■欧州大戦勃発
ノモンハン事件による極東での緊張をよそに、ついに1939年9月、ドイツ第三帝国はポーランドに侵攻。これに対して英仏はロクに戦争準備もできていないのに宣戦を布告。第二次世界大戦が勃発します。 すわ大変です。大切な同盟者の大英帝国が、ドイツに宣戦布告してしまいました。これにより、太平洋戦争後の1936年に改訂された日英同盟条項に従って日本も自動的に対ドイツ開戦です。 日米の戦争に懲りて同盟条項を改訂したのが、日本にとって仇となる形になってしまったのです。 しかもこの時の英国は、殆ど日本の了解を得ずしてドイツに対して最後通告を送り、この事に日本政府は英国に対する憤りを大きくする事になりますが、それは表面に出さずむしろ積極的に戦争に協力する姿勢を示します。 それは、日本政府の基本方針が、対英追従外交に他ならないからです。「いざ、鎌倉!」とばかりに戦争の準備を始めます。 なお、日本政府も欧州の動向を英国から詳細に教えられていた事に加えて、ノモンハン事変により一気にソ連との緊張が高まっていた事から、日本軍は陸海ともに実質的には準戦時体制に移行しており、さらに独ソが不可侵条約を結んだ事で日本国内における緊張が頂点に達していたことなどから、実のところ反枢軸陣営では一番開戦準備が整っている状態となります。 また、4年前に戦争をおこなったばかりで、政府、軍部そして国民も、欧州よりは戦争に対する緊張状態を維持しており、それも早期に日本が戦争に対応できた一因となります。
そして日本政府は、今回の英国の対独戦争に対して、太平洋戦争などそれまでの借りを返す絶好の機会と捉え、さらにそればかりでなくさらに恩を売り、英国から利権を引きずり出す事すら考えており、そのため英国が内示してきた戦力よりも大きな戦力を欧州に派遣する意志があることを伝えます。そればかりか、日本からどの程度の協力が出来るかも明確に伝え、英国を困惑すらさせるほどの積極姿勢を示します。 なお、日本政府がこれほど積極姿勢を示したのは、決定的な短期決戦か、さもなくば圧倒的軍事力の展開による恫喝で、ドイツとの早期停戦が実現できないかと考えていたからだ。 それは、1940年に開催が予定されていた「東京オリンピック」を何としても開催したかったからと言う、ある種滑稽な理由があったからです。 しかし、戦争当初に大英帝国が日本に求めたのは、アジア・太平洋地域の制海権の単独での維持は当然として、それ以外はせいぜいインドまでの通商航路の護衛などでした。 ただし、日本が欧州に派遣しても良いと言った戦力には非常に興味を持ち、ただちにその準備をして欲しいと言ってくることになります。 これは、日本が提示した戦力の中身が、多数の高速戦艦と航空母艦、そして一個航空戦隊にもおよぶ基地航空戦力だったからです。 当時の英国は、殊の外ドイツの空軍力を恐れており、この日本の申し出は願ったり適ったりと言うわけです。しかも、英国はこの戦力が日本政府が余裕を見込んで言った数字であることを、自慢の外交力と諜報力でつかみ、年内にもこの倍以上もの戦力を日本から引き出す事に成功します。 そして、1940年に入るまでに日本が派兵を決定した戦力は、戦艦7隻、正規空母2隻、軽空母2隻を基幹とする大艦隊と、500機にもおよぶ海軍航空隊のほぼ半数にも及びます。ただし、対ソ戦備のために陸軍の派遣は当面見合わされ、その代わり海軍の特別陸戦隊が約一個旅団規模派遣される事になります。なお、以後これらの兵力は、以後「遣欧艦隊」と呼ばれる事になります。 また、その補給と施設の提供は英国が、ほぼ全面的にバックアップする事が条件でしたが、その半年後にこの英断(?)が大英帝国を救うことになります。
なお日本政府は、ドイツとの戦争が勃発すると、ソ連との積極的な外交を展開します。それは、もちろんノモンハン事変を早期に完全に解決するためです。対するソ連もバルト三国やフィンランドに対する出兵を決定した事から、日本のこの提案に乗り世界が全く注目しない中、日ソの妥協が成立します。 妥協の結果は、「旧来と変化なし」です。もともとノモンハン事変が、日ソ双方の軍事的デモンストレーションの場だった以上、日ソともモンゴルの僻地の事など、ほとんどどうでもよかったと言うことです。
こうして、日本はなぜか連合国でいの一番に戦備を整え、さっさと欧州に兵力の派遣を始めます。 派遣が開始されるのは1939年10月。この時にはポーランドが独ソに分割されてしまい、日本人にとってはまことに不思議な事に戦火は下火となります。かと言って、停戦の機運が出てくるわけでもありません。 しかし、遠方への大軍の派遣という難題に挑んでいる海軍としては、そうしたチョットした情勢の変化だけで行動を停滞させたり、ましてや派兵を中止する訳にもいかず、また政府からも特に何も言ってこないので、誠に日本的体質ながら、着々と欧州に駒を進めて行くことになります。 そしてあまり戦争の逼迫感のない英国本土に、1940年の年が明ける頃には、遣欧艦隊と海軍航空隊の先遣部隊が到着し、なぜか英国民に冷ややかな目で見られながら、英軍の指揮下に入り活動を開始します。 その後も続々と兵力の移動は続き、それなりにドイツのUボートに悩まされつつも、春を迎える頃には第一波派遣部隊の移動が完了します。 それと平行して日本国内の戦時体制への移行も進み、軍備の増強と各種物資の増産も開始されます。 特に消耗が予想される輸送船舶と護衛艦艇、航空機の増産に力点が置かれ、敵がドイツと言う事もあり、また当面アメリカの海軍力が復活すると言うこともなさそうなので、大型艦艇の建造は必然的にローペースとなります。 なお、欧州に派遣されない海軍部隊も、英国との約束に従い英国に代わりアジア・インド洋の制海権維持を肩代わりしていき、それに引き継がれる形で大英帝国海軍も欧州と地中海に兵力の集中を進めます。 こうした中で欧州の情勢が激変します。 それは、ポーランドを制圧し一時停滞していたドイツ軍の活動が再び活発になったからです。 しかも、海軍と空軍が全力を挙げてノルウェーに侵攻を開始した事は、欧州連合国にとっては驚きの大きなものとなります。 それは、ほぼ同時期に英仏もノルウェーへの派兵を行っていたからです。ただし、英仏の作戦はドイツと比較すれば中途半端なものであり、この差がドイツがノルウェーを征する事になります。 なお、はるばる欧州までやってきた日本軍でしたが、まずは土地に慣れることが第一とされ、ノルウェー作戦においても当初は全く蚊帳の外に置かれます。これは当然と言えば、当然の事でしょう。しかし、ノルウェーの戦況が逼迫すると、スカパ・フローで遊んでいる強力な日本艦隊と、1000km以上の侵攻距離を誇る航空隊に目を付けたあくの強い海軍大臣の強い要請により、急遽作戦に参加する事となります。 これをむしろ待ちかまえていた日本海軍遣欧艦隊は、海空戦力共に勇躍出撃します。 しかし、航空隊は護衛の戦闘機を随伴できなかった事から、攻撃の主力を成していた96中攻が大きな損害を受けることになり、今後の作戦に対する重大な戦訓を得る事になります。 また、海軍の方も英国との連絡が十分できず、また霧など視界を妨げる事の多い地域での海上戦闘がいかに難しいかを実感させることとなり、殆ど戦果をあげる事はありませんでしたが、その後の事を考えると非常に大きな成果を得ることになります。 そして双方の結果は直ちに本国に伝えられ、前者は新型戦闘機が増加試作の段階にあったにも関わらず派遣が決定され、後者については英国からの技術支援もあり、また英国も日本の兵力を求めていた事から早期に電探技術が発展・実戦化する事になります。 なお、大英帝国では、このノルウェーでの敗北のさなか、海軍大臣だったウィンストン・チャーチルが挙国一致内閣の首班となります。
しかし、欧州でのドイツの攻勢はノルウェーだけに止まりませんでした。 1940年5月10日、ドイツがついにフランスをはじめとする西欧への侵攻を始めるからです。 ドイツ軍は、奇襲と呼んでよい矢継ぎ早の戦争展開と、連合国のミスに付け入るような形で勝利を積み重ね、たった二ヶ月でフランス、ベネルクス三国、デンマーク、ノルウェーを軍門に下し、英国も風前の灯火に見えるまで追いつめる事に成功します。 このさなかにあって、日本軍は陸での戦いと言う事と、ノルウェー作戦の影響による再編成と整備のため、全くこれに貢献する事ができませんでしたが、ドーバーに追いつめられた英仏軍を救うために英国が「ダイナモ」作戦を決定し、5月26日から6月2日の通称「ダンケルクの奇蹟」において、海軍航空隊が参加する事になります。 この時までに欧州本土に進出していた日本海軍機は、合計350機程度で、うち150機が戦闘機で構成されていましたが、英国の戦力温存戦術の一環と通信機材の不備もあり、これまで全く戦争に関与していなかったので全く無傷で、この作戦に英国が同様に温存していた「スピットファイア」で構成された航空隊と共に投入されます。 ここで日本海軍は史上初めて「零式艦上戦闘機」、通称「ゼロ・ファイター」の投入を行い、精鋭パイロットが操っていたことも重なって、圧倒的な戦闘力を欧州の空で見せつけ、デビューを飾ります。 なお、ダンケルクからの撤退は、英国海軍の献身的な努力もあり、33万人もの将兵の救出に成功します。ですが、フランスでの戦いは、6月22日にペタン元帥がコンピェーニュの森で休戦の調印が行われ、フランスの敗北と言う形で幕を閉じることになります。
そして、勝ちに乗じるドイツ次の目標は英本土です。 これに勝利する事で、ドイツの望む短期決戦が成就する事になるのです。 これに大きく狼狽するのは、こうした戦争を歴史的に何度も経験している当の大英帝国ではなく、日本帝国の方でした。完全な勝ち馬に乗ったはずが、早くも負けそうなのですから、この狼狽は非常に大きなものとなります。 そして、英国降伏という軍事的・政治的悲劇を避けるためにも、日本政府は英国が求めてくる前にさらなる増援戦力の派遣を、それこそ連合艦隊の全力すら派遣する事を決定し、さらに英国に対する膨大な武器、物資の援助を決定します。 特に、英国で当面必要とされる航空機に関しては、新型戦闘機が有効と判断されたのでこれの大増産につとめ、それこそ工場からできるそばから、海路ではまどろっこしいとばかりに、初期は大半が空路によって運ばれることになります。 当然この日本軍の行為は、それまでの軍事常識を完全に覆す事で、これは「零戦」の圧倒的なまでの航続性能があったからこそ可能だったですが、それを可能とした海軍の努力も大いに賞賛されるべきでしょう。 なお、「零戦」は日本本土から英国本土までの長大な距離を、日本本土=沖縄=台湾=フィリピン=インドシナ=ラングーン(ビルマ)=ボンベイ(インド)=カラチ(インド)=リヤド(サウジアラビア)=カイロ(エジプト)=マルタ=ジブラルタルと経由し、そこでようやく空母や輸送船に積み込まれ英本土へと到着しています。 その輸送路は後続も続々と続いており、一週間に一個航空隊(54機編成)が英本土へと流れ、各基地にはまるで早馬のように輸送するためのパイロットが待機し、海路を合わせて2週間で到着していました。 そして、「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる1940年7月から9月にかけての戦いで、日本海軍航空隊は大きな働きを示す事ができ、英国そして英国民から大きな信頼と感謝を寄せられることになります。 なお、この戦いの初期においてドイツ空軍が用意した航空機は、戦闘機1000機、各種爆撃機1600機であり、対して英国が用意できた戦闘機の数は900〜1000機でした。 そして日本海軍航空隊は、最初は1940年までにせっせと派遣した96式戦闘機を中心に200機程度用意していましたが、当初はその大半が戦線後方で予備戦力としておかれ、一部の戦力がノルウェーから飛来する航空機を迎撃するに止まっていました。これは、日本軍という異質な存在を英国空軍が嫌ったのではなく、装備の不手際などから英国の防空システム上で運用ができなかった事が大きな原因でした。 その後状況は戦況の逼迫に圧される形で急速に改善され、最盛時の8月13〜16日の「アドラー・ターク」では、その姿をロンドン上空のドイツ人の前で頻繁に見せるようになります。 これは、その直前の八月初頭に、日本本国から航空機を満載した海軍の第一航空戦隊の空母「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」が英国に到着した事もあり、戦闘機だけで、しかも「零戦」ばかり300機を揃えて見せ、それらの戦備が揃った時点で本格的な戦闘加入を始めます。 なお、この当時欧州には改装空母の「伊勢」、「日向」が派遣されており、これはほとんどジブラルタルから英本土への航空機の輸送時従事し、攻撃によらずこの戦闘に貢献しています。 そして、8月最後の週から始まった、ドイツ空軍による攻勢はRAFに一時壊滅的な打撃を与える事に成功しますが、この時点で日本の海軍航空隊が全力で戦闘加入し、大航続距離を利点に後方の比較的安全な場所から、司令部からの的確な指示で戦線をよく支え、8月31日に最大の危機迎えたと言われた南東部の航空基地に代わり、ロンドンの空を守る事に成功します。 なお、英国本土での戦いが落ち着くと、日本海軍航空隊も空輸と言う無茶な輸送方法をある程度改め、以後は大半のルートを海上輸送するようになります。