■停戦

 1945年春から、連合国は西部戦線での失敗を取り戻そうと懸命に攻勢を繰り返しました。
 1945年1月の日本軍主体によるギリシア解放、1945年3月の英米軍によるノルウェー解放作戦などがそれです。
 これらの作戦は、連合国側が絶対的と言えるレベルの海洋戦力を保持していた事と、ドイツ軍の努力が主にフランス正面と東部戦線の維持に置かれていた事、そしてドイツ軍がギリギリ妥協できる戦略地域だった事から順調に進み、どちらも作戦開始から3週間程度で同地域を実質的に解放するに至りました。
 ですがそれは、ドイツ包囲網を狭めようとすると言うよりは、連合国側が海洋コントロール(狭義の解釈では制海権の獲得)に必要な地域を戦争が終るまでに獲得しておこうと慌てて行った作戦と見れなくもない程急いで行われました。たとえそれが事前の計画で進められていたものだとしても、当時の人々をしてそう思わせました。
 そして、実際水面下では、連合国と枢軸国(ドイツ)との間で、停戦と講和に関する秘密交渉が中立国などで進められる事になります。

 戦争もいよいよクライマックスというこの時期になぜそうなったのか? 理由はいくつかありました。
 一つは、これが最も政治的に重要でしたが、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが死に瀕していたからです。
 前年の7月の暗殺未遂で重傷を負ってから、その傷がもとで非常に衰弱しており、もう余命いくばくもないと言う確度の高い情報が、ドイツの講和しようとする側から連合国に知らされていたのです。
 これは、ドイツの一部の人間にとって残念な事に事実であり、どれほど手を尽くそうとも1945年の夏までは持たないのは確実でした。
 そして、皮肉なことにそれを知ったナチス幹部の次世代の総統の椅子を巡っての暗闘が、これをヒトラーから隔離されていた停戦派や戦争に批判的な国防軍に自国の元首の現状を知らせることになったのです。
 次も重要でしたが、ドイツ軍の軍事力が主に西欧正面である程度復活しつつあり、連合国側がこれを破りベルリンに進むために必要とされる兵力が、1944年の失敗の前の最低2倍は必要と考えられるようになっていた事です。そして、それだけの兵力は1945年秋以降にならねば用意できそうになく、その時にはドイツ軍はさらに防衛体制を固めていると見られていました。
 これは、火の車のドイツの戦時経済はともかく、東欧の奥地やウクライナに疎開してしまったドイツの工場から吐き出される兵器の数々、ウクライナから算出される様々な資源、疎開工場で生産される兵器、バクーからはるばる運ばれてくる石油、そしてそれらにより、再建された空軍の活動は活発化し、陸軍も新装備を受領して装備面では大きく改善され、日英米が懸命になって行っている戦略爆撃の効果が非常に低いものになり、地上兵力においても劣勢とは言わないまでも、大陸反攻を始めた時のような優勢を確保できそうにはありませんでした。
 特に大量の高性能レシプロ機や各種ジェット戦闘機が一般的に配備されるようになると、いかに1000機爆撃だろうとも「B-17」による昼間爆撃は自殺行為とすら言える状態に悪化していました。もちろん、夜間爆撃も新型爆撃機を投入してさえ1942年前半程度のレベルを維持するのが精いっぱいで、とても爆撃でドイツを吹き飛ばせそうにはありませんし、戦術的な制空権も揺らいでいる中での大規模な地上侵攻など選択できる筈もありませんでした。

 もちろん、戦争そのものはアメリカが参戦し各国の戦時経済も健全でしたから、やろうと思えばあと2〜3年の継続は可能でしたが、表面的な戦争目的からすればヒトラーが死にドイツが多少なりともまともな政府に戻り、枢軸側が各国の領土を返還するなら、ファシズム打倒と言う目的も薄れてしまい、特にアメリカなどは目的を失う事になります。
 しかも悪い事に、冬での戦いのダメージが米国民の間に厭戦気分を醸成させるようになっており、5年以上も欧州で戦い続けている日本でも、いつまで欧州などに大軍を派遣しているのかという風潮ができつつあり、何か大きな政治的衝撃があれば世論が停戦に傾く可能性が高いという状態でした。

 戦線膠着状態での戦争指導者の死。
 しかも、戦争の決着のための区切りとしての戦闘はすでに終了済み。
 相手を無条件降伏させるまで戦うという意思を連合国側がこの時点でも一度も提示していない以上、戦争の幕引きを行うのならちょうどよい機会と言えました。
 しかも、アメリカ以外の国は戦争目的を達成している事もこの状態を後押ししていました。
 ドイツは、全周を敵に囲まれ抱えて苦しんでいましたが、最大の目的であった欧州ロシアを自らの勢力圏に組込み理性的には一刻も早く停戦したいと考えており、日英は世界のシーレーンの維持を大筋において達成していましたし、それまでの外交的懸案だったアメリカとの関係も大きく改善しました。
 そしてアメリカとしても、西欧全域とは言いませんが、西欧の過半は連合国側の勢力圏となり、ドイツに蹂躙された国の解放もほとんど終って、一応自分たちの欧州進出のための橋頭堡も確保できたので、ギリギリ納得できる状態です。

 かくして、双方は次なる作戦の準備だけを進みつつも秘密交渉を進め、とりあえずは政治的激変となる欧州を大混乱に陥れた男の死を待つこととしました。
 そしてそれは、意外に早く訪れます。

 1945年4月30日から5月1日に日付が変わろうというその時、歴史を激しく動かした一人の男は、自ら望んだ激動の人生からすれば実に静かに息を引き取りました。
 そして、その最後にある人物を自分の後継者に指名する事を最後の仕事とし、それはドイツと世界にちょっとした混乱をもたらす事になります。
 初代総統から、二代目に指名された男の名はエルウィン・ロンメル。
 当時最も有名なドイツの宿将の一人です。
 彼はヒトラー政権の間、ヒトラーのお気に入りの将軍(しかも常に前線指揮官)であり続け、この指名があった時もライン川東岸で西方軍の軍集団の一つを指揮していましたが、総統のお気に入りの中でも最も出世していた事が今回の指名につながったと言われています。
 そして彼も、初代総統の遺志であるならそれを受入れるべきだと言う見解を示し、政府、ナチス党はもとより国防軍、親衛隊にも協力を要請しました。
 もっとも国民の多くは、この苦難の時にあり常勝将軍の二代目総統就任を非常に好意的に受け止め、熱烈な歓迎の意思を示しました。
 そして、政府・軍部もまずヒトラーに心酔しているか、ロンメルに好意的な者たちが支持に回り、次の政権を狙っていた親衛隊とナチス党も国民人気と彼が国防軍主流でない事から支持し、最後まで難色を示した国防軍も世論に押される形で受入れる姿勢を示しました。
 戦時にあって、国民の総意に基づいて就任した国家元首。
 自由民主国家ですら難しい、どのような国でも必ず反対派があるのにそれが表面的に見受けられない状態。しかも、それを比較的容易く成し遂げたのが全体主義国家というのは、非常に皮肉な現実と言えるでしょう。
 ちなみに、次席候補は海軍のデーニッツ提督だったと言われていますが、彼は晩年まで海軍以外の政治に深く関る事はありませんでした。

 ドイツ二代目総統エルウィン・ロンメル。
 彼の最初の大仕事は、ドイツ防衛の指揮と連合国との停戦の模索でした。
 どちらも一筋縄ではいかない事柄でしたが、彼は前線指揮官としての持ち前の積極果敢さと楽観性によりそれをこなしていく事になります。
 ただし国防の全権に関しては、国防軍の彼を総統として認める代わりの強い要請により総統の仕事からは基本的に切り離され、総統は本来の政治にのみ集中する事になります。
 このため、軍の指揮権は国防軍の手に握られる事になり、二代目総統の軍の一部指揮能力に強い懸念を持っていた軍関係者を安心させる事になったと言われます。
 そして、ロンメル総統は、精力的に連合国との停戦・講和の活動を開始しました。

 ドイツが当初連合国との停戦に対して提示した条件は以下のようになります。

・全ての交戦国との即時停戦の実施
・現在の戦線を基本とした停戦ラインと緩衝地帯の設定

これを受けて
・講和会議の開催

そして、その席上にて
・ドイツなど枢軸国による欧州ロシア地域の併合の承認
・ドイツ主導の東欧各国の独立復帰
・新たな国境線の確定
・双方戦時賠償は求めない

 基本的には、これがドイツが示したガイドラインとなっていました。
 これを見た各国は様々な反応を示します。
 一番反対したのは、当然と言うべきかドイツに多くの領土を奪われ何とか首の皮一枚でつながっているソ連で、ついで枢軸国側にいまだ占領されている各自由政府、そしてつい最近までドイツの軍門に下っていたフランスなどの西欧諸国です。
 次に、これでは何も解決しないとアメリカも強く反対し、英国も現実を受入れる覚悟はしていましたが、あまり良い顔はしませんでした。
 まあ、そんなものだろうと納得して、こちらも交渉としての条件を提示すべきだとしたのは、日本を始めとするアジアからの参戦諸国で、彼らはソ連の勢力を復活させないためにもドイツと停戦・講和し、自分たちの覇権の維持のために利用すべきだと訴えました。
 ハッキリ言ってしまえば、もともと日本ですら英国との外交関係から戦争に深く首を突っ込んだだけで、欧州での戦争そのものにはあまり関心はなく、中華大陸での内戦とギリギリ共産主義国が生き残った事で、戦後世界のアジアに不安を感じていたからに他なりませんでした。
 そして、個々の国の事や気分的なものはともかく、戦略的な目的は維持できており、戦争を終らせる事ができるのなら早々にも幕を引きたいと考えていた英国も、徐々に停戦の方向に流れていきました。こうなると、基本的に外様であり後から参戦したアメリカがそれ程大きな事を言えるはずもなく、スポンサーがもう止めようと言っているのに、自由政府の面々や独立を回復したばかりの国がいかに叫ぼうとも虚しい響きだけが木霊することになります。

 ドイツと連合国との水面下での交渉は、6月から開始されたソ連軍による無理な攻勢作戦が失敗すると活発化し、7月に入ると何だかんだと理由を付けて西欧での攻勢に出ない連合国軍の意図をくみ取った市民の間にすら、もうすぐ戦争が終るのだと実感させるようになります。
 そして1945年7月28日、ロンドンから全世界に向けての放送が行われました。
 要約すれば、連合国はドイツが占領地域の軍隊を撤退させ、独立を復帰をさせるのであるなら、停戦に応じる意思があると言う内容です。
 これを世界史的には「ロンドン宣言」と呼びます。
 なお、この宣言にソ連政府は参加しておらず、ウラルの奥地からの放送はドイツとの徹底抗戦を叫ぶと共に、連合国、主に日英をなじる内容となりました。
 なお、ドイツ新政府も1945年8月1日ロンメル総統の名において停戦に応える意思がある事を放送にて示しました。
 ドイツの返答に数日の間があったのは、占領地域の独立復帰を連合国側が明確にうたっていた事で一悶着あったからですが、これはソ連が宣言に従わない意思をこれ以上はないぐらい明確にしめした事で、欧州ロシアは何とかなりそうだと感じさせ、停戦反対派を一応納得させる事になり、それに必要とした時間がこの数日間だったのです。
 そして双方にて早急に話し合いの場がもたれ、1945年8月15日午前12時を以て停戦の発効を決定し、翌9月から双方の中間地点と言えるルクセンブルグで講和会議が開かれる事になりました。

 1945年8月15日午前12時停戦発効。
 ロシア戦線では、まだ泥沼の戦争と言うよりは紛争が継続していましたが、ここに第二次世界大戦は幕を閉じました。
 それを現すかのように西部戦線の各所では、それまで戦いあっていた将兵の間で握手をするなどという光景が見られ、爆撃機の来なくなった空を見上げたドイツ国民の間にも、海洋国家群との戦争は終ったと言うことをこれ以上ないぐらい実感させていました。
 全く戦場にならず、戦争が終った事に対する実感のあまりない日本本土でも連日提灯行列でにぎわい、アメリカでも盛大なお祭り騒ぎとなっていました。
 問題はまだまだ山積みでしたが、とにかく資本主義国家にとっての戦争は終ったのです。

 翌9月3日より、各国の代表がルクセンブルグに集まっての講和会議が開催されます。
 会議には世界中から代表が集まりました。大英帝国、大日本帝国、ドイツ第三帝国、アメリカ合衆国を中心として、フランスなどの独立を復帰した国々、フィンランドなどの枢軸諸国、中華民国などの日英以上の外様国家、インドなどの新独立国、そしていまだドイツの占領下にある東欧の自由政府。異色なのが、ドイツと連合国がそれぞれ正統性を主張するイタリア。
 ドイツといまだ抗戦を継続しているソヴィエト連邦すら、連合国の一員として代表を送り込んでいました。

 会議は当初から紛糾します。
 ドイツと連合国各国との意見が大きく食い違っていたのですから、その混乱はむしろ当然と言えるでしょう。
 しかし、ソ連以外はすでに矛を収めており、これ以上戦争する意思がない以上話し合いが嫌だからと戦争を再開するわけにもいかず、不健康な交渉が歴史あるルクセンブルグの街で行われました。
 そして、結末は実に欧州的と言えるもので、そういう政治的風習のなじまない欧州以外の国々を呆れさせる事になります。

 もちろん、連合国が譲らなかった最低限度の事は約束されました。
 ドイツ・枢軸国は、現在今だ交戦中のウラル戦線以外の全ての占領地域から撤退する。
 ドイツや枢軸国が1938年以後併合したり占領している地域については国民投票で帰属を決定する。
 しかるべき時期に軍縮会議を開催する。

 といった事柄です。
 しかし、それ以外となると結局ライン川からウラル山脈の手前までの地域全てはドイツの政治的勢力圏であることが認められた形となり、日英は世界の海洋通商路の全てを保持する事になり、アメリカも日英陣営に政治的・経済的に参加する事でそれを享受する事とし、少なくとも戦争主催者と言ってよい大国は、それが互いに交戦国であったとしてもそれなりに満足する結果になりました。
 さらに、旧大国であるフランス、オランダなども取りあえず独立復帰していたため現状を受入れ、戦争で独立を勝ち取った国々については言うまでもなく、その他の弱小国家もわめきたてたところでこれ以上何も変化しない事が分かり切っていたので、それぞれの陣営で生きていく事を決意せざるをえなくなりました。
 ただ、肥沃な領土の過半を奪われたロシア人だけが全く納得していませんでしたが、もともと侵略的傾向の強い民族による共産主義国家という民族的感情面と現実政治から必要以上にソ連を擁護するものはなく、そのままなし崩し的にドイツとの慢性的な国境紛争状態へと移行していくことになり、国力の低下から国際政治からも取り残されていきました。

 1946年3月、「ルクセンブルク講和会議」は終了し、これ以後の時代を「ルクセンブルグ体制」と呼ぶようになります。
 しかし、この戦争で本当に利益を得たのは誰か?
 それは、ロシア人との慢性的紛争を抱えつつも『生存権』の確立に成功したドイツ人、日英と仲直りし国際復帰をはたし、以後の資本主義世界に大きな影響力を行使する権利を得たアメリカ人、勢力圏の維持にかろうじて成功したイギリス人のどれでもありませんでした。
 戦争開始当初、世界第5位程度の国力とその倍ぐらい低い国際的地位しかないとされていた大日本帝国と言えるのではないでしょうか。
 欧州大戦による旧植民地列強の没落、ソ連など共産勢力の著しい減退、日本自身の経済的、政治的大躍進により、戦争とその総決算たる講和会議が終了してみるとそれが明らかになってきます。
 工業力生産はアメリカ、ドイツに次いで第三位、全体の経済力も米、英、独に次ぐ位置につくまでに大きくなっており、軍事力については陸軍を含めても五指、海軍単独であるなら世界最強と自他共に認める強大さで(ただし、最大ではない)、しかもそれは国の持つ体力に裏打ちされた力に変化し、世界中が欧州に注目している間にアジアからインド洋にかけての自らの勢力の著しい浸透に成功しており、第二次世界大戦の終了と共に始まったとすら言える東南アジア各国の独立の裏には常に日本の影がつきまとっていても、英米と裏取引していた事からこれに表立って文句を言う、言える国はどこにもありませんでした。
 ですから、この欧州大戦での日本の目的は、アメリカが国際復帰と欧州での覇権の拡大にあったとするなら、アジアでの覇権の確立であったと言われ、それは現在の状況を見るに概ね事実であると言えるでしょう。
 ただ、戦争で一番利益を享受したのが日本であったとしても、その後戦後世界をリードできたかと言えば、その判断は難しいところでしょう。
 それはアメリカの経済力に裏打ちされた台頭があったからです。
 戦後のアメリカは、軍事力や政治的圧力ではなく、自国の強大な経済力を最大の力として用いて西側資本主義世界での地位を高め、西欧の復興に最も物理的に貢献し、その経済力をもって西欧での指導的地位を凋落著しい英国から奪い、日本も経済的な影響力となるとアジア地域への影響力行使が限界であり、植民地独立問題で関係悪化している西欧でアメリカと争うだけの体力はありませんでした。
 そして英米協調が進む中、表面的には日英米(仏)主導による資本主義世界といわれながらも、アメリカの台頭を許すことになっていました。
 もちろん、日本本土、周辺直轄地域(台湾・樺太・カムチャッカなど)、満州、南洋などの領土の面積(意外かも知れないが全てを合せればアメリカの5分の1程度はあった)、そしてそこに内包された大人口(1960年頃で本土1億、周辺地域2000万、満州5000万)により1960年代にはアメリカの三分の二にあたる巨大な国力と順調な発展による経済力(世界10=米3・独・2・日2・英1・その他2)を保持するようになっていましたし、依然として最強海軍の保持には努力が重ねられていた事もあり、アジアの盟主としての地位は盤石でしたが、世界の盟主となるとアングロ国家であるアメリカの台頭を止めるには至らなかったのです。

 「世界の主催者(ワールド・オーナー)」イギリス、「世界の警察官(テラ・ザ・シェリフ)」アメリカ、「欧州の霸王(デア・カイザー)」ドイツ、「アジアの盟主(アジアン・キング)」日本。これはアメリカの大衆紙が名付けた俗称でしたが、これが端的な戦後の世界をリードするとされた大国の役割でした。
 そして、第二次世界大戦とその後の日米の台頭と大陸欧州のイデオロギー的分立により、「ルクセンブルグ体制」は世界が西欧主導の時代から脱却した時代だと言われるようになります。

 なお、西側勢力の最大勢力の一つとなった日本は、「ルクセンブルグ体制」での大国の義務と責務をはたすためにも軍備の維持を必要とされ、日本のアジアの盟主としての地位を維持するという大戦略もあり軍備には力が入れられ、常にGDPの1.5〜3%(国家予算の10〜20%)が軍事費に投入され、中でもインド洋からハワイ以西という広大な地域の海洋プレゼンスの維持が重要視された事から海軍の維持は可能なかぎり行われることなります。
 このため、全軍事予算の常に4割が海軍に割り当てられ(陸、空軍はそれぞれ3割)、依然として保持されている戦艦はもとより、何隻もの大型空母や原子力潜水艦が整備され、その任務を果たすことになります。
 そして、その海軍の中にあり、1940年代までに多数整備された戦艦たちは、20世紀も終ろうとしている頃戦艦「大和」、「武蔵」以外、『八八艦隊』として整備された16隻もの戦艦たちは1隻も戦没せず、そのどれもが静かな晩年を迎えるか、同様の栄光に包まれている「三笠」などと共に記念艦として静かに余生を送っています。
 そして、各地の軍港の片隅で過ごす彼女達の存在こそが、明治以来の近代日本の頂点を示す象徴の一つであり、日本がかつて、そして今も強大な海軍を保持する国家である事を教える一つの歴史的遺物にして記念碑と言えるでしょう。

END

●あとがきのようなもの