■ヨーロッパ・フロント1942

 北太平洋で米軍が攻勢を再開した1942年5月、ソ連軍によるハリコフ方面での局地的反撃作戦により、ロシアの大地は再び熱くなります。
 しかし、ソ連軍によるドイツ軍の機先を制したはずの反撃は、主にソ連側の小さな戦術的失敗の積み重ねにより惨敗、反対にソ連赤軍は大きな損害を受け、ドイツ軍にハリコフ市を明け渡すだけでなく、さらなる自信と勝利への確信を植え付ける結果しか生みだしませんでした。
 そしてそれからしばらくたった1942年6月28日、ドイツ軍による再度の大規模夏季攻勢が開始されます。
 作戦名称は「ブラウ(青)」。この名称は、ソ連の象徴色たる「赤」に対する当てつけであり、ドイツ指導者の痛烈な皮肉である事は間違いないでしょう。
 ドイツ軍の作戦目標は、コーカサスの資源地帯、なかでもバクーの油田を占領する事で、ソ連の資源供給を絶ち反対にドイツの資源問題を解決しようと言うものと、イラン=インド・ルートの連合国側の援助物資供給ルートを断つのが目的とされました。
 また、この作戦後、戦力の過半を大旋回させ、ソ連軍が立てこもるウラル地帯を柔らかい下腹部から襲う計画の前段階までが含まれていました。
 つまり、ドイツはこの一連の作戦において、欧州大陸での勝利を事実上決定づけようとしていたのです。
 このため、モスクワ正面には実質的に1個軍集団だけを残し、残りの2個軍集団、数にして200万人にもおよぶ大軍をコーカサス地帯とヴォルガ川渡河に進撃させます。
 「A」、「B」と名付けられた二つの軍集団は、作戦開始後は順調な進撃を継続します。
 一方のソ連軍も、それまでのドイツ軍との戦いから多くの戦訓を学んでいましたが、攻撃側と防御側という根本的な違い、総合的な戦力差、各種兵器、物資の不足により遅滞防御以上の行動に出ることはできず、大軍が無為に包囲されるという失態こそほとんど犯しませんでしたが、防戦、そして後退一方に押しやられてしまいます。
 またソ連軍の大戦略も、この時圧倒的な劣勢にある事から、全ての地域を守ることを事実上放棄しており、防御の重点をウラル地帯においていました。このため、予備兵力と呼びうる機甲戦力の大半をこの地域に拘置しており、これもドイツ軍の攻勢を助長していました。
 ちなみに、この頃のロシア戦線において、枢軸軍はドイツ軍のみならず全ての同盟国軍を含めると約450万人の兵力を展開しており、対するソ連軍は兵数だけならそれを上回る600万人を展開していました。しかも、ソ連軍は臨時編成の部隊を次々にでっち上げ、編成表の上からなら1000万もの大軍を出現させていました。
 もっとも、急造の部隊は正規部隊の三分の一の能力しか持たないとすら言われる軍の一般常識を裏切る事はなく、優れた兵員をいまだ多く抱えるドイツ軍が常に戦術的優位にあり、数で勝るソ連赤軍を撃破し続けていました。その戦死者・行方不明者そして膨大な捕虜の数は、戦争初年度だけで数百万人にも達し、この数字に世界中の関係者・専門家を呆気に取らせたと言われています。
 また、今次大戦において大平原での戦いの帰趨を決定する兵力としてスポットを集めるようになった機甲戦力ですが、ドイツ軍が約20個師団の装甲師団とその半数の機械化歩兵師団を前線に投入し電撃戦を展開し、対するソ連軍は各種の戦車旅団や連隊を編成して、防御に使用していました。こちらも戦車の数だけならソ連軍側が上回っていましたが、戦術運用的に大きなアドバンテージを持つドイツ側が総合的なキルレシオの面で圧倒的な差を見せつけ(戦車対戦車だけの戦いを指すわけではない)、個々の戦闘においても戦術的優位を作り上げていました。

 1942年10月10日、ドイツ軍「B」軍集団先鋒部隊がバクーを包囲、また同月18日「B」軍集団の主力がヴォルガ河を渡り、ウラル地帯の南方への迂回に成功し、「ブラウ作戦」の事実上の作戦達成を成し遂げます。
 約三ヵ月続いた攻勢により、攻撃側のドイツ軍も大きく消耗しましたが(ソ連軍に撃破された事を意味する訳ではない)、ソ連軍の消耗はそれ以上に大きく、もはやドイツ軍に対して正面決戦を挑むことすら不可能となっていました。
 ソ連赤軍がロクな反撃もせず消耗してしまった理由は、ソ連指導部の作戦構想の甘さ、特に戦局が悪化した8月以降、開戦初期のように安易に死守命令出したことで防衛部隊が簡単に包囲・降伏を余儀なくされてしまい、慌てて予備兵力による反撃が行われましたが、結局のところ兵力の逐字投入となり、これすらもドイツ軍に安易に撃破され、消耗してしまったからでした。
 負け戦は何をしてもうまくいかないと言う戦争のジンクスを見るようですが、独ソ戦を象徴しているとも言えるでしょう。
 なお、この頃の独ソ戦に連動した他国の動きですが、連合国側が欧州に対する戦略爆撃を行う以外は、ほぼ傍観するという姿勢に終始する事になります。
 この春からドイツ側にたって参戦したアメリカも、参戦前こそドイツに対する順調な物資援助を行っていましたが、4月に大西洋上で大敗を喫し、ドイツに対する援助は事実上途絶しており、戦争努力の大半も地球の反対側と言ってよい北太平洋に集中していました。もっとも、春までのアメリカによる対独援助によりドイツ軍の兵站物資は大きく助けられており、順調だったソ連戦での冬営と夏季攻勢を多いに助けた事は疑いない事実と言えます。
 また、連合国としてソ連と国境を接していた日本でしたが、戦争努力の大半を各所に分散されており(千島列島、ハワイ、北アフリカ、欧州戦略爆撃、シーレーン防衛)、わずかにシベリア鉄道を伝って焼け石に水と言う程度にソ連に物資を渡すだけで、事実上何もできませんでした。もちろん英国の援助も、ヴォルガ河が途絶してからは事実上送る事ができないでいまいた。
 この差が独ソ戦に影響したと言えるでしょう。

 一方、独ソがロシアの大地で血みどろの戦いを繰り広げ、連合国の戦略爆撃機の群がルール工業地帯でルフト・ヴァッフェと死闘を演じ、地中海の渇いた海で枢軸国空軍が連合国の輸送船団を殲滅しようと躍起になっている頃、アメリカは、少なくとも欧州の戦争からは蚊帳の外に置かれていました。
 これは、初戦で洋上戦力の過半を連合国側に反対にファースト・ストライクされ、待ち伏せにあった結果でしたが、三ヵ月も経つと大西洋艦隊もその打撃からもようやく立ち直る兆しが見えると同時に、納税者と同盟者に見せるためにも何か大掛かりな「攻撃」を行う必要にも迫られていました。
 かと言って、洋上機動戦力の三分の二を太平洋方面に振り向けていた合衆国海軍にとって、欧州はおろか北アフリカに攻め寄せることすらかなり難しいと言える状態ですし、ドイツに、つまり欧州大陸に大規模な輸送船団を送り届ける事も、現時点では連合国軍にスコアを稼がせるだけと考えられていました。

 また、アメリカにとり一つだけ大西洋戦線で大きな問題がありました。意外かも知れませんが、自国のシーレーンの維持問題です。
 アメリカ大陸寄りの大西洋やカリブ海に連合国側は、監視任務を兼ねて常時20隻前後の潜水艦を派遣しており(当然戦時増産の結果増加傾向にある)、これらが水上艦艇や大型航空機と相互支援しながら順調にアメリカのシーレーン破壊に努めており、日本軍がほぼ単独で行っているハワイからの西海岸側のシーレーン破壊のほぼ二倍の戦果を上げていました。
 具体的な数字であげると、連合国潜水艦1隻の一ヵ月あたり平均スコアは約2万トンの戦果、大西洋戦域だけで40万トンの被害が出ていた事になります。一方の太平洋側も、西海岸=パナマ海域だけなら月20万トン程度でしたが、アリューシャン・千島戦線が展開されるとアメリカ軍が補給線の長さから膨大な消耗を強いられており、この戦域だけに限った船舶の損害だけで難破、座礁などを含めると月30隻前後、15万トンにも達していました。もちろんこれは、戦闘艦艇の損害を除外しての数字です。戦闘艦艇の数字を入れると損害量はさらに5万トン以上上乗せされる月もありました。
 つまり、アメリカ全体の船舶の損害は、一ヵ月あたり75万トン以上にも達していたわけです。
 これは、連合国側が枢軸側から受けていた月50万トンの損害を大きく上回っていました。そして、この75万トン(しかも月を経ることに増加傾向にある)という数字は、当時のアメリカの造船力を大きく上回っており、造船力が大きく増大する筈の開戦一年後までに、驚くべきことに最終的に400万トン近くの船舶量減少をアメリカにもたらすことになります。しかも失われた船舶の過半は外洋優秀船舶でした。この当時のアメリカの総船舶量が1200万トンだった事を見ると、これがいかに大きな数字か判ると思います。連合国側の努力とアメリカ軍の失策と失態、政府中央の無理な戦争指導により、アメリカ海運は民間において半ば壊滅寸前だったのです。
 つまり、1943年春のアメリカの船腹量は800万トンに減少しており、これに対して軍だけで最低400万トンを必要とし、民間に最低限必要とされる量は、どう少なく見積もっても700万トンでした。
 そして当然これはアメリカの戦時生産を大きく狂わせ、これだけで開戦一年以内の生産力を当初予想の80%にまで押さえ込む事になります。
 この差は、枢軸側のスコアが主にドイツ軍のみによって達成されていたのに比べて、連合国側が日英の有機的な連携により達成されていた事が生み出していました。
 もちろんアメリカ軍も、ほとんどドイツとの連携こそありませんでしたが、懸命に連合国のシーレーンの破壊に勤しんでいました。しかし、先に戦争を始めている他国に比べそれまで戦時体制になかった事と、兵器(魚雷)の致命的欠陥などによりロクに戦果を挙げていなかったからです。

 少し話がそれてしまいましたが、このような物理的な戦況と、政治的要求に従い、アメリカ軍はかなり攻撃的な作戦を画策する事になります。
 納税者に訴えられ、政治的面倒が少なそうで、攻略しやすそうで、シーレーンの維持に有効そうな敵地。
 この条件に合致する場所はいくつかありましたが、連合国側のシーレーン遮断をもある程度できる場所として、アイスランド島が指名されました。(次点はアゾレス諸島だった。)
 ここなら米本土からも近く、英国本土の喉元と言ってもよく、占領と維持に多少の犠牲は払うことが予想されましたが、それ以上の効果があると判断された事から、この場所が攻略地として選定されたのです。
 作戦予定日は1942年9月7日。北太平洋での日本軍との消耗戦を行っている米軍、米海軍としては大西洋に回せるだけの戦力を集め、作戦が決行される予定でした。
動員された戦力は以下の通りです。

護衛艦隊(艦載機80機)
BB:「マサチューセッツ」、「ロードアイランド」
CG:「ルイスビル」、「シカゴ」、「ニューオーリンズ」
CLA:「サン・ファン」
CVL:「インディペンデンス」、「カボット」
DD:12隻

本隊(艦載機120機)
BB:「インディアナ」、「モンタナ」
BB:「カリフォルニア」、「ニューヨーク」
CL:「ミルウォーキー」
CVE:「ボーグ級」4隻
DD:14隻

各種輸送船:54隻 高速タンカー:6隻
歩兵師団:2個、戦車連隊:1個、砲兵旅団:1個
兵員数:5万人+シービーズ約5000人
緊急展開用航空機数:約300機(輸送船搭載と本土からの空輸)

 母艦航空戦力の主力を太平洋に取られている事から、航空戦力こそ戦時急造の軽空母や護衛空母だけと、やや物足りないものがありましたが、ダニエル・プランの生き残りの「インディアナ」、「モンタナ」を増援として受け取った事で、戦艦戦力は開戦時の勢力をほぼ取り戻しており、連合軍の対応しだいでは十分な兵力と言える部隊が用意されていました。もっとも、この戦力はこの当時大西洋方面で出しうる限りの洋上機動戦力でもありました。
 また、アメリカという国を知るものにとっては、一見少ない兵力のように思いがちですが、この時米軍は太平洋方面でも日本本土の端っこである千島列島に対する大規模な攻勢作戦を展開中で、それをしてなおこれだけの戦力を出せる事は、米軍であればこそと言えるでしょう。
 そして、アメリカ軍がどこかしらの攻勢計画を企んでいる事を、各種諜報情報から掴んでいた連合軍は、米軍に合せる形で自分たちの台所事情から考えられた可能なかぎりの歓迎の準備を行いました。
 これに用意される戦力は、もちろんドイツ海軍、イタリア海軍が余計な事を考えない程度の戦力を各拠点に残した上で編成された機動戦力たちで、主にシフト配置に就きつつ大規模通商破壊やゲリラ的な枢軸側の拠点攻撃を行っていた部隊たちです。
 そして、その戦術的な関係上、遊軍としての扱いを受ける事の多い日本遣欧艦隊が、その主なところを占める事となりました。
 以下が日英が9月までに、英本土各地に用意できた迎撃用戦力です。

●日第三艦隊(艦載機:常用約60機)
BC:「赤城」、「愛宕」、「高雄」
CG:「鳥海」、「摩耶」
CVL:「千歳」、「千代田」
CL:「矢矧」 DD:8隻

●日本第二機動艦隊(艦載機:常用約280機)
BB:「高千穂」、「穂高」
CV:「翔鶴」、「瑞鶴」、「千鶴」
CVL:「千早」、「千景」
CG:「最上」、「熊野」、「鈴谷」
CL:「酒匂」 DDG:4隻 DD:12隻

●英本国艦隊(分遣艦隊)(艦載機:常用約80機)
BB:「キング・ジョージ5世」
BC:「インドミダヴル」、「インディファティガヴル」
CV:「イラストリアス」、「フォーミダヴル」
CG:2隻 CL:2隻 CLA:2隻 DD:8隻

 艦隊の中核となっているのは、アメリカとの開戦劈頭に米本土に殴り込みをかけた高速空母部隊で、これに打撃部隊の増援などを加えたものとなっています。そしてこの戦力は、欧州方面の洋上高機動戦力の過半を集めたものであり、それ故圧倒的な戦力でした。
 単純に数からして、戦艦は米大西洋艦隊よりやや優勢という程度でしたが高速戦艦ばかりで占められており、空母数は1.5倍でしたが艦載機数も二倍に達していました。つまり、連合国側から攻勢に出ても良いぐらいの兵力と言う事です。
 そして、この戦力の半数は、対テルピッツ・シフト任務に就いているように見せつける事で、米軍の油断を誘うように配置についていました。
 このため、連合国首脳部はこの戦力だけで、現時点なら米軍がどこに来ようとも十分撃退できるものと楽観していました。
 対する米軍としても、連合国の迎撃は当然予測していましたが、連合国がアイスランドにほとんど兵力を置いてないだけでなく戦略的にあまり重視していない事(連合国側におくべき戦力がなかっただけだが)と、また英国がドイツ海軍の行動に神経を尖らせており、ために多数の兵力を拘置していた(と過剰に判断していた)事から、緊急で動ける機動戦力をかなり低く見積もっており、諜報情報も表面的にはそれを裏付けていた事から、戦術的な奇襲攻撃にさえ成功すれば作戦の成功には問題ないと見ていました。

 かくして、双方の脚本を台本としつつ、「北大西洋海戦」と呼ばれる事になる戦闘が行われる事になります。
 9月4日、アメリカ軍は連合国の目を欺きつつ、ほぼ完全な形でアイスランド沖に到達することに成功します。
 これは、アイスランド沖で警戒配置についていた潜水艦が情報をもたらすまで連合国に知れることはないほどの、情報のみごとな管制ぶりでした。
 連合国側は、この潜水艦からの第一報を受けてようやく活発な活動を開始しますが、この時米軍がより進攻する可能性が高いと見られていたアゾレス諸島に主力が進出しており、偽装配置に就いていた別動隊ともども、アイスランド方面に艦隊主力が合流するには3日程度がかかる事になります。
 この間に、米軍はアイスランドの占領を完全に行い、持ち前の機械力をふんだんに投入した建設能力により航空基地の開設すら行って見せました。そして、それを知らない日英の機動部隊は、米艦隊のみを求めてアイスランド沖へと到達します。
 連合国艦隊を最初に出迎えたのは、長大な航続距離を誇る米陸軍航空隊のB-24の群でした。これは各艦隊が抱える空母艦載機の防空隊により難なく撃退されましたが、その後五月雨式に重爆激機が連合国艦隊を襲う事になります。
 連合国にとって幸いなことに、水平爆撃ばかりだったため、損害らしい損害は発生しませんでしたし、完全編成の空母機動部隊が艦隊の中核を占めていたことから、反対に大きな戦果をあげることにも成功します。しかし、この重爆の迎撃のために3つに別れていた各艦隊の間隔は広がっていました。
 これは、当然敵艦隊の各個撃破を狙っていた米軍による戦術であり、再編成された打撃艦隊が連合国艦隊に迫りつつありました。
 この時、編成は以下のように変更されていました。

打撃艦隊
BB:「マサチューセッツ」、「ロードアイランド」
BB:「インディアナ」、「モンタナ」
BB:「カリフォルニア」、「ニューヨーク」
CG:「ルイスビル」、「シカゴ」、「ニューオーリンズ」
DD:6隻

援護艦隊(艦載機80機)
CVL:「インディペンデンス」、「カボット」
CLA:「サン・ファン」
DD:6隻

 これに対して連合国艦隊は、

       日第三艦隊

日第二機動艦隊     英本国艦隊

このような形でアイスランドを目指しており、各艦隊の間隔は15海里近く離れて、相互支援がやや難しい状態でした。
 これをアメリカ艦隊は包囲する形、つまり連合国側の右翼から回り込みつつありました。
 そして、順当に行けば日本の第三艦隊か、英国の本国艦隊の高速打撃部隊と衝突する事になります。
 単純に戦力比較をすれば、英国艦隊とはほぼ互角、日本艦隊には数にして二倍の優位にあります。各個撃破を狙う米軍としては、航空攻撃のできない時間帯に接近を行い、まず前衛の日本艦隊を撃破したいところです。
 しかし、この海域に投入されていた日英の艦隊はいずれも、艦隊速力平均が30ノット以上あり、対する米軍は旧式戦艦を多数擁していた事から、21ノットしかありませんでした。
 まあ、巡航速度はともに16〜18ノットですから、当面は問題ありませんでしたが、この差が最後の戦術レベルで大きな要因となります。
 重爆による五月雨式の攻撃を継続していた米軍ですので、日英側の陣形は熟知しており、打撃艦隊も当然のごとく前衛で戦力的に低いと判断された日本艦隊を目指して進撃を行いました。
 一方、防戦一方に押しやられていた日英側でしたが、隙を見て多数の索敵機を放ち、米軍の情報収集に努めます。
 そして、2時間近い索敵の末、接近しつつある二つの艦隊の捕捉に成功しました。しかし、既に時計の針は午後を大きく指しつつあり、航空攻撃は一回が限界、このまま進撃を継続すれば夕刻辺りには、どうあっても水上打撃戦が行われる事が予測されました。
 そして、今回の艦隊司令部も、純然たる機動部隊たる第二機動艦隊司令部もその主目標を後方の空母部隊に定める事を決定します。一方、前衛を走っていた第三艦隊には、米艦隊を誘引しつつ英本国艦隊との合流が命令され、航空機の集中性と艦隊の機動力にモノを言わせた、強引な戦術転換が行われる事になります。
 午後2時08分、日本第二機動艦隊と英本国艦隊から、米艦隊に対する航空攻撃が開始されます。一回限りとされた事から大目の攻撃隊が用意され、双方で200機以上の攻撃隊が米軍の貧弱な機動部隊を目指しました。
 これに対する米艦隊側も、母艦戦力で劣勢な事は重々承知していた事から、軽空母2隻の艦載機の過半数以上を戦闘機で固めており、日英の航空機の大群の接近が察知されたこの時も、約60機の防空隊を上げて対応しようとしました。
 しかし、200機もの艦載機の攻撃は、この当時ではまさに圧倒的の一言に尽きる破壊力を持っており、防空隊よりも多い制空隊により敵陣を突破すると、小柄な機動部隊に破滅的な攻撃を行いました。この時、防空巡洋艦として建造された「サン・ファン」の活躍が米海軍将兵の間で語りぐさとなりましたが、数百機の攻撃隊に防空巡洋艦が1隻では焼け石に水で、駆逐艦3隻を残して艦隊が全滅するという、ある意味当然の結果を生みました。
 この戦闘から「鶴」の名を関した空母を全て抱える日本第二機動艦隊の攻撃隊を、米軍将兵は「アイアン・クロー」の称号を贈り畏怖する事になります。
 ですが、日英側が空母に攻撃を集中した事から、米打撃部隊は無傷で接敵に成功し、夕暮れが訪れようとしていた午後6時頃、レーダーに日本艦隊を捉えます。
 レーダーによる捕捉に関しては、英国からの技術供与と自国開発に努力していた日本艦隊の方も、それより少し前に米艦隊をスコープに捉え、速力を上げながら合戦準備を完成させつつありました。ただ、米軍が日英艦隊の各個撃破を狙っていた事と、日英側が合同して撃滅を計ろうとしていた点が大きく違い、互いに自分の脚本で舞台を演じるべく、まずは艦隊運動戦にでの努力を計る事になります。
 そして、スピードと言う戦場において最も重要な点で優位にある日英側が、おおむね自らのシナリオに従った舞台を展開しており、米艦隊側の焦燥は時間を経るごとに高いものとなります。その焦燥は、米側のスコープの端に英本国艦隊を捉えた時点でピークに達します。
 これにより、日英側と自分たちの戦力が互角になってしまったからです。しかも、英艦隊は艦隊戦を前にして、ご自慢の夜間雷撃隊を放っており、それも夕日をバックにして急速に接近しつつありました。
 また、別に存在する筈の日本軍の規模の大きな空母機動部隊からも、抽出された打撃部隊が進出している恐れもありました。
 各個撃破するつもりが、包囲殲滅されつつあったのですから、米側の焦燥は大変なものだったでしょう。

 そして米側の焦燥をよそに、ソード・フィッシュ2個中隊による攻撃を皮切りに、戦闘が開始される事になります。
 ソード・フィッシュ隊は、水上打撃戦隊形に移行している米艦隊の一番後方、防空能力の低い艦艇を集中的に狙い、重巡「ニューオーリンズ」に魚雷を2本あびせ大破、戦艦「カリフォルニア」、「ニューヨーク」も魚雷を数本命中させ中破する事に成功します。また、この攻撃により米艦隊の陣形が乱れ、ほぼ完全に日英艦隊の挟撃体勢を許す事になります。そして、速力に劣る米艦隊にこれをやり直したり、振り切る事はほぼ不可能でした。
 こうして事態は、純粋な殴り合いへと移行する事になります。また、この戦闘は第二次世界大戦が始まって最大規模の砲雷撃戦でもありました。さらに日英米の軍拡時代の戦艦が参加した最初の戦闘ともなりました。
 では、ここで少し双方の砲撃力を比較してみましょう。
 米軍は40.6cm50口径砲が24門、41cm45口径砲が18門、35.6cm50口径砲が12門、35.6cm45口径砲が10門です。日英側は、40.6〜41cm45口径砲ばかりが57門です。弾薬投射量的には、ほぼ互角です。排水量は、米軍が約24万トンに対して、日英側が約28万トンとやや優勢と言える状況です。また、米軍側は既に損傷艦を出していたので米側の数字を10%程度割り引く必要がある事と、補助艦艇で日英側が二倍近い優勢なので、最終的な戦力比較は日英側やや優勢と言える状況となります。
 そして、日英側はその気になれば、さらに兵力の投入も不可能ではない点も無視できない要素です。

 三大海洋帝国の艦艇が参加した砲雷撃戦は、午後6時18分に開始されます。双方距離30000mからの試射でした。
 英艦隊は距離が若干離れていたため、まずは日米艦隊の砲撃戦となります。形としては日本側が速力を活かして米艦隊の頭を押さえつつ英艦隊の方向に誘導しようとして、米艦隊がその動きに対応してそのまま同航戦となります。
 戦闘は、当初3対6(実質は3対4)と数的優位にある米艦隊が優位に勧めます。赤城級巡洋戦艦は、大規模な近代改装により基準排水量で5万トンに達し、防御力も大きく改善され実質的には高速戦艦へと変貌しており、米艦が急射してくる16インチ砲弾によく耐えましたが、攻撃力については建造当初と変わりないため数の差もあり劣勢に立たされ、英本国艦隊が戦闘加入する戦闘開始18分後までに、2番目を走っていた「愛宕」が大破戦線離脱、「赤城」「高雄」が共に中破する損害を受けていました。対する米軍は、「マサチューセッツ」、「インディアナ」が中破しただけでいずれも健在でした(もっとも、ソード・フィッシュから魚雷を複数喰らっていた「カリフォルニア」、「ニューヨーク」はとっくに隊列から脱落していたが。)。
 しかし、18分後事態は新たな展開を見せます。英本国艦隊が戦闘加入したからです。英本国艦隊を占める戦艦のうち2隻が前部に主砲を集中していた事から、日本艦隊の反対側から米艦隊に逆T字を描くかっこうで急追しました。この海戦常識を逸脱した機動のため米軍の予想よりも早く戦闘加入に成功し、辛うじて成功を収めつつあった米軍の戦術と突き崩し、おもにライバルとされた「インディアナ」、「モンタナ」に狙いをしぼった攻撃を開始します。
 そして、この攻撃に対処するため、米艦隊の半数が主砲を英艦隊に指向しなければならなくなり、ために日本艦隊も持ち直す事に成功します。また、英艦隊の戦闘加入で補助艦艇の面で二倍の戦力を確保した日英側が、米艦隊の両翼から突撃を開始し、戦闘はさらなる混沌へと突き進む事になります。
 そして戦闘開始から30分が経過すると、戦闘は急に下火になります。それは、双方の艦艇の大半が大きく損傷し、戦闘続行が難しくなっていたからでした。この時、完全な戦闘力を保持していた戦艦は、英国の「インディファティガヴル」ただ一隻。それ以外の戦艦、巡洋戦艦はすべて中破以上のダメージを受けており、水雷戦隊などから魚雷を多数受けた艦などは、今にも波間に没しそうなものもあった程です。
 そして、完全に太陽が波間へと消えるころ、ほぼ同じくして双方の指揮官は撤退を命令するに至ります。
 どちらもが徹底した戦闘が行われなかったのは、米軍はアイスランド保持がこれからだという事と、日英艦隊を打撃艦隊については作戦不能な程十分に撃退したとして、作戦が限定的成功を収めたからで、日英側は大半の米艦隊の撃破に成功した事と、アイスランド奪回のまだ前段階で艦隊を消耗しきることが戦局によくないと判断されたからでした。

 日米とも夜間になると艦隊を一旦撤退させ、戦闘は翌日も継続される事になります。これは、日英側がアイスランド奪回作戦をまだ継続していたからに他ならず、それだけの打撃力をまだ保持していたからです。しかも、作戦の限定的成功の報告を受けて、奪回のための逆上陸部隊を載せた船団も英本土を発ちつつありました。
 翌日の戦闘の主力は、完全に空母部隊によるものとなります。
夜間の間に二つの艦隊に再編成された合計9隻にも及ぶ空母の群は、黎明にはアイスランドのレイキャビク付近の米攻略艦隊主力と建設されたばかりの基地を指呼に収める所まで近づいており、まず長い航続距離を誇る日本機による攻撃が開始されます。
 時を同じくして、米基地航空隊の重爆撃部隊でも、索敵爆撃の為の部隊が多数北大西洋へと放たれつつありました。
 日本側攻撃隊が狙ったのは、上陸船団と海岸堡、そして航空基地で「鶴」級から放たれた百数十機の群は、これを完膚無きまでに叩き潰します。全ては、完全編成の空母機動部隊なればこその打撃力がなしえた技でした。
 これにより、いまだアイスランド近海に存在した米軍の輸送船とその護衛艦艇に大きな損害が出た事はもちろんでしたが、建設されたばかりでまだ基地としての防御力が不完全な米施設の破壊にも日英側は成功しました。
 また、前日の戦闘で大きく損傷して、大きく速力を落としていた米艦隊の一部の捕捉にも成功し、これも撃滅する戦果を上げます。
 そして第二波は機動部隊の全力が攻撃を行い、アイスランド近辺の米軍の活動を完全に封じる事に成功します。
 この報告を受けて、作戦続行の不可能を悟った米司令部は、全軍の撤退を指示、その日の夜陰に紛れ慌ただしくアイスランドを後にします。
 後に米軍は、この作戦目的を日英の有力な艦隊の誘出を目的とした作戦であり、犠牲は少なくなかったがおおむね作戦目的を達成できたと、作戦成功を宣言しました。
 対する連合国側は、米軍のアイスランド占領を阻止し、米大西洋艦隊をまたも長期間行動不能にできたと、こちらも任務の達成を声高に宣言しました。
 後の戦史家はこの一連の戦闘を、戦術的には双方の痛み分け、戦略的には連合国側の勝利と定義づけています。
 しかし、欧州大陸はこの戦闘により違った意義を見いだします。それは、米軍、正確には米海軍の再度の大消耗により、さらにも援助物資をもたらす船団が来れない事を意味し、大規模な兵力を維持している大西洋方面の連合国海軍を少々潰したところで、戦略的には何の意味もない事も見抜いており、米軍の戦闘を無意味と断定して、同盟者としてのアメリカをどうかと考えるようになります。
 太平洋でも勝手に戦線を拡大して無意味に消耗しており、援助者としてのアメリカはともかく、戦友としてはイタリアよりもやっかいなのではとドイツ人達は考えるようになります。
 これを肯定的に捉えていたのは、ナチスの幹部の一部と総統閣下だけでした。

 なお、以下が「北大西洋海戦」での双方の損害です。

◆アメリカ側
 撃沈(自沈含む)
BB:「ロードアイランド」
BB:「ニューヨーク」
CG:「シカゴ」、「ニューオーリンズ」
CVL:「インディペンデンス」、「カボット」
CVE:「ボーグ級」1隻
CL:「ミルウォーキー」
CLA:「サン・ファン」
DD:7隻

 大中破
BB:「マサチューセッツ」
BB:「インディアナ」、「モンタナ」
BB:「カリフォルニア」
CG:「ルイスビル」
CVE:「ボーグ級」1隻
DD:4隻

◆日英側
 撃沈
BC:「愛宕」
CG:「エクセター」
DD:4隻

 大中破
BC:「赤城」「高雄」
BB:「キング・ジョージ5世」
BC:「インドミダヴル」、「インディファティガヴル」
CG:「摩耶」
CVL:「千景」
DD:3隻

米軍の損害が多いのは、空母戦で大敗を喫した事と水上打撃戦の後に追撃を受け泊地を攻撃されたからです。また、双方の戦艦の撃沈は戦闘後に大破後から持ち直せなかったものが大半で自沈扱いで、唯一「ロードアイランド」が撤退中を日本艦載機に捕捉され撃沈されています。
 また、これ以外にも米軍は多数の輸送船を喪失しており、その総量は排水量にして10万トンに達していました。
 そして、米軍の戦死者数は陸軍を合せると5000人以上に達しており、死傷者で見ると万のオーダーに乗り、米市民にこの戦闘の敗北感を強くさせる事となりました。対する日英側の死傷者数が3000のオーダー(戦死者は500程度)ですから、この点では事実と言えるでしょう。

■日本本土爆撃?!