■西部戦線
1944年8月20日、連合国の手によりパリは開放されました。 パリの街には「自由、博愛、平等」を意味するフランスの三色旗が翻り、翌日には早くも臨時政府が樹立される事になります。 当然ドイツ軍は、セーヌ川に向って敗走と呼んでよい撤退の真っ最中で、パリ開放の勢いのままフランス全土からベルギーにすら足を伸ばそうとしている連合国軍を遮る余力すらありませんでした。 ここに、連合国側の第二目標は達成されたのです。 (もちろん、第一目標は西欧に足がかりを築く事です。) なお、パリを開放したのは、先頭こそ自由フランス軍の部隊でしたが、ドイツ軍を追い立て、パリ市付近に溢れかえり一部パレードに参加していたのは日本軍の機甲部隊であり、これらの部隊はパリを解放しパリ市民の何だか良く分からない程の歓迎を受けるとすぐに、いまだにセーヌ川西側で踏ん張っていた多数のドイツ軍部隊を包囲する直前まで追いつめてもいました。
なおこの時、ノルマンディー橋頭堡には、英第21軍集団が存在し、南仏全域に日本遣欧総軍が存在しています。また、英本土には主に米軍から構成された2個軍集団にも及ぶ部隊が進出のために待機しており、日英米の海洋国家連合が西部戦線に展開できる兵力量は、パリが開放され広大な戦闘正面が確保できるようになった今、1ヵ月以内に最大4個軍集団にも達する予定でした。 このため、日本軍のパリ開放で、北フランスのドイツ軍が慌てて後退を始めたその日には、ノルマンディー橋頭堡の英第21軍集団から米第1軍と新たに送り込まれ戦線突破に成功した米第3軍をもって米第12軍集団が分離編成される事になります。
1944年9月いっぱいまでにフランスのほぼ全土は開放され、それまで別個に扱われていた南仏と北仏の戦線は西部戦線と正式に呼称されるようになり、連合国軍4個軍集団とドイツ軍3個軍集団が対峙して、ひとときの停滞を迎えていました。 なお、連合国軍は北から「英第21」、「米第12」、「日遣欧」、「米第6」の順番で各軍集団が展開し、対するドイツ軍は北から「H」、「G」、「J」の各軍集団がジークフリート要塞線を中心に防衛線をひいています。 一見すると4対3の数量差ですから、連合国側がさなる攻勢を発起しようとするのは無謀にも見えますが、各軍集団とも師団数は連合国側の方が多く、また連合国側の各部隊の充足率がほぼ万全だったのに対して、ドイツ軍はソ連戦の打撃からいまだに立ち直れておらず、一部精鋭師団をのぞけばその充足率は高くても70%程度、平均60%ほどで軍事的には防衛戦すら難しい兵力しかないと考えられていました。 また、フランスからの撤退の際に包囲されないため、重装備の大半を失った精鋭部隊が多かった事の後遺症は大きく、当面は限定的な防衛戦以外はとれないほど疲弊していると連合国司令部は見ていたのです。 こうした事から、1944年冬までにもう一度全面的な連合国側は攻勢が可能と踏んでおり、ベネルクス地帯の開放を行おうとしました。 特にこれは、反攻序盤最大の得点とされていたパリ開放を日本軍にさらわれた形になった英米軍首脳が強く押しており、また日本軍が一連の進撃で部隊も疲弊し、一度補給線を建て直さなければ大規模な進撃は難しい事が後押し、さらに担当正面がちょうど英米の部隊がひしめいている事が仕上げをしました。
ただし、ドイツ軍も黙ってやられているわけではありませんでした。 確かにドイツ軍は、1943年までの独ソ戦で大きく疲弊しており、いまだに形式上は2個軍集団がソ連軍と対峙し、その兵力の総量は100万もの数にのぼっていました。さらに南仏での戦いで多くの兵力を拘束され、フランス正面では大きな犠牲を強いられていましたが、力を失ったわけではありませんでした。 「H」、「G」、「J」の各軍集団は、一応20個師団以上の兵力を持ち、その後方にはロシア戦線から引き抜かれた精鋭が1個軍以上再編成中で、当然国内の工場では連合国側の激しい爆撃の中にあっても多数の兵器、特に連合国軍を押しとどめるための原動力とされた強力な戦車の生産が進められていました。 ただし、生産の混乱、戦線の一部破錠から年内の反撃は難しく、それどころか戦線の維持のためにはライン川まで後退する必要があると見られていました。 一時的に息切れしていたのは事実だったのです。 ただあくまで一時的であり、連合国側が手を弛めたり、反撃に大きく躓けば押し戻すとはいかないまでも、完全な膠着状態に持ち込むのは可能であると、ドイツ軍司令部はみていました。 また、空軍戦力の方も東欧やロシアの一部に疎開している工場がようやく稼働状態に入り、安定した航空機の供給を再開しようとしていたので、この点もドイツ軍にとっては明るい材料でした。
なお、ドイツ軍総司令部や親衛隊、ナチス党の一部の考えはともかく、この頃のドイツ人の戦争に対する気持ちは、自分たちにとっての最大の脅威であり、西欧にとっての不倶戴天の敵であるロシア人を事実上ウラルにまで追い立てた事で、自分たちにとっての戦争は終ったと考えており、一刻も早い日英米との停戦、そして講和のチャンスはないものかと言うレベルになっていました。 そしてこれは、一部理性的な連合国側の意見でもありました。 もっとも、自分たちにとっての邪魔者である大陸国家のドイツ人とロシア人の国家が四半世紀は自分たちに本格的対抗はできそうにないほど疲弊させる事ができたのだから、何も大国1つを滅ぼすという攻める側も非常に大きな犠牲を伴う戦争などしなくてもよいのではないかと言う意見でした。特にこれは、外様である日本で強い意見でした。日本人としては、自分たちにとっての天敵たるロシア人が大きく疲弊し、アメリカ人とも取りあえず仲直りできたのだから、金のかかる遠方での戦争などとっとと終らせたいというのが正直な本音と言えるでしょう。 ただし、連合国の盟主たる英国は、今後の禍根を少なくとも半世紀はなくすためにドイツが降伏し、ナチスドイツ政権が倒れるまでの戦争を望んでおり、またアメリカ合衆国もアジア戦略での失敗を欧州で取り戻すべく本大戦に日英側で参戦したのですから、その果実を得るためにもドイツに欧州を管理させたままというのは納得のいかない事態であり、ドイツ降伏まで戦争をやめられないというのが今後の経済覇権を見越した政策から要求されていました。
そしてこの時期、ある事件がドイツ全土はもとより欧州全土を政治的にゆるがす事になります。 とあるグループが「ワルキューレ」と名付けた作戦がそれでした。 事件は1944年7月20日に発生します。 場所はドイツ某所、ドイツ首脳部が一堂に会する最高会議の席上がその舞台となります。 シュタウヘンベルグ大佐がしかけた鞄型の爆弾が、その会議の席上で爆発したのです。 俗に言うところの「ヒトラー暗殺未遂事件」の発生した瞬間でした。 これを合図として、水面下で大きな勢力を持っていたクーデター派は各地で活動を開始し、その爆発から数日は全ドイツ占領地域が大混乱に陥ることになります。 間接的には、数日間ドイツ軍の指令組織が混乱したことで、7月25日の連合国側のドイツ軍戦線突破につながりますが、直接的には全ドイツにクーデターそのものによる大混乱を発生させる事になります。 事態がこれほど混乱したのは、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが重傷こそ負いましたが命を留めたからです。そして、重傷を負ったという情報がさらなる混乱を招き、一時期ドイツ国内は内戦の様相すら呈するようになります。 これにより、親衛隊と一部国防軍の間では戦闘すら発生し、多くの要人が逮捕、場合によっては殺害される事にもなります。 しかも、大陸反攻が成功し、ドイツ国内でクーデターが発生したという情報を得た連合国側の一部が、これで安上がりに戦争が終らせられるとクーデター派を支持する動きを見せた事でこの混乱はさらに大きくなります。 結果、誰もが真実が何であるかが分からず、重傷を負ったヒトラー総統は数日間は何も命じる事はできず、当然側近達がいかに健在を叫ぼうともそれすら虚しい響きとなりクーデター派の動きを助長させ、ロシアをやっつけ戦争をさらに継続しようという政府が倒れたと考えた一部が勝手な行動を行い・・・と、パンドラの箱を開けたような混乱の坩堝と化していました。 事態は、事件からちょうど1週間経ってヒトラー総統が公衆の前に、ケガをしながらもみずからの健在を見せた事でようやく沈静化に向います。 7月末以後クーデター派は急速にその勢力を失い、やがて逮捕、粛正され、それに間接的に加担した勢力もその勢いを大きくそがれる事で一応の結果が示されました。ただし、この1週間の間に体制維持派も最初の爆発で幹部の多くが死傷しており、さらにクーデター派に多くが即決裁判で処刑されてしまっており、さらにヒトラー総統がその後ケガの回復がかんばしくなく指導力を大きく減退させる事にもなります。 これは、それまでヒトラー総統に握られていた軍の指揮権を国防軍が取り戻すことになり、一般親衛隊が大きくダメージを受けた事で、武装親衛隊がより国防軍寄りになる副次的効果を生み、硬直した指導体制から開放されたドイツ軍そのものはそれまでよりも柔軟な戦略・戦術を行使できるようになるという皮肉を生むことになります。
そして、ドイツ軍参謀本部の物理的な復活は、英第21軍集団を率いるモンゴメリー将軍が発起した「マーケット・ガーデン」作戦を失敗に追いやり、その後の反撃で平野部に展開していた、英第21軍集団と、ブラッドレー将軍率いる米第12軍集団に少なくないダメージを与える攻勢防御を成功させていました。 1944年の冬を迎えようとしている段階で、秋には圧倒的優勢と考えられていた連合国地上兵力は、仏独国境近くの山間部と平野部の中間あたりを堅実に攻めていた日本の遣欧総軍以外は、とても攻勢に出れる状態にはなくなっていました。 そしてこれは、反撃準備の整ったドイツ軍の反撃を呼び込むことになります。
「ヴェスト・シュトルム」。これが、ドイツ軍が反撃作戦に与えた名前でした。往年のフランスでの電撃戦の再現を願って付けられたと言われますが、この西の嵐は文字通り連合国に鋼鉄の嵐を直撃させる事になります。 この作戦に際して、ドイツ国防軍最高司令部は、西方軍の総指揮権を泥沼のロシアから帰還して一時的に静養していたマンシュタイン元帥に委ね、彼の配下に国防軍の2個軍集団と武装SSすら組込み全てを彼の優れた手腕に委ねることとしました。
マンシュタイン将軍が選んだ反撃作戦は、平野部に展開する連合国軍の1〜2個軍に対し、他の兵力を抑えている間に三倍の機動兵力を叩きつけて二ヵ所からの戦線突破で包囲殲滅し、彼らの戦線を徹底的にかき乱し、彼らの進撃を半年遅くさせるのを基本案としていました。 こうして文章にまとめてしまうと実に堅実で単純な作戦のようにも思えますが、この時期の連合国とドイツ軍の主に航空戦力の兵力差を考えれば、これだけの作戦を準備し実現までこぎつけた彼の手腕とドイツ軍の努力は並大抵でないと言えるでしょう。 この時期連合国側は、後方で活発な兵力移動があることぐらいは何となく掴んでいましたが、ドイツ軍がこれほどアクティブな行動に出ることを全く予期していなかったため、ほぼ奇襲に近い形でこの攻勢を迎えることになります。 物量で勝る連合国側は、自らの無茶な失敗でドイツに反撃のスキを与えていたことを理解していなかったのです。 または、ヒトラー暗殺未遂がこんなところに影響しているとは全く予測できなかったとも言えるでしょう。
さて、マンシュタインが目をつけた二つの突破口は、一つは英第21軍集団モンゴメリー将軍の横やりから、北部に移動している米第9軍と米第12軍集団の米第1軍との軍境界線。ここは第9軍が北寄りに位置している事から、軍同士の境界線で兵力が少し薄くなっていました。 また、もう一つは、米第12軍集団の米第1軍と米第3軍の間です。こちらは、パットン将軍率いる第3軍の強引な進撃と第1軍の堅実な進撃により戦線各所でほころびを、特に境界線の辺りでの戦線の隙間を見せているのが選ばれた理由とされています。 そして、その間にあるホッジズ将軍率いる米第1軍こそが、今回の生贄とされました。米第1軍は、総数13個師団にもおよぶ、機甲師団数個を抱える大規模な部隊でしたが、これを完全に撃破できればその効果は計り知れないと見られました。 このため、この攻勢作戦にはこの米第1軍を直接攻撃する部隊だけで機甲部隊ばかりが4個軍・40個師団が用意され、さらに局地的制空権を獲得するためにルフト・ヴァッフェも全面的に協力することになります。 戦術的勝利による一時的戦略的優位の獲得。 これが今回の目的であり、これほど大規模な作戦であるにも関らず、どこまでも堅実でした。 これがもしヒトラー総統が作戦に関ったのなら、何か目に見える政治的目標を掲げてしまい、作戦目標が大きくなり、無理な作戦とって失敗する可能性も極めて高かったと言われています。 ですが、ドイツ国防軍は、西部戦線に展開する1割以上の陸上兵力を完全に撃滅すること、これにより一時的な戦略的な優位を得ることを目的としてこの作戦を立案しました。 確かに、半年すれば両洋からさらに巨大な兵団が欧州に派遣され、ドイツの苦境はさらに厳しくなり、戦争は容易ならざる事態になるでしょうが、ドイツは一つの可能性に賭けたのです。 それは、誰にでも理解できる決戦という儀式により戦争終結を図るという、欧州的戦争の結末を演出できる可能性です。 また、ドイツ本土に攻め込むことがいかに高い通行税を払うことになるかを連合国側に教えることも重要視されており、そのため極端ともいえる兵力集中による短期包囲殲滅作戦が立案されたのです。 なお、やや山間部よりを進撃していた日本軍は、地形的に撃破が困難と判断された事から最初から対象とされず、彼らの前面に展開する「J」軍集団の半数に戦力の拘束と決して戦線突破させない事だけが命令されただけでした。
1944年12月25日、欧州を覆っていた大規模な低気圧が去ったまさにその瞬間作戦が開始されました。 作戦はまず空軍による敵戦術航空基地の奇襲・強襲攻撃から始まります。 一度に1000機以上の航空機、しかも東部戦線から引き抜いた歴戦の航空隊すら投入して行われた、ドイツ空軍にとっての久しぶりの空からの大攻勢は、戦略的意味での奇襲には大成功し、一時的に連合国空軍を大混乱に陥れることに成功します。 しかも、この攻撃には多数のジェット戦闘機、ジェット爆撃機が投入されており、これによる前線将兵への物的・心理的ダメージも無視できませんでした。 この航空奇襲にルフト・ヴァッフェは、後方で再編成されこの作戦まで温存されていた完全編成の2個航空艦隊が、西方に討って出るドイツ陸軍の上に展開させ、さらに全般支援でさらに1個航空艦隊を参加させていました。 つまり、総数2000機もの航空機が限られた戦域に投入されたのです。これは同地域に展開している、または進出可能な連合国の空軍戦力を凌駕する数字であり、このため各前線は大混乱に陥ると共に、物理的にも大きなダメージを受けることとなりました。 そして、地上侵攻もほぼ同時に始められます。 そこら中から集められた重砲とロケット砲による数時間の弾幕射撃の後、ドイツの誇る装甲部隊が往年もかくやという電撃戦を再開した瞬間でした。 ドイツ軍の先鋒を進撃していたのは、北部方面戦区がSS第6装甲軍に属する5個師団もの装甲師団と装甲擲弾兵師団から編成された重厚な装甲部隊です。この兵団は先頭に「ティーゲルII」から編成された独立重戦車大隊2つを充てており、自らの重戦車中隊と共に圧倒的な破砕力でホッジズ将軍の米第1軍の第一線を粉砕します。 また、南部方面戦区を進撃していたのは国防軍ばかりの部隊でしたが、こちらも東部戦線から引き抜いたGD(グロス・ドイッチュラント)軍団(GD、FH師団基幹)が先頭を進撃しており、親衛隊と同様に独立重戦車大隊を先頭に押し立てた強引な突破破砕戦闘を行いつつ、第一線を突き抜けていきました。
戦術的な作戦そのものは、マンシュタイン将軍や東部戦線から駆けつけた部隊将兵にとっては、ソ連戦で行った戦いの焼き直しのようなもので、制空権の獲得も空軍が頑張っていたことから比較的安全だった事もあり、作戦開始1週間で後一歩で米第一軍を包囲殲滅できるところまできていました。 ウラルから送られてくる原油はウクライナで精製された後、虎や豹たちの胃袋を十分満たしていたからこそ継続できた強引な進撃と言えるでしょう。また、連合国のと言うより米軍のこの当時保有する装甲車両では、「ティーゲルI」、「ティーゲルII」、「パンターG」と言った戦車を撃破するにはキルレシオ1対3以下という戦いに勝利せねばならず、しかもドイツ軍の各師団は、それが歩兵師団であっても「ヤクート・パンター」や「IV号突撃砲」、「III号突撃砲」などの対戦車装甲車両を装備するようになっており、全体の前面での装甲兵力が大きくドイツ側に傾いていた事もこのドイツ軍の進撃に大きく影響していました。 米軍は、これらドイツ軍の装甲車両の前に突破され蹂躙されることで、各個撃破されてしまったのです。 そして、北部は米第9軍と英第21軍集団が兵力の過度の集中から自ら渋滞を引き起こして対応できるまとまった兵力を確保できず、パットンの米第3軍も隣接していた一部師団がドイツ軍の攻撃で一時的に壊滅しており、またそれまでの無理な攻撃が祟ってドイツ軍精鋭に対抗できる戦力ではありませんでした。 そして、米第12軍集団のさらに南に位置する日本遣欧総軍は、兵力こそまとまっていましたし、位置的な問題からドイツ軍の攻撃にさらされていない事から混乱にも巻き込まれていませんでしたが、救援すべき友軍の間にさらに友軍の混乱した大軍が陣取っていてはそちらへの移動もままならず、また位置的にも遠い事からこの戦いでは大半の日本軍部隊は傍観者で過ごすことになります。 また、空軍は全力を以て救援活動を行いましたが、ドイツ軍が予備兵力を根こそぎ投入したのではと思わせる空軍部隊の前に苦戦を強いられ、犠牲の割には効率は上がらず、たまりかねて後方兵站破壊のために投入された「B-17」の群は、待ちかまえる各種防空戦闘機の前に大損害を受け、それ以後この一連の戦闘での空軍全体の活動を心理的に停滞させる直接的な原因となりました。
戦闘は1945年の新年を迎えようとしている時ピークをその迎え、ドイツ軍が遮二無二包囲しようとするのを連合国側が懸命に阻止し、できうるなら突進してきたドイツ軍を反対に戦略的に包囲しようとするという形の戦闘になり、単一の目標にのみ突き進んだドイツ軍が目的を達する事になります。 この戦闘により米第3軍は、友軍を救おうと劣勢な兵力ながら果敢に救援活動を行いましたが、ここでドイツ国防軍精鋭と激突することになり救出が成功しないばかりか、反対に大きな損害を受け、連合国司令部に戦略的包囲をあきらめさせる事になりました。 また、前線から引き抜かれた日本軍の精鋭部隊が臨時に米第12軍集団に編入されましたが、彼らが戦場に到着した時には、ドイツ軍は去った後でした。
そう、この一時的な優勢が極端な兵力集中により現出され、いずれは押し返される事を重々承知していたドイツ国防軍司令部は、予定通り米第一軍の撃滅だけを愚直に行ない、これが達成されると一部戦略的に必要とされる地域を除いて、全てから撤退を行ないジークフリート要塞線、もしくはライン川の東側に去っていきました。 「ヴェスト・シュトルム」は過ぎ去ったのです。 10個師団もの全滅という被害を残して。 時に1945年1月8日の事でした。
1945年を迎えようとしていたこの時、連合国側は第一線に約110個師団もの兵力を展開し、推定70個(実質40個程度の戦力)の師団を展開するドイツ軍に対して圧倒的な圧力を与えていると考えられていました。 しかし、この作戦により10個師団が編成表から姿を消し、8個師団が軍事的に全滅と言ってよいダメージを受け、その他もろもろを合せると全軍の2割が数ヵ月復帰不能になっていました。特に10個師団が消えた穴は大きく、丸々1個軍を失った米第12軍は第3軍の損害の大きさもあり、一旦後方に下がらなければどうにもならない程のダメージを受けていたのです。 そして、この冬から春にかけての間、連合国軍は戦線の再構築に終始せざるをえなくなり、予定していたドイツ本土への侵攻は全く絵に描いた餅となりました。 一方ドイツ軍の損害は、作戦に直接参加した部隊の大半が軍事的には攻勢不可能と言えるダメージを受けていましたが、連合国軍の本格的な逆襲を受ける前に後退できた事もあり補充だけで十分対応できる程度の損害しか受けていませんでした。 この点からも連合国側のドイツ本土侵攻は極めて難しいものとなっていたと言えるでしょう。 そして、1944年秋1対2以上と見られていた兵力差は、1対1.5以下に下がっていたのです。