■血戦 第三幕「全艦我ニ続ケ」

 潜水艦による数日間をかけた戦いを経て、6月12日から熾烈な航空戦が行われたが、その結果双方の戦闘力がどのようになっているかここでもう一度見てみよう。

■日本側の戦闘可能艦艇
 第一艦隊
「大和」、「武蔵」、「信濃」
「紀伊」、「尾張」、「駿河」、「近江」
「土佐」、「長門」、「陸奥」
「伊勢」、「日向」
重巡:7隻、軽巡:4隻、駆逐艦:31隻

 第二艦隊
「富士」、「阿蘇」、「雲仙」、「浅間」
「葛城」、「愛宕」、「高雄」
「金剛」、「榛名」
重巡:6隻、軽巡:3隻、駆逐艦:30隻

 第一航空艦隊(艦載機:約350機に減少)
正規空母:「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」、「天龍」
軽空母:4隻
重巡:2隻、軽巡:1隻、駆逐艦:12隻

■アメリカ側の戦闘可能艦艇
 第一任務部隊
「モンタナ」、「オハイオ」、「メイン」、
「ニューハンプシャー」、「ルイジアナ」
「ワシントン」、「インディアナ」、
「アラバマ」、「マサチューセッツ」
重巡:4隻、軽巡:5隻、駆逐艦:21隻

 第二任務部隊
「アイオワ」、「ニュージャージ」、
「ウィスコンシン」、「イリノイ」、「ケンタッキー」
重巡:5隻、軽巡:4隻、駆逐艦:26隻

 双方の現状は以上のようになるが、潜水艦と航空機による飽和攻撃をかけた日本側が、米艦隊にいかに大きな打撃を与えることに成功したかが分かると思う。米艦隊はこの時既に戦艦が2割強、補助艦艇についても3割、空母に至っては全滅という、通常なら撤退するしかない損害を受けていた。
 しかし、これ程巨大な戦果を、この時点で日本側は全く予想していなかった。それは、潜水艦の戦果は不確かにしか伝わってなく、航空機からもたらされる情報もむしろ過小に評価されていたからだ。ただ、実際活動する艦載機がなくなった事から、空母全ての大破・撃沈は間違いないとされたが、戦艦に関しては撃沈は誤認と断じて、敵の戦力を1〜2割程度の減少としか見ていなかった。
 一方のアメリカ艦隊側は、予想を遙かに上回る損害を受けた事で動揺が広がっており、一部では戦術原則に従い撤退の意見も出されたが、作戦は続行される事になった。
 戦術的には、主力艦の大半に致命的な損害が発生していない事、日本艦隊を攻撃した友軍潜水艦からの報告で、戦艦数隻と空母1隻を大破か撃沈した旨が報告されていた事が理由とされた。
 また、このまま引き下がっては、海軍と政府に対する不信は決定的となり、水面下の見えないダラダラとした戦争で、すでに広く厭戦気分が醸成されつつあった国民感情が、一気に停戦機運へと変化し、国内的理由で戦争が不可能になる可能性が高かった。このため、政府と海軍は目に見えるところで、いくらかでも戦果を稼いでおかねばならなかったのだ。
 なお、今回の作戦は、アメリカとしても乾坤一擲の大作戦であり、ここで何の成果もなく作戦を中止すれば、その後攻勢を再興するまでに今度はどれぐらいかかるかを考えると、戦争経済という点からも許容できるものではなかった。
 そして何より海軍が、そのプライドにかけてここで撤退することを否定していた事も大きな理由と言えるだろう。
 後世の目から見れば、純軍事的に撤退しかありえなかったが、そのような様々な理由でそれが否定されたのだった。

 また、後世から見れば、アメリカ側がハワイ諸島に早期に接近しすぎた事も大きな失敗だったと言えるだろう。
 なぜなら、日本側の基地航空隊の主力を務める96式中攻の航続距離は4000km以上、つまりその翼下にハワイの優に半径1000kmを収めている事を示しており、搭乗員たちも最大700海里までの進撃を想定して訓練をしていたからだ。
 そして、一日明けた時の米艦隊の位置は、ハワイ北東500海里にあり、損傷後退している部隊に至っては、いまだ8ノット程度のスピードで400海里強しかない位置をノロノロと東に後退している状態だった。しかも、米軍にとって不幸な事に、米軍は日本の攻撃機の進出範囲を、他の諸外国より多めとしても400海里程度と予想していた。これまでの戦いで日本機の性能はある程度把握していたが、航続距離=進出距離ではなく、700海里と言う数字そのものがこの当時の常識を越えていたからだ。
 一方、米艦隊を急追する日本主力艦隊は、24ノットという限界に近いスピードで丸半日以上追撃していたが、この当時ハワイ東北東350海里にあり、洋上補給と潜水艦の襲撃で出遅れた第一航空艦隊が、ハワイ東北東200海里にあった。
 日本艦隊が追撃をこれほど急いだ理由は、ここで艦隊を逃してしまえば、米軍は半年後にさらに強大な艦隊で押し寄せると予想しており、その時の戦力差では勝利がおぼつかず、ここで1隻でも打ち減らしたいという思惑があったからに他ならない。

 しかし、この時点で戦闘をいつするかの主導権を握っていたのは、反転し日本艦隊に決戦を挑むタイミングを図っていた米太平洋艦隊の方と言えた。
 そして米海軍としては、日本基地機の圏外での戦闘を当然希望した事から、ハワイから550海里の地点まで移動した時点で反転。この反転により決戦海域は、ハワイ北東の450〜500海里上と決まった。

 6月13日の始まりは、日米双方が夜明け前に送りだした索敵機の発進から始まった。
 特に日本側は、ハワイの陸上機と飛行艇、一航艦からの艦載機、各艦隊の巡洋艦による索敵機と膨大な数に達しており、双方で約70機からなる濃密な航空機の網は、一部試作型の航空機用電探を搭載していた事などもあり、午前6時頃まず損傷後退中の戦艦を含む小規模の艦隊を発見、続いて午前7時半ついに米主力艦隊を捕捉に成功する。
 同じ頃、アメリカ側の巡洋艦から放たれた索敵機も日本主力艦隊を発見していた。
 この発見を合図に双方の艦隊がお互いの方向に向け、雌雄を決すべく決戦海域へと進路を取った。
 なお、それよりも早い午前6時15分、ハワイの航空隊より97中攻85機が離陸、一路最初に発見された損傷艦艇を抱える小規模な艦隊に向かった。
 この結果については、最早述べるまでもないと思うが、大きく損傷していた戦艦「フロリダ」、「ノースカロライナ」はもちろん、護衛していた駆逐艦3隻のうち2隻も撃沈されている。なお、「フロリダ」には魚雷7本、爆弾2発が、「ノースカロライナ」には実に魚雷14本、爆弾1発が命中した事が、この攻撃を見守っていた97式飛行艇から報告されている。そして、「ノースカロライナ」は最終的に20本の魚雷を受けたと、生き残った主計士官から米太平洋艦隊司令部に報告された。なお、この数字はアメリカ製戦艦がいかに優れた防御力を持つかの好例だろう。
 また、午前8時半ごろ、索敵線の限界まで達した97式飛行艇が、損傷して速度の低下していると見られる巡洋艦数隻からなる艦隊を発見していた。これは、戦果の双方の調査により先日未明に「甲標的」に撃破された艦艇とその護衛艦艇からなる艦隊だった事が判明している。ただし、この部隊への攻撃は距離が遠すぎる事から、無線連絡で付近海面の潜水艦を呼び寄せるに止まった。こちらは、つごう3隻の潜水艦が捕捉に成功し、1隻の犠牲を払ったが、その代償として重巡1隻と駆逐艦1隻を撃沈する戦果をあげている。
 当人達にとっては、熾烈な戦闘となったが全体から見れば、単なる残敵掃討に過ぎなかった。

 そして、本命の米主力艦隊に対する航空攻撃は、午前7時40分にオアフ島からの攻撃隊120機が飛び立ち、第一航空艦隊からは午前7時45分と8時30分の二波に分かれて都合250機の攻撃隊が送り出された。
 この航空攻撃に対して米太平洋艦隊司令部も、少なくとも空母からの攻撃は確実にあると予想していた事から、後方を進んでいたハワイ奪還艦隊に所属する、戦時急造の護衛空母を全速で進出させ、その日早朝にはギリギリ支援が可能な場所まで持ち込んでいた。
 奪還艦隊に属していた護衛空母は併せて8隻、うち半数にあたる4隻が奪還艦隊を離れ護衛駆逐艦ともに前進し、戦闘機の傘をかける事に成功していた。ただし、一度に傘をかけられる航空機の数は、午前中は遠距離からの支援となることから戦闘機隊の半数にあたる30機が限界だった。しかし、それでも何もしないより遙かにマシである事には間違いないと判断され、護衛空母からは戦闘機が発進された。
 また、双方の水上打撃部隊は、24ノットの高速で進撃を開始していたので、200海里の距離を詰めるのにかかる時間は4時間強で、会敵時間は午後11時頃が予定されていた。
 しかしその前、双方の水上艦隊が行程の半分程度を消化した時点で、アメリカ太平洋艦隊は先日に引き続き、膨大な数の航空機からの攻撃を受けることになった。
 午前10時前から始まった日本側の航空攻撃は、その位置関係からまず第一航空艦隊の第一波攻撃隊150機が襲いかかることになる。ターゲットとなったのは、相変わらず多数の戦艦を擁していた第一任務部隊で、対空砲火を潰すために小型爆弾を搭載していた約50機からなる制空戦闘機隊は、米艦隊手前で予想外の戦闘機によるインターセプトを受けた事に驚きつつも、もとから数も多い事と練度・装備の違いなどから、すぐにも体勢を立て直しこれを制圧、その間一部奇襲により失われた攻撃隊の残り約90機が、数の差を活かして難なく敵艦隊に襲いかかった。
 ここで攻撃を受けた艦は、昨日魚雷を受け動きの鈍っている「モンタナ」級の「オハイオ」、「ニューハンプシャー」と「サウスダコタ」級の「ワシントン」、「インディアナ」だった。
 もちろん第一任務部隊側もこの事を予測して、これらの艦を中心に置いた防御シフトをしていたが、この当時の対空砲火だけで航空機を阻止しきることは無理で、これらの艦にさらに魚雷や爆弾を受ける事になる。
 その後も1時間の間に、ハワイ基地からの120機、一航艦の第二波100機が襲いかかったが、戦闘機を伴わず攻撃した基地機は、ついでインターセプトに参加した30機の戦闘機の前に大きな損害を出すことになった。航続距離の長い99式が一部残って米インターセプターの制圧を行ったが、それでも制圧しきる事は難しく、併せて30機以上の撃墜を出す大損害受けることになる。全ては攻撃を焦った日本側の失態がもたらしたものだった。
 そして米戦闘機隊が復讐に狂奔しているさなかに到着した、一航艦の第二波の制空戦闘機隊が戦闘加入するまでに、全体の半数が墜落もしくは魚雷を捨てて退却していた。
 だが、それでもインターセプターを振り切って、敵艦隊に突撃した機は艦載機と共に攻撃を行い、米第一任務部隊にさらなる出血を強要した。この結果、「ニューハンプシャー」が都合魚雷6本と爆弾4発を受け大破、同じく「インディアナ」もこれまでの被害を累計して魚雷7本と爆弾2発を受け大破、他「オハイオ」、「ワシントン」もさらに損害を増やし、そして新たに戦艦から「メイン」が魚雷を2本と爆弾を3発受けて中破していた。
 この時点で度重なる防空戦で、米艦隊の防空システムが艦艇の不足などからも破錠し始めており、それがこの大損害を招いていたと言えるだろう。

 そして、日本軍機の攻撃が一段落し、第一任務部隊が懸命に陣形の再編成に努めている頃、水平線上に日本主力艦隊が姿を現すことになる。現地時間で午前11時34分の事だった。
 日本艦隊は、第一艦隊が「大和」、「武蔵」、「信濃」、「紀伊」、「尾張」、「駿河」、「近江」、「土佐」、「長門」、「陸奥」、「伊勢」、「日向」重巡7隻の順で単縦陣を組み、その横を水雷戦隊が固め、同じく第二艦隊は、「富士」、「阿蘇」、「雲仙」、「浅間」、「葛城」、「愛宕」、「高雄」、「金剛」、「榛名」重巡6隻の順で単縦陣を組んで、第一艦隊と同様その脇を水雷戦隊が固めていた。まさに、艦隊決戦のために組み上げられた必殺陣形の典型的姿だった。日本艦隊がここまで整然とした姿を見せるのは、かつての第一次ハワイ沖海戦以来の事だった。
 索敵機と艦搭載電探により相手の位置を遙か以前から捉えていた日本艦隊の動きは正確で、アメリカ側が発見するまでにそれぞれの相手に向け有利な位置を占めるべく行動を起こしていた。
 そして、双方とも同じ番号をもった艦隊目指して距離を詰めつつあった。
 なお余談であるが、この時第一艦隊の司令官が個人的に持っていた双眼鏡は、日本製でなくドイツの観戦武官から送られた同国製の高級品であり、司令官が日露戦争への縁起担ぎをおこなったものと伝えられている。もっとも、艦隊の敵発見の第一報は、手持ちの双眼鏡とは比較にならない高い性能を持った測距儀だったが、これもシステムの中枢を占めていたのがドイツ製だったことは、注目すべきファクターである事を忘れてはいけないだろう。
 一方、大きな期待をされた英国製のRDFだったが、この当時の小型のものに過大な期待をする事自体が無理な話であり、真っ昼間の晴れ渡った海域での戦闘では、闇夜などでの視界不良を前提とした索敵能力を発揮する場はなく、実際目で見える報告よりも精度が劣っていた事などから、水上戦闘での評価をこの時点で受けることはなかった。

 一方のアメリカ艦隊だが、第一任務部隊が大きく傷ついていた事から、当初の布陣とは大きく異なり、その単縦陣は「モンタナ」、「オハイオ」、「メイン」、「ルイジアナ」、「ワシントン」、「アラバマ」、「マサチューセッツ」重巡4隻の順番となり、大破した「ニューハンプシャー」、「インディアナ」は大きく遅れ、また隊列を作っている戦艦も損傷艦が多数を占めることから、最大速力の27ノットの発揮は望むべくもなく、22ノットの速度で日本艦隊と距離をつめつつあった。
 一方比較的損害の軽かった第二任務部隊は、「アイオワ」、「ニュージャージ」、「ウィスコンシン」、「イリノイ」、「ケンタッキー」、重巡5隻の順に陣形を組み、綺麗な隊列を作り上げていた。そして、その目標は世界最強の巡洋戦艦艦隊である、日本第二艦隊だった。
 双方の艦隊は、距離が4万メートルを切ったあたりで、互いに相手の頭を抑えるべく行動を進路を変更したが、結局双方同航戦となり、3万5000メートルになった時点で双方の艦隊旗艦である「大和」、「モンタナ」が自慢の18インチ砲戦艦が主砲の一斉射をしたのを合図に、1934年以来の昼間大規模砲撃戦を開始した。
 もちろん日本側の旗艦「大和」には「Z旗」がへんぽんと翻り、この戦いが日本にとっていかなるものであるかを雄弁に物語っていた。
 なお、双方の艦隊司令官が、艦隊旗艦に乗座していたのは言うまでもないだろう。

 ここからは、壮絶な砲撃戦の顛末を個々の艦ごとに列記していきたいところだが、それを文章にすれば非常に多くなるのでここでは割愛し、全体の概要だけを紹介しておきたいと思う。

 砲撃戦は、双方のほぼ限界といえる距離35000から開始されたが、当然大遠距離からの命中弾は殆ど望むべくもなく、ほぼ偶然の命中弾となった日本側の放った46cm砲弾がアメリカの戦艦「ワシントン」を一発の命中弾で爆沈するというラッキーヒットがあった他は特に命中弾もなく、結局のところ距離25000メートルを切った辺りで、双方の命中弾が頻繁に発生するようになった。
 全般的には多数の戦艦を決戦海域に持ち込むことに成功した日本側が優勢で、特に数の差から必然的にアメリカ側から目標とされなかった41cm砲搭載戦艦は、安心して砲撃がおこなえた事からその命中弾スコアを稼いでいた。同じくマークされなかった旧式の14インチ砲戦艦も、事前に組み上げられた作戦に従い、巡洋艦以下の艦艇にそのターゲットを絞り砲撃を行い、遠距離からの戦艦の砲撃に対して無力な存在でしかないアメリカ側の補助艦艇を次々に撃破していた。
 また、それまでの戦いでアメリカ側の戦艦の3分の1近くが魚雷を受け、予備浮力を大きく失っていた事は戦闘中盤以降大きな影響を与え、通常なら戦闘可能な被害にも関わらず、至近弾などによる浸水で速力が低下して艦隊から置いて行かれたり、立ち往生する艦が続出する事になる。
 そして、アメリカ艦隊にとっては、ここでの戦いも誤算だらけだった。高初速の16インチ砲は、日本側が望んだ25000メートルではその効果を発揮しきれず、補助艦艇は14インチ砲搭載の旧式戦艦に射すくめられ、当初目標から外されていた16インチ砲戦艦からの砲弾により、自慢の「モンタナ」級すら痛打を浴びていた事など数え上げればキリがなかった。
 さらに、決戦海域において最も優速を持つ米第二任務部隊は、その健脚を活かし第二艦隊に対して距離2万以下にまで肉薄し、日本ご自慢の巡洋戦艦の群に多数の命中弾を浴びせたまではよかったのだが、そのカウンターで戦艦としてはまだまだ非力な防御力しか持たなかったその船体が、46cm砲の打撃に耐えることが出来ず、瞬く間に自らの艦隊も大きなダメージを受けてしまった事も大きな誤算だったかもしれない。むろん、最後の事件は純粋にハードの問題がこの結果をもたらしたのであり、なまじ新造戦艦と言う事で指揮官から将兵までがその力に依存しすぎた悲劇だったと言えるだろう。
 ただし、この戦場において最強の砲、つまり世界最強の砲である「モンタナ」級の48口径18インチ砲の威力は絶大で、戦闘開始30分までに日本側の新造戦艦「信濃」を始め、それまでの戦いで常に日本艦隊の先頭を走っていた18インチ砲戦艦の「紀伊」、「尾張」を大破、後退に追い込み、「駿河」を爆沈すると言う殊勲をあげることにも成功していた。
 そしてこれは日米双方にとって誤算だったのが、日本側は46cm砲の威力を最大限に発揮するため、あえて遠距離砲戦を挑んだのだが、このおかげで双方の戦艦が容易く主甲板を射抜かれ、簡単に大破したり、酷いものは爆沈すら何隻か発生していた事だった。
 特に日本海軍は、無理をして英独から輸入した強固で謳われる装甲版で鎧った新鋭戦艦や、その装甲を用いて改装された戦艦を戦場に投入していたが、それですら大威力砲弾の垂直弾に耐えられない事は、日本海軍の関係者に大きな自信を与えると同時に大きなショックを与えていた。なお、この影響は後の英独の建艦にまで影響を与える事になる。

 約1時間にわたり日米双方の戦艦群により激しい砲撃戦が展開されたが、日本側のそれぞれの艦隊の最後尾を走って巡洋艦のハンティングに勤しんでいた「伊勢」級、「金剛」級の砲撃により、アメリカ側の巡洋艦が壊滅的状況になった段階で、劇的な変化が訪れる事になる。
 それは、敵補助艦艇の隊列に大きく穴が空いた事を確認した日本側の巡洋艦と水雷戦隊が、好機到来と各個に敵隊列に突撃を開始したからだ。
 特に距離2万と言う、かなりの接近戦となっていた第二艦隊同士の戦いは、日本側の巡洋艦が相手駆逐艦を制圧しているスキに、日本側が秘密兵器の酸素魚雷を距離15000と8000の二度にわたり発射。発射された数百本の魚雷は、ほぼ戦術演習通りの9%もの命中弾を叩き出し、それまでの損害で一時戦列を離れていた「ニュージャージ」以外の全ての戦艦と残存していた2隻の重巡洋艦に相次いで命中、巡洋戦艦同士の戦いを一瞬で決着づけた。
 一方の第一艦隊同士の戦いは、第二艦隊ほどうまくはいかなったが、「伊勢」級戦艦による米巡洋艦制圧と、距離20000で隠密雷撃を行った重雷装巡洋艦4隻の活躍で米第一任務部隊の脇を固めていた米第二水雷戦隊が一時的に大混乱に陥り、そのスキに水雷戦隊が肉薄に成功し、損害を無視して近距離から魚雷を放った事から多くの命中弾を発生させ、すでに砲撃戦で大きな傷を受けていた米戦艦群は予備浮力の多くを奪われ速度も大きく落とし、こちらの戦いの帰趨もほぼ決する事になる。
 対する米水雷戦隊も日本側に対抗して突撃を開始したが、日本側がまだ多数戦力を保持している巡洋艦にまず阻止され、そして艦隊後方を走っていた戦艦のかなりがほぼ無傷で、副砲などを指向できた事から攻撃は日本軍水雷戦隊ほど成功せず、補助艦艇に狙いを絞った一部の駆逐隊以外は、戦艦隊列には数発の命中弾を浴びせただけで戦力を消耗しつくしていた。

 最初の砲撃を行ってからすでに1時間半以上が経過した午後1時26分、いまだ「モンタナ」艦上で健在だった米艦隊司令部は、自軍のあまりの損害の多さについに撤退を決意、艦隊は戦場からの離脱を開始するに至る。
 この時戦列に残っていた米戦艦は、第二任務部隊が事実上壊滅したことから僅かに4隻、対する日本側は、第一、第二を合わせ13隻にも上っていた。もちろん、双方ともそれまでに脱落して個々に戦場を離脱した艦も多かったが、それでもこの砲雷撃戦がいかにすさまじい破壊をもたらしたか、これだけでも理
解できると思う。
 日本側の艦が多く残っていたのは、ランチェスターモデルの再現とも言えるが、日本側の艦艇技術が自国の技術開発と英独などからの技術導入により世界レベルに達していたと言う事をあらわすものと言ってよいだろう。また、長期の戦争と技術導入によりダメージコントロールが以前とは比較にならないぐらい進歩していた事も無視できないだろう。
 ただし、この米艦隊の撤退に対して日本艦隊は、すでに多くの弾薬・燃料を消費し、戦列に残っていた戦艦の多くも深く傷ついていたこと、補助艦艇の大半が魚雷を撃ち尽くしていた事などから、水上艦による追撃を断念せざるをえず、緩慢に砲撃を継続しながら米艦隊を追撃しつつも次第にその距離をあけ、午後1時54分、都合約2時間にも及んだ大砲雷撃戦はその終幕を迎えることになる。

 もっとも、日本艦隊全体の追撃がこれで終わった訳ではなく、砲撃戦が終わった頃には、すでに空から日本の第二波攻撃隊が、後方の第一航空艦隊から解き放たれていた。さらに、ギリギリの航続距離をかけて、在ハワイ航空隊もそれまでの損害を無視し滑走路を滑り出しつつあった。
 午後から攻撃した、日本側の航空隊は一航艦が三、四次攻撃隊の合計150機、ハワイの第十一航空艦隊から40機だった。
 一方、これを予想していたアメリカ艦隊も、護衛空母から再び30機程度の戦闘機を撤退中の艦隊上空に呼び寄せ、また、40機程度のにわかの攻撃隊をしたてて、反対に日本側の主力艦隊を攻撃させた。
 この戦闘は、日本側も防空隊として約40機の戦闘機を第一、第二艦隊上空に待機させていたので、双方の空母が相手を見ずに攻撃するという事では二度目の戦闘になった。
 結果としては、対地攻撃の訓練しかしていない米護衛空母部隊は、日本側戦闘機の邀撃と魚雷を持たないことから結局損傷していた日本戦艦を撃沈する事は出来ず、反対に再度100機以上の攻撃機を送り込んだ日本側が、インターセプターにより多数の損害を出しつつも、損傷していた戦艦数隻にさらに痛打を浴びせる事に成功していた。日本側の攻撃だけが成功したのは、やはり対艦攻撃の訓練を積んだ練度の高い搭乗員と魚雷の効果が大きいと言えるだろう。
 なお、日本側が艦隊防空を成功させたのは、米側の稚拙な攻撃もさることながら、陣形が単縦陣ばかりだった事から苦労して創り上げたシステムではなく、ひとえに防空戦闘機の活躍と、個々の艦艇が搭載していた欧州中から輸入された防空火器の活躍だった。
 特に制圧に効果のあった機関砲は、英国が広く採用している40mm機関砲、ドイツ海軍でも使用されている37mm機関砲で、海軍が広く使用し始めていた25mmでの力不足が明らかになり、この後の日本艦艇の防空火器の兵器体系を変更させる大きな分岐点へとつながる事になる。

 そして、その後数日間、日米双方の潜水艦による追撃などは継続されたが、その日の夕刻に日本海軍の97式飛行艇が米艦隊上空を去ったことをもって実質的な戦闘は終了した。

 こうしてハワイ沖での大規模な戦闘は、戦闘前の予想に反してまたもや日本の大勝利と言う形で幕を閉じた。
 アメリカの政府、海軍、将兵、国民にとってはまさに悪夢の再来だったが、日本海軍はなぜ勝利しえたのか。
 戦前の予想では、新造戦艦を多数擁するアメリカ艦隊の方が、艦砲の打撃力で圧倒的に優位に立っていたはずが、なぜ戦闘終了後なお日本戦艦に健在な艦があったのに、米艦隊の戦艦は稼働戦艦ゼロと言う事態となったのか。
 それは、戦闘前の戦術常識からは上級司令部のスタッフが予想だにできなかった、航空機の圧倒的な威力と言えるだろう。
 もちろん、日本側が後先考えず投入した、膨大な数の潜水艦による集団攻撃も無視できない戦術要素だったが、決戦前の漸減攻撃、制空権の奪取による弾着観測の有無、決戦後の追撃、どれをとっても圧倒的な物量を投入する努力を行った日本軍による航空優勢があってこそ実現したもので、これなくして日本の大勝利を生み出すことは不可能だったと結論づける事ができるだろう。
 そして、その事は後の日米の戦術ドクトリンが大きく変わった事で、明確に知ることが出来ると思う。
 特に日本側は大きく損傷した「信濃」、「浅間」、「葛城」が、戦後航空母艦へと改装された事が、それまでの戦いで大活躍し海軍上層部も執心していたはずの戦艦からの決別の第一歩と言えるのではないだろうか。

 では、この章の最後に、5月20日の米艦隊の出撃から米艦隊が西海岸の自軍制空権下に待避する6月20日までの、日米双方の損害を列記して締めくくろうと思う。

 ◆日本側
撃沈:(自沈含む)
戦艦:「駿河」、「近江」、「雲仙」、「陸奥」
空母:「神龍」
重巡:3隻、軽巡:2隻、駆逐艦:11隻、潜水艦:28隻 他多数

大破:
戦艦:
「信濃」、「紀伊」、「尾張」、
「浅間」、「葛城」、「愛宕」、「比叡」
重巡:2隻、駆逐艦:6隻

中小破:
戦艦:
「大和」、「武蔵」、「土佐」、「長門」、「富士」、「阿蘇」
重巡:5隻、軽巡:3隻、駆逐艦:19隻
潜水艦:6隻

損失機
艦載機:約280機 陸上機:約160機

◆アメリカ側
撃沈:(自沈含む)
戦艦:
「オハイオ」、「ニューハンプシャー」、
「フロリダ」、「メイン」、
「ノースカロライナ」、「ワシントン」、
「サウスダコタ」、「インディアナ」、
「アイオワ」、「ウィスコンシン」、「イリノイ」、「ケンタッキー」
空母:
「エンタープライズ」、「インディペンデンス」、
「ベローウッド」「ホーネット」、「ワスプ」
護衛空母:1隻
重巡:8隻、軽巡:8隻、駆逐艦:27隻、潜水艦:11隻
輸送船:8隻、タンカー:2隻

大破:
戦艦:「モンタナ」、「ルイジアナ」、「アラバマ」
護衛空母:1隻
重巡:2隻、軽巡:3隻、駆逐艦:8隻
輸送船:4隻、タンカー:1隻

中小破:
戦艦:「ミズーリ」、「ニュージャージ」、「マサチューセッツ」
重巡:2隻、軽巡:5隻、駆逐艦:17隻、潜水艦:4隻

損失機
艦載機:約570機

■終戦に向けて