■奇襲攻撃
(※この節はある作品に対するオマージュです。分かる方は「ニヤリ」とだけ笑っていただければ嬉しく思います。)
1943年夏、久しぶりに行われた海洋帝国どうしの大海戦、『第二次マリアナ沖海戦』の結果は、双方の洋上機動戦力に甚大な損害「だけ」を生み出して終了した。 つまり、一見派手やかな戦闘が行われただけで、戦略的には何も変化がなかった、大規模海上決戦すらも消耗戦の一つとなったと言う事の何よりの証明だった。 だが合衆国側の見解としては、結果としては米軍の戦術的な意味での作戦は失敗だったが、日本軍の空母を多数撃沈する事に成功し、また日本の基地航空戦力の一時的消耗にも成功しており、その点において限定的成功と判断、艦隊が半年間使用不能になった事を差し引いても、大局的に見れば大きな成果があったと、決して上辺だけではない勝利宣言を行っていた。 彼らの巨大な国力が、この消耗戦を宣言勝利させたのだ。 一方の日本軍はと言えば、マリアナを防衛した事で一応の勝利宣言がされたが、米軍とは反対に裏では焦りを強くしていた。基地航空隊こそ自陣地での戦闘だった事から、搭乗員の消耗は最低限で済み、補充の航空機も増産体制の整っている内地から早急に送れば事足りたが、日本とって米軍ほど量産が難しい空母が多数損傷・撃沈されたことには別の感想を抱かせる事になっていた。 そして全てに言える事は、このような戦闘をズルズルと行えば、自分たちが予想しているよりも早く、ドイツが大西洋に乗り出してアメリカを包囲する前に、自分たちが消耗戦で先に参ってしまうのではと言う不安を持つに至った。
そして、好戦的と言うよりも刹那的なまでに攻撃的傾向を持つ日本人の出す結論は、いつも通り単純なものだった。 こちらから決戦場を求め米艦隊を殲滅し、なおかつ合衆国軍の攻勢を断ち切るような作戦を実施しようとしたのだ。 戦争のイニシアチブを再び握ろうと言う意図こそ正しいと言えたが、単純に攻勢へと転化してしまった点は実に日本人的決定と言えるだろう。 しかし、それに合致する戦場はわずかしかなかった。アメリカを相手にしている以上、北アメリカ大陸西海岸かハワイ諸島のどちらか。現在の戦闘正面のトラック=マーシャル諸島地域は、米軍の重厚な防御網がある事から最初から除外されていた。そして、自らの腕の長さと敵の反撃密度、自らが一応のアドバンテージを持っている戦力――洋上機動戦力の優位を考えれば、その場所は太平洋上で孤立したハワイ諸島しかなかった。しかもここなら、奪回と言う事で政治的得点も大きなものとなるため、都合がよかった。 また、2年に渡るシーレーンの防衛において、一つの光明が日本軍にもたらされる事になる。それは、海上護衛を熱心にしたおかげか、自国の造船力が予想以上に大きかったからなのか、米軍の通商破壊戦術が予想以上に稚拙なのか、理由は何であれ自分たちの手持ちの船舶が戦前より大きく膨れ上がっており、対して合衆国の船舶は全枢軸国の攻撃を一身に受けている事からそれほど増加してなく、海上交通と言う点において、自分たちの方がアドバンテージを持っていると言う、総力戦研究所のレポートによるものだった。 ちなみに、日本帝国は1940年の戦争の直前に1400万頓の船舶を抱え、合衆国は1938年ぐらいより増産体制をそれなりに準備しながら約1300万頓で1941年の開戦を迎えたが、43年が終わろうとしている頃、日本の船舶保有量は軌道に乗った戦時生産の努力により、平時の民需だけを考えれば不必要とすら言える2100万頓に達し、対するスタートの遅れたアメリカは1700万頓程度と、日本が完全に合衆国を突き放す数値に達していた。 なお、1939年の英国(含む連邦)の船舶量は2200万頓に達していたが、相次ぐドイツによる通商破壊で増産も追いつかず激減し、1943年には日本が一躍世界一に躍り出る事になっていた。 なお、戦時造船能力は、アメリカが900万頓と最も大きく、次いで日本が600万頓、英国が500万頓程度だった。 ちなみに、米軍の船舶の損害が大きかったのは、後の研究で開戦までのアメリカ海軍が、戦艦重視の予算の都合から決戦海軍として建設されていた事、それまで一度も近代的な通商破壊戦を経験した事がない影響が大きかったと言う事から来ていると結論している。 そしてこの数字は、日本がその気になれば、700万頓程度の船舶(戦標船で約1000隻)を民需と他の戦線の補給線を阻害する事なく、一つの軍事作戦に投入できる事を意味していた。 つまり、日本軍の全軍事力を投入したハワイ奪還作戦が、兵站面からなら「可能」だと言うことを意味していた。
なお、このハワイを強引に奪い取ろうと言う作戦の原案は、連合艦隊の作戦参謀たちが独自に考え出したものでも、軍令部の秀才参謀たちが生み出したものでもなかった。 ある砲術科の将校が語った、この戦争の展望に関するある発言が発端だと言われている。 ではここで、その言葉の一説を引用しておこう。概要は以下のようだったとされる。 「我が海上交通の途絶と前線戦力の消耗を狙う敵の意図に対して、我が方の対抗策は限られています。現状では双方の戦力は均衡しており、それこそがこの停滞した消耗戦を呼び込んでいますが、今後はどうなるかわかったものではありません。また、敵が望むであろうこの中部太平洋での戦闘を展開しているかぎり、損害が続出するだけで、根本的な解決にはならない。と言う事です。」 発言者は、一旦ここで言葉をおいてさらに続けた。 「こうした状況をさけるために、自分としては、早期に大規模な攻勢を発起する必要があると考えます。(中略)ともかく、防衛的な発想をすべて捨て去ることです。どこそこをまもりきれたならば、負けずにはすむ、この場はしのげる、といった発想を。自分としては、一撃で敵の戦意をくじくような、あるいは、敵の戦争計画を崩壊に追い込むような攻勢が最良の解決策だと思います。(中略)GFのみならず、帝国の全ての軍事力を投入して、布哇を一戦で占領するのです。」と。 さらにその発言を聞いた者の質問に対して、さまざまな想定にも原案としてなら十分な反論を行い、この作戦が帝国にとっても決して投機的なものでない事を印象づける事に成功したと言われる。 この話は、レイテでの戦闘が落ち着いた頃に、とある研究会でされたと言われているが、その約一年後の、つまり今回の『第二次マリアナ沖海戦』でそれを軍上層部にも十二分に実感させる事となり、急遽「布哇奪還作戦」が計画立案、実行される事になったのだ。 当然これは、戦術面から見れば投機性が高い事に変わりなく、そのため日本軍としては厳重に秘匿され、関係者以外は戦闘の直前まで大佐以下の将兵全てが、膨大な物資が急に内地で準備され出したのを、ついにマーシャル諸島奪回作戦が発動されるのだと考えていたと言われる。それは、ある程度の情報を得ていた米軍においてもそう判断されていた。 それがごく常識的な判断であり、予測されうる作戦だったからだ。
表向きの作戦名称は「い」号作戦とされたが、秘匿作戦名称は「き」号作戦とされた。この「き」の一文字には、「奇襲」、「奇策」、「強襲」という意味があったとされているが、作戦の意図を知るものにとっては、「奇蹟」を願ってつけたのだろうと言うのが一般的な感想だったと言われている。故に、この作戦は部内では「MI作戦」(ミラクルの略)とも言われていた。 もっとも、口さがないものは「き○がい」や「狂気」の「き」だと、この作戦を批判したと伝わっている。 作戦の発動は、合衆国海軍主力の全てが再びマーシャルに帰ってくる1943年末から1944年初頭。 彼らが再びマーシャルに集結し、内南洋で何かを起こすそのタイミングに彼らの足下を根底から覆し、戦争の主導権を日本の手に取り戻し、停戦の足がかりにしようと言うのが戦略的な目標とされた。 もちろん戦術第一目標は、万難を排していかなる犠牲を省みず、短期間でハワイ諸島とその一帯を奪取する事にあった。 その後の調整により作戦発動は、日本時間で1943年12月8日と決定された。 この作戦の成功如何で、戦争の帰趨が決定するのだ。 このため、日本軍全体でかつてないほどの欺瞞工作が行われ、特に作戦発動時には、あたかも連合艦隊のほぼ全力が、日本本土近海に集結しているかのような欺瞞電波情報が飛び交っていた。これは、主要な各艦の無電員を内地の要員と総入れ替えすると言う、まことに日本的な芸の細かさを見せる念の入りようだった。また、作戦の関係上ほぼ蚊帳の外におかれた、陸海の基地航空隊の上級指揮官の一部までが、欺瞞電波の多さにいったい何が始まるのかと司令部に抗議に来たと言う逸話が、この作戦における秘匿性の高さと欺瞞の完全さを表したものと言えよう。 また、念のため各基地航空隊は予備も含めた戦力すら投入され、こちらが動く前に米軍が攻撃した時に備えられた。これが、米軍と一部基地日本軍航空隊をして、マーシャル奪回近しとなおいっそう思わせる個とにもなっていた。
現地時間1943年12月7日早朝、ハワイ諸島各地に設置された大型のレーダーサイトは、突如北北西から殺到する航空機の群を捉え、その次の瞬間レーダーが妨害のためにホワイトアウトした。 その数約500機。再建された日本帝国海軍・空母機動部隊が総力を挙げて放った攻撃隊だった。もちろん、その後には約300機による第二波攻撃隊も続いており、日本のマリアナ同様、一部の警戒部隊と最低限の防衛隊を除いて、後方で休養している部隊しかいなかった在ハワイ海空戦力は、その日の午前中に米軍のマリアナに倍する攻撃により粉砕される事となる。 米軍の布哇近在の海空での組織的抵抗は、圧倒的な空母艦載機の攻撃力の前にその日のうちに消滅した。まったくもって、戦力の集中が生み出した必然的な結果だった。 中でも米軍にとって悲劇だったのは、戦術的に完全な奇襲だったため、真珠湾からマーシャルなどの前線に配備されるべく入港していた艦艇や船舶など護衛艦隊のかなりが格好のターゲットとされ、その過半が大破・撃沈された事だった。この中には前線に赴く途中のルイジアナ級戦艦「デラウェア」を始め護衛空母3隻、軽巡洋艦2隻など多数の有力な艦艇が含まれており、撃破された20万頓にも及ぶ商船を含めると、これだけで43年に日本軍がマーシャル近海で被ったダメージを上回るものがあった。 特に、戦艦「デラウェア」は、乾ドックで大破していたものをその後進駐した日本軍に捕獲、突貫工事で復旧された後、次の戦闘で前線に姿を現すという最悪の事態に至っていた。 その後も日本軍の攻撃は続き、その日一日で在ハワイ軍は陸軍を除いて壊滅的なダメージを受ける事になる。 そして次の日の夜明け、久しぶりに日本艦隊がオワフ島沖に現れ、それまでの鬱憤を晴らすかのような艦砲射撃を、合衆国ハワイ守備隊の上に浴びせかけた。 そこで米将兵は、日本軍が何隻もの巨大な新造戦艦を投入している事実を知ったが、それを目にしたものの過半、自らの姿を見た不届き者を彼女自身の刃にて葬り去っていた。 20インチ砲が最初に砲火を開いたのが陸上目標に対してというのは、大艦巨砲主義者にとっては屈辱的だったが、その破壊力はあまりにも圧倒的だった。 日本軍の標準砲の一つである46cm砲の35%増しの重量、1950kgの自重を持つ砲弾は、ハワイのいかなる要塞陣地をも粉砕し、三式弾による火焔のシャワーは歩兵1個中隊を瞬時に神の御元へと送り届けた。 半日の艦砲射撃の後、今度はワイキキの浜辺に海を埋め尽くすような膨大な数の強襲上陸船舶が姿を現し、米軍の目から見れば瞬く間に船尾のスロープから海が黒くなるほど上陸用舟艇を展開し、それらが浜辺に向かって押し寄せせた。 日本軍がそれまでの戦訓を踏まえて多数整備した、各種強襲上陸艦の威力だった。 その日オワフ島に上陸したのは、陸軍第五師団、海軍第一特別陸戦師団の強襲上陸作戦に熟練した2個師団で、上陸戦に長けた二つの師団の活躍により橋頭堡が確保されたその翌日には、ソ連戦で活躍した第二機甲師団が新鋭戦車と共に揚陸され、圧倒的な物量で在ハワイ合衆国陸軍を粉砕した。 中でも、海軍の100mm両用砲を改造した戦車砲を搭載した「三式砲戦車」の威力は絶大で、米軍の「M4シャーマン」戦車の装甲をボール紙のように貫いていた。 その後もオワフ島の攻防は続くが、たった2日で絶対的と言える制空権と制海権を獲得した日本軍の前に、在ハワイ駐留合衆国軍はもはや為すすべがなく、一週間後にはオワフ島内陸のコオラオ山脈に追いやられ、ワシントンに対して降伏を要請する状況に追い込まれる事になる。 もちろん、他のハワイ諸島各地の島々も順次日本の艦隊と上陸部隊が現れ、守備隊の三〜五倍もの兵力で制圧していった。 この作戦で日本軍が用意した上陸用船舶は400隻(約350万頓)、その腹の中にあった上陸兵力は(自動車化)歩兵師団2個、機械化師団2個、機甲師団2個、海軍特別陸師団1個、空挺1個旅団など、合計15万名にも及んでいた。どの師団も高度に機械化されており、合計車両数1万3000両、各種装甲戦闘車両1000両に及んでいた。比較的小規模な島々に投入するには、過ぎたる機甲戦力だった。 これに、上陸数日後から展開始めた陸海の基地航空隊の支援が加わり、ハワイの空を席巻していた。 まさに、日本帝国軍の総力を挙げた史上最大の上陸作戦だった。 なお、上陸部隊の中には、大隊規模程度ばかりだったが、韓国軍や満州国軍など日本の友邦の姿があり、なかには義勇印度軍の姿すら見受けられた。もちろん、日本軍と共に戦う姿が世界中に配信され、この攻撃がいかなる性質のものかを世界中に発信した。 日本は、このハワイでの戦いを単なる日本対アメリカの戦いでなく、ハワイを奪回するという目的の元、アジア対アメリカの戦いにすり替えてしまったのだ。
一方、空母部隊を再建し、今度はトラックをバイパスし、日本海軍の一大根拠地となっていたパラオ環礁を襲撃しようとしていた合衆国太平洋艦隊は、その行程の道半ばにしてハワイからの第一報を聞く事になる。 同時に、エニウェトクなどマーシャル各地がかつて無い程の日本軍の空襲を受け、大きな損害を出しているという報告も合わせて受けることにとなった。 アメリカ軍の狼狽は、表現できないほど激しかった。 完全に日本軍に裏をかかれたからだ。 日本軍のマーシャル奪回に先駆けて、パラオ環礁を強襲。これにより敵の足下をすくうはずが、自らの足下がすくわれるどころか、その足下から崩されてしまったのだから、米軍の狼狽も当然と言えた。 ただちにハワイに反転し、日本軍を撃退しようと言う意見が、前線部隊はもとよりホワイトハウスでも交わされたが、大艦隊がそう簡単に進路を変更できる筈もなく、艦隊はとりあえず、クェゼリンまで引き返し、次の命令を待つようにとの指令がサンディエゴを経由してワシントンから出された。 これは、太平洋艦隊司令部のあったハワイがすでに敵の手中にあり、ここからの指令を出すことが物理的に不可能となっていた事から起きた混乱でもあったが、太平洋艦隊司令部は、最初の奇襲で完全に混乱状態となり(日本軍が狙って攻撃を行ったせいもある)、しかも圧倒的な制空権・制海権のもとでは結局逃げ延びる事が出来ず、司令長官のニミッツ提督は潜水艦での脱出間際に現地日本軍の捕虜となり、日本軍のハワイ空襲の序盤で暗号傍受班など通信部門が、初期の爆撃と艦砲射撃で壊滅していたことなども重なり、以後の太平洋での混乱をより大きくする事になる。 これは、単に司令長官だけでなく、司令部機能の全てが失われたからだと言うことは、言うまでもないだろう。
ハワイでの戦闘がすでに残敵掃討の段階に入り、またミッドウェー諸島までが日本の手に帰そうとしていた頃、世界は1944年へと突入した。 しかし新年が明けても、ハワイ失陥による合衆国の混乱は続いた。それは日本がハワイとの間に巨大な補給路を設定し、攻撃的な戦力の大半がハワイ近海に展開したことが判明した事でより大きなものとなる。 驚くべき事に、日本のハワイ占領は一時的なものではなかった事が判明したからだ。 しかし、1944年に入ってからの悲報はそれだけではなかった。 西欧において続いていた英独の戦いが遂に終息したからだ。 結果は、それまでの戦いからすれば、思いの外呆気ないものだった。 欧州での決着は、独ソ戦と片づけたドイツが全ての戦力を英国に振り向け、第二次バトル・オブ・ブリテンで英国の退勢が決定的となり、通商破壊の効果がついに国民の胃袋に大きな損害を与えるようになった段階でチャーチル内閣が崩壊、後を継いだアトリー政権により停戦の実現という形でついた。要するに、ドイツの判定勝ちである。 (もちろん、日本軍によるインド(洋)制圧の効果も無視できない。) 英独の停戦は1944年の1月10日に成立し、欧州での決着はドイツの一人勝ちにより終息を迎えることになった。 停戦が発表されたその日、さすがのジョンブルも、紅茶とデザートのスコーンがなくては戦争が出来ないのだと、ベルリン子たちはその喜びを表したと言われる。 なお、この時点で英国は、20隻近くにもおよぶ戦艦を依然保持していたが、航空機と潜水艦により戦われた欧州での戦場では、彼女たちの活躍の場は少なく、あまつさえ戦時賠償としてドイツに何隻かが輿入れすると言う結末を迎える事になる。
戦争を深く学ばなかった人には、英独の停戦がなぜ合衆国にとって大きな悲報かと思われるかもしれない。確かに、合衆国と英国は同盟も何も結んでいないので、一見それ程関係ないようにも思われるが、別の視点から見れば日本とドイツは軍事同盟を結んでおり、さらにドイツは同盟を尊守して対米宣戦布告を行っており、そのドイツ軍が大西洋に出てくる事になるのが悲報だったのだ。またそれ以上に、ドイツが停戦に際して英国にドイツの交戦国との間との中立を求め、戦争資源に関るものに関しての交易の制限すら要求した事も大きな悲報だった。 これにより合衆国は、国内で不足する多くの資源を大量に手に入れるすべを失ったからだった。(英米の仲が悪くても貿易だけはしていた。) そして、ドイツ軍の目に見える脅威は、英独休戦とともにその姿を顕わした。それは、1月半ばに入ってからの大西洋での船舶の損害が上昇していた事だ。 そして、ハワイの陥落と合わせて、合衆国市民が戦争に敗北を感じ、厭戦気分を醸成させるには十二分なものだったと言う事も、政府にとっては大きな悲報となった。 こうした中、合衆国政府はこの状況を打破するにはハワイにとりついた日本軍を排除し、再びハワイを奪うしかないと言う結論に立つことになる。 合衆国には、市民に対して目に見える勝利が必要だったし、アジアの覇権確立には日本と決戦を行い、これに決定的な勝利をする必要もあり、そのための時間も残り少ないと言う狭義の戦略的判断もこれを後押しした。 この考えに従い、クェゼリン環礁でむなしく政府の待機命令を守っていた太平洋艦隊に対して、一旦サンジエゴに帰投後、艦隊を再編成し全力を挙げてハワイを奪還せよとの大統領命令が下った。 一方、マーシャルに展開している膨大な基地部隊には、日本打倒のためにはこの地を一時的とは言え失う事は決してできないと、補給は可能な限り行う事の見返りとして事実上の死守が命令が下されており、その大統領命令が下ると基地将兵の恨みがましい視線の中、マーシャルにあった軍事力の内、機動戦力たる太平洋艦隊主力だけが本土へと帰投していった。 しかし、政府がマーシャルからの撤退をさせなかった大きな理由は、ここから艦隊を戻すだけでなく全てを放棄するような事があれば、なお一層の厭戦気分が国内に醸成されるだろうと懸念したからに他ならない。
マーシャルを発った太平洋艦隊は、日本の占領するハワイを大きく迂回して約1カ月後にサンジエゴに無事帰投したが、その時にはハワイ全域は完全に日本の手に帰しており、1月末にはハワイ王室までが戻り、高らかに独立復活すら宣言していた。 しかし、戻ったばかりの艦隊が、すぐに投入できる訳でもなく、しかも長らくの前線活動により一度徹底したメンテナンスの必要性がある艦も少なくなかった事、そしてハワイ奪還のための大規模な上陸部隊を準備する必要があった事などから、合衆国軍によるハワイ奪還作戦は、1944年4月発動とされた。 しかし、この間にアメリカにとって大きな誤算を発生させる事となる。それは、日本軍がその戦力の大半をハワイに展開した事により、アメリカの太平洋の海上交通線がズタズタに引き裂かれ始めたからだ。特にこれは、合衆国がそれまでハワイを基点として太平洋全域の海上補給路を設定していた事が、その損害を大きくしていた。 当然、その対抗として、日本が新たに構築した日本本土とハワイを直接つなぐ海上補給路を途絶しようとしたが、日本がその総力をあげて展開した大規模船団護衛戦術により、その効果も減殺されてしまい、アメリカの被害ばかりが目立つものなる。特に日本軍は犠牲を厭うことなく、前線に向かうタンカーばかりを執拗に狙っていた。事前に準備していたものと泥縄式にしか作戦を準備できなかったものの差だった。 戦争のイニシアチブは、この時点で完全に日本軍の手に握られていたのだ。 そして、日本軍による海上交通の妨害だけでなく、3月に入るとドイツ軍のUボートすら太平洋へと派遣され、その損害に拍車をかけていた。Uボートに関しては、数が限られていた事から枢軸同盟の結束をアピールする政治的なショーの一端に過ぎなかったが、マーシャルで石油精製物の不足を招いている事には違いなく、マーシャルに展開した部隊は、3月には満足に航空隊すら満足に運用できないようになりつつあった。それを知っている日本軍も、あえて攻勢を強めマーシャルの消耗を助長していた事も、この飢餓状態に拍車をかけていた。
なお、1944年2月から4月にかけてアメリカ合衆国が受けた船舶の損害は極めて深刻で、護衛がしっかりされていないとして乗船を拒否する民間船員が多数現れ、一部ではストすら起きるという事態にまで発展していた。 これは、日本軍がハワイから徹底した通商破壊を開始した事に加えて、それまで英国の海上交通を破壊していた全ドイツ潜水艦隊がそのターゲットを合衆国船舶に絞ってきたからで、この二つが原因で、2月から4月にかけてアメリカ合衆国は、実に300万頓もの船舶を喪失する事になる(月100万トン平均)。これは、当時の合衆国が保有する船舶の15%にも相当する量で、以後体勢を整えれば減少すると見られたが、これが今後も継続されると言う事が何を表すかそれは言うまでもないだろう。 合衆国がこれ程のダメージをこの時期に受けた事は、日本軍の突然のハワイ侵攻とその後の破壊活動も大きな原因だったが、英国のような優れた対潜水艦戦術をこの時点でも構築できてなかった事と、英国海軍との熾烈な戦いで、その戦術と機材を著しく−太平洋の戦いから比較すれば次元の違うほどの向上を見せていたドイツ潜水艦隊が、全力で襲いかかってきた影響が大きかった。当然、ドイツの戦術と機材を技術導入して真似ている日本海軍の努力がこれに拍車をかけていた事も、それまでの日本海軍の体質を考えれば注目に値するだろう。
そうして、さまざまな方向から政治的に追いつめられつつあった合衆国は、ついにハワイ奪回作戦の発動を決意。太平洋艦隊のみならず合衆国の遠征可能な軍事力の総力を挙げて、日本艦隊への決戦とハワイ奪取を企図する。 決戦海上は、日本海軍の迎撃が当然考えられる事から、ハワイ東方約1000kmの東太平洋上。 決戦時期は1944年4月初頭。 この戦いにおいて、合衆国軍は撤退する事は許されなかった。 彼らがサンジエゴへの帰投を許されるのは、ハワイを奪還して凱旋する時だけだったのだ。 そして、日本艦隊を撃滅した後、改めてハワイ諸島に星条旗を翻させるのだ。
では、次なるハワイ沖での戦闘を前に、ここでもう一度双方の戦力を水上戦力の面から再確認しておこう。 なお、どちらにせよハワイからかなり沖合での戦闘となる事から、基地航空戦力はここには掲載しないものとする。同様に、機動力に劣るハワイ攻略船団と、その護衛部隊もここからは除外する。 日本側も、対潜ハンターキラーや輸送路を作り上げている護衛艦隊については除外、基地航空部隊も同様に除外する。
では、まず最初に双方の艦隊編成の概略を見ていただこう。
第一艦隊: BB:「大和」、「武蔵」、「信濃」 BB:「紀伊」、「尾張」、「駿河」、「近江」 BB:「富士」、「阿蘇」、「雲仙」、「浅間」 CG:6隻、CL:1隻、DD:16隻
第一艦隊・制空護衛隊 CVL:「龍鳳」、「瑞鳳」、DD:4隻(艦載機:60)
第二艦隊: BB:「葛城」、「赤城」、「愛宕」、「高雄」 BB:「加賀」、「土佐」、「長門」、「陸奥」 BB:「高千穂」、「穂高」 CG:4隻、CL:3隻、DD:16隻
第一機動艦隊(艦載機:400) CV:「大鳳」、「海鳳」、「翔鳳」、「白鳳」 AC:「剣」、「黒姫」 BB:「対馬(旧デラウェア)」 CG:2隻、CL:1隻、DD:16隻
第二機動艦隊(艦載機:330) CV:「翔鶴」、「瑞鶴」、「千鶴」 CVL:「日進」、「瑞穂」 AC:「白根」、「鞍馬」 CLA:3隻、DD:15隻
第三機動艦隊(艦載機:300) CV:「飛龍」、「雲龍」、「昇龍」 CVL:「千歳」、「千代田」 BB:「比叡」 CG:2隻、CL:2隻、DD:14隻
第四機動艦隊(艦載機:300) CV:「白龍」、「黒龍」、「紅龍」 CVL:「千早」、「千景」 BB:「金剛」、「榛名」 CLA:2隻、DD:16隻
第三四任務部隊 BB:「ルイジアナ」、「オハイオ」、「メイン」 BB:「ニューハンプシャー」、「コネチカット」 BB:「ノースカロライナ」、「ワシントン」 BB:「アラバマ」、「マサチューセッツ」、 「ロードアイランド」 CG:4隻、CL:4隻、DD:16隻
第三五任務部隊 BB:「アイオワ」、「ニュージャージ」、「ミズーリ」 BB:「ウィスコンシン」、「イリノイ」、「ケンタッキー」 BC:「アラスカ」、「サモア」 CG:4隻、CL:3隻、DD:16隻
第十三任務部隊 BB:「インディアナ」、「モンタナ」、「サラトガ」 BB:「コロラド」、「カリフォルニア」 CG:3隻、CL:2隻、DD:16隻
第五八任務部隊
第一群(艦載機:370) CV:「エンタープライズ」、「フランクリン」、 「タイコンデロガ」 CVL:2隻 BC:「プエルト・リコ」、「ライン」 CL:3隻、CLA:2隻、DD:16隻
第二群(艦載機:380) CV:「バンカー・ヒル」、「ホーネット2」、「ワスプ2」 CVL:2隻 CG:2隻、CLA:2隻、CL:2隻、DD:16隻
第三群(艦載機:320) CV:「ランドルフ」、「ハンコック」 CVL:3隻 CL:3隻、CLA:2隻、DD:16隻
以上、双方ともあまりにも膨大な戦力が集結しており、しかも、互いにこれ以外にも膨大な数を抱える護衛艦艇と潜水艦が存在している。 では、キャスティングが揃った所で、少しこれらを細かく見てみてみよう。 まず、双方の水上艦の「数」だが、日本帝国連合艦隊が、戦艦25隻、巡洋戦艦(超甲巡)4隻、大型空母7隻、中型空母6隻、軽空母8隻、重巡洋艦14隻、軽巡洋艦7隻、防空巡洋艦5隻、駆逐艦93隻で、対するアメリカ合衆国太平洋艦隊が、戦艦21隻、巡洋戦艦(戦闘巡洋艦)4隻、大型空母8隻、軽空母7隻、重巡洋艦13隻、軽巡洋艦15隻、防空巡洋艦6隻、駆逐艦96隻となり、一見日本側の砲力が高いように思えるが、これは米側の戦艦の主砲発射速度が速いことから相殺されており、数の上からならほぼ互角、もしくは攻撃力なら米軍に若干有利という数字を見る事ができる。 そして、彼女たちが抱える艦載機数は、日本が1390機、合衆国が1070機となる。双方艦載機数が空母の定数より多いのは、日米双方とも露天搭載を大半の空母が行って、搭載機数の水増しを行っているからで、これこそ空母と言う兵器の醍醐味の一つと言えるだろう。 ただし、双方ともこのうち1割はスペアで、それを実際運用するにはかなりの制限がつくものとなっている。 なお、米軍にはこれ以外に多数の護衛空母が抱える航空機が多数あり(護衛空母18隻、艦載機数約500機)、これが後方からゆっくりと追いかけてきており、場合によってはそれも投入可能で、一概に米軍が不利とは言えない状況だった。もちろん、日本側も在ハワイ基地航空隊が1000機以上(2個航空艦隊分)存在しており、その制空権下で作戦をすれば遙に優位に戦局を運ぶことが可能となる。 また、これとは別に水面下には偵察を行ったり、スキあらば襲撃を狙う潜水艦が多数潜伏しており、日本側が最低でも50隻、合衆国側が20隻を展開していたと見られた。これは、日本側があきらかに「狼群戦法」を狙ってそのためだけに多数集めていたからで、合衆国軍が単に偵察と奇襲を任務に割り当てていたこととは対照的と言えるだろう。 そして、この双方の艦隊編成から言える事は、依然としてどちらも「砲雷撃戦」による決戦方針をとっていた事で、航空戦力には互いの力をどれだけそぎ落とせるかと言う事に期待が持たれて、これはどちらがどうと言う事はない。 しかし、あえて言うなら1941年の英国との戦いで、航空機と水上打撃部隊を連携させ敵艦隊を撃滅した経験を持つ日本軍に、この傾向が強いと言えるかも知れない。 日本海軍の一部では、これを「機動漸減戦術」と呼んでいた。
次に、日本の最低三倍の国力を持つと言われる合衆国艦隊の陣容が、膨大な戦力を抱える日本艦隊に対して貧弱に思われるかもしれないが、これは日本海軍が20年前から整備した艦隊がほぼ無傷で存在しているのに対して、合衆国の戦艦の大半が1940年以後に就役したと言う事が大きく響いている。合衆国は1936年から1944年のこの時点までに実に18隻の戦艦、4隻の戦闘巡洋艦を新たに就役させており(排水量にして100万トン以上。この数字は建造効率を考えれば空母なら2倍、商船なら場合によっては10倍以上の数値が同様の労力で達成可能である。)、これだけで日本の連合艦隊の半分を揃える事ができるほどの予算が傾注されていると言う事を忘れるわけにはいかないだろう。 また、日本の工業力が重工業躍進時の国に相応しく、最も労働集約率が高い主に鉄鋼、造船方面で大躍進しており、この分野でアメリカに大きく追いついていると言う点も見逃してはならない。加えて言うなら、1942年夏ぐらいからは合衆国は大西洋でもドイツとの戦いに多くの努力を傾けており、念のための東海岸の防衛対策と、大西洋で運用する護衛艦艇の建造に多くの資材と人員を取られ、それが太平洋での決戦艦隊の編成に響いているのだ。 さらに、今更言うまでもないが、合衆国がどん底不景気から回復できぬまま戦争へと突入した事による混乱が、本来あるべき合衆国の生産力を発揮させていないという点も留意しなければいけないだろう。 いかに、陸軍の大量動員をせずにその余剰人員を工場労働に従事させていても、もともと高度な産業国家において、機械の働き以上の事を人海戦術で大幅な効率アップさせるには限界があるという例と言えるだろう。 なお、この度の合衆国にとっての戦争は、この時点では太平洋を主戦場とした戦争だったため陸軍での大動員がなく、工場などの職場には男の労働者が多数残り、これが他の国で発生している女性の社会進出をアメリカにおいて大きく抑制した事は、自由を標榜とする国家にとって、皮肉と言えばこれ以上はない皮肉であろう。
ちなみに、個艦レベルで特筆すべき点を述べるなら、その多くは日本側の新兵器と言う事になる。 日本側の目玉商品は、1939年に一斉に建造が開始された満載排水量10万頓に達する「大和」級戦艦三隻と、こちらも満載排水量5万頓を超える「大鳳」級航空母艦四隻だろう。 どちらも平時であったなら、国を傾かせる程の予算を傾注して建造され、まさにこの日のために用意された存在と言え、日本(海)軍の希望を一身に背負っている存在と言える。 もちろん、その姿は見せかけではなく、性能の面においても個艦レベルでは随一のものがあるのは間違いない。 ただ「大和」級の45口径51cm砲の破壊力は、まさに圧倒的の一言につきるが、その遠距離砲撃戦能力を電探の発展が追いついていないなどの技術的なちぐはぐさもあり、これは日本の限界を現しているとも言えるだろう。 なお、あえてここで改めて述べる事があるとするなら、「大和」級を3隻、「大鳳」級4隻揃える、個艦しての優秀性だけを期待するのでなく、短期間に出来る限りの数を揃えて連合艦隊というシステム全体の向上に努力した、日本海軍の姿勢こそが称えられるべきだろう。それは歴史が雄弁に物語っていると思う。 また、ユニークなのが、戦艦「対馬(旧デラウェア)」の存在だろう。これは、ハワイで一時ドック入りしていた時に、日本軍の空襲で行動不能となり、なんとか動かそうとしていた所を日本軍の急な侵攻を受け、合衆国軍の手で爆破もできないまま日本軍に捕獲されたものだ。 そして、進駐した日本海軍が捕らわれの彼女に目を付け、半ばアメリカへの当てつけの目的で強引に修理して前線に持ち込んでいたものだった。細かな装備の大半は2カ月の突貫工事で日本風のものに改められたが、砲装備の大半は現地で大量の砲弾も接収できたので、この当時はそのまま投入されていた。ただし、さすがに訓練の時間がなく、取りあえず艦隊行動と防空戦闘だけできるようにして、本土から「大鳳」級の新造艦の護衛として投入されたものだった。 これは、日本海軍に米戦艦の主砲射撃システムを使いこなす時間、または日本式に改装する時間がなかったと言う理由もある。 かたや米軍では最精鋭の戦艦が、一方の日本軍では戦利艦と言うこともあり、実質的に二線級艦と言うのはある種の諧謔すら感じさせる現状と言ってよいのではないだろうか。 一方の米軍だが、量産された「ルイジアナ」級戦艦と多数建造された「エセックス」級空母がやはり切り札と言えるだろう。 特に1942年に計画された大型空母を、この時点で新たに5隻も送り込んだ合衆国の底力には、今更ながら驚嘆せざるをえない。. また、満載排水量7万頓に達する巨大戦艦を、戦時中に6隻も建造した事も同様と言えるだろう。
艦艇以外に技術的な事を少し書くと、信頼性の高い電波兵器がようやく両軍で出そろった事が特筆に値すると言える。 実際の名称であげれば、日本軍の水上捜索用「42号」電探、対空射撃用の「23号」電探、合衆国軍の「SG」レーダーなどが著名なところだろうか。どちらも、英独の同じものに比べれば性能的に劣ると言えるが、ドイツからの技術を輸入できた日本の方に若干アドバンテージがあると言える。対する合衆国は基礎的な工業力こそ大きかったが、先端技術力と言う点で欧州などより未熟だった事がこの段階においても祟っており、列強の中で電波兵器で一番遅れるという事態を招いていた。 なお、日本軍は、日本本土や南洋の各地だけでなく、ハワイにもドイツから「カムフーバー・ライン」として知られる、電探を多用した早期警戒システムを導入したものを持ち込んでおり、短期間で取りあえず使えるレベルにまで構築し、その防衛に万全を期していた。この一事をもっても、日本軍がこの一連のハワイ作戦にかけていた意気込みが知れよう。 また、これ以外に「ヘンシェルHS293A」で有名な無線誘導奮進弾の国産初期型が、在ハワイ航空隊の大型機部隊に配備され、「切り札」としてその決定的瞬間を待っていた。
最後にこの戦闘で運用された航空機だが、双方とも艦載機が主力と言う事になる。もちろん、日本海軍の異常なほどの航続距離を実現し、この戦闘でも主に偵察面で大きな活躍をした「二式大艇」や「連山」と言った大型機の存在も無視できないが、やはりこの戦闘での花形だったのは艦載機だろう。 日本側は「烈風」、「彗星改」、「天山」、「流星」、「彩雲」が、合衆国側では「ヘルキャット」、「コルセア」、「ヘルダイバー」、「アヴェンジャー」がそれに当たる。 中でも特筆すべきものとして、日本軍が母艦艦載機としてこの戦闘で初めてそして大量に実戦投入した「烈風」、「流星」を特にここでは紹介しておこう。 「烈風」は、日本海軍が43年春頃からトラックで使用し始めていた新型艦上戦闘機で、米軍からは「サム」、「ラージ・ゼロ」の名で恐れられたが、その特筆すべき点は、「ハ43」で知られる2300馬力のエンジンが生み出す最高時速650km/hと、戦闘機としては世界一と言われる空力的特性が生み出した460km/hにも達する巡航速度だろう。他にも、大型の機体ゆえに可能だった戦闘爆撃機としても使えるペイロードの大きさ、大型機に似合わぬ優秀な格闘戦性能など特徴を挙げればキリがないとすら言われるが、特にこの当時の艦上戦闘機としては、傑出した速度は優秀の一言につき、巡航速度に至っては黎明期のジェット戦闘機より早かったのだから、この機体が見えない点でいかに優れていたかを物語るものと言えよう。 また、「流星」の方も「烈風」と同じエンジンを搭載した、雷撃と急降下爆撃を可能とする重厚な外観を持った万能攻撃機で、艦上攻撃機としては世界の水準を三年は先取りするものと言われ、第二次世界大戦により空母先進国として浮上した日本の、一つの完成点を現す機体と言えるだろう。 特に、最高時速約570km/hに達するスピードは、同様に高速艦爆として完成を目指された「彗星改」には遙に及ばなかったものの、状況によっては独力で米軍の主力艦戦の「ヘルキャット」のインターセプトすら振り切る力を秘めていた。 なお、「彗星改」はドイツ最高のDB605液冷エンジンをライセンス生産した熱田43型を搭載する事で、最高時速620km/hに達する速度を実現してこの戦いに臨んでいる。また、世界初の艦上偵察機の「彩雲」は、「烈風」と同じエンジンを搭載する事で、この当時のいかなる艦載機も追随不可能な694km/hもの最高速度を叩き出していた。 これらの機体が実現できたのは、まさに20世紀初頭からの『日本の奇蹟』と呼ばれる経済と産業の大躍進のおかげであり、マスプロ生産された大量の艦船ともども、これを代表するものと言えるだろう。 なお、日本海軍がなぜ防御力を抑えてまでこれほど攻撃機の速度にこだわったかは、あまり明らかになっていない。 対する合衆国側で、日本軍の新鋭機に対抗しうる傑出した機体はやはり「コルセア」だろう。これ以外の「ヘルキャット」、「アヴェンジャー」は運用面や性能では十二分な合格点を与えられる機体だが、防御面以外の評価は酷評すればそれだけであり、まさに合衆国を体現するような堅実なだけの存在で、「ヘルダイバー」に至ってはもし戦争がなければ採用されなかったと言われるほど当初は問題を抱えており、前線将兵の努力とその後の改造により運用できたのであって、決して優秀な機体と言えないだろう。 もちろん、「コルセア」も艦上戦闘機としては問題が多かったが、その後の努力により44年から空母ので運用が開始されている。その最大の特徴は650km/hに達する最高時速で、日本の「烈風」同様ペイロードの多さもありその汎用性も高く、その後も長く使われた事とからもその優秀性が分かると言えるだろう。 なお、米軍において「F8Fベアキャット」や「ADスカイレーダー」など、この戦闘の1年後に優れた機体が生み出された事は、皮肉と言えば皮肉かもしれない。
では、説明が長くなったが、次節からは有史上最大規模の海戦の顛末を見ていきたいと思う。