師団
  海軍・第二海軍陸戦師団
  陸軍・第五師団
第二波
 日本 第一機甲軍(酒井中将)
  陸軍・近衛第一機甲師団
  陸軍・第二師団
  自由フランス第3師団
予備
 陸軍・第六師団
 陸軍・近衛嚮導機甲旅団

別動隊
 陸軍・第一空挺師団

 空から降下する空挺部隊を含めると、8個師団17万もの兵力になります。これは、日本軍が行う強襲上陸作戦としては、最大規模のものであり、このため膨大な艦艇が用意され集められました。
 ただ、上陸する陸軍部隊は1個方面軍にも匹敵する大兵力ですから、一見ノルマンディー海岸のそれと比較すれば船舶の数が少ないように思いますが、これは日本が投入した船舶の多くが、それまで太平洋からインド洋、大西洋と踏破するために多数建造した大型の戦時標準船で占められていたことと、大型の揚陸専門艦艇を多数用意していたからです。
 また、上陸用舟艇も中戦車を搭載可能な大型のもの(搭載量30トン)が多数含まれていたため、舟艇の数もノルマンディー海岸に比べて比率的に少ないレベルに抑えられていました。
 これは、もともと日本が自分たちの近在の島嶼に対する強襲上陸を念頭に置いた軍備を戦前から研究していた影響が強く、さらに地中海などで何度か発生した上陸作戦の戦訓を過剰に判断した事が何事にも汎用性を求める造船技官たちの設計意欲を刺激させ、このため一隻あたりのコストパフォーマンスとなるとアメリカが戦中から建造を始めたモノに比べると悪い、良く言えば地中海や近海での渡洋進攻作戦には贅沢な艦船が多数存在していたと言うことです。
 これは、1944年に入り就役を始めた、1個機械化大隊を輸送可能な満載排水量3万トンに達する大型ドック型揚陸艦の「大隅級」に代表される大型専門艦艇に結実しています。
 そしてそのために、英仏海峡よりも長い距離を揚陸部隊が海を進まねばならないとされた南仏への上陸が、その輸送能力の高さを買われて本来日英合同で上陸作戦をすべきところを、日本が単独で行い、英米が共同で作戦を行うことになっていたのです。
 荒波で知られる太平洋での運用を前提にして建造された日本の艦船は、波が穏やかな地中海の海での作戦行動を下士官などが「池で遊んでいるのと変わらない」と評したぐらい、気楽なものであったとされています。もっともこれは誇張でしょう。

 そして、いまだソ連戦からの打撃から全く立ち直れていないドイツ軍が、フランスの南北それぞれ1個軍もの強襲上陸をしかけてきた連合軍相手に、二つの戦略正面を防衛するなど全然できる状態になかった事から、戦略的重要度が比較的低かった方面を担当した日本軍の上陸作戦そのものは非常に順調に進展させました。
 さらに、この上陸作戦において日本海軍は、強襲上陸特有の初戦の劣勢をカバーするため、圧倒的な数の航空機を投入するだけでなく、自国が有する全ての戦艦を同方面に投入し、艦砲射撃を行わせました。巨砲により上陸に邪魔なものを全て吹き飛ばしてしまおうとしたのです。
 これは、『八八艦隊』に属する戦艦の全てがが久しぶり、それこそ1934年の太平洋戦争以来の共同作戦を行う事でもあり、このため上陸作戦や艦砲射撃でもあるにも関らず、海軍の士気は異常に高かったと言われています。
 当然ですが、第二次世界大戦において日本海軍の戦艦が一つの作戦に投入されるのは、これが最初でそして最後の事となります。
 また、この作戦に合わせるかのように20インチ砲装備の超超弩級戦艦にして新造戦艦の「大和」が就役し、ギリギリこの作戦に間に合っています。
 もちろん、20インチ砲、18インチ砲、16インチ砲、14インチ砲で釣瓶打ちにされ、戦術反応弾に匹敵する弾薬を投射されたドイツ軍陣地がどうなったかについては記すまでもないでしょう。
 あえて状況を見るなら、上陸した将兵が、「アメリカのSF小説に出てくる、月か火星に降り立ったみたいでした」と言う言葉が全てを現していると言えるでしょう。
 さらに、圧倒的な質と量を誇る海軍の空母機動部隊も沖合にその姿を見せており、サルジニア島など地中海各地に展開した基地航空隊約3000機と共に約1100機の艦載機を断続的に放ち、連合軍と言うよりは日本軍の上陸作戦を、制空権の面から盤石のものとしています。
 まさに、世界最強を自任する日本海軍の面目躍如たる光景と言えるでしょう。(世界最大の海軍は英王立海軍とされており、日本海海戦、1934年の太平洋戦争の一方的結果から日本が最強とされる向きが強い)

 ちなみに、この時投入された日本海軍の戦力ですが、大きくは以下のよう編成されていました。

◆空母機動部隊(4個艦隊)(艦載機:常用約1100機)
 旗艦:超大型空母<大鳳>
 指揮官:小沢中将
  CV:12隻、CVL:7隻、護衛艦艇59隻

◆打撃艦隊(3個艦隊)
 旗艦:戦艦<大和>
 指揮官:栗田中将
  BB:19隻、護衛艦艇56隻

◆上陸支援艦隊(3個艦隊)(艦載機:常用約300機)
 指揮官:西村中将
 旗艦:戦艦<比叡>
  BB:3隻、CVE:12隻、護衛艦艇29隻

◆本隊
 旗艦:重巡洋艦<那智>
 指揮官:志摩中将
 戦闘艦艇117隻
 揚陸専門艦艇232隻
 輸送船舶286隻

 なお、ノルマンディー正面には、英国海軍から24隻の戦艦と4隻の正規空母、アメリカ海軍から16隻の戦艦、8隻の正規空母、9隻の軽空母、自由フランス海軍の戦艦3隻があり、大西洋、北海の圧倒的なプレゼンスを展開していました。

 歴史的には、史上最大の作戦と言われるノルマンディー海岸に対する強襲上陸作戦の方がはるかに有名ですが、本来『史上最大の作戦』とは、ノルマンディーのそれの七割もの規模で行われた日本軍による同作戦も含めたものが「アーク・エンジェル(大天使)」作戦であり、ノルマンディー上陸の部隊が「エンジェル(天使)」、南欧上陸の部隊が「アーク(聖棺)」作戦と分けられていました。(もちろんこれは、単なるゴロ合せによる作戦名称です。)
 なお、日本軍の作戦名称は「アーク」を言葉通り翻訳し、「箱船作戦」と呼称していました。これは、日本軍は元来陸軍が漢字一文字、海軍がひらがな一文字で作戦名称を呼称するのに、この大作戦によるセクショナリズムからくる縄張り争いと主導権争いを少しでも回避するために、あえてそれまでの慣例を無視した名称がされたものです。
 また、従来と違う作戦名称を使う事で、枢軸国側の混乱を誘おうという意味もありました。
 更に、大義名分を獲得するために小規模でしたが欧州大陸各国の部隊も作戦に参加していた事も影響しています。
 ただ、当の日本軍将兵は、「箱船作戦」と聞いて、「ああ、上陸作戦だから箱の船なんだなあ」と言う程度の感想しか持たなかったと言います。これは、主に宗教・宗教観の違いですが、日本が欧州世界に積極的に関った事による小さな変化と見て取ることもできるでしょう。

 日本軍による南フランス上陸作戦そのものは、午前6時に第一波の揚陸艇部隊が海岸に向けてスタートした事で開始され、第三波が海岸に溢れんとしていた正午頃の開始6時間には大勢が決してしまいました。
 穏やかな波により、水際にたどり着くまでの水上トラブルはたいして発生せず、上空は友軍機により完全に防衛され、敵の水際陣地は強力な戦艦隊により大半が制圧され(破壊されたわけではない)、さらに自らもそれまでからなら比較にならないぐらいに機械化されていたのですから、上陸作戦そのものが失敗する可能性を捜す方が難しい都すら言われる作戦となりました。
 これは、一部苦戦のあったノルマンディー方面(「ここにいる人間は、もう死んだ人間か、これから死ぬ人間だ」と言った主旨の言葉が非常に有名でしょう。)とは好対照とすら言え、事前の空挺部隊の降下作戦も風がゆるやかだった事などから大きなトラブルは発生していない事も対象をなしていました。
 このため、夕刻には上陸第二波の揚陸すら開始され、翌朝には機械化部隊による本格的な前進すら開始される程の順調さを見せていました。

 ちなみに、この上陸作戦での勝利宣言が出されるまで、上陸部隊の総司令官である今村大将は、フランス軍将兵から不評がありました。それは、彼の名字を単なる漢字としてフランス語に翻訳すると「ヴィレ・ヌーボ」となってしまい、非常に縁起が悪いとされたからです。もっとも、この上陸作戦を成功させてからは、反対に大きな信頼を得るようになったと言います。

 その後、連合軍の西部戦線は、ノルマンディー方面はカーン市付近で英米軍がドイツ軍と熾烈な戦いを演じていたのとは対照的に、南フランスは大きく前進する事に成功していました。
 これは、付近にドイツ軍の機甲戦力があまり展開していなかった事とドイツ軍が英米を戦闘正面として優先的に兵力を送り込んだ事が最大の原因で、この事から日本陸軍の戦力を低く見積もっていた節が強く見られます。
 また、初戦で水際にて激しく抵抗したドイツ軍、ヴィシー・フランス軍部隊のいくつかが、常軌を逸した空襲と艦砲射撃、八八艦隊のオールファイアーで吹き飛ばされた事で防衛戦に大きな穴が開けられた事も無視できない要因でしょう。
 そして、艦砲の及ぶ範囲にあたる沿岸から20キロメートル圏内は枢軸国軍にとっては鬼門となり、その橋頭堡で態勢を整えた日本軍の重機甲部隊が迂回運動と強引な突破戦闘を同時に発起した時には、枢軸国軍は全く対応できない状態となっていたのです。
 日本軍がこれほど早く上陸部隊を展開し、その後の増援の投入を円滑に行えたのは、それまでの戦争で何度も大規模強襲上陸を経験していた事が大きく影響しており、また実戦に則した綿密な計画を立てていた日本軍自身の実戦経験が大きくものを言っていました。
 このため、7月には日本軍が西欧派遣用に準備していた約20個師団のうち半数が、進撃の途上にあるという迅速さで、南フランス全域を覆い尽くしつつありました。

 そして、英米軍が依然ノルマンディー橋頭堡で引っ掛かっている間に、南仏を蹂躙してしまい当面の目標である巴里を指呼に収める位置にまで進撃する事になります。
 この事態は、当の日本軍はもとより連合軍全体でも大きな誤算、本来なら嬉しい誤算と呼ぶべきものでした。
 しかし、予期せぬ戦局の進展は、それが大部隊によるものだっただけに後方での混乱は大きく、ロンドンでは日英米政府・軍代表による喧々囂々会議が連日徹夜で行われる事になりました。
 連合軍上層部の予定としては、巴里を開放するのは、フランス軍を先頭としたイギリス軍だったからです。
 これは、ドイツと正面からずっと戦ってきたのがイギリスだったと言うのが主な理由で、英国以外の主要な戦力を派遣している日本、アメリカ共に外様であり、兵力や貢献度はともかく欧州ではわき役に徹する事が、戦後を見据えた上で政治的に強く求められていたからです。
 これは、当初英米軍と行動を共にしていたルクレール将軍の自由フランス第2機甲師団が、急遽日本軍に配置変更された事からも見て取ることができるでしょう。

 一方、最初に作られた西欧戦線と言ってよいイタリア戦線に対する側面援護も、南フランスに上陸した日本軍は重視していました。
 このため丸々1個軍(団)にあたる戦力が、フランスからドイツを目指すのではなく、北イタリアを指向した進撃路を進んでいました。
 ただしこれは、連合国の間でも承認された作戦行動で、全体の動きからすると、北イタリアにあるドイツ軍をフランスに送らせない為の牽制行動とされていました。
 そして、ようやくローマを開放することに成功した山下将軍率いる日本第三方面軍(3個軍(団)8個師団基幹)と英第8軍(3個軍団10個師団基幹)(後に日本南欧総軍に改称)は、必然的な抵抗力の減少があったにも関らず、ドイツ側の粘り強い防戦の前に陣地攻防戦にばかり終始して、進撃速度はそれ程上昇しませんでした。
 このため、空軍出身にも関らず、ドイツ軍のケッセルリンク将軍は、第二次世界大戦最良の陸戦将軍の一人とされる程の評価を受ける事になり、これと対した山下将軍も同様に高い評価を受けることになりました。戦後両将軍は、互いに勇戦を讚えあいましたが、イタリアでの戦いが様々な意味で非常に不本意な結果であったと言う言葉が、晩年に両者から聞かれる事になります。

 イタリア戦線は終戦まで決着がつくことはありませんでしたが、主戦線であるフランス戦線は、『連合国軍(日本軍)巴里ニ迫ル!』と言うニュースが全世界を駆け巡ると共に、さらに激しさを増していくことになります。


■西部戦線