■大西洋の戦い
1942年4月9日深夜、日英空母機動部隊は4月初頭まで継続されていた船団護衛と対潜ハンターキラー任務を離れ、西大西洋上に到達、そして二つの機動部隊が合流しました。 もちろん命令違反をしたのではなく、42年初頭には対米開戦もやむなしとした連合国軍が、アメリカ合衆国参戦に対して計画したものです。 これは、日英海軍自慢の彼女たちに、連合国軍を代表してアメリカ本土にプレゼントを贈らせるために派遣されたものでした。 はるばる米本土にプレゼントを持ってきたメンバーは、以下の通りです。
日第二機動艦隊:(艦載機:常用約330機) 戦艦:「高千穂」、「穂高」 航空母艦:「翔鶴」、「瑞鶴」、「千鶴」 軽空母:「千早」、「千景」 重巡洋艦:「最上」、「熊野」、「鈴谷」 軽巡洋艦:「酒匂」 艦隊型駆逐艦:16隻
英機動部隊(V部隊)(艦載機:常用約170機) 巡洋戦艦:「インドミダヴル」、「インディファティガヴル」 航空母艦:「アークロイヤル」、「フォーミダヴル」、「イラストリアス」 重巡洋艦:2隻 防空巡洋艦:2隻 艦隊型駆逐艦:8隻
見ての通り、日英共に完全な空母機動部隊でのみ構成されており、特に空母数においては、時をほぼ同じくしてハワイに殺到した米軍よりも多く、その艦載機も常用で500機に達していました。 母艦数に比べて艦載機数がアメリカより少ないのは、日本軍に軽空母が含まれているのと、英海軍の空母が搭載機数を犠牲にして重防御だからです。 また、日英とも一回きりの攻撃に少しでも多くの兵力を投入するため、飛行甲板にも無理して艦載機を搭載し、数の水増しを行っていました。もっともその分予備機の数は減らされており、継戦能力はむしろ低くなっていましたが、作戦の性質上特に問題とはされませんでした。 なお、彼女たちがプレゼントを送り届ける場所は、英部隊がノーフォーク、日本部隊がニューポートニューズです。 作戦目的は、開戦初頭に米大西洋艦隊の最重要拠点と最重要建造施設を叩き、アメリカの第一線海洋勢力の減退を図り、欧州での時間を稼ぐことにありました。 また、副次目的として、アメリカ市民に自分たちが戦争の蚊帳の外でないことを教え、無分別に開戦へと傾いたアメリカ市民に対する痛烈な政治的なメッセージを送ることも重要とされていました。 そして、アメリカ合衆国の心臓部に対する攻撃である事から、奇襲攻撃が最重要視され、途中で枢軸国ないしは合衆国に発見された場合は、作戦が中止される事になっていました。 しかし、作戦前日の深夜、つまり既に艦載機の攻撃圏に入ろうとしている段階においても、敵に発見された兆候は存在せず、ここに至って作戦の発動が決定したのです。 攻撃に参加するのは、もちろん各空母に満載された艦載機たちで、奇襲攻撃という性格上非常に難しいとされる夜間攻撃とされました。攻撃隊は、深夜発艦し深夜のうちに攻撃、そして黎明に帰還すると言うスケジュールで、日本的に表現するなら「夜討ち朝駆け」と言う形になります。 攻撃の一番手を担うのは、夜間攻撃のエキスパート集団である英艦載機隊、就役年代などから様々な批判にさらされる事の多いソード・フィッシュ雷撃機です。その数約120機。この当時第一線に存在した攻撃任務に堪えうる全ての英海軍パイロットを集めた、とすら言われた攻撃部隊です。そして彼らは欧州で鍛えたあげた持ち前の夜間精密爆撃の手腕を以て、軍港に停泊している艦艇と基地施設に対する爆撃を行う予定でした。 一方日本側の攻撃隊は約200機で、発艦の都合で2波に分かれる予定でしたが、RDF搭載の先導機の導きにより米軍最大の造船施設を襲い、大型通常爆弾と新型焼夷弾により建造施設を長期間使用不能にするのがその任務でした。そして、夜間攻撃という都合上、双方とも攻撃隊は全て攻撃機(爆撃機)のみで編成されており、敵の探知を逃れるために飛行ルートも海岸近くでは低空を飛行する事になっていました。 なお、英軍機が軍港攻撃で日本軍機が造船所攻撃の理由は、精密爆撃なら英軍の方が経験も豊富だろうと言う点と、造船所の施設が大きすぎる事から、英軍機の数では荷が重いだろうと判断されたからです。なお、ニューポートは、440mにも達する世界最大級の大型ドックを中心に、最大大型空母を同時に9隻も建造できる施設を有する世界最大級の艦艇建造施設で、攻撃された42年春の時点では、ドックの大半で何らかの大型艦艇を建造していました。
9日深夜母艦を離れ、海岸部に接近して低空飛行に変更した攻撃隊は、約400km の行程を消化し北アメリカ大陸東海岸に達します。 攻撃は明けて、1942年4月10日の午前2時半に、照明弾が投下された後、最初の爆弾がノーフォーク軍港に投下されました。 この時、ノーフォークに停泊していた米海軍艦艇は、米大西洋艦隊の半数以上に達していました。 大型艦だけでも以下の通りとなります。
戦艦(新鋭艦):「マサチューセッツ」、「ロードアイランド」 戦艦(旧式艦):「コロラド」、「カリフォルニア」 重巡洋艦:「ルイスビル」、「シカゴ」、「ニューオーリンズ」 軽巡洋艦:「ミルウォーキー」
そして、この大半が防雷網以上の対潜警戒、対空警戒をする事なく停泊していました。 中にはボイラーの火を最低限にしていた艦もあり、連合軍の奇襲攻撃に全く対応ができませんでした。 また、低空で侵入した事から沿岸にようやく配備が始まっていたレーダー監視網もこの攻撃隊を捉えるのが極めて遅く、しかも夜間戦闘機などこの地域に全く配備していなかった(と言うよりも、この当時米軍にまともな夜間戦闘機は存在しなかった)事から、効果的な迎撃も事実上不可能でした。 当然、攻撃開始当初は迎撃らしい迎撃はなく、しかも事実上の固定目標が相手だったので、ソード・フィッシュ隊は枢軸国船団に対するよりも容易く、それこそ訓練のごとき状態での投弾を行います。そして、このため英攻撃隊は、非常に高い爆弾命中率(約6割)を叩き出しました。 ソード・フィッシュが急降下爆撃により投下した爆弾は、そのほとんどが1000ポンド(一部2000ポンド)爆弾だったため、新鋭戦艦に対しては致命的損害を与える事は難しいと考えられていましたが、旧式戦艦の「コロラド」は弾薬庫誘爆により爆沈、「カリフォルニア」は大破着底の大損害を受ける事になります。新鋭戦艦で3.5万トン級の「マサチューセッツ」、「ロードアイランド」も、「ロードアイランド」が同じく大破着底、「マサチューセッツ」も判定中破の損害を受ける大ダメージを受けます。そしてそれ以外の艦艇の損害も合わせれば、米大西洋艦隊主力は全くの壊滅状態となり、以後1年以上にわたり活動が停滞する事になります。 そして、当然軍港施設に対しても攻撃が行われ、復旧に3カ月から半年はかかるとされる大損害を与える事に成功します。 また、ドイツとの戦訓から潜水艦施設も徹底して狙われ、大きな損害を与えています。これは、ドイツのようなブンカーなどをノーフォークが保有していない事から(と言うよりもドイツ以外はほとんど保有していないが)、施設の過半を破壊する事に成功します。 なお、この英軍の攻撃での損害は、帰還を誤ったものを含めてもわずか7機にすぎませんでした。この裏には、散発だった対空射撃の主力が12.7mm機関銃だったため、布張り機に致命的なダメージを与えるに至らなかった事が多々あったと言う、笑いだしたくなるような技術的な皮肉がありました。
ノーフォークが業火に包まれている頃、その少し内陸部にあるニューポートニューズも殺到した日本軍機により、同じく業火に包まれようとしていました。日本軍第一波120機は、英軍と同じく敵戦闘機の迎撃こそ受けませんでしたが、時間的にノーフォークより後の攻撃となった事から高射砲など対空砲火の洗礼は受ける事となります。 しかし、まだ完全な戦時体制に移行せず、しかも大西洋側から米本土が攻撃される事をほとんど考慮していなかった政府、軍部の怠慢により、アメリカ最大の造船所ですらロクな夜間防空体制を布いてはいませんでした。 もっともこれは、アメリカがカナダからの攻撃を警戒した軍配置をしていた事も大きく影響しています。カナダからの攻撃を警戒するあまり、可能性の極めて低い大西洋側からの空母艦載機による空襲に対する対策に回す兵力がなかったと言う理由があったからです。 このため、結局たいした妨害を受けずに、日本軍機はこの当時としては非常に早い進撃速度を維持しつつ、大造船地帯の真上に到達する事ができました。 そしてここは、戦時体制と言うことで24時間体制にあった事から、事実上の灯火管制の対象外となり、各種工場、ドックはこの時も火花を散らして工事を続行していました。 このため、日本軍機は目標選択に迷うことはほとんどなく、照明弾の使用すら不要だったほどだと言われています。 上空に達すると日本軍機は、事前に何度も繰り返し行われた模型を使用した図上演習に従い、各中隊単位で爆撃を開始します。日本軍が投下した爆弾は、攻撃機が800kg爆弾か現地改造型機の500ポンド爆弾×4で、急降下爆撃機が500kg爆弾か250kg爆弾+60kg爆弾×4でした。そして建造施設の攻撃と言うことで、どちらも新型の焼夷弾か通常爆弾を使用していました。 30分後に80機からなる第2波も押し寄せ戦果を拡大し、結果的にニューポート造船所の機能を長期にわたり完全に停止させ、建造中の3隻の大型戦艦と6隻の大型空母など多数の艦艇の就役を大きく遅らせるか、場合によっては破棄させる程の大損害を与える事に成功します。 この攻撃による日本軍の損害は、攻撃中に米陸軍機が無理矢理迎撃に現れた事などもあり22機にも及びましたが、その損害を補って余りある大戦果を挙げることに成功します。 このため、攻撃隊からの報告を聞いた機動部隊指揮官は、ただちに反転帰投を命令し、大西洋を東に戻っていきました。 しかもこの時、機動母艦戦力の全てを太平洋に持っていっていたアメリカ海軍にこれを追撃する能力は全くなく、申し訳程度に長距離進撃可能なB-17が索敵攻撃した他は、連合国軍空母機動部隊を指をくわえて見送るしかありませんでした。
東海岸奇襲攻撃は、純軍事的には奇蹟と呼んでよいほどの成功を収めましたが、それ以外の副次的な面で大きな波紋を呼ぶことになります。 一つは、アメリカの枢軸国への不当な援助を快く思っていなかった連合国国民の溜飲を大きく下げさせた事と、米海軍はやはり大したことない(34年の日本との敗北があるから)と言う評価を世界中に印象づけた事。 もう一つは、アメリカ国民を激しく怒らせ、彼らに連合国に対する徹底抗戦を叫ばせた事でした。 後者については、連合国から見ればアメリカの方こそ、以前から軍事物資の援助と言う形で事実上の参戦をして、煮え湯を飲まされていたので、ようやくアメリカからのこのこ参戦してくれたので、連合国側の歓迎として本土攻撃をして教訓をくれたやったと言う程度ものでしたが、アメリカ政府の世論誘導などにより、アメリカ市民には開戦を予測して計画された連合国側の卑怯な攻撃と映る事になったと言う、何とも奇妙な側面がありました。そして、この米本土が攻撃された事のショックの方が遙かに大きかったので、アメリカ市民の間では、ハワイでの戦闘と大西洋での戦いが半ば忘れさられる結果になります。
また、この攻撃は後世様々な議論を呼ぶことにもなります。 好戦的な意見は、さらに反復攻撃を行うか、その後も各地の攻撃を行えばアメリカの力を大きく奪えたと言うもので、これは当時の東海岸中部以南の防衛網の甘さを考えれば妥当に思えますが、連合国側もまさかこれ程アメリカ本土の防衛網が手薄とは予測しておらず、この攻撃も大いなる僥倖だろうと判断しており、しかも当初から一撃離脱攻撃を予定したのですから、この意見はその点を無視した議論であり、あまり意味のないものと言えるでしょう。 別の意見は、アメリカの激怒による後の大戦の激化を考えると、攻撃すべきでなかったと言うものです。こちらも、後から見た視点での意見であり、やや公正さに欠けると言えるでしょう。 しかし、この連合国軍の米本土攻撃は、一つの大きな事実をこの時点で作り出すことに成功します。 それは、アメリカ合衆国が、ハワイ海戦とノーフォーク奇襲により、渡洋侵攻能力の大半を失い、海洋侵攻するしか攻撃手段のないアメリカの参戦を向こう半年は無力化してしまった事でした。しかも、これはその後すぐに発生した戦闘で、さらに酷い状態となります。
なお、アメリカは連合国に対して復讐を叫びましたが、この米本土攻撃のショックは大きく、攻撃に対する報復の幻影に怯えた形で英領カナダに対する陸上侵攻はおろか、空爆すら行われる事はこの時点ではありませんでした。 アメリカ市民ひいては世論の動向が、アメリカ政府にこの奇妙とも言える戦争状態を作り上げたさせたのです。このため、アメリカにとっての当面の戦闘は、アメリカ領外、両洋に限定される事になります。つまり、機動洋上戦力の大半が傷ついたアメリカは、せっかく参戦したのに、何もできなかったのです。 しかも、戦時体制も戦時生産体制もまだまだ途上だったので、これを埋め合わせる戦力も当面なく、英宰相のチャーチル氏をしてアメリカのこの時点での参戦は、連合国将兵の献身的働きにより無意味になったと言わせるに至ります。
しかも連合国のアメリカに対する攻撃は続きます。 ドイツとの既に2年半にもおよぶ戦いで、すでに多数の戦訓を得ていた連合国は、アメリカ参戦と同時に米船舶に対する無差別攻撃を開始したからです。 この攻撃は、アメリカ海軍の装備・戦術の劣悪さも手伝い、一時的にアメリカ海運に対して壊滅的ダメージを与える事に成功します。損害の量も42年の4月〜7月の3ヶ月間で約390隻、約200万トンに達していました。これに対してアメリカが撃沈した連合国軍潜水艦はわずかに4隻でした。この当時のアメリカ造船はまだ増産途上で、軍民合わせて1カ月50万トン程度でしたから、当然この損害を埋めるには至りません。 連合国がこれほど大きな成果をあげた背景には、アメリカのあまりにも稚拙な対潜水艦戦術・装備に負うところが大きかったのですが、それ以外にも42年春の時点で連合国は日英を中心にドイツ海軍に倍する150隻近い潜水艦を保有し、うち半数、つまりローテーションを考えても常に25隻前後の潜水艦がアメリカの商船を狙っていたからです。 戦術そのものはドイツ海軍のコピーに過ぎませんでしたが、アイスランドやジャマイカ、そしてハワイなど近在の拠点を連合国が保有していた事、戦艦、空母など海上機動戦力を豊富に支援に投入できた事などから、建軍以来今まで潜水艦との戦いを経験した事のないアメリカ海軍にとって、この日英の通商破壊は破滅的な効果を発揮し、第二次世界大戦初戦の英国(連合国)以上に苦しむ事になります。
そして、4月14〜15日これを象徴するような戦闘が発生しました。 ニューヨークを離れ、フランスはブレストを目指していた米護送船団に、連合国軍の水上艦が襲いかかった戦闘、「アゾレス諸島沖海戦」と呼ばれるものがそれです。 対日、つまり連合国に対する宣戦布告により、本来なら慎重に進められるべき対ドイツ援助物資船団でしたが、純軍事的要素でなく「参戦すればもっと援助する」と言う政治的ポーズを取るために、あえて開戦後の早い時期に船団が出発したのです。 当然、アメリカ側としても護衛には戦艦多数を含める十分な数をつけ、しかもこの時一隻しかなかった護衛空母までが護衛につけられました。 戦艦には新鋭艦も含まれていたので、それまで大西洋で頻繁に同じ様な行動をしていたR級やレナウン級程度なら十分対処可能と思われており、本土近海では自軍の航空戦力が、欧州大陸に接近すればドイツの海空戦力が護衛や牽制任務に付く事から大きな問題はないと合衆国軍では判断していました。 そして、東海岸での奇襲と同じく、開戦当初に大西洋方面で連合国が、アメリカを刺激するような大きな軍事行動に出るはずはないと言う根拠のない仮定から、この護送船団が欧州大陸に送り出されたのです。
対する連合国は、ノーフォーク奇襲を見るまでもなく、アメリカの出鼻を挫く事を当初から前提にした方針を持っていたので、この情報に接すると対「テルピッツ」包囲艦隊の一部を割いてまでして臨時の部隊を編成して、この船団攻撃に向かわせました。 以下が、この海戦で関わりのあった艦船です。
■日英合同艦隊(S部隊) BB:「葛城」 BC:「アンソン」、「ハウ」 CV:「ヴィクトリアス」(艦載機:約40機) CG:「コーンウォール」、「ドーセットシャー」、「エクセター」 CG:「鳥海」、「摩耶」 CL:「矢矧」 DD:10隻(英:6隻 日:4隻) SS:多数
■アメリカ海軍 護衛部隊 BB:「アラバマ」、「テキサス」、「ニューヨーク」 CG:「ヴィンセンス」、「クインシー」、「アストリア」 DD:8隻
本隊+直衛 CVE:「ロングアイランド」(艦載機:約30機) CLA:「アトランタ」 DD:6隻 DDE:6隻 各種輸送船:36隻 タンカー:8隻
一見米側と日英側の戦力は拮抗しているようにも見えますが、日英側は空母は重防御の正規空母、戦艦・巡洋戦艦はどちらも4万頓以上の強力なローマ条約艦です。また水面下には多数の潜水艦が存在していました。しかも水上艦の機動力という点では、比較にならない差があります。その上、電波兵器で日英側はすでに高性能のセンチ波電探を開発・搭載しており、アメリカ側にこれを逆探知する能力が、存在を知らない事もありこの当時では全くできない状況でした。 その上、政治的な理由から船団の出港は連合国の知るところとなっており、大西洋上ではUボートよろしく英国の潜水艦の群が待ちかまえる事にもなります。 もちろん、英本土からの長距離攻撃隊についても抜かりはなく、実に海洋帝国らしく、ドイツ航空機の届かない場所を想定した長距離攻撃部隊が用意されていました。この中には大遠距艦艇隊攻撃を得意とする日本の海軍航空隊も含まれていました。 そして、この連合国側の罠の巣と呼んでよい海域へと、米護送船団は政治的な問題からあえて突き進む事になります。
米船団は1912年4月10日、連合国の米本土攻撃で混乱したことから一日遅れてニューヨークを出発しました。 出発に際しては、当然のように派手やかなセレモニーが催されます。 船団は、当然あると思われた連合国軍の襲撃を警戒したために、船団の出しうる最高速度で大西洋の横断を行います。それは、これまでで最も早いペースで、平均速度は10.5ノットに達していました。 しかし4月14日の午後11:40、船団は突如暗闇の中からの大型艦による砲撃を受けます。 攻撃は、連合国側が潜水艦で位置を完全に把握してから接近し、さらに艦隊も完全なRDFによる遠距離攻撃を行い、アメリカ側がそれを探知できなかったのが大きな原因でしたが、この夜は月齢26.1の新月に近い暗闇であった事と、珍しいほどの無風で鏡の様な海面で船の周囲に白波が全く立っていなかったことも発見が遅れた要因でした。もっともに後者は、船団に監視任務で張り付いていた潜水艦の存在を目視で発見できなかった要因です。 船団が攻撃されると、ただちに直衛の駆逐艦部隊が概略方向に向けて迎撃に向かい、付近を航行していた護衛艦隊も発砲炎のある方向へ急行しました。しかし、連合国艦隊の砲撃は、練達した戦艦達が砲撃している故に正確で、アメリカの艦艇が迎撃を行うまでに、次々に狼狽して逃げまどう船団を海の底へと送り込みます。 そして、船団の半数が潜水艦と戦艦クラスの巨砲により波間に没した頃、ようやく米護衛艦隊は敵艦隊を星弾で確認します。 時間にして午前0時14分の事でした。そして、わずか30分強でしたが、この間に40隻以上あった船団は、船団後方に位置していた護衛空母「ロングアイランド」も含めて、実に26隻が撃沈・大破しており、既に船団はその体をなしていませんでした。 そして、米軍の星弾発射前にRDFでその接近を探知していた日英艦隊は、距離が2万に縮まると船団撃滅を水雷戦隊に任せ、星弾の発射を合図に米戦艦部隊への攻撃を開始します。 あえて巨砲で戦力比較するなら、日英側41cm砲12、38.1cm砲16、米側40.6cm砲9、35.6cm砲20の戦いです。 一見同程度の戦力差、しかも米側の一部は新型戦艦で連合国のそれよりも25%も早い発砲速度を誇っていましたが、レーダー技術が日英側に追いついてなく、戦闘開始当初から連合国側から一方的に攻撃を受けることになります。距離20000メートルからの砲撃は、輸送船団攻撃と同様に3斉射程度で正確なり接近をする米艦隊にいくつもの有効弾を浴びせかけました。 ですが電探技術に劣るアメリカ海軍も、距離15000メートルにまで詰めてようやく反撃を開始します。 しかしこの時までに、米艦隊の2番目を走っていた「テキサス」は「アンソン」の有効打により既に大破漂流しており、自慢の新鋭戦艦も実質的には6万トンに達し、八八艦隊中最も高い攻撃力を誇る「葛城」相手に痛打を浴びていました。 条約型巡洋艦同士の戦いも、基本的に高い電子技術を装備した日英側が優位に展開し、アメリカ側は重巡洋艦が早々に撃破され、遠距離から降り注ぐ砲弾の前に駆逐艦の接近すらままなりませんでした。状況は41年頃のイタリア海軍の巡洋艦部隊よりはいくらかマシでしたが、電子技術の差が戦場にどう影響するかを如実に現す現実を見せつけたものとなります。 なお、大西洋で久しぶりとなった戦闘艦同士の戦闘は、午前0時44分にアメリカ側の撤退通信により終息に向かいます。 先に撤退を開始したのがアメリカ海軍でしたから、もちろんアメリカ海軍の敗北です。惨敗と言っても良いでしょう。戦力的にはそれ程劣っていなかった米軍でしたが、電波技術の前に完敗を喫する事になったのです。 日英水雷戦隊と護送船団の戦闘も、午前2時20分には終了します。戦闘終了の理由は、戦艦同士の砲撃戦が始まった頃、米護送船団指揮船が船団の解散を指令し、米護衛駆逐艦の撃破に手間取った日英側が、残敵を補足しきれなかったからです。 もっとも、当然のようにその後連合国側の潜水艦による追撃が続き、事実上護衛部隊から見放された船団は、アメリカ大陸向けての逃避行の中、一隻また一隻と失われ、最終的に出発した時の7割近い船舶が失われる結果になりました。 以下が、一連の戦闘の最終的な結果です。
■撃沈 ●日英(連合国)側 DD:3隻 SS:1隻 ●アメリカ側 BB:「アラバマ」、「テキサス」 CG:「ヴィンセンス」、「クインシー」、「アストリア」 CVE:「ロングアイランド」 DD:4隻 DDE:1隻 各種輸送船:26隻 タンカー:4隻
■大中破 ●日英(連合国)側 BC:「ハウ」 CG:「コーンウォール」、「ドーセットシャー」、「摩耶」 CL:「矢矧」 DD:2隻 ●アメリカ側 BB:「ニューヨーク」 CL:「アトランタ」 DD:3隻 DDE:1隻 各種輸送船:3隻 タンカー:1隻
結果は戦闘で、電探の性能差による索敵能力と砲弾命中率を、まさにランチェスターモデルで検討した時のようであり、この結果アメリカ側が28万トンの優秀船舶と11万トンの戦闘艦艇を失い、対独援助が長期的に不可能になるまでの大損害を受ける事になります。 対して連合国側は、作戦参加部隊の大半が大なり小なり損害を受けましたが、大西洋方面の大型艦艇にはかなりの余裕があった事から大きな問題にはならず、対ドイツ海軍包囲網が崩れる事もありませんでした。 なお、戦闘を優勢に進めていた筈の連合国側の中で「ハウ」が大破しているのは、ビスマルク追撃戦での「フッド」同様、垂直防御の弱さから危うく爆沈しそうになったためです。この結果、「フッド」級の残り3隻の緊急改装措置がとられる事になります。
そして大西洋での一連の戦闘結果、4月20日にアメリカのロング大統領は、向こう半年間対ドイツ援助船団の中止を宣言する事になります。
(※:「アゾレス諸島沖海戦」の時間などは、タイタニック号の沈没の経緯に合わせてあります。気づかれましたか(笑))