■終戦に向けて
(再度発生した日米双方の命運をかけた決戦は終了しました。結果にご不満をお持ちの方も多数あると思いますが、この想定で以後も続けていきたいと思います。もちろん、前章の日本の勝利が多分に火葬戦記的ご都合主義的大勝利である事は重々承知していますが、すべてのルートにおいて少なくとも八八艦隊にはバッドエンドは設けないことを目指しているので、その点ご了承ください。)
さて、第二次ハワイ沖海戦は、日本海軍の大勝利で終了しました。日本側は、主要艦艇から見れば艦隊の2割程度の損失で済み、一方のアメリカ海軍は戦艦だけなら全体の6割を損失し、補助艦艇も小型艦を除くと約4割が失われました。そして、米海軍の第一線戦力の実に8割が損害を受け、半年は行動不能となります。 しかし、日本側も第一線の航空戦力の半数が壊滅しています。さらに、日本にとって大きな損害だったのは潜水艦隊で、決戦には稼働潜水艦の半数にあたる70〜80隻を投入し、潜水艦隊全体の2割に当たる艦艇を失っています。ハッキリ言って、ローテーションを考えると、以後3カ月は以前同様の通商破壊作戦が出来ないほど消耗しており、戦闘前のレベルに戻すには半年から1年は必要でしょう。エスコート艦隊についてもかなりを動員しているので、向こう3カ月は、ローテーションはかなり苦しいものとなります。 一方の米艦隊は、一線戦力こそ壊滅し西海岸が依然として脅威にさらされていますが、日本軍のような無茶はしていないので、エスコート艦隊も潜水艦隊も今まで同様活動可能です。そして、この一年以内にはさらに強力な6隻の戦艦を初めとする新造艦艇が多数就役し、この新造艦艇と残存艦隊を再編成すれば、来年の夏にはもう一度攻勢をかける事も可能です。もちろん、戦争経済を考慮しなければという条件が付きますが。
しかし、相対する日本帝国は再びの大勝利にも関わらず、政府レベルでは主に国力的な問題から再度の決戦どころか戦争を継続する気力を無くしており、この戦闘の勝利が決定したその日から、同盟国の英国に対する運動を強くします。また、この戦争に対して完全な中立国であり、日本とは武器輸出などの交流を通じて、そしてアメリカとは経済的な結び付きで双方にパイプを持っているドイツ第三帝国に対しても調停の依頼が持ち込まれます。また、それ以外でもフランスなどの列強にも同様の調停依頼が出されるます。 この要請に、対ソ連戦略のため日本にこれ以上衰退されては困る事と、国際舞台への大いなる躍進を果たすべく、ドイツはあれこれ注文を付けた上で外交儀礼として応じます。また、フランスもドイツへの対抗心ともともと親米感情が強い事から、講和の働きかけを行う事になります。 一方英国は、あえて表面的には明確な反応をせず、1939年6月20日ダウニング街から突如声明が発表されます。 曰く「1939年6月18日、我が国の民間船が国籍不明潜水艦によりカリブ海上で撃沈され、これに対して大英帝国は、王立海軍に対して警察行動の開始を命じると共に、この非道なる行いの首謀者を必ず見つけだし裁きの鉄槌を下すだろう。」 この宣言は、当然アメリカ合衆国に対して、ついに英国が日英同盟に従い、近いうちに参戦をするぞとの脅しているのであり、また、すでにドイツ総統からアメリカ大統領に親書が渡っていることを知っており、それを受け入れなければどうなっても知らないぞと言っている事になります。 この欧州列強の動きにアメリカ政府は、大きく動揺する事になります。 それは、今回の大敗で日本にはどうやっても勝てないと言う気持ちを市民が持ち、その市民の間に急速に厭戦気分が高まりつつある事と、ついに動き出した英国との戦争は、国家にとって悪夢と言える二正面戦争の始まりを示しており、戦争を知る者にとっても日本はともかく、英国経済は数年の戦争に耐えるだけの力(経済力)を取り戻しているレポートが提出されている事は大きな脅威でした。 さらに、英国には現在の日米海軍の総数に匹敵する24隻もの戦艦、巡洋戦艦を中核とする大艦隊があり、ひるがえって太平洋に戦力の大半を振り向けているアメリカ海軍には、大西洋でこれを阻止する力は全くなく、この英国の宣言が市民になお一層の停戦への声を大きくさせる事になります。
欧州列強の圧力もあり、7月に入ると日米は停戦のための秘密交渉を中立国で開始します。 しかし、結局のところ、1934年から約9カ月の休戦期間を挟んで5年近くに及ぶ戦争は、双方の経済を根底から蝕み始めており、このままでは第一次世界大戦の欧州列強の二の舞を演じる事になると言う現実が、双方の歩み寄りを実現させる事になったのです。 特に、日米双方で増大している未曾有の債務(国債)は、一刻も早く上昇グラフを止めないとどうなるかを思わせるには十二分な数値を示していました。 そしてその約1カ月後の8月14日、双方の政府で停戦が受諾され、翌8月15日正午、両国の戦闘部隊全てに停戦が命令され、ここに今度こそ本当に太平洋戦争は終戦のための一歩を踏み出します。 明けて9月2日、サンフランシスコに早くも日本海軍の戦艦「大和」以下の艦隊が入港し、飛行機で急ぎハワイにきていた日本停戦交渉団もそれに同上しており、当地での会議で前回のホノルル以上の労苦を伴う停戦交渉に奔走する事になります。
日米の講和会議が欧米主導で開催されている中、1939年11月30日、ソビエト連邦が突如旧ロシア領だった地域の返還をフィンランド政府に要求し、それがかなわないと武力でもって侵攻を開始する事で、事態は急を要することになります。また、ソビエト連邦は同時にバルト三国にも武力進駐を開始します。 ソビエトがこの時期に突如軍事行動を開始した理由は、日本が停戦により再び満州に兵力をシフトする前に欧州の問題を一つでも解決し、その外への成功でスターリン自らの指導体勢を強化するのが目的ですが、それ以外にも英国がアメリカを指向して兵力を移動していた事、停戦を斡旋したりアメリカに脅しをかけていた英独仏のどらもが、主に政治的理由でこの時点で東欧に対する軍事行動に出ることが出来ないと踏んだ事が、ソ連指導部をして東欧侵攻に走らせたのです。 このソ連の火事場泥棒的な非道な振る舞いに、国際世論は一斉にソ連非難を行い、満場一致で国連からの除名すら決定します。 また、ドイツ第三帝国がこのソ連の動きにいたく刺激され、ヒトラー総統はただちにフィンランド支援を決定し、大量の軍事物資と義勇軍が直接船でフィンランドに流れて行くことになり、欧州は再び混沌に陥っていきます。 さらに、ドイツは自らを共産主義から自由世界を守るための防波堤だと宣言し、ソ連との徹底的な対立姿勢を明確にし、合わせて英国などとの連携を訴えかけます。 なお、ドイツが自らを事実上「自由主義陣営」と言い切ったのは、日米の戦争に経済的に深く関わり、特に日米に対しての貿易やかなりの量の国債の購入など密接な繋がりを持つようになり、しかも対独融和政策による英国市場、資源とのリンクが発生していた事から、もはや自国本位の「国家社会主義」だけではドイツ経済を立ち行かせることが不可能な状態となっていたからでした。 皮肉にも、ドイツ経済を完全復活させた国際規模での経済活動が、ドイツの外交すら左右してしまったのです。
なお、日米での講和会議は、こうした世界情勢の中、不健康な交渉を重ねつつもそれなりに成果を上げ、翌年の1940年5月にはサンフランシスコ講和条約を締結、ここにようやく太平洋での争いが一応の終息を迎えることになりました。 なお、以下が講和会議で双方が酌み交わした講和条件です。
◆サンフランシスコ講和条約内容 アメリカ側負担 満州国の承認 グァム島の日本への割譲 ハワイ諸島(含むミッドウェー諸島、ライン諸島)、ウィーク島の非武装化 日米通商条約の復活、一部改訂 日本の貿易の最恩恵国待遇の承認
日本側負担 グァム島以外の全ての占領地域のアメリカへの返還と全軍事力の撤退 中国本土から必要最小限以外の軍備の撤退 マーシャル群島の非武装化 満州・支那市場のアメリカへの完全解放
双方負担 フィリピンの独立承認 通商、国交の回復 捕虜の交換、資産凍結解除etc アジア・太平洋の包括的な平和条約と同盟の締結
講和会議では、戦争の主な原因とされる満州・支那問題で、日本が支那市場を開放し、アメリカが満州国を承認する事で手打ちとされ、後は現状の戦況と国力から新たな勢力境界が決められていきます。 ただし、アメリカにとって痛手だったのは、日本が国連主導でフィリピン独立を主張した事で、国際的流れからもこれを受け入れざるを得なかった事でした。つまりアメリカ以外の列強主導でフィリピンを独立させられた事で、後の影響力が低くなったのです。このため、アジアへの足場を失ったことから、以後のアジアへの影響力を大幅に低下させる事になります。 そして、これに連動して必要性の薄れたグァム島が日本へ割譲される事になり、日本側の溜飲を少し下げさせる事になります。もちろん、日本がそれ以上の領土割譲を要求しなかったのは、それまでの戦いの経験から中部太平洋より東の維持など到底出来ないことを、軍民共体感的に悟ったからでした。 ちなみに、ハワイ、マーシャル以外の地域での中立化や軍縮条約が特に約束されなかったのは、欧州事情がきな臭くなっているからに他なりません。 そして、この戦争で日米双方が等しく思った事は、第一次世界大戦での欧州各国が思ったことと同じ「もうたくさん」、「総力戦など二度と御免だ」と言うことでした。 結局この戦争は、日米双方に大した利益をもたらさず、そればかりか相手経済を破壊するための総力戦という不健康極まりない戦争と、総力戦と言う事で必然的に発生した膨大な戦費を賄うための債務発行が天文学的単位となり、戦争当事者の双方の国家経済が傾くという結果だけを残すことになったからです。 しかも、日米だけで黙々と殴り合いをしている間に、国際社会から実質的においていかれた事も大きな失点と言えるでしょう。そう、日米双方とも戦争により国際的な外交主導権を失ってしまったのです。 その上、日本は英国から膨大な債務を購入してもらった事から、英国に対する外交的なイニシアチブを完全に失い、自国で債務の大半を消化しようとして結局それに失敗したアメリカは、その後四半世紀はその返済のためあえぐ事になります。 つまりは、第一次世界大戦で欧州列強が経験した事を、日米は時間をずらして体験してしまったと言う事です。 そして最も大きな事は、この戦争により日米双方は、世界の覇権を握る機会をこの時点で完全に失うことになったと言う事です。この失望は、特に世界最大の工業生産力を誇るアメリカにおいて大きなものとなり、後進国に対する戦術的な敗北と言う現実もあり、経済の減速という副産物を生み出す事になります。
なお、八八艦隊の鋼鉄の戦乙女たちは、この戦いで何隻かの戦没艦、新たな人生を歩みだしたもの、新しい姉妹の誕生などいくつかの変化が見られたので、それを最後に記してここでの第二章を締めくくりたいと思います。
残存戦艦(八八艦隊より8隻、合計13隻(一部空母へ改装)) 「紀伊」、「尾張」、「富士」、「阿蘇」 「愛宕」、「高雄」、「土佐」、「長門」 「伊勢」、「日向」 「金剛」、「比叡」、「榛名」
戦没戦艦(八八艦隊より6隻、合計9隻) 「駿河」、「近江」、「雲仙」、 「赤城」、「加賀」、「陸奥」 「扶桑」、「山城」、「霧島」
空母への改装戦艦(八八艦隊より2隻、合計4隻) 「浅間」、「葛城」、「信濃」、(「甲斐」)
新造戦艦 「大和」、「武蔵」 「信濃」(空母に改装)(「甲斐」)(空母に改装)
また、米国との戦いで航空機が重要な役割を果たした事から、航空優先のドクトリンが強くなり、戦後の軍縮の影響もあり大型戦艦の建造は以後ローペースとなり、変わって航空隊の整備と空母の建造重視へと移行していきます。
そして世界は、新たな戦争の予感を感じさせつつ、新たな局面を迎えようとしていました。