■合衆国の焦燥と日本本土侵攻

 念願かなってようやく開戦したのに、それを予期して待ちかまえていた連合国軍のしっぺ返しにより、いきなり海軍が大ダメージを受ける結果になりました。
 しかも、全ての戦闘で戦略的に敗北しており、せっかく再建された合衆国海軍の手持ちのカードは、太平洋にある1個打撃艦隊と1個空母機動艦隊、そして1個水陸両用艦隊だけとなってしまいます。米海軍全体で見ても、いきなりの半減です。
 大西洋に至っては、いきなり稼働戦艦「0」となり商船も護衛艦艇も連合国側の潜水艦に沈められる一方です。しかも、英国の旧式巡洋戦艦に至っては、ドイツ海軍よろしくの大型水上打撃艦による通商破壊まで行う始末です。潜水艦の脅威については、太平洋でもハワイを拠点にして活動をする日本軍により、日英合同で大西洋で頑張っている大西洋と似たり寄ったりで、大西洋、太平洋双方で民間の被害も大きく、早くも国民の間には戦争に対する不満が出る気配になります。
 もっとも、連合国軍のノーフォーク奇襲攻撃で国民感情は反日英で盛り上がり、今すぐ停戦を求めると言う風潮にはありません。
 しかし、これを維持するためには、近いうちに目に見える勝利が必要でした。
 このため、急遽攻勢作戦が計画されます。

 しかし条件があります。出来る限り合衆国市民に害の及ばない方法、場所と言う前提条件です。その上で、市民にアピールできる場所でなければいけません。勿論、親連合国寄りの中立国への攻撃も論外です。これ以上敵を増やしても、いいことなど一つもありません。
 つまり、安易に戦術的成功が得られそうなカナダは、泥沼化の恐れがある事から最初から除外されました。ジャマイカなどカリブの英領土に対する攻撃も、その結果何が起こるか、つまりどのような報復が米本土にされるか分からない、また中南米各国の動向も不明な事から政治的に除外されました。
 また、ほとんど「戦艦」しか使える洋上戦略的兵器が存在しない事から、大規模な洋上航空戦となり、初戦で大きな失敗しているハワイは論外でした。日本軍機にやられに行くようなものです。もちろん、その周辺も日本軍が待ちかまえている以上同様です。
 「戦艦」が使えて、アメリカ本土の圏外で、日本(連合国)の影響圏でしかも日本(連合国)の防衛の不備があるところ。これが条件となります。
 そして、その条件に合致する場所は、ほぼ一つしかありませんでした。
 カムチャッカ半島東端と千島列島です。
 そして、カムチャッカ半島程度なら、アリューシャン列島の西端部の島からならB-17、B-24などの長距離爆撃機なら行動圏内であり、北太平洋の荒波は初戦で大きな成果を挙げた空母の運用は困難で、気象にさえ注意して侵攻作戦を行えば、カムチャッカ、千島、そして日本本土である北海道へと電撃的に侵攻する事も不可能ではないと考えられました。
 やや賭博性が高い事は、この構想が持ち上がったときから大きな憂慮とされましたが、政治がそれを全て押し流してしまします。
 こうして、アメリカ太平洋方面軍は、陸海共同でカムチャッカ・千島進攻作戦が準備されたのです。
 一方、初戦でハワイ防衛に成功し、順調な通商破壊戦を継続している日本(海)軍でしたが、太平洋方面の母艦戦力の半数を失い、ハワイ防衛には大きな不安を持っており、このため開戦当初北太平洋で警戒任務に当たっていた18インチ砲搭載戦艦で構成された第一艦隊をハワイに派遣、また海上護衛総隊もハワイへの補給を第一にした船団護衛シフトをして、ハワイ防衛に万全を期していました。
 日本軍とすれば、ハワイさえしっかりと守っていれば、攻防共に安心と言う訳です。ここを純軍事的に(補給も含めて)維持する限り、進撃路、補給路の問題からアメリカ軍は、太平洋への進撃ができないのが戦術常識ですから、この日本の認識はそれ程外れたものではありませんでした。
 この時点での日本の懸案は、ハワイなどの各種交通線の維持だけで、これも米軍の潜水艦が使用する魚雷に致命的な欠陥が存在し、またノーフォークの備蓄魚雷が全滅していた事も手伝って戦前の予想よりも遥に低い、極めて少ない損害しかなく、当面安心できそうな状況でした。

 そうした状況の中、1942年5月7日アメリカ軍は突如、日本領カムチャッカ半島主要都市の北衛市(旧ペトロパブロフスク・カムチャッカスキー)への電撃的奇襲を行い、周辺部を含めてこれを数日で占領してしまいます。
 念のため警戒配置あった同方面の日本軍部隊が、全く対処できない早業でした。
 幸いなことに、続いて予想された千島列島への攻撃は、その後天候が悪化したことからしばらくなかったので、この間を利用して悪天候にもめげず、日本はあわてて同方面の兵力増強を行います。
 北海道などオホーツク全域の陸上兵力が増強され、特に最前線が予想される守占島、幌延(パラムシル)島へ師団級戦力を派遣し、北海道、樺太、千島に本土防空隊を割いてまで一個航空艦隊に匹敵する航空戦力を配置しました。
 海軍もハワイと本土から可能な限りの引き抜きが行われ、急遽第五艦隊は主力艦隊並の規模に膨れ上がる事になります。
 これらの中には、本来なら欧州へ派遣されるため本土で準備されていた戦力も多数含まれており、また本土近辺だった事から多数の兵力が短時間で出現する事になったのです。

 当初から不安要素とされていた北太平洋の悪天候のおかげで、日本軍の迎撃退勢を整わせてしまった米軍でしたが、自分たちもその間にしっかりとした補給路を設定できた事から、さらなる進撃を躊躇させる要素とはなりえず、次の段階の侵攻作戦が開始されます。
 目標は千島列島の占守島、そして最大の激戦地となるパラムシル島です。ここを確保し橋頭堡となし、日本本土の一部を占領したと国内的に大きく宣伝し、さらなる進撃を行い航空拠点を確保する事で、北海道や樺太に対する日本本土爆撃を行うことがその最終的な目的でした。
 1942年8月7日、米軍の大艦隊が日本艦隊の監視の目をかいくぐり、奇襲的に占守島への上陸を果たします。
 5月のカムチャッカ侵攻作戦「ウォッチ・タワー」に続く、「バグ・ハウス」作戦と呼ばれる作戦の発動です。
 この当時日本軍は、占守島とパラムシル島には第二師団と第十一独立戦車連隊が駐留していました。
 さらに、各一個大隊規模の戦闘機隊と戦術爆撃隊も進出しており、後方の航空機部隊と共に厳重な警戒網を布いていました。
 また、同島にも各種電探が多数持ち込まれており、霧などこの地域特有の天候にも対応できる監視体制すら構築していました。
 欧州での英国のシステマチックな戦闘を見た日本軍が、自分たち風の手法の防衛システムをこの地域にも持ち込んでいた事が、この事からも容易に想像できる一つの事例と言えるでしょう。そして、カムチャッカへ無様な奇襲を許した日本でしたが、彼らなりに準備していた証が千島を救う事になります。
 また、巡洋艦を中核とする水上艦隊が根室にあり、北太平洋上には、無理矢理再編成した空母「蒼龍」「飛龍」「龍鳳」を中核とした第一機動部隊の姿も大湊にありました。
(18インチ倶楽部の戦艦部隊は、この時各地でそれまでの無理な配置による疲労を回復させており、ハワイにある以外は、半月は出撃不能の状態で、これが米軍の侵攻を招いたのです。)
 対する米軍ですが、この侵攻に戦艦8隻、空母3隻を中核とする100隻以上の大侵攻艦隊を編成しており、島に直接上陸した兵力も、第一海兵師団と第一師団(の一部)の多数に及んでいました。
 この事はアメリカ軍が、いかにこの作戦に賭けているかを伺わせるもので、同時にいかにアメリカ政府が勝利を求めていたかを思わせるものがあると言えるでしょう。
 米軍は侵攻初日の8月7日に、米軍は早くも占守島へ橋頭堡を確保し、第一海兵師団1万1000人の上陸を行い、日本軍が迎撃体勢を整える前に足場を築き上げる事に成功します。
 しかし日本軍もこの米軍の侵攻を黙って見過ごしていた訳ではなく、濃霧の中無理矢理艦隊を出撃させ、敵上陸船団と橋頭堡を破壊するための艦隊を、単冠府から出撃させました。
 艦隊を構成していたのは、北太平洋防衛の中核艦隊である第二艦隊ではなく、戦艦1隻、重巡洋艦4隻を中核とする8隻だけの艦隊、第五艦隊の中でも臨時編成の艦隊で、しかも艦隊行動をするのは始めてという戦隊ばかりの集合体にすぎない艦隊でした。
 しかも、唯一の戦艦は、カタログデータ上だけなら高速発揮が可能なだけが利点の軽量級の戦艦の「比叡」でした。
 慌てて準備している、「長門級」、「加賀級」を中核とした第二艦隊がこの時点で出撃不能だったため、取られた措置でした。
 しかし、日本軍にとっても半ば予想外の緊急出撃だった事が、日本軍とって大きな福音、米軍にとって大きな災厄を呼ぶ事になります。
 単縦陣の単純な隊列を作ったにわか編成の第五艦隊は、一路全速力でオホーツク海を北上し、一度米軍から発見されますが、これを一時反転によりかわし、米軍侵攻の翌日深夜には占守島近海に近寄ることに成功します。
 この時米軍は、占守島橋頭堡の東西をそれぞれ巡洋艦3隻を中核とする警戒艦隊を配置し、万が一に備えていました。
 また、少し離れた海域には、3.5万トン級の「ノースカロライナ」、「ワシントン」、「サウスダコタ」からなる強力な打撃艦隊が空母機動部隊とは別の任務部隊を編成して島の近い方に存在し、近在にいるはずの日本艦隊、「長門級」、「加賀級」に備えて遊弋していました(実際はいなかった)。
 しかも、8月7日から8日にかけての深夜は、薄い霧が立ちこめており、夜間戦闘はおろか夜間航行すら難しいと米軍では判断しており、この日はまったく油断していました。
 ですが、日本艦隊には秘策がありました。
 それは、米軍に対する技術的アドバンテージが理由でした。
 この時「比叡」は、元々新鋭戦艦へのテストベットとしての優先的な改装が施されており、この時も最新型の水上捜索型のセンチ波電探、つまり射撃管制電探を装備し、その訓練を終えた所だった事を見込まれ、この海域に押っ取り刀で駆けつけたのでした。 
 他の艦も米軍の急な北太平洋侵攻に対して、急ぎ新型電探などを装備した艦ばかりが優先的に配備されており、少なくとも闇夜の水上航行には不安のない運用レベルに達していました。もっとも、にわか仕立ての艦隊である事には変わりないので、陣形が簡単なものが選択されていました。
 なお、この艦隊が搭載していた電探の数々は日本軍が開発したものではなく、その大元は英国で開発されたものでした。それを、日本がライセンス購入ないしは、共同開発と言う名目で導入、装備しているものでした。
 8月7日から8日にかけて行われた海戦、日本側公称「占守島沖海戦」と呼ばれる戦闘は、こうした状況の中発生しました。
 戦闘そのものは、闇夜と霧の向こうからの電探管制による遠距離射撃という、米艦隊が予想もしなかった攻撃により、戦闘開始45分にして米艦隊の西側を警備していた巡洋艦3隻、駆逐艦2隻の全てが大破撃沈し、慌てて駆けつけた東側の同規模の艦隊も重巡洋艦1隻の除いて同様の憂き目を見ることになります。
 もちろん、米艦隊を撃破した日本艦隊は、その後米軍の侵攻した海岸へと殺到し停泊している輸送船舶と膨大な物資が積み上げられた海岸堡に対する砲雷撃を行い、これに致命的なダメージを与える事にも成功します。
 そして日本艦隊は夜明けの少し前、8月8日の午前3時26分に友軍の声援に送られつつ、現地を後にします。
 この海戦において、米軍は3隻の重巡洋艦、1隻の防空巡洋艦、3隻の駆逐艦を完全喪失し、重巡洋艦1隻、駆逐艦3隻の損害を受けます。さらに、北の海を踏破できる能力を持った高速輸送船を排水量にして20万頓を一気に喪失し、前線に対する補給に早くも不安を覚えるダメージを受けることとなります。
 なお、これに対して日本軍が受けた損害は、戦艦「比叡」小破、他巡洋艦数隻が同じく小破しただけでした。
 このため、後世の戦史家は、この海戦を日本海海戦以来のパーフェクト・ゲームと呼ぶものも多くいます。

 侵攻序盤で大きなダメージを受けた米軍でしたが、もともと膨大な後方部隊を準備していた事と、並々ならぬ決意でもって侵攻していた事などから、8月8日の大損害後も補給の継続と共に占領地域の拡大を図りました。
 このため、上陸から二週間後の8月22日には、占守島に溢れ帰る米軍は、2個師団3万人に膨れ上がる事になります。
 そして、主に天候の問題から、特に航空攻撃の面でその後大きな行動に出る事ができなかった日本側の対応は後手後手にまわり、この時点においても反撃用の陸上部隊の準備すらままなりませんでした。
 なお、この時までに占守島に存在した日本地上部隊は、第二師団から1個連隊と独立部隊の第十一戦車連隊、そして海軍特別陸戦隊の1個連隊がありました。合計しても8000名程度の戦力しかなく、陣地構築と最初の海軍の戦闘のおかげでどうにか防戦が可能というレベルの戦力差しかありませんでした。
 もっとも、日本軍に光がなかったワケでもありませんでした。すぐ後背に増援可能な拠点があること、本土からの補給が容易な事などがそれです(撤退も容易かった)。中でも、大量の戦車を装備した『士魂部隊』こと第十一戦車連隊は、現地の日本軍にとって最も頼れる存在でした。
 1942年夏のこの時点での日本陸軍の主力戦車は、ドイツ軍と戦う為に長砲身の57mm速射砲を装備した「百式戦車」でした。
 ちなみに米軍は、この時すでにM4シャーマンの初期型を投入していたので、ほぼ互角の戦闘力と評価できます。
 しかし、欧州派遣のため内地で編成が急がれ、その後急遽占守島へと送られた第十一戦車連隊は、その当時のほぼ最新車両を多数装備しており、しかも連隊定数を越える90両近い戦車を保有した、事実上の増強連隊でした。
 その内容も、増加装甲を付けた「百式改戦車」を中核として、75mm速射砲を装備した最新式の「三式戦車」(便宜上「三式」とされているだけで実際は42年夏から量産開始されている。)、そして対独戦の切り札と期待された88mm高射砲を装備した「二式重戦車」までが装備されていました。
 もちろん、生産が開始されたばかりの「三式戦車」や「二式重戦車」は小隊かせいぜい中隊単位でしかありませんでしたが、これらはどちらも当時の米軍のかなる車両でも十二分に撃破可能で、「二式重戦車」に至っては前面装甲100mmに達しており、反対に米軍のいかなる対戦車兵器をも寄せ付けない防御力を誇っていました。
 しかも、中には本当の試作車両が何両か含まれており、極めて贅沢な装備を施されたこれらの車両は、現場整備兵と戦車兵の献身的な努力もあり、鬼神のごとき活躍を示すことになります。
 特に3両だけ存在した、贅沢な足回りと強馬力ディーゼルエンジンを搭載した「二式重戦車」(増加試作型)は、並の中戦車以上の機動力と稼働性を見せつけ、臨時編成の1個小隊ながら、この地域を去るまでに数十両の米軍戦車を撃破し、ドイツ軍の戦車エースに優るとも劣らない活躍を示すことになります。(このタイプを雛形として「四式」が開発されている。)

 その後北千島での戦闘は、日本軍が北海道、そして占守島の後背にひかえるパラムシル島を拠点としてねばり強い防戦に務め、米軍がアラスカ=アリューシャン=カムチャッカと困難な補給線を抱えつつ遮二無二な攻撃を繰り返す事に終始します。
 また、日本軍はハワイ諸島を拠点として米軍の北太平洋航路に対して通商破壊を強化し、出血を強要しました。
 そして、戦闘は9月に入ると、日本軍が多数の航空基地を設けるパラムシル島へとその重心を移し、当地の日米の陸上戦力の大半も、平坦な占守島ではなく、大きな山を備えるパラムシル島へと移り、当地での困難な陣地戦へと移行していきました。
 そして、戦闘そのものは、飛行場を中心とした陣地防衛と機動防御に徹する日本軍に対して、大軍を投入しての正面攻撃を行う米軍と言う図式ができあがり、北の大地は日米将兵の無尽蔵とも言える血と肉を吸いとる事になります。
 また、付近の海面では、日米双方の補給部隊とそれを阻止する水上部隊の小規模な戦闘が頻発する事になり、多数の輸送船、軍艦が海底への航海へと不本意ながら日米共に旅立つ事になります。
 当然空でも、オホーツクと北太平洋の悪天候の合間を縫って、熾烈な戦闘が毎日のように行われ、『航空撃滅戦』の様相を呈するようになります。
 しかし、戦闘は概ね日本側の優位に進展しました。特に地上においては、近在からの円滑な補給を受ける事のできる日本軍が米軍よりも常に数的劣勢にありながら、よく戦線をささえる事に成功します。
 反対に大兵力を投入したが故に、米軍の補給状態は日増しに悪化するようになります。
 9月半ばまでに占守、パラムシルに投入された米軍は、合計で約3個師団、約5万人に達しましたが、この大兵力を維持するための兵站物資の維持が大きな負担となっていたからです。
 特に北太平洋航路は、夏場でも海の難所と言って良く、跳梁する日本軍潜水艦の餌食とならずとも、自ら自滅する船が後を絶ちませんでした。特に、優秀船舶でなくてはこの海域に投入する事ができず、これを初戦で多く消耗した事が後々まで米軍の足を引っ張る事になります。
 しかも、この海域で船が沈没すれば、その船員はかなりの確率ですぐに「水死」してしまう事から、これも大きな問題でした。
 しかも、米軍の不運は続きます。
 9月15日、北太平洋上を大規模な補給船団の護衛のため航行していた空母「レンジャー」、「ラングレー」を中核とする第十四任務部隊が、飢狼の群よろしく日本潜水艦のたむろする海域へと偶然踏み込み、ここで「レンジャー」が酸素魚雷3本を受け大破、自沈、同じく護衛についていた戦艦「ノースカロライナ」が中破、他駆逐艦1隻が撃沈されたのです。
 しかも、9月21日には巡洋戦艦「サラトガ」が同じく潜水艦の雷撃により大破、輸送船の損害も急に増加します。
 これは日本海軍が、新装備を受け転換訓練を終えた精鋭の潜水戦隊を2個戦隊現地に投入したという、ごく当たり前の戦術原則といくつかの幸運と不幸により発生した損害でしたが、この大損害を前にして現地の米軍の洋上勢力は著しい劣勢に追い込まれる事になります。
 しかも、18インチ砲を装備した戦艦を8隻も装備する日本軍の最精鋭艦隊が、ハワイを拠点として本格的に北太平洋を遊弋するようになっており、このため米軍も全ての戦艦をこの部隊に対応するため張り付けねばならず、北千島情勢は一気に逼迫する事になります。
 そして、この米軍の逼迫した情報を察知した日本軍により、反攻計画が持ち上がり、実行される事になります。
 日本軍が反撃を急いだ理由は、機を逃してはいけないという戦術原則もあありましたが、何より僻地とは言えいつまでも日本本土の一部を敵の手に委ねておくことは、国民の士気にかかわると言うのが主な理由でした。
 日本側の作戦の主旨は至って簡単で、パラムシル島に依っている米軍1個軍(2個師団)を現地部隊と、強襲上陸する海空戦力及び増援部隊の挟み撃ちで包囲殲滅すると言うものでした。
 これにより戦闘の主導権を握り、この地域での反攻の足がかりにしようと言うものでした。
 以下がこの作戦に用意できた双方の兵力です。

◆日本軍
 第一機動艦隊(主力):(艦載機:常用約220機)
BB:「金剛」、「榛名」
CV:「蒼龍」、「飛龍」
CVL:「龍鳳」、「祥鳳」、「瑞鳳」
CLA:「大淀」、「仁淀」、「綾瀬」
DDG:4隻 DDG:8隻

 第二艦隊(前進部隊):(艦載機:常用約110機)
BB:「加賀」、「土佐」、「長門」、「陸奥」
CG:「最上」、「熊野」、「鈴谷」
CVL:「隼鷹」、「日進」、「瑞穂」
CL:「酒匂」 DD:11隻

パラムシル守備隊
第二師団(1個連隊欠)、第十一戦車連隊
上陸部隊
第一特別海軍陸戦師団、第五師団

航空戦力
北千島:実働約80機 北海道・南千島:実働約500機

◆米艦隊
 第七任務部隊(艦載機:常用約180機)
CV:「エンタープライズ」、「ホーネット」
CL:「サヴァンナ」、「ナッシュヴィル」 
CLA:「サンディエゴ」 DD:8隻

 第十四任務部隊(艦載機:常用約80機)
BB:「ワシントン」、「サウスダコタ」
CV:「ラングレー」
CL:「ブルックリン」 CLA:「ジュノー」 DD:8隻

パラムシル守備隊
第一海兵師団、第一師団(1個連隊大隊欠)

航空戦力
北千島:実働約120機 
カムチャッカ・アリューシャン:実働約300機
(数だけなら1000機以上存在する。稼働率が大幅に低下しているため)

 戦力的には以上です。
 日本側の作戦開始予定は、10月24日。
 10月26日には上陸作戦と共に地上での反撃が行われ、二カ月半も続いた消耗戦に事実上の終止符が打たれる予定になっていました。
 米軍も、日本の反撃が近いことを各種情報から察知し、日本第一艦隊と睨み合っている主力部隊以外の機動洋上兵力を現地に派遣し、地上部隊、航空部隊も警戒態勢をあげ、迎え撃つ準備を整えていました。

 戦闘は当然と言うべきか、空母vs空母の戦いによって始まります。また、付近に進出する事のできる両国の洋上攻撃可能な基地航空戦力もおのおの攻撃を行い、太平洋戦線では久しぶりとなる大規模な航空戦力のぶつかり合いとなりました。

 丸一日継続された空母同士の戦いは、日米とも闘将と言われる提督が率いていたため双方一歩も譲らず、結局稼働空母がゼロとなった米艦隊の後退を持って幕を閉じます。
 この「北太平洋海戦」と呼ばれた海戦により、日本側は軽空母の「祥鳳」、「瑞穂」を喪失し、参加した半数の空母が損傷を受けましたが、米軍側は正規空母の「ホーネット」、「ラングレー」を喪失、唯一残った「エンタープライズ」も大きく損傷しており、向こう三カ月間は稼働大型空母ゼロという状況に追い込まれる事になります。
 そして26日からは、ほぼ予定通り日本艦隊による艦砲射撃の後、強襲上陸作戦と地上からの反撃が開始されましたが、米基地航空隊が完全に無力化できなかった事から、スムーズな作戦展開からはほど遠く、結果として米軍の包囲殲滅は失敗に終わり、結果として戦線は日本軍にやや優位と言う状態で膠着する事になります。
 ですが、この地域での戦いで始めて数的優位に立った事は大きく、以後日本軍は守勢から攻勢へと転じ、立場を逆にしての攻防が繰り広げられる事になります。

■ヨーロッパ・フロント1942