■地中海戦線

 1940年9月の「バトル・オブ・ブリテン」は日英同盟の勝利に終わり、ドイツは英国の空での勝利を一時諦めますが、空襲そのものを諦めたわけではなく、夜間爆撃に戦術を変えて英国空軍へ挑みます。
 一方の英国空軍も日本海軍航空隊の助けも受けつつ、こちらもドイツ本土への空襲の強化を図ります。
 もっとも、この爆撃合戦は当初は双方とも目的がやや曖昧だった事と、ドイツがこの時ソ連攻撃を決意しそちらに努力を傾倒していた事から後日ほど激しいものではありませんでした。
 一方、空襲と英本土侵攻に失敗したドイツの努力は、間接的な攻撃を狙って空襲などよりも余程効果的な「通商破壊」に向く事になります。
 これは、当時の英国側の戦術が稚拙だったこともあり極めて有効で、灰色狼は確実に撃沈ペースを挙げる事になります。
 しかし、このドイツの水面下からの脅威にひとつの光明をもたらすのは、意外な事に艦隊決戦ばかりを念頭にしていた日本海軍でした。
 それは日本海軍が、日本本土から来る護衛艦隊に可能な限り護衛のための軽空母を随伴していました。これは本来、地中海や西欧沿岸などを突破する時に、防空戦闘機を艦隊ごとに運用して空からの被害を極限させる為でしたが、戦闘機以外にも搭載していた艦攻に片手間で小型爆弾を積んで対潜警戒をさせたところ、昼間、飛行機が飛べる状態なら、潜水艦の撃沈まで至らなくとも制圧は十分可能であり、実際日本の空母が随伴した船団の被害は極めて低いレベルに抑えられます。
 これを年内に気付いた英国の指導により、対潜戦術への本格的応用研究、運用されるようになります。
 当然、ただでさえ欧州への遠征で船舶が少ないところへ、降って湧いたドイツ軍による水面下からの攻撃に悩んでいた日本海軍も、この研究を熱心に行いだします。これは、第一次世界大戦でのドイツとの戦い、太平洋戦争での合衆国との戦いの後半に受けた被害の経験を覚えていたものが多数幹部クラスにいた事が、日本海軍にしては素早い対応をさせる事になったのです。
 さらに日本海軍は、当面空母の増産を行っても配備するには時間がかかる事から、ドイツ本土空襲で被害ばかり多い自国の中攻隊を、空からの対潜哨戒の中核に据える事を提案します。
 これは、日本海軍の中攻隊がその性質上洋上飛行に熟練しており、偵察と艦艇攻撃を専門にしている事から、日英の部隊の中では最も適任だった事と、主な機材である96式中攻の航続距離が、その気になれば半日は洋上にある事ができると言う点が買われ、英国に派遣されていた機体の大半がこの任務に割り当てられる用になります。
 96式中攻の航続距離は、後期型なら直線飛行でロンドンからカナダのケベックにまで無補給で飛べ、この利点を利用して戦争初期において非常に大きな役割を果たすことになります。また、この時期に陸上機による対潜水艦戦の技術が確立され、早期にUボートを制圧するための大きな布石となります。
 もっとも、英国の爆撃機でなく96式中攻がこの任務に割り当てられたのは、長距離爆撃機としては搭載量が小さすぎ、また防御力も低い事から、欧州本土への爆撃に使うには被害対効果の点で合わなかったと言う理由が一番大きかったからです。
 この日本爆撃機の防御力不足は、後の三式陸攻、四発の「連山」の登場まで続くことになります。

 ドイツの潜水艦の被害にあえいでいた日英同盟軍でしたが、ノルウェーでの判定結果や港への偵察などから、ドイツ海軍がしばらく行動できない状態である事を掴み、この間を利用して漁夫の利を得ようとして参戦したイタリアを目標として、地中海で積極的な作戦展開に出る作戦が地中海艦隊から提案され、これに現地に先遣隊として派遣されていた日本海軍第一航空艦隊が一枚噛む事になります。
 そして地中海艦隊を率いる猛将カニンガム提督は、地中海への増援と開戦後もイタリアの主力艦隊が外洋作戦をまともに展開しない事を一つの奇禍と考え、これらに対して港湾奇襲攻撃を考案します。
 つまり、空母艦載機を利用した奇抜な作戦、「ジャッジメント」作戦です。
 一方、せっかく大艦隊を派遣したのに、ロクな戦果を挙げていない事に業を煮やしていた日本遣欧艦隊も、ドイツよりも遙かに大きな海上戦力を保持するイタリア海軍を撃滅する事を考えており、双方の政府と海軍の短い協議により共同作戦を行うことになります。
 作戦の格子は、英海軍が夜間奇襲をまず行いこれを撃破・行動不能とし、後に日本の空母部隊が黎明強襲をしかけ、これを完全に撃滅すると言うものです。
 作戦は、双方にそれなりの不満はありましたが、時間があまりなかった事もあり、各空母艦載機が低空雷撃訓練や水平爆撃訓練、急降下爆撃訓練などを行い、11月11日に決行されます。
 この時作戦に参加していた大型艦は、英国側が戦艦「St. グレゴリー」、「St. パトリック」、巡洋戦艦「フッド」、「ロドネー」、航空母艦「アークロイヤル」でした。本来なら航空母艦の「イーグル」も参加する筈でしたが、事故による損傷のため作戦には間に合わず、今回の作戦の主役たる空母は一隻だけとなります。
 一方日本艦隊は、第一航空艦隊と一部の増援を含めて、戦艦からは「愛宕」、「高雄」が、航空母艦からは正規空母ばかり「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」、「伊勢」、「日向」の5隻が参加していました。なお日本側の艦載機数は、常用だけで300機に達しており、これだけでも半個航空艦隊に匹敵し、うち半数が攻撃機だったので、これだけでこの艦隊が持つ潜在的攻撃力の高さを伺い知ることができるでしょう。
 11月11日に始まった作戦は、まず170海里まで接近した英機動部隊が、「アークロイヤル」より夜間雷撃を二波に分けて行い、この攻撃でまずタラント湾にあったイタリアの大型艦のうち、戦艦「リットリオ」、「カイオ・デュリオ」、「コンテ・ディ・カブール」が大きな損害を受けます。
 伊艦隊が大きな損害を受けたのは、英機動部隊がイタリアが敷設しているであろう防雷網を無力化するために、艦艇爆発を前提とした磁気起爆信管を用いた魚雷を使用した事が大きな原因で、他にも英雷撃隊の練度が非常に高かった事、英側の欺瞞行動が巧妙だったこと、そして何よりイタリア海軍が、空母からの航空機による夜襲をほとんど警戒していなかった事などがあります。
 そして、このタラントに対する攻撃はこれだけでなく、黎明を以てマルタ島増援船団の護衛を装っていた日本艦隊が攻撃隊を放ちます。
 攻撃隊は、第一波135機、第二波90機から構成されており、うち半数が攻撃機で、これは世界戦史上過去最大規模の空母からの攻撃隊であり、これ程の攻撃を予想できなかったイタリア海軍はさらなる痛打を浴びる事になります。
 この日本海軍の攻撃は当然のごとく強襲となりましたが、膨大な数の攻撃隊は難なくイタリア軍の防空網を突破し、英国海軍より供与された磁気魚雷、大型爆弾による水平爆撃、小型艦に的を絞った精密な急降下爆撃などにより、タラント湾に停泊するイタリア海軍主力に壊滅的な打撃を与えることに成功します。
 攻撃の結果、すでに大破していた「リットリオ」、「カイオ・デュリオ」、「コンテ・ディ・カブール」はさらに爆撃を受け全艦完全に大破着底し、夜襲で攻撃を受けなかった戦艦と重巡洋艦のほとんど全ても、被弾しその全てが大破ないしは着底する損害を受け、それ以外でも軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻、潜水艦6隻が損傷または着底する損害を受け、イタリア海軍は文字通り壊滅する事になります。
 そして一旦戦域を離脱した後も、損害が少なかった事から予備作戦を継続し、南イタリアでの日本機動部隊の攻撃は続き、シチリア島、南イタリア半島の主要な港湾の何カ所かが攻撃され、空軍基地や船舶に大きな損害を与える事になります。
 日本がこれ程の攻撃を成功させたのは、300機と言う航空機を一カ所に集中運用したからであり、対してイタリア空軍は拠点防衛のため結果として各個撃破される事となったからです。
 なお、日本のこの一連の攻撃によりイタリアは30万頓に及ぶ船舶を一気に失い、しかも大型船に被害が集中した事から、以後の海上補給に大きな支障をきたすようになります。
 ちなみに、この一時を以て、イタリアの提唱する浮沈空母論があまり根拠がないものだと、日本の航空関係者は豪語したと言われます。
 しかし、一連の攻撃を終えると圧倒的な戦力を誇る日本の機動部隊も、補給と整備そして新装備への転換のため一旦アレキサンドリアに引き上げ、日英同盟軍の地中海での動きは、しばらく停滞する事になります。
 もっとも、停滞した一番の理由は当面のイタリア海軍力を一時的に完全に撃滅したからであり、当初の作戦目的を完全に達成したからに他なりません。

 その後、エジプトに侵攻していたイタリアの大軍を英国の少数の機甲部隊がこれを殲滅することに成功し、戦線を大きく前進させ、海軍の成功と重なって少なくともこの時期の連合国を地中海で一息つかせる事になります。

 しかし、その目を圧倒的な日英の海洋戦力がひしめく地中海から大西洋に向けると、ノルウェーでの打撃から復活し始めたドイツ海軍の水上打撃部隊の活動が活発化しており、さらにドイツ空軍も通商破壊を本格化させたこと、そしてついにUボートの活動が本格化した事などから英国は1941年1月から3月にかけて実に120万頓もの船舶を失い、大きなショックを与えると共に英国の輸送能率を大幅に下げていました。
 このため、英国は「英国での戦い」に続く「大西洋の戦い」を内外に宣伝し、商船を守るための努力を強めることになります。これは、商船隊の組織化と海上護衛の強化によって具体化され、多数のUボートを撃沈するなどの目に見える成果を出す事になります。
 ようやく、英国の通商航路防衛が本格化し出したのです。
 一方、遠路日本本土より大艦隊を派遣し、その維持に四苦八苦している日本も英国と共同でこれに当たるようなります。
 これらは、この頃には全ての軽空母をインド洋より西に派遣し、英国海軍と共同で海上護衛に従事する事で大きな成果を上げるようになります。
 また、日本本土での戦時生産がいよいよ軌道に乗り出しており、戦時計画に従い建造の始まっていた大量の商船、護衛艦艇の第一陣が春には就役を開始し、夏には地中海に大規模な増援部隊を送る見通しが立ちます。同時に新規建造計画で整備の進んでいる新型戦艦や大型空母の就役と実線投入も夏頃には可能となる見込みでした。
 つまり、何としてもこの半年を現有兵力で守り切らねばならないのです。

 しかし、ここで連合軍に悲報が入ります。
 それは、同盟国イタリアの敗走を助けるべく、地中海でのドイツの増援が始まったからです。
 増援されたのはノルウェーで対艦攻撃に定評のあった空軍部隊約360機からなる第10航空軍団で、同航空軍団は41年の年明けには日本機動部隊が徹底的に破壊したシチリア島に展開し、連合国の地中海の交通線の破壊とマルタの無力化を行うための作戦活動を開始します。
 この攻撃により1月11日には、英空母「イラストリアス」が爆弾6発を受ける大損害を出すなど、船団護衛をしていた英艦隊に大きな損害を与えることに成功します。
 しかも、2月にはドイツ陸軍のリビア進出も始まり、早くも3月24日にはエル・アラゲイを奪回します。
 これはもちろん「砂漠の狐」ことエルヴィン・ロンメル将軍による攻撃とその結果です。
 以後、北アフリカの大地では、短くも熾烈な戦いが展開される事になります。
 一方地中海での通商破壊を目的とした枢軸軍と、それを守る連合軍の戦闘は激しさを増しつつ継続され、3月28日には「マタパン岬沖海戦」が発生します。この海戦は、タラントの打撃からようやく復調してきたイタリア海軍と英国H部隊によって戦われた戦闘でした。
 この戦いでは英海軍は、「聖者級」戦艦の「St. グレゴリー」、「St. パトリック」、「フッド級」巡洋戦艦「ロドネー」、空母「イーグル」、駆逐艦9隻からなる本隊と、軽巡洋艦4隻、駆逐艦4隻からなる偵察隊から構成されており、対するイタリア海軍は戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」、重巡洋艦2隻、駆逐艦4隻からなる本隊と、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦7隻からなる偵察隊から構成されていました。
 戦力的にも英側にとって有利でしたが、この戦闘は事前に情報を得ている事など情報戦においても英側が圧倒的に優位にあり、ためにイタリア海軍は大損害を受ける事になります。
 特にこの海戦が夜戦となり、そこでRDF(電探)が重要な役割を果たしたことは、たとえそれが索敵面だったとしても無視できないでしょう。
 ここでイタリアは重巡洋艦三隻を一気に失い、タラントの被害もあり(結局戦艦2隻を完全喪失している)、大型艦は今度こそ港に逼塞する事となります。

 なおこの間日本海軍は、戦艦部隊は金剛級巡洋戦艦の一部が各種軽空母や護衛艦艇と共に船団護衛に従事した他は、ドイツ海軍を警戒するためにスカパ・フローに英大艦隊と共に待機状態に置かれ、空母部隊もアレキサンドリアにあり、本国からの新型機の補充とその訓練に明け暮れる事になります。
 もちろん、海軍航空隊の約半数が英本土にあり、RAFと共に英国の空と大西洋を守り続けていました。
 また、本国においては、開戦による建造速度上昇により、予定よりやや早く新型の「高千穂」級戦艦と「翔鶴」級航空母艦が就役、さらに近代改装工事を終了した「富士」級戦艦の出師準備も整い、第一次となる陸上兵力の本格派遣隊と共に第二次遣欧艦隊が編成されつつありました。

■クレタ島戦と独ソ戦勃発