■血戦 第二幕「航空決戦」

 6月11日、双方が潜水艦を用いた偵察と攻撃に奔走している間も、両艦隊の距離は確実に縮まり、双方ハワイを指呼に収めるところまでの進出に成功していた。
 最初に同海域に到着した決戦兵力は、アメリカ太平洋艦隊の第一、第二任務部隊で、まだ日本連合艦隊の到着しないハワイは、この大艦隊の前に無防備な姿をさらす事になった。距離にして約300海里。高速で進撃を丸一日継続すれば、アメリカ艦隊はハワイに到着できる距離だ。この頃日本連合艦隊は、マーシャル諸島から急行していたが、ハワイから約2日の距離にあり完全に出遅れる事になる。
 なお、長距離偵察を行っていた日本の97式飛行艇部隊が、この米艦隊の接近を捕捉していたが、発見した時間が午後4時を回っており、すでに十分中攻の攻撃圏内であるため薄暮攻撃や夜間攻撃も提案されたが、大兵力を一気に投入した決定的な戦果を期待するためにも翌朝黎明出撃に変更されていた。
 そして攻撃側であるアメリカ艦隊は、日本の潜水艦に手間取っているうちに夕刻を迎えてしまい、ここで時間調整のために一時反転、翌朝黎明を期してオワフ島150海里沖合から、空母艦載機により在ハワイ航空戦力を叩く事を決意する。
 それは、ハワイに急行中の日本艦隊主力に対して、一日のアドバンテージを持っていることを偵察情報から掴んだことから、この貴重な時間が日本軍の各個撃破の好機である見たからに他ならなかった。
 もっとも、この早期ハワイ攻撃は、一応想定の中にあったとは言え、この突然の作戦変更である事には間違いなく、アメリカ側が初戦で早くも正規空母1隻を喪失した事から、戦果を焦ったため決戦のために温存しておくべき艦載機の消耗を起こしたと非難される事もある。しかし、各個撃破そのものは戦術原則に則しており、この時点でのアメリカ側の決断は間違っていないと考える方が妥当だろう。何しろ米軍側では、在ハワイ航空部隊は合計で300〜350程度としか見ていなかったのだから。

 米軍側のその日の最後の航空偵察は、日本の小規模の巡洋艦数隻からなる2つの艦隊が、進撃路上にある事を発見していたが、夕刻であった事とその艦隊が発見後すぐにハワイ方面に遁走を開始した事から、米艦隊首脳部は捨て置く決断をする。
 もちろん、この事実を知っている後世の我々は、この小規模の巡洋艦数隻からなる艦隊が、日本の独自の戦術ドクトリンから誕生した特殊な艦隊である事は周知だろう。
 そして、明けて6月12日の夜明けを間近に控えた午前3時頃、突如アメリカ第一任務部隊の艦艇から、爆雷もしくは魚雷攻撃による水柱が各所で奔騰する事になる。
 攻撃を受けた艦艇は、戦艦、巡洋艦、駆逐艦と艦隊が展開する海域一帯の広範な範囲に渡っていた。
 そしてこの攻撃に対して、当初対潜攻撃を任された駆逐艦部隊からの報告も、要領を得ないものが多かった。ある艦の艦長は大量の潜水艦に包囲攻撃を受けていると近距離無線で絶叫し、またある艦長は全く何も発見出来ないと報告し、参謀の一部はダメージがランダムに近い形で発生している事から、急造の浮遊機雷原に突入したのではと考えるものもいた。それなら、前日の小規模な艦隊の行動に納得がいくからだ。
 しかし、敵概略位置に対する爆雷攻撃が、混乱するアメリカ艦隊に回答を与えてくれた。
 僅かに見えた潜望鏡を頼りにしての砲撃や、潜水艦にしては小さすぎる音を頼りに行われた爆雷攻撃の水柱から文字通り爆発で飛び出した敵が、異常に小さな潜水艦である事が分かり、そしてそれらが大量に付近海面に潜伏している事がわかったからだ。前日の巡洋艦の艦隊はこれをばらまく為の母艦群だったのだ。
 これを知った米艦隊は、とうぜん猛烈な掃討戦を展開しつつ直ちに同海域からの離脱を計る事になる。
 攻撃を行ったのは、一見水上機母艦に見える(その装備もある程度搭載している)、そして船体に特殊な格納庫を有した「千歳」級甲標的母艦とその改良型、合計4隻の「千歳」、「千代田」、「千早」、「千景」の各艦から12隻ずつ出撃した、総数48隻にも及ぶ「甲標的」と呼ばれる2発の魚雷を搭載しただけのマメ潜水艦の群だった。
 これらの兵器は、日本の来るべき決戦に備えた漸減戦術の一環として整備され、まさにこの時のためだけに投入された決戦戦力だった。
 母船から解き放たれた小さな狼の群は、相手が来るであろう付近海面に伏せ、半日にもわたりじっと敵艦隊が来るのを待ちかまえていたのだ。
 ただ、48隻全てが攻撃を行えた訳でなく、敵予想進路上に広く散開していた部隊の一部が攻撃しただけだった。それでも結局20隻近い「甲標的」が魚雷を敵艦の近距離から魚雷を発射したと見られており、小型の魚雷ながら米艦隊の足をすくうことに成功している。
 この攻撃で矢面に立たされたアメリカ第一任務部隊は、当初奇襲攻撃だった事もあり「ノースカロライナ」の中破を始め、軽巡1隻、駆逐艦2隻を失い、重巡1隻、軽巡1隻、駆逐艦3隻の脱落を出す大損害を受ける事になる。
 しかも、敵前線付近での撤退のため、駆逐艦2隻が護衛として割かざるをえず、それでも撤退中に偵察と群狼戦を展開していた日本潜水艦により重巡1隻、駆逐艦1隻を撃沈されるという大損害を受ける事になる。
 米艦隊としては、この予期せぬ伏兵により巡洋艦1個戦隊、半個水雷戦隊を失ったに等しい損害だった。
 ちなみに「甲標的」の損失は、回収に失敗したものなどを含めると最終的に29隻にも及び、あまりの損害率に海軍は慄然とし、この戦法の中止を即座に決定し、さらに母艦の用途変更(空母への改装)と、「甲標的」を兵器体系から外す事を決定する事になる。
 米艦隊としては幸いにして、もうすぐ攻撃隊を発進予定だった空母部隊は無傷だった事もあり、体勢を立て直すため後退するにせよ、このまま攻撃を続行するにせよ、陸からの攻撃を最小限に留めるため敵基地に対する攻撃が必要なので、予定どおりに作戦を継続する事になった。
 しかし、この「甲標的」による攻撃で1時間以上進出が遅れ、攻撃隊の発進は既に夏の朝日の昇った午前5時になっていた。

 そしてこの時間ロスが、米海軍にとって大きな失点になる。
 それは、通常のスピードならまだ戦場に到着していない筈の日本連合艦隊第一航空艦隊が、この間に付近海域まで進出する事に成功していたからだ。まさに僅差の勝利と言えるだろう。
 これは一航艦が、漸減作戦を強引に行おうと黎明出撃を実現するために、夜間、半日もの間潜水艦の危険すら半ば無視し24〜28ノットと言う極端なスピードで急接近し、間合いを詰めたからこそ実現したもので、この急進撃による艦隊の各艦の燃料は、この日の夕刻までにハワイに入港するか、補給艦から洋上補給してもらえない限り尽きるほど消耗されていた。特に随伴の駆逐艦の燃料は危険なまでに減少していた。
 そして、機動部隊司令官は、ハワイからの状況報告を受けると即座にこの指令を貴下の全艦隊に命令した。一撃に全てを賭けていたのだ。
 そして12日の黎明の時点で、ハワイ諸島海域にまで進出していた一航艦は、米艦隊が基地攻撃にために攻撃隊を放っていたころ、すでに米艦隊に向けて攻撃隊を放った後だったのだ。
 これを、米海軍の方はハワイ近在でまともに活動できている潜水艦が存在しない事から、この機動部隊の存在を掴んでおらず、戦力見積もりを大きく誤ると言う失点を犯した時点で、航空戦の帰趨は決していたと言ってよいだろう。
 そして制空権奪取こそ第一の任務とされ編成された第一航空艦隊では、旗艦「蒼龍」格納庫で一航艦司令官は出撃に対して、『第一目標空母、第二目標空母、第三目標空母』と整列する隊員を前に訓辞していた。これこそが、第一航空艦隊に与えられた漸減作戦での第一の役割だったからだ。そして、他の部隊同様自らの役割を献身的努力と犠牲的精神の発露により果たそうとした結果が、このハワイ沖への第一航空艦隊進出と言う形になったのだった。
 この訓辞を受けた一航艦からの第一次攻撃隊は、即座に各母艦からの発進を開始する。時間にして現地時間の午前5時30分。その数は甲板にまで航空機を満載していた事から、一番機の離陸から30分の間に大小9隻の母艦から常識を遙かに超越した360機が離艦した。そのさらに1時間後に放たれた150機からなる第二波攻撃隊と併せれば、一航艦を構成する9隻の空母だけで実に500機もの攻撃隊を放っていた事になる。
 一方米軍の攻撃対象になっている在ハワイ航空隊も、潜水艦からの概略位置情報を元に、夜間のうちに多数の飛行艇や偵察用の中攻を放ち、黎明と共に攻撃隊も全力出撃を開始する。その数は、敵が近くにいる事が判明していた事から護衛戦闘機も伴うことができたので、夜明け前に出撃した索敵機や、飛行場などの関係で三波に分かれた攻撃隊を合わせて実に400機近くにも上り、空母機動部隊と合わせれば実に900機という未曾有の攻撃隊を実現する事になる。
 これは、取りも直さず近代戦争が、いったいどれほどの物量によって行われるかを示すと共に、日本側がハワイ防衛だけにかける意気込みを見せるものといえるだろう。この時、空にあった航空戦力は、1939年当時の日本の航空戦力のおよそ三分の一、第一線航空戦力の半分に相当すると言えばそれが分かってもらえると思う。
 しかし、ハワイが太平洋上で孤立した島嶼で、潜水艦さえ制圧すれば戦力の消耗がなく、その蓄積が容易かったと言う点も見逃せないだろう。

 この未曾有の空からの攻撃を受ける事になった米艦隊だが、彼らの空母から放たれた攻撃隊は、日本艦隊がまだ到着していないという前提に立ち、港湾部を攻撃する一部部隊を除いて全て爆弾を装備していた。もちろん、第一撃でハワイにある航空基地を撃滅するためだ。しかし、その数は空母部隊そのもが艦隊上空の制空権奪取を優先していた事と、既に1隻を失っていた事から二波合計で200機程度しかなく、物量戦を旨とするアメリカを知るものにとっては、いささか物足りないと言えるかも知れないが、これはこの攻撃が米軍にとっては、この時点では副次的なものでしかないことと、やはり初戦で大型空母を1隻喪失している事が響いていると言えるだろう。

 そして午前6時前、双方の航空攻撃隊の先鋒部隊が、互いの姿を視認、この時点でアメリカ艦隊は多数の艦載機を目撃したことから、初めて日本側がすでに多数の空母をこの戦域に投入している事を知る事になる。
 しかし、迎撃作戦そのものの根幹は、基地航空隊を相手にする時と特に変化はなく、4隻の空母からありったけの防空戦闘機が発艦し、母艦からの無線誘導で配置へと付いて日本機を待ちかまえた。ただ、信頼性の高い無線機による無線誘導こそ可能だったが、艦載型レーダーがまだ開発されていないアメリカ海軍は、前方に送り出した偵察機の情報しか事前情報はなく、ほとんどは昔ながらの視認による迎撃を行わなければならなかった。

 一方の日本側、特に在ハワイ防衛隊は、米艦隊とはいささか事情が異なっていた。
 それは、ハワイを覆い尽くしていた電波と目視による高度な防空システムが存在していたからだ。
 1938年中頃から英国が妙に熱心に売り込んできた、試作品と言ってよい新型のRDFと監視所、監視船そして飛行場、それらを有機的に結びつける通信指揮装置を一つの組織としても結合したものが、戦場が想定されていた最前線のハワイ諸島に導入されていた。そして、それを統括するために真珠湾に巨大な指揮所が新たに設けられ、巨大な鉄塔のようなRDFもハワイの各地にいくつも、そして多重的に設置され、どこから敵機が侵入しても探知、防空戦闘機を誘導出来るようになっていた。
 高射砲や機銃の存在については言うまでもないだろう。
 さらに、この装置を運用するためと、英国本国から軍事顧問としては異常に多い数の義勇兵が参加しており、その義勇兵の中には航空機と共に送り込まれたパイロットまで含まれていた。
 また一航艦は、電探そのものは技術者サイドの努力によりある程度小型化したものが大型艦艇の一部に試作品のような形で装備されていたが、防空システムまでは構築されていなかった事と、ハワイ近在を航行していた事から、この実験的な防空指揮所に臨時に一航艦の防空隊も編入されてしまっていた。
 そして、その壮大な防空実験場と呼んで差し障りないハワイ上空に200機におよぶ米艦載機が侵入してきた。
 これを迎え撃つのは、基地防空隊だけで各種合計200機、一航艦が約80機だった。もちろん、これら全てが一度に迎撃するわけでなく、指揮所からの指示に従い随時、そして効果的に戦闘へと参加した。
 この迎撃網は、米パイロットにしてはまさに悪夢としか言えず、日本機は自らの望んだ有利な位置から常に攻撃をしかけてきたというのが、生き残ったパイロットから等しく聞かれた声だった。しかも、相手の方が数が多いのだからアメリカの攻撃隊には、もはや攻撃どころでなく、米パイロット達の関心は、ハワイの日本人をいかに吹き飛ばすかではなく、自らがいかに生き残るかになっていた。
 しかも、迎撃に現れる機体は、アラスカや東太平洋上などで相手にした空冷の「97式」や「96式改」だけでなく、新型の液冷機が多数含まれており、しかもそれが数機種もある事が、後に生還したパイロットから司令部に報告された。
 日本側が迎撃に投入した新型機の主力は、もちろん「ハインケルHe112B-0」を改良した陸軍の「98式戦闘機」だったが、それら以外に日本がなりふり構わず軍備増強に奔走した事と、英独が格好の兵器実験場と考えた思惑が一致した事から、双方の戦闘機が小隊から多い場合は中隊規模で投入されていた。
 中隊ごとハワイにやってきて日の丸を付けていたのは、英国の主力機となりつつある「ホーカー・ハリケーン」で、別に1個小隊だけ「スーパーマリン・スピットファイア」もあり、その中に混じっていた。そして、義勇兵という肩書きで同数の同国人パイロットが運用していた。
 また、英国機以外にドイツから直輸入された「メッサーシュミットBf109C」が2個小隊分あり、さらにドイツの義勇パイロットが操縦していたという情報が、最近になって公開されている。ただしこちらは、教練のための顧問パイロット以外は日本人で、ハインケル社の機体を大々的に採用している日本での対抗心から、デモンストレーションのためにメッサーシュミット社が、ドイツ政府に政治的圧力をかけて強引に送り込んだものだった。
 とにかく、そうした列強の新兵器博覧会とも言える戦闘機と、それを誘導する優れた迎撃網に捕まった米艦載機は、「甚大な」と言う言葉ですら表現できない程の損害を受ける事となった。
 戦闘は、ほとんど一方的なものであり、日本側のパイロットはこれを「コジュケイ射ち」と呼び、義勇兵で参加していた英国人パイロットは「狐狩り」と揶揄した。そして、ハワイ上空から生還できた米艦載機は、僅か2割程度にすぎなかった。
 なお、アメリカ側も増加試作として、新鋭のF4Fワイルドキャット2個中隊が攻撃の先鋒に参加していたが、それらは、日本側の先陣を切って邀撃してきた各種新型液冷戦闘機により大半が撃破されたと報告されている。特に英国のスピットファイアは圧倒的な性能を示し、米新型機を全く寄せ付けなかったと、英国の顧問団は誇らかに本国に報告している。
 当然、ハワイ諸島そのものに与えられた損害も、基地施設と空軍基地に若干の被害を受けただけで、アメリカ側が期待したものとはほど遠いものであり、迎撃システムが完全に機能した事を雄弁に物語っていた。

 一方、日本側の膨大な攻撃機による襲撃を受けたアメリカ艦隊だが、攻撃隊からの情報を受けて予備を含めて180機ものバッファローとワイルドキャットを上げることに成功し、万全を期して待ちかまえていた。
 そこに飛び込んでいったのは、一航艦の第一波攻撃隊360機。編成上その半数が戦闘機なので、戦闘機数なら互角の数を送り込んでいた事になる。単純に考えれば、攻撃隊の半分はインターセプトを突破できる計算が成り立つ。
 しかし、日本側の先頭を進んでいた制空戦闘機隊が、インターセプターのバッファローの群に飛び込むと、日本機を血祭りにあげるはずだった猛牛の群が一斉に崩れ、まるで鈍足の攻撃機のように逃げまどうという異常事態となっていた。これは、温存していたワイルドキャットが慌てて戦闘加入してもそれ程好転せず、機先を征せなかった米艦載機によるインターセプトは完全に失敗し、大半の日本機の艦隊上空侵入を許すことになった。
 日本側はここでも新型の戦闘機、「99式艦上戦闘機」を投入していたのだ。
 96式譲りの圧倒的な運動性能と新型の金星エンジンが生み出す550kmの速力は、当時の艦上戦闘機としては圧倒的な能力を誇り、攻撃隊に随伴していたのはわずか3個中隊の36機に過ぎなかったが、この戦闘だけでどの機体も2機以上の撃墜を記録する圧倒的性能を見せつけている。
 そして、制空隊が切り開いた空路を通り、米艦隊上空に侵入した日本攻撃機が目標としたのは、司令官からの訓辞があったように「空母」。
 まず、敵の制空権を完全に奪ってしまい、後から来る攻撃隊が難なく敵艦隊を攻撃出来るようにするのがその目的だった。そして、一航艦はこのために編成されたのだから、パイロットたちに疑問があるハズはなかった。
 敵戦闘機を振り切る事に成功し、敵艦隊上空に入った約150機の攻撃隊は、まずは数隻の空母を後方に伴っている米第一任務部隊に殺到した。
 そして攻撃される側の米艦隊は、戦艦が攻撃されるものと陣形を組んでいた事から、攻撃隊が空母に殺到した時にはもう遅く、陣形を変えるいとますらなく、日本の攻撃機は防御の手薄な3隻の航空母艦に殺到した。
 各空母にほぼ均等に50機ずつに分かれた攻撃隊は、この戦争中に編み出された雷爆同時攻撃という一種の飽和攻撃をここで初めて大規模に披露し、米空母に次々と命中弾をたたき込んだ。
 20分後、日本機の攻撃が終わった時には、3隻全ての空母からもうもうたる黒煙があがっており、うち1隻はすでに沈没しつつあった。
 第一次攻撃隊が去る頃、今度は生き残った米インターセプターの前に次の攻撃隊、在ハワイの第十一航空艦隊による400機の波状攻撃隊の先鋒、約150機が接近しつつあった。
 しかも、航続距離に余程自信があるのか、最初の攻撃隊に随伴していた「99式」は、いったん空中集合した後さらに反転し、この攻撃隊に合流してきた。これを生き残った米パイロットたちは、「まるで身軽なインディアンが、バッファロー狩りを楽しんでいるようだった」と述懐している。
 日本側の基地機は、艦載機のような小型機でなく、攻撃機の大半が双発の中型爆撃機から構成されており、双発の大きな機体が低空すれすれに侵空してくる様は、米将兵の度肝を抜く事になる。米軍将兵は、双発機を見たとき誰もが水平爆撃を予想し、そのような低空雷撃は今まで聞いたことも見たこともないのだから、驚きも当然と言えば当然だろう。
 そして、空母数隻が炎上しているのを確認した攻撃隊が次に目標としたのが、彼らにとっての本命の米新鋭戦艦の群だった。当然まず多数の戦艦から構成されている第一任務部隊がそのターゲットとされた。
 攻撃隊約100機は、空母が撃破され陣形の乱れている艦隊後方より侵空し、後方を走る戦艦に雷撃を開始した。8個ある中攻隊は、二組ずつがペアになる形で4隻に集中して攻撃を行った。これを可能としたのは、先ほどの艦載機同様英国からもたらされた、優れた電波技術による情報伝達の円滑化だった。
 この攻撃を受けることになるのは、艦隊の半ばから後方にかけて陣取っていた「ノースカロライナ」級3隻と「モンタナ」級1隻となった。各艦とも96中攻から投下される魚雷を懸命に回避しようとしたが、就役して2カ月の「モンタナ」級の「フロリダ」は、練度が低い事からチョットしたミスでこれをマトモに受ける事になり多数を被雷、他の「ノースカロライナ」級も先ほど潜水艦により損傷して速力が若干低下していた「ノースカロライナ」を始め数発の命中魚雷を受けていた。
 被害は、「フロリダ」が両舷に6本もの航空魚雷を受け大破、「ノースカロライナ」級の各艦も1〜2本の魚雷を受け小破から中破。「フロリダ」が日本艦隊の決戦に赴けないのはこの時点で確実となった。
 大ダメージ。空母の損害を合わせれば、そう評して良いダメージだった。

 しかし、日本航空機の攻撃は、この後も続くことになる。
 一航艦の第二波150機、ハワイ航空隊の残り第二波、第三波合計250機が進撃途上にあり、その後1時間の間に波状的に攻撃に参加した。
 この攻撃の前に米艦隊は、自軍の艦載機を1隻だけ残った第二任務部隊の「ホーネット」に出来る限り収容した後、一旦攻撃圏外に後退しようとしたが、さらに反復攻撃をかけてきた日本の基地、一航艦の艦載機が襲来し、米太平洋艦隊はこの一日だけでのべ1300機もの波状攻撃を受けることになる。
 第二波の攻撃以後も、米艦隊の被害は第一任務部隊に集中したが、それは戦闘当初空母を多数有していたため、前線に配備されていた事で日本側の目につきやすかった事と、戦艦が多数艦隊に所属していた事が主な原因だった。
 しかし、攻撃中に米側のインターセプターがまだ姿を現す事から、空母が健在と日本側では認識され、その後徹底した索敵がなされ、この結果反復してきた攻撃隊、とくに最初に空母を主目標としていた一航艦の攻撃隊が、戦艦には目もくれず100機もの攻撃機が集中的に唯一残存していた「ホーネット」を目標とし、これをその日の攻撃で爆沈させている。
 なお、最終的に「ホーネット」が受けた命中弾は、魚雷14本、爆弾11発とされ、その連続した打撃に華奢な空母の船体が耐えられる筈もなく、最後の命中弾を受けた数分後に波間に没したと報告されている。

 そして、この一連の攻撃が米艦隊に与えた損害は、致命的だった。ここでは、その損害だけを列記しておこう。

 撃沈
戦艦:「サウスダコタ」
空母:「エンタープライズ」、「ホーネット」、「インディペンデンス」、「ベローウッド」
重巡:1隻、軽巡:1隻、駆逐艦:3隻
 大破
戦艦:「フロリダ」、「ノースカロライナ」
軽巡:1隻、駆逐艦:1隻
 中小破
戦艦:「オハイオ」、「ニューハンプシャー」、「ワシントン」、「インディアナ」
重巡:2隻、駆逐艦:2隻

失った航空機:380機

 米軍が受けた損害は甚大だった。そして中でも衝撃的だったのが、5万頓近い大型戦艦が航空機の攻撃のみで撃沈されてしまった事だった。いくら舵を損傷したところを集中的に攻撃を受けたからと言って、航空機で戦艦が撃沈されたと言う事そのものが、何よりもショックだった。
 しかし、空母と損傷した戦艦に攻撃が集中した事から、他の艦艇に対する損害は最小限に留められ、中でも新造戦艦はその大半が戦闘可能だった事は唯一の慰めだったかも知れない。
 だが、たった一日で制空権を完全に失った事と、艦隊の再編成の必要性がある事には間違いなく、戦闘を続行するにせよ後退するにせよ、可能な限りの速度での一時待避が行われる事となった。ただし、大破した「フロリダ」、「ノースカロライナ」についてはもはや艦隊に同行する事が不可能だった。しかし、かろうじて自立航行は可能だった事から護衛の駆逐艦を数隻付けて別ルートで後退させる事になった。
 一方の日本軍は、航空攻撃は飽和攻撃が功を奏し、予想以上にうまくいったが、アメリカ側の熾烈な対空砲火と航空機との戦闘により、思いの外損害が大きく全体の4割が被弾もしくは撃墜され、追撃を行う第一航空艦隊の稼働機はスペアを組み立てても400機を超えなかった。
 しかし、空母だけでなく戦艦までも撃沈した航空隊の鼻息は荒く、ハワイと後方から駆けつけたタンカーから洋上補給を受けると、意気揚々と進路を米艦隊の方向に取り、追撃を開始する事になる。
 ただし、日本海軍はここで自らが大戦果をあげた潜水艦により足を掬われる事となった。
 ハワイ洋上に出た所を潜水艦に雷撃され、正規空母「神龍」が魚雷3本を受け、大火災を起こし手が付けられなくなった事から、翌日の午前まで燃え続けた後、味方魚雷により処分されている。
 そして空と海での饗宴が終わろうとしていた頃、ようやく日本の主力艦隊たる第一、第二艦隊が、その姿をハワイ東方海上に現そうとしていた。

■血戦 第三幕「全艦我ニ続ケ」