■終幕に向けて
1944年4月22日、合衆国による「オーヴァー・ロード」作戦は、合衆国太平洋艦隊の惨敗と言う形で幕を閉じたが、その一週間後にその混乱も収まり、5月にはそれまでの何ら変わりない姿へと太平洋は戻っていた。 ハワイ諸島は依然として日本軍により保持され、水面下では双方の潜水艦隊の圧力減少はあったが通商破壊戦が続き、マーシャルでは米軍の補給危機の中、日本軍主導による航空撃滅戦が継続されていた。 それを象徴するかのように、5月の第一週にはハワイから「TV16」改め「VT16」船団が、日本へ向けて帰途の旅路に就こうとしていた。
しかし銃後では、それまでと違った動きを見せるようになっていた。 日本を始めとする枢軸国側が高らかに勝利宣言を行い、合衆国に対して戦争をただちに止め、講和の席に着くようラジオなどで宣伝されているのはいつも通りだったが、合衆国国内でも再び襲った未曾有の大敗北を前にして、厭戦気分が広がりつつあり、特に明日にも日本軍が押し寄せてくるのではと怯える西海岸地方ではその声が強く、これを船舶の損害の異常な増加が後押ししていた。 また、西欧でも枢軸国と英国との停戦による影響が徐々に大西洋へと出てきており、戦時賠償として受けた英国艦と自軍の艦艇を再編成したドイツ海軍が大きな勢力を保有するようになっており、さらに、英国自身も枢軸諸国による新たな秩序の中で自らの勢力と発言権を維持するために、対米参戦こそしなかったが手のひらを返したように独日に積極的な協力を示すようになっていた。これは、枢軸国側の敵が英国にとっての潜在敵国たるアメリカ合衆国であると言う事も大きく影響していた。 アメリカ相手なら、英国は遠慮する必要などなかったからだ。 この西欧での動きに、合衆国の市民は不安をさらに大きくし、これに対処するため合衆国軍は方々に戦力を配置しなくてはならなくなり、太平洋・西海岸防衛重視すら転向しなければならない事態を迎えていた。 もっとも、合衆国が一番警戒していた日本海軍は、少なくとも向こう3カ月は全く行動が出来る状態になく、まともな攻勢作戦を企てるには、半年は戦力の回復と備蓄が必要なほどのダメージを受けていた。 ハワイは守りきったが、その代償がどれほど大きかったか、それを合衆国が知るのは戦後になってからだったが、当時の日本海軍もガタガタだったのだ。 しかし、対する合衆国太平洋艦隊も、続々と就役する新造艦を受け取ってもその損害を回復するのは容易ではなく、半年どころか一年は攻勢作戦は不可能だとすら言われていた。
結局その後三ヶ月の太平洋戦線は、合衆国国内の厭戦気運の上昇を無視して、合衆国がマーシャルの保持に固執して続々と兵力と補給船団を派遣するのを、日本軍が航空撃滅戦を展開し、通商破壊を続けるという従来の形に戻っていた。 ただし、それまでと違ったのは大西洋での情勢がやはり激変していた事だった。 それは、合衆国軍を震撼させたドイツの「XXI型」Uボートの量産配備がいよいよ軌道に乗り、狼群を作り輸送船団を襲い始めたからだ。しかも、どう見てもそれまでと違う場所から潤沢な補給を受けて作戦活動をしているとしか思えない出没パターンに変化しており、大西洋艦隊は東海岸沿岸はとにかく、カリブ海での防衛は根本的な建て直しをせねばならない事態を迎えていた。 そして、船舶の損害は主に大西洋で急激な上昇カーブを描いており、一ヶ月にドイツ海軍だけに80万頓も撃沈されると言う事態は、合衆国の造船力を以てしてもその限界を超えており、これに日本軍が主にハワイから仕掛けてくる通商破壊を加えると、損失が120万頓の大台に乗る事もあり、ハワイ作戦で失った船舶の損害を合わせれば、合衆国の海上輸送を根本から考えなくてはならないと言う状態だった。 合衆国はこの時点で、戦前の船舶量を下回っていたのだ。(当時の合衆国は、さまざまな要因により月産約75万トン程度の造船力だった。)
さらに悲報は続いた。今度も合衆国国内のことだった。 それは、それまで膨大な国債により戦争景気を回転させ、強引に戦争景気に転じた経済を背景に増税して戦費をまかなっていたのだが、大恐慌から続く不景気と約10年間にも及ぶ長期にわたる膨大な国債発行と艦隊再建から続く増税に加えて、ここ数年の日本との戦争による戦費調達で国庫と国民の負担が限界に達しており、1945年度以降、合衆国が戦争を継続することは国そのものの破産を意味しており、主に財政的な見地から直ちに戦争を停止するしかないと言うレポートが提出されていた事だ。 レポートによれば合衆国の国庫が崩壊の決定的な線を超えるのは1946年の夏以降、つまりあと2年しかなかった。 同時に2年後と言う時間は、このまま通商破壊が推移すれば、合衆国商船隊の崩壊に要する時間でもあった。 そして、この事を知っていたからこそ、政府は急ぎハワイ攻略を行ったとも言えた。そして、それに失敗したのだ。 なお、資源問題も英国が枢軸国と停戦し、手打ちにしてしまった事も大きなダメージだった。それは、英国が枢軸国との交戦相手とは通商関係を凍結すると宣言を出していたのが原因で、これにより事実上枢軸国以外の世界中からも海外資源が入手不可能になった事を示していたからだ。いかな合衆国と言えど、コスト面からすべての資源を国内で賄いきる事はできず、これも戦争経済を崩壊させうる大きな要因となりつつあった。 そして、それらを踏まえて作られたレポートは、それまでの戦況と世界情勢、国内情勢を分析した上で、ここで日本、そして枢軸国と名誉ある停戦を結べば、まだ合衆国の現状維持は可能であり、講和会議で枢軸国側に市場開放だけを求めれば、たとえある程度の賠償に応じたとしても、その後四半世紀で経済的な巻き返しも不可能ではないと結ばれていた。 要するに、アメリカ人の最も嫌うアジア的外交成果で満足しろと、しかも敗者としての立場でそれを受入れろとそのレポートは言っていたのだ。 この条件で講和を行えば、現職の合衆国大統領がどのような事態を迎えるかにはあえて触れていなかったが、どうなるかは子供でも分かる事だった。
大統領はこの事をひた隠しにし再度の太平洋艦隊の攻勢、つまり最後の賭に出る方針を議会に発表し、その席上、日本を撃破しなければ、合衆国の未来は存在しないと熱弁を振るった。 短期的な戦況を見る限り、表面的にはまさにその通りだった。一時はその方向で方針が固まるかに見えたが、その年の秋に大統領の目論見は根底から崩壊する事になる。 それは、今すぐ停戦すべきだとの情報を反戦ロビーに属する上院議員の一人が議会の中で発表し、この事を大統領に突きつけたからだ。 効果は劇的だった。 その日を境にして合衆国中が停戦を求め、現在の窮状を作り上げた歴代の民主党政権と民主党を非難するようになっていた。 もちろん、その矛先はハワイで大敗北を喫したにも関わらず、無意味に戦争を継続しようとする大統領に対する最も声高い非難で、ホワイトハウスの前では大規模なデモ行進すら行われる始末だった。 窮状に立たされた大統領は、議会で敗北したまま合衆国が停戦に応じることは、これから半世紀は合衆国が政治的に枢軸国の風下に立つことを意味しており、未来を担う祖国の子供達の事を考えると、大統領として到底それを受け入れることは出来ないと訴えた。 確かに、有色人種の国に敗北したままでは気の済まないのも事実だったので、議会は向こう三カ月以内に日本軍に対して軍事的成功を収め、これが成功したなら大統領の主張を認め、結果が引き分け以下だったら、未来よりも数年後の破産を避けるために直ちに停戦を行うよう要求した。 議会としても、1934年に一度大統領を辞任に追い込んでおり、またここで辞任させる事は合衆国の沽券に関わるとの判断からの譲歩だった。 もちろん、政治から決定された作戦が健全な訳はなく、合衆国軍は日本軍より少ない戦力で、またも敵の最も強固な根拠地を攻撃しなくてはならなかった。 しかも、補給ルートと合衆国の船舶の急激な減少を考えれば、その場所は結局ハワイ諸島しかなかった。マーシャル諸島より西では日本軍に包囲殲滅されるだけだからだ。そして、政治的要求から求められる勝利の場所もハワイしかなかった。本来選択されるべき拠点、いまだ維持されているマーシャル諸島の向こうにあるマリアナ諸島やフィリピンは、ハワイ諸島という後方拠点があってこそ意味の出てくる地域だったし、そんな太平洋の僻地の事など米国民は知らなかったからだ。 再度のハワイ攻略作戦は1944年11月。艦隊の再編成が完了したその時に今度こそ日本艦隊を撃破し、戦争をひっくり返すのが目的とされた。このため、今回は攻略船団は当初伴わない事になった。また、遅ればせながらハワイだけに的を絞った通商破壊が行われるようシフトの変更が行われた。
5月以降、太平洋と大西洋での水面下の戦いと、マーシャルでの空の戦いはより激しく展開されたが、総じて合衆国軍の劣勢のうちに進展した。 この年に入ると、合衆国の戦時生産はピークを迎えており、全枢軸国すら凌駕する生産力を誇るはずだったが、資源や資材がしかるべき場所、前線にたどり着く前に三分の一が海の藻屑と消え、羊を守るはずの護衛艦艇の損害も上昇傾向に歯止めがかからなかった。もちろん、陸路による輸送も行われたが、安全なのはともかくコスト面で引き合わないので、結果として国庫の浪費と国そのものの生産力を低下させるという結果を招いていた。 通商破壊の激化は、日本海軍がドイツとほぼ同様の性能を持つ新型潜水艦を前線に多数投入してくるようになった8月以降さらに酷くなっており、また、潜水艦が合衆国沿岸にばらまく機雷の損害も大きく、作戦直前の10月の船舶の損害は、ついに150万頓に達していた。それ以後急速に損害は低下したが、それは海洋を航行する合衆国船舶が激減したからに他ならなかった。最早、合衆国沿岸地帯と言えども、夜間に船舶が行動するのは事実上自殺行為となりつつあった。 もちろん、合衆国海軍も枢軸国に対して果敢に通商破壊戦をいどんでおり、日本の前線輸送線に対しては大きな成果をあげ、1隻当たりなら枢軸国に引けを取らない撃沈数を数えていたが、それまでの水上艦中心の生産計画の関係から、いかんせんまだ潜水艦の数が少なく、日本の商船隊に合衆国のような致命傷を与えるには至っていなかった。 むろん、日本商船隊も合衆国海軍のこの一年の異常な通商破壊の増大により、この時点で月40〜50万頓台の消耗をしていたのだが、日本の造船力がそれを辛うじて維持できるレベルにあった事が、海上交通線を維持させていたのだ。 ちなみに、ドイツ潜水艦隊が全力で大西洋の通商破壊を行っていなければ、合衆国の全力が太平洋に向かい、日本はこの時点で合衆国とは逆の立場に立たされていただろう、というレポートが後に発表されている。英国を追いつめたドイツ潜水艦隊の猛威は、それ程に合衆国の戦争遂行能力を食い荒らしていたのだ。 また、英国が最後まで合衆国に自国のすぐれた対潜戦術と兵器をアメリカに供与しなかった事が、合衆国の窮状を招いたのは事実だろう。もちろん、英国は枢軸国側にも技術供与は行っていなかったが、こちらの場合は英国側の占領地からの戦利品などから若干の技術を得ていた事と、ドイツが基本的に科学先進国で、枢軸国側のユーラシア打通後に日独間で多数の技術交換が行われ、日独の技術交流が盛んになっていた事もこの差を生み出したと言えるだろう。
44年も10月に入ると日米双方の艦隊は、再び東太平洋を挟んでハワイとサンジエゴに集結し、睨み合いを始めていた。 この時の双方の陣容は、空母機動部隊戦力については、双方とも修理と補充で前回とそれ程差はなかったが、互いに消耗の激しかった戦艦戦力は大きく減退していた。 また、双方の艦隊編成から戦艦だけで構成された部隊がほとんどなくなっており、これまでの戦闘によりドクトリンが完全に変化したことを明確に物語っていた。 睨み合いが一旦始まると、日米双方ともまた半年前のように警戒レベルを上昇させ、前線の将兵達は今や遅しと再び始まるであろう決戦の準備に入った。
しかし、この事態は日本側の思惑からいささか外れたものだった。それは4月に勝利、しかも戦争を決定づける程の大勝利と言ってよい勝利を博した時点で、合衆国が停戦を望んでくると楽観視していたからだ。 だが現状は、マーシャルで消耗戦をしているのと変わりなかった。いや、補給線の長さを考えればそれよりもひどくなっていた。そして、こんな遠方での消耗戦に日本帝国は、そうそう長く耐える事は不可能だった。 つまり、帝国にとってハワイ作戦は、短期作戦だからこそ価値のあるものだったのだ。あえて言うなら、今までの長期消耗戦を帝国の伝統とも言える短期決戦に強引に変更させるための作戦こそが、「き号」作戦であったとも言えるだろう。 そして、可能なかぎり早く決着を付けなければ戦力は枯渇を始め、後はズルズルと再び後退するだけだった。
「敗戦」。 この二文字が日本政府と軍部の頭の隅を占めるようになると、特に政府においては、停戦のための活動が活発になった。勝っているはずの戦争で敗北するなど以ての外だったからだ。 当然、活動の相手はドイツを初めとする欧州枢軸諸国で、彼らに今以上にアメリカを圧迫して欲しいと要求していた。それにより、アメリカを講和のテーブルに引きずり出すのだ。ただし、あまり直接的な攻撃は依頼されなかった。どうなるか分からないからだ。 また、全てに対して中立を保っていた国々に停戦の調停を行い、敗北だけでなく、自国経済の崩壊が訪れる前に戦争を何とか収拾しよう懸命な外交努力も開始された。 これに、自分たちにとっての戦争を終らせた欧州各国も、主に懐具合の関係から一日も早く戦争を終わらせたいと考えており、日本の要請を恩義がましく受け入れると、それを一つの機会として積極的な行動を開始する。 これには、ドイツを始めとする欧州枢軸国もアメリカとは戦争状態なのだから、傍観している訳にはいかないと言う理由もあった。 ついにドイツ大海艦隊の出番がやってきたのだ。 今時大戦で、英国海軍の主力艦部隊が強大すぎたため、艦隊計画が緒についたばかりだったドイツ海軍は、好むと好まざるに関わらず完全なフリート・イン・ビーイングにあり、通商破壊以外で出撃しなかった(できなかった)のが、ここに至ってようやく出番が回ってきたのだ。 この時出撃したドイツ大海艦隊は、戦艦「ビスマルク」、「テルピッツ」、11インチ砲から15インチ砲への改装を済ませた巡洋戦艦「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」、空母「グラーフ・ツェペリン」、「ヴィーザル」、他装甲艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦8隻から構成されていた。もちろん、これはこの当時のドイツ水上艦の揃い踏み、全力出撃だった。 また、英国からの戦利艦だけで構成された、巡洋戦艦「フッド」級の「ザイトリッツ(旧ロドネー)」、「デアフリンガー(旧ハウ)」、軽巡洋艦4隻、駆逐艦8隻からなる艦隊も同時に出撃していた。 太平洋に大艦隊を展開する海洋帝国たる日本や合衆国の基準から言えば、ドイツ大海艦隊全てを合わせてようやく一個艦隊程度の戦力だったが、大西洋をガラ空きにしている合衆国にすれば、脅威どころの騒ぎではなかった。 しかも、枢軸側に敗北した英国すら、警備行動として戦艦4隻、空母2隻を主力とする強力な艦隊をカナダに、巡洋艦部隊をカリブのジャマイカに派遣するなど、明らかな示威行動を行っていた。おまけに、イタリア艦隊や、領土をほぼ復帰させたフランス政務までが、艦隊をアフリカの大西洋岸や大西洋の島嶼などに派遣して、欧州全体でステイツに対する軍事的圧力をかけていた。 すべては、枢軸同盟下での政治的得点を稼ぐための行動だった。つまり、日米戦は大戦略レベルの観点から、欧州の全てがアメリカを敗者と認めた、ないしは敗者にしようとしていた事を意味していたのだ。
そして、ドイツ艦隊は輸送船団も伴っており、欧州での決着を受けて既に枢軸国参加を決めていたアイスランドへと平和進駐した。 もちろん、かなりの規模の設営隊も伴っており、一週間を待たずして強大なドイツ空軍の進出も開始された。 政治的な軍事圧力が目的のため、晩秋でもおかまいなしと言いたげな兵力展開だった。 なお、世界最強のドイツ陸軍が共に進駐した事ついては、言うまでもないだろう。 ドイツ軍は、アイスランドを拠点として確立すると、ここを新たな拠点として水上艦隊と長距離航空機による通商破壊を開始し、これにより有力艦を大西洋にほとんど持たない合衆国は、北大西洋の制海権を完全に喪失する事となる。 国家の意志を一つの部隊と考えれば、主力が殴り合っている横合いから、突然敵の予備兵力に奇襲を受け殴りかかられたようなものだった。 つまり、アメリカの士気崩壊(モラル・ブレイク)の瞬間だった。
この西欧列強の突然とも言える行動に合衆国市民はパニックを起こし、太平洋艦隊の半数を早急に大西洋に戻せと言う声だけでなく、枢軸国側が以前から提案している停戦に合意すべきだと言う声すらも強くなっていた。停戦の声は、それまで主に西海岸だけだったのが、ついに合衆国全土に広がっていた。 安易に戦争へと傾いた市民は、自らの生存が脅かされたため、今度は反対に安易に戦争を止める方向に傾いたのだ。 もはやハワイ奪回どころではなかった。市民の停戦を求める声は次第に大きくなり、困窮してくる国民生活の圧迫もあって、1944年の11月半ば以降は一日過ぎればワシントンにあるデモ隊の数が1000人増えるとすら言われる状態だった。 合衆国の良識の台頭と市民の幻想の崩壊が、この事態を招いたのだ。 大統領官邸前では、デモ隊の停戦を求めるシュプレヒコールが渦巻き、操業停止となるようなサボタージュすら発生する工場も出始めていた。 もはや限界だった。このまま無理に戦争を継続すれば、合衆国は市民の手により内部から崩壊してしまう。 この合衆国国内の動きを掴んでいたのか、絶妙のタイミングで枢軸国の連名で合衆国に再度停戦を求める声明が発表された。グリニッジ時間1944年12月1日午前12時の事だった。 そして1944年12月7日、きしくもアメリカ合衆国が戦争を始めたその日に合衆国政府は停戦に合意する旨を枢軸国側に通達し、ここに第二世界大戦はようやく幕を閉じることになる。
それまでの激戦を思えば、じつに呆気ない幕切れだった。 それまでに行われた激戦を思えば、枢軸国側の主敵だった英米の首都を陥落させるどころか、内からの幕切れと言うものは、日独の戦争当事者たちにとって、そして後世から無責任に歴史を見る者にとって、そう言ってよい結末、そして1000万人以上の死者の上に成立した事を思えば、全ての者が何らかの感慨を抱かずにはおれない結末だった。
1945年4月より、欧州での戦乱の後始末も含めての総決算として、フランスはパリにて講和会議が開催される事になった。 しかし、講和会議とは言え、第1次世界大戦のパリ講和会議同様、戦後の枠組みを作り上げるための会議であるのは言うまでもないだろう。 この時参集した列強の生き残りは、枢軸国側からは大ドイツ帝国、大日本帝国、イタリア、そしてフランス共和国が、それ以外からは大英帝国とアメリカ合衆国が顔を見せていた。その他ドイツの実質的な衛星国である欧州各国、同じく日本の衛星国である独立したアジア各国も多数姿を見せており、また事実上のドイツの属国として、指導体制を刷新した国家社会主義ソ連が会議に出席していた。 また、日独がそれぞれ自らの衛星国を多数引き連れており、自らの存在を誇示していた。
講和会議そのものは、開始当初は枢軸国側の勝利を再確認と、現状からの新たな勢力境界の確認が主となったが、中盤からの本格的な利権を含めた交渉で、英国はここで持ち前のねばり強い外交を展開し、英連邦王国と言う形にこそなったが、アジアを除いて戦前とほぼ変わらない勢力圏を維持して見せ、ジョンブルの底力を見せつけた。ただし、極めて親日的な政府が樹立されてしまったインド以東については、ついに手放さざるをえなかった。また、ドイツと日本に分割されたような状態の中東地域についても同様だった。 つまり、太陽の沈まない帝國である大英帝国は、この講和会議によって終止符を打たれ、欧州の一地方大国への転落を余儀なくされたのだった。 また、名実ともに大勝利を博していたドイツは、既に領土の大半が返還されたフランス同様に、ある特定の占領地域(ロシア領内)以外の大半の領土と主権を返還する事を宣言し、国際的にドイツの今時大戦の目的が、際限ない侵略戦争などではなく、文字通りの生存権の拡大であった事を印象づけた。もっとも、実質においては何ら変わりなく、これはドイツ、ヒトラー総統の政治的パフォーマンスに過ぎなかったと言われる。また、ドイツが欧州の多くを表面的であれ手放したのは、他の文明先進国家、その維持管理には多大な費用が必要で、経済という言葉に敏感なヒトラー総統がそれを嫌ったからだと言うのが今日での一般的な評価となっている。 それに、欧州の過半がドイツの間接的統治を受ける事にはなんら変わりなく、政治的にはむしろドイツの勝利をより印象づけるものとなった。 また、諸外国がうるさかった人種差別問題、特にユダヤ人問題もこの時に強引に解決され、英国と計りパレスチナ地域に隔離地区として新国家を建設させる事で調整が図られる事になった。ユダヤ人は寸前の所で絶滅を免れ、そればかりか念願の国すら持つことになったのだ。この裏には、彼らが豊富に持つ資本導入で欧州復興を図ろうとしていたドイツの強い政治的意図があった事は周知の事実となっている。そして、ユダヤ人はこれ以後ドイツ人を深く恨むと同時に一定の感謝もするという二律背反な姿勢を示していくようになっていた。
それ以外の欧州各国も、枢軸国側に早くから参加していた国がいくらかの利権と領土を得た他は、過半の国が形だけの独立こそ回復したが事実の再確認をするに終わり、英国となんとか中立を守り抜いた国以外の欧州諸国の大半は、ドイツ帝国の勢力圏で生きていかねばいけない事を改めて思い知らされるだけに終わった。これは、最初からパートナーであり枢軸国の主要構成国であったイタリアですら例外ではなかった。 なお、二つに分かれていたフランス共和国は、ここで正式に再び一つに戻ることを決め、植民地の大半もこれに従い、ドイツ主導のもと欧州大陸の大国として国際舞台に再出発する事になる。
一方、アジア・太平洋方面、正確には日米の決着だが、日本側がアメリカに求めた唯一の提案によりほぼ決する事になる。 日本側が太平洋方面で求めたのは、新独立国家問題以外では「(1935年以前の)旧に復すこと」ただそれだけだった。 主要交戦国たるアメリカに対して、今時大戦については何も求めなかったのだ。 しかも、アメリカに対して支那利権問題などでも、旧来の日本の勢力圏を認め満州国も再度正式承認すれば、大幅な譲歩する姿勢を示していた。 つまり、アジア・太平洋各国を列強から独立させる以外は、1935年の講和以後の日米の関係に全てもどせと言う事で、先年の太平洋戦争の講和会議で過酷な要求を出したことが発端で、今回のアメリカとの戦争になった事を痛感していた日本政府としての、最大限譲歩した講和内容だった。 そして、自由主義を標榜とするアメリカとしても、列強からの植民地の独立を否定することは、表面的な政治から難しく強行な反対を述べることは難しかった。 もっとも、今回の戦争と今回の戦争の遠因となった前回の戦争を完全に分けて考えているあたり、日本外交にしてはしたたかと言えばしたたかと言えるかも知れない。 ただし、欧州各国との交渉により、日本は東亜全域の独立を認めさせており、これについては合衆国政府との関係は全くないとして、アメリカとの交渉とは半ば切り離されて交渉されていた。 しかも、実質的な敗者であるアメリカは、基本的に日本に対しては戦争を開始した側という政治的に極めて不利な点もあり、日本のこの提案を受け入れざるをえず、支那市場以外のアジア市場も開放する事だけをかろうじて認めさせたが、こちらも現状の再確認と言う域を出ていなかった。要するに日本は、直接の利益をある程度放棄する事で政治的にもこの戦争を勝利に導き、アジアの政治的主導権を確立するに至ったのだ。 そして、アジアの開放と人種差別撤廃(「五国協和」、「王道楽土」という政治的スローガンのあれである。)を建国以来の外交方針とする日本としては、政治的な勝利として是非ともせねばならない事でもあった。 だが、この日本主導の独立ラッシュとアジアでの覇権確立は、英米だけでなく同盟者のドイツの警戒心を強くさせる事になり、以後両国の関係を微妙なものとしていくことになる。
なお、戦争を自ら開始した国で唯一敗戦国となったアメリカ合衆国は、この戦争では実質的に何も得るところはなく、戦争そのもので失うものばかりが多く、しかも日本に二度までも敗北を喫するという屈辱的な結果に終ることになった。 そして当然、枢軸国側に対する反発は戦後も強く、世界の主導権を握った彼らとの溝を深くして、再び孤立主義に陥っていくことになる。
ともかく、世界中を戦場とした文字通りの第二次世界大戦はようやく幕を閉じた。 しかし、再編成された世界の勢力地図は、いまいちハッキリしたものではなかった。もちろん、白と黒の二色に分けられるような事は全く発生しなかった。 つまり、枢軸国に対して判定負けとなった英国と米国の立場が微妙で、特にどの陣営からも英国の動きには注意が払われていた。 これは、英本土はドイツの近在で、オーストラリアなど残存する太平洋の利権は日本に手の出るところで、最重要の植民地であるカナダはアメリカと国境を接していたからだ。 このため、英国が誰の陣営に属するかによって、その後の政治地図が大きく塗り変わると言うことだ。 ごく常識的には、英国としては自らの残存勢力と持ち前の政治力を利用して、勝利者たる枢軸国内での立場を作り上げ、新たな世界においてもある程度の位置を占めるのが普通と考えられていた。 それは講和したとは言え、寸土も犯されていないアメリカ合衆国が、依然として枢軸国側との消極的な対立をしていた事からも当然と思われた。何しろ、英国にとってもアメリカは伝統的に敵性国家だったからだ。 また、多くの植民地を失った英国にもはや「栄光の孤立」などと言う芸当ができる国力はなく、どこかの陣営に属さねば今度は全てを失うことになると思われていたからだ。
ちなみに、1945年当時の国力を極めて単純な数字で見てみると、米:独(欧州):日(亜細亜):英=4:3:2:1程度となる。 そして、依然単独だと最大の国力を保持するのがアメリカであると言う厳然たる事実が、枢軸同盟の結束を維持させ、枢軸同盟の性質を本来の反共から対米包囲網へと性質を変化させていた。そして、より多くの勢力圏を枢軸側に内包された英国は、アメリカとの対立が伝統的外交という理由もあり、当面は枢軸国の傘下に入ることを内外に表明した。 もちろん、実に英国的なしたたかさを見せつつ。
一方のアメリカ合衆国も、事あるごとに国際社会から爪弾きにされた事、枢軸同盟、つまり戦後世界の列強の全てがアメリカを「敵」として認識したことによる反動から、孤立主義に加えてさらなる軍拡による対立姿勢を強くしていくようになっていた。またこれは、アメリカ合衆国に本来存在するあまりにも強大な経済力と資源がこれを可能としてしまった事が、アメリカの孤立を実現してしまったという現実があることは無視できない要因だろう。
そして大戦後の世界の全般状況は、両洋から対米包囲体勢を敷く枢軸同盟(独日英伊仏(+後に露))vsアメリカ合衆国という対立構造へと変化し、これをアメリカは旧世界vs新世界の対立と認識、それに釣られる形で枢軸同盟をこれに応える形となったため、本来政治形態の主流の一つとなるはずだったドイツ式国家社会主義が、イデオロギーはともかく経済的には世界的視野から見ると全くそぐわない事、その後の日英などとの連携の影響もあり、単なる資本主義の一変形にしてしまうという奇妙な変化をもたらしていた。 つまりこれは、孤立した自由主義vs修正型資本主義の対立という、極めて異質な勢力同士の対立構造の出現だったのだ。
ただし、一つだけ言えることがあった。 この度の3〜5年の総力戦により、どの列強もひどく国力を消耗しており、最低5年、自ら仕掛けるのならその倍の時間は国運を賭けた戦争などできないだろうと言う事だった。 これに関しては、どの国がどうと言う事は特になく、全ての列強にとっての当面の一番の安心材料だった。 そしてこれは、特に枢軸諸国の結束を強化させる期間として機能した事は、歴史的な皮肉と言えるかもしれない。
そして世界は、かりそめの平和の期間の間に総力戦ができる時代が過ぎ去った事から、列強同士の正面切った総力戦と言う時代は幕を閉じ、列強の衛星国や影響国による代理戦争の時代へとシフトしていくこととなり、それ故に各国で生き残った主力艦艇たちが極端な危険にさらされる機会は激減、これは二度の大戦争で日本をその身を以て守護した『八八艦隊』の彼女達とて例外ではなかった。
なお、『八八艦隊』の鋼鉄の戦乙女たちは、この度の戦いで何隻もの戦没艦を出したが、一方で新しい姉妹の誕生などいくつかの変化が見られたので、それを最後に記してここでの第二章を締めくくりたいと思う。
◆残存艦(八八艦隊より10隻) 「紀伊」、「尾張」、「富士」、「阿蘇」 「葛城」、「赤城」、「高雄」、「土佐」 「長門」、「陸奥」 「金剛」、「比叡」、「榛名」
◆うち戦後すぐに予備役に編入された戦艦 「長門」、「陸奥」 「金剛」、「比叡」、「榛名」
◆戦没艦(八八艦隊より6隻) 「駿河」、「近江」 「雲仙」、「浅間」 「愛宕」、「加賀」 「伊勢」、「日向」
◆新造戦艦 「大和」、「武蔵」、「信濃」、(「甲斐」(1946年就役))
◆新造超甲巡 「剣」、「黒姫」、「白根」、「鞍馬」
◆戦利艦 「対馬(旧デラウェア)」(戦後アメリカに返還)
◆1947年次主力戦隊序列 第一戦隊:「大和」、「武蔵」、「信濃」 第二戦隊:「紀伊」、「尾張」、「富士」、「阿蘇」 第三戦隊:「葛城」、「赤城」、「高雄」、「土佐」 第四戦隊:「剣」、「黒姫」、「白根」、「鞍馬」
第一航空戦隊:「大鳳」、「海鳳」、「白鳳」 第二航空戦隊:「翔鶴」、「瑞鶴」、「千鶴」 第三航空戦隊:「飛龍」、「天城」、「笠置」 第四航空戦隊:「白龍」、「黒龍」、「紅龍」
第五航空戦隊:「日進」、「千早」、「千景」 第六航空戦隊:「龍鳳」、「瑞鳳」
END