東太平洋海戦 (第一幕)

 第二次太平洋戦争と呼ばれる太平洋全域を舞台とした日米の戦争。その中でも最大規模の戦い「東太平洋海戦」。
 この戦いは、史上最大規模と言われるあまりにも多くの艦艇が参加。特に「戦艦」が決定的局面で戦闘を行った事、この戦いが戦艦が最後に「主力」として戦ったとされる事、そして、この戦いで日本の練り上げた漸減戦術を、横須賀の司令部で見ていたドイツ第三帝国の観戦武官が、『まるでワーグナーを見るようです。』と言う感想を述べた有名な言葉などから、ワーグナーの有名な歌劇「ニーベルングの指輪」を揶揄して用いる事が多いのはよく知られていると思う。そこで、ここでもそれに少し意識した形で戦いを追っていきたいと思う。
(もっとも、ドイツの観戦武官の言葉は、その司令部の設備に対して「劇場(ワーグネル)のようだ」と意味した言葉と言うのが現在では一般的だ。)

◆第一幕「始まり」
 この戦いは、日本列島本州東部海域の房総半島沖から始まる。
 そう、このあまりにも壮大な戦いの開幕のベルを鳴らす事になるのは、意外にもハワイ奪還を行う合衆国太平洋艦隊でも、ハワイで手ぐすね引いて待ちかまえる連合艦隊でもなく、ハワイに向かう日本海軍の大護送船団だった。
 それは、合衆国の作戦が、4月初頭に横須賀沖を出発する「TV16」船団が、ハワイに入港するその混乱する前後をハワイ諸島攻撃の第一日目に選んでいたからだ。
 1944年4月3日、浦賀沖で近海護衛部隊から「TV16」戦隊に護衛が移され陣形を組み終えた「TV16」船団の陣容だが、各種戦標船100隻を護衛空母「熊鷹」、「黒鷹」、5500t級巡洋艦「多摩」、「松」級駆逐艦16隻が護衛すると言う贅沢な内容だった。日本と言う小さな東洋の国家を思うと、現実のものとすら思えない規模の船団だった。しかも、この規模の船団は最初の侵攻を含めれば既に3度目。この事を以てしても、いったいどれだけの物資がハワイに投入され、日本がどれほどこの戦いに賭けているかを思わせるに足る事実と言えるだろう。
 ちなみに、「TV16」の船団指揮船には、連合艦隊が直轄する20インチ砲積載のために誕生した重量物運搬用給兵艦の「石廊(イロウ)」があたっていた。
 この船が船団指揮船になったのは、この艦が「大和」級建造のあと単なる重量物輸送任務に当たっていた頃、被雷損傷したのを機会に海軍直轄の重量物用揚陸艦として改装され、船団用の旗艦施設と大規模な無線設備を持っていたためである。それが、重戦車を運ぶためハワイ上陸作戦に参加後、その便利さを海上護衛総隊に目を付けられ、そのままこうして大規模な船団指揮船として運用されていたのだ。ただし、この艦がいくら戦艦並に大きいからと言って(3万頓クラス)、軽工作艦の装備や試作型の大型電探までを搭載したのは、少しばかりヤリすぎだろう。その効果はもちろん別としてだが。なお、彼女が百隻の船舶を引率するのはこれで二度目だった。それ以外にも数多の(揚陸)船団指揮を経験しており、世界中捜しても最高クラスの引率者と呼んでよいだろう。
 これ以外にも既に四半日早く、護衛空母「蒼鷹」、5500t級巡洋艦「球磨」、「松」級駆逐艦6隻からなるハンター・キラー部隊が先行し、船団の前路掃除までおこなっており、まさに採算度外視の対潜戦術を展開していた。
 日本がハワイの攻防戦にそれだけ賭けていたと言うことだ。
 そして、この船団はハワイに陣取る沿岸護衛部隊に引き渡されるまで、「TV16」戦隊の苦労は続く事になる。
 もちろん、これら以外にも航続距離にまかせて遠方まで出張ってくる、多数の電探、磁探搭載の対潜哨戒機については言うまでもないだろう。
 日本時間4月4日午前8時半、彼女たち羊と牧羊犬の群は、彼女たちにとっての「ワルハラ城」たる、ハワイ諸島目指して北周りの大圏航路に乗るべく、一斉に行動を開始した。その光景は、世界の海洋に君臨する海洋覇権国家と言うものが如何なるものかを嫌が上でも感情的に訴えかける光景だった。
 彼女たちの入城予定は、1944年4月22日。船団速力14ノットを誇る高速船団だったが、対潜用の之字運動をしつつの航海だったため、その実質速力は10ノット程度にすぎず、この速度では米潜水艦にある程度捕捉される事を意味していたが、だからと言ってまっすぐ進んで集中攻撃を受けるわけにもいかなかった。
 そして、この4月22日前後に米軍によるハワイ攻略作戦は、最高潮を迎える予定でもあった。

 この日本の護送船団の出港を待ちかねていた合衆国海軍は、これを日本近海で潜伏することで生きながらえている潜水艦からの報告で知り、作戦の発動を決定する。
 作戦名称は『オーヴァー・ロード(上帝)』。
 この作戦には、300隻の戦闘艦艇と600隻の各種航洋船舶、そして1600機の航空機が直接参加していた。また、直接作戦に関わる者の数も、艦船乗員を含めて50万人もの人員が関わっていた。
 紛れもなく、世界軍事史上最大の渡洋侵攻作戦であり、それは先だっての日本軍によるハワイ奪回作戦よりも規模の大きなものだった。合衆国も、それだけこのハワイ奪回に賭けていたのだ。ただし、日本との違いは、日本が奇襲だったのに対して、敵が待ちかまえている所への強襲――いや、正面決戦だと言う事だった。
 そして合衆国側は、まずは「TV16」船団を「いつも通り」妨害するため、ガトー級潜水艦の群で襲いかかることになる。
 これは、日本軍に合衆国軍が後方に対しては、いつも通りのルーチンしか行なっていない事を印象づけることで、少しでも油断を誘うのが目的だったが、この船団への攻撃は船団到着時間に自らもハワイに押しだし、日本軍により混乱を引き起こすのが目的だったのでそれでよかった。
 そして、いよいよ相手の日本にも舞台の幕が上がった事を教えるためとすら言える、合衆国太平洋艦隊の総力を挙げた出撃が開始された。
 サンジエゴ、サンフランシスコに分かれていた合衆国太平洋艦隊の主機動戦力をしめる、第五八任務部隊と主力艦隊の全力が全艦抜錨、出港後それぞれの任務群に分かれると、間違いなく付近海面に潜伏しているであろう枢軸側潜水艦を振り切るべく、最大巡航速度で移動を開始した。
 当然この出撃は、合衆国と同じように西海岸で潜伏していた日本海軍の潜水艦の知るところとなる。
 もちろん、これを当然と受け止めていた合衆国海軍も、日本の潜水艦から無電が発せされても、それ程気には止めなかった。
 ただ、アメリカ側にこの次の日本の行動に誤算があった。
 それは、日本海軍がアメリカ側のハワイ奪還の動きがあれば、通商破壊の任務に就いているはずの潜水艦のかなりを艦隊攻撃に振り向ける事を決定しており、その詳細な作戦まで練り上げられていた事だった。
 また、遠くドイツから灰色狼の群が、新たに丸々一つ東太平洋にまで来ている事も知らなかった。
 ただ、Uボートの事を知らないのは、彼らが到着したばかりだと言う事を考えれば、致し方ない事かも知れない。
 しかも、そのボートは最新鋭の「XXI型」であり、ハワイに入港した時、そのあまりに洗練されたハイテックな姿は、日本軍将兵の度肝を抜いていた。ハワイ基地の日本将兵たちは「さすが、潜水艦王国ドイツ。」と関心する事しきりだったと言われる。もちろんその性能については、度肝を抜くどころの話ではないのは、後の戦績が如実に示しているだろう。
 この戦隊は「パシフィック戦隊」とされたが、通称は現場指揮官の名を採って「プリーン戦隊」と名付けられ、もちろん指揮官には歴戦のボート乗りのプリーン大佐があたっていた。
 また、日本海軍第六艦隊のうち哨戒・索敵部隊以外の、日本版「狼群」戦隊のうちの三分の一、つまり所属する全潜水艦の二割にあたる43隻がこの作戦のためにシフトを変えて、ハワイ前面1500km当たりに集結を始めていた。つまり、Uボートと哨戒・索敵専門部隊を含めれば実に70隻もの潜水艦が、東太平洋上で合衆国のハワイ攻略部隊を追いかけ回していた計算になる。
 これは、後の英国の著名な戦史家が「ウルフ・パック・ライン(狼群線)」と命名した、日本軍による対ハワイシフトされた漸減戦術の第一から第三段階の潜水艦による狼の巣だった。
 米軍が「TV16」船団に攻撃をしかけていた潜水艦の数が2個戦隊、実際攻撃できたのは7隻程度と考えれば、この数字がいかに異常かが分かると思う。
 この日独による灰色狼の群は、合衆国軍がサンフランシスコ湾などから史上最大規模の揚陸部隊が出現した段階で配置を完了し、羊と虎の群が通りかかるのを待ちかまえていた。
 そして、この配置についた事を伝える無電が打たれるのを最後に、全ての狼たちは無線封鎖を行い、ただその耳を澄ませた。
 なぜか。それは常識はずれの航続距離を持つ、日本の四発爆撃機「連山」の偵察型「天雲」と同じく偵察と通信管制に特化された「二式大艇」が、索敵と各艦への無線指令の仰せつかっていたからだった。

 一方、米機動部隊の出撃は4月8日、揚陸部隊の出撃が4月10日で、機動部隊が日本艦隊を撃破後、揚陸部隊がハワイ諸島へと取り付く事になっていた。
 機動部隊は、欺瞞進路を取りつつ複雑な航路を経て、4月18日ついに日本軍が設定する1500kmラインを踏み越える。
 機動部隊の脚で何も考えずそのまま突っ込めば、あと丸2日ほどでハワイ諸島を空母艦載機の攻撃圏内に入れる出来る距離だ。
 この情報を、多数の大型索敵機の献身的な任務遂行による情報から手にした日本海軍連合艦隊は、米軍が警戒ラインを越える数日前に作戦の発動を指令。
 一連の「き」号作戦が、ついに最終段階に入ったことを全将兵に知らせた。
 この作戦発動命令により、ハワイ近海で警戒任務についていた艦隊、ハワイ諸島各地に分散停泊していた艦隊、ミッドウェー諸島近辺で訓練していた主力艦隊の一部など、連合艦隊に所属する160隻以上にもおよぶ膨大な戦闘艦艇の集結がハワイ諸島北東海上で一斉に開始された。これに加えて、ハワイ諸島各地で訓練に明け暮れていた空母機動部隊の艦載機も、順次母艦に収容されていき、その巨大な陣容を露わにした。
 この時の艦隊集結の模様は、後の円谷監督による映画「布哇・最後の決戦」で映像化されていたことから、ここで枚数を重ねる必要もないだろう。
 ただ、あえて一言述べるとするなら、「圧巻」の一言を以て日本海軍に対する敬意を表したい。
 また、敵に与える情報を少しでも減らす為に、この時のために温存されていた対潜ハンター・キラー二個戦隊と、50機にも及ぶセンチ波電探と磁気探知装置を搭載した対潜哨戒機がハワイ近海で一斉に活動を開始していた。
 これら対潜部隊の活動により、24時間以内に少なくとも3隻のガトー級潜水艦が撃沈され、2隻以上の未確認撃破が報告されていた。
 そして、もっとも大きな戦果は、米軍にわたる情報を最小限にした事だった。

 一方、4月18日午後遅く、上空10000mを飛ぶ新型の4発爆撃機に発見された米機動部隊では、予定よりやや早く発見された事に多少の動揺が見られたが、この発見により日本空軍の基地攻撃圏がこの段階で判明した事をむしろ吉兆と捉え、しばらくはこの辺りでの半ば意味のない進路を取り、日本艦隊が誘出されるのを待ちかまえ、彼らが食い付いたらもう500km東に位置をずらした辺りで決戦に及ぶ事に方針が若干変更された。
 これは、米軍側に日本の機動部隊と有力な戦力を保持すると見られる基地航空隊の二つを同時に相手取る気がなかったからに他なく、この時点では全く賢明な判断と言えた。
 また、機動部隊の後ろをその巨体ゆえノロノロと進撃してきている、あまりにも巨大な揚陸部隊も、前線部隊との足並みを揃えるため若干侵攻速度を落とすようにとの指令が出された。ただし、こちらは大所帯ゆえに予定外の行動に大きな混乱を引き起こし、これが日本軍に格好の生け贄を提供する事になった。
 水面下から招待状が贈られた血の饗宴は、4月18日の日没2時間後から始まる。
 そして、日独の狼たちの狩りの対象は俊敏な虎の群でなく、その後ろをノロノロと進んでいた牧羊犬に囲まれた羊の群だった。
 まず攻撃を開始したのは、これこそが灰色狼の正しき姿と感じさせるドイツ人たちの戦隊だった。
 ただし、彼らが発見したのは、揚陸部隊ではなく虎の群の腹を満たすために後ろからついてきていた、いわゆる「サーヴィス部隊」だった。
 しかし、そのラインナップは、まさに狼達が涎を垂らす獲物ばかり、長きに渡る大西洋での戦いにおいて一度も拝んだ事がないほどの豪華な船団だった。
 多数の大型タンカー、大型の弾薬補給艦、各種支援母船、工作艦など数え上げればキリがないぐらいのメニューに、あるボートの艦長は潜望鏡を覗いた瞬間、隠密航行を忘れて大きく口笛を吹いたという逸話があり、この事からもドイツ潜水艦乗り達の飢狼の喜びをよく表していると言えるだろう。
 大切な船団であり、確かに警戒も比べようがないぐらい厳重だったが、いまだに満足いくミリ波レーダーすらロクに開発できない合衆国の牧羊犬に対して、もっとも俊敏な灰色狼の群だったプリーン戦隊が、この機会を逃すわけにはいかなかった。
 そして、第一発見者となった「U2528」は、潜望鏡深度から全ての同胞に向けて高らかに無電を発したあと、初手としてありったけの(誘導)魚雷を放ち、遁走を行うという戦術運動を開始した。
 そしてこれが、この海戦での双方最初の攻撃となった。
 無電の内容は、もちろんその位置を知らせるものだったが、暗号電文のための本来意味の無い部分には「ニーベルヘイムの小人は黄金を手に入れた」と添えられていた。
 もちろん、これは本来意味のない言葉だったが、現在でも意図してこの文面を入れたのだと言う意見が強い。それは、これを「ニーベルヘイム(死者の国)の小人」=Uボートが、「黄金を手に入れた」=補給船団を見つけた、と言う意味だとするからだ。ワーグナーにかけるあたり、いかにもヒトラーに心酔するナチスの士官が打電したと思える内容で、筆者としても心情的には、これを意図したものと思いたい。なお、この一節も「ニーベルングの指輪」からの引用である。

 この「U2528」の行動の後、合衆国海軍の「サーヴィス部隊」はかつてない試練に立たされた。無電によって付近海面から集まってきたプリーン戦隊の、ほぼ三分の二にあたる戦力による狼群攻撃を受ける事なったからだ。
 重要な部隊だけに、日本海軍の潜水艦なら十分撃退可能なだけの護衛戦力が付けられていたが、この場合相手が悪すぎた。
 襲撃した狼たちは、大西洋でも最も熟練した狩人たちであり、しかもそのボートは水中を護衛駆逐艦と同じか、時にはそれ以上のスピードで動いて見せる水中高速型の最新鋭艦であり、しかも振粛性においても日本より遥に高いレベルで、その牙の半数が世界初の誘導魚雷、通称「ツヴァン・ケーニッヒ」だったのだから、それまでとは次元の違う戦闘を強いられた合衆国海軍将兵こそ不幸と言ってよいだろう。
 しかも、唯一狼達を制圧し狩る事のできる護衛空母の艦載機が、実質的に何の活動もできない時間だったことが、この悲劇をより大きくしていた。
 ここでの戦いは翌日の夜が明けるまでに、最終的に近海にいた日本の潜水艦数隻も戦闘に参入した事もあり、枢軸側合計で9隻にものぼる潜水艦が襲いかかり、うち2隻の損失艦を出している。
 一方襲撃される側となった合衆国側は、タンカー20隻、弾薬船6隻など34隻の船団を2隻の護衛空母、12隻の護衛駆逐艦が守っていたのだが、朝日が昇り一旦潜水艦たちが姿を消した時には、11隻のタンカー、4隻の弾薬船、その他3隻の他、その上護衛空母1隻までも水面下に没していた。そして牧羊犬たる護衛の駆逐艦たちですら5隻が海神の御元へと召され、ドイツ軍の新兵器とその腕前の凄まじさを見せつけた。
 そして、そのさらに24時間後までに再度激しい襲撃を受け、さらに生き残りの半数が死神の船団へと所属を変更していた。
 文字通りの壊滅である。軍事的には「全滅」と言ってもいいだろう。これは、後々の米海上機動戦力のその後の活動に大きな影響を与える事になる。ちなみに、ここだけでアメリカが失った艦船の総量は40万トンを越えていた。

 しかし、水中での血の饗宴は、それだけではなかった。
 本隊の揚陸部隊が、速度の一時的停滞で混乱したスキに、合計二つの日本の狼群戦隊が襲いかかる事に成功したからだ。
 また、半ば偶然に合衆国主力艦隊を捕捉する事に成功した群の一つも、躊躇する事なくこれに襲いかかっていた。
 さすがに、強固に防衛された合衆国主力艦隊に対する攻撃は一筋縄ではいかず、日本潜水艦は戦艦「ノースカロライナ」の中破後退、軽巡1隻撃破、駆逐艦1隻撃沈の代償として、5隻もの戦没艦を出し後退を余儀なくされていた。なお、ここで生き残った日本海軍の潜水艦は2隻に過ぎなかった。これは、米艦隊の対潜防御戦がいかに熾烈だったかを物語るものと言えよう。
 ただし、一方の揚陸部隊に対しては、大規模船団という弱点をつくことに成功した一部部隊の活躍もあり、全体の2%に当たる各種約20隻、12万トンを撃沈するか損害を与えている。ただし、こちらも護衛部隊による熾烈な対潜戦闘により、約10隻の犠牲を払う事となった。キルレシオを考えたら日本側に極めて不利な結果と言え、合衆国が戦後よく言われるように、手を抜いていたわけでない事がこの事からも分かると思う。

 明けて4月19日、アメリカ側もようやく日本艦隊のハワイ出撃を知り、索敵と対潜哨戒を密にしつつ、ライバルを求めての行動を開始する。
 この時互いの距離は約1200km。対潜機動を取りながらでも、丸一日で相手を艦載機の射程に捉える事ができる距離だ。
 しかし、この一日は双方とも水面下の敵との戦いに終始せねばならなかった。
 この戦いは、ある程度基地機からの支援が受けられた日本艦隊の負担が小さく、米艦隊も潜水艦の大半が揚陸部隊に向いた為、主力の損害は最低限で済んでいた。
 しかし、日本海軍も重巡洋艦1隻撃沈、1隻大破、空母1隻小破を初めとする大きな損害を受けていた。
 合衆国潜水艦隊も、決して遊んでいた訳ではないのだ。ただ、日独の戦力投入量が異常だっただけだ。
 そして、水面下の戦いを経て決戦は次の幕へと移る事になる。

■東太平洋海戦 (第二幕)