■日本本土爆撃?!
日本本土の端っこ、千島列島沖で「北太平洋海戦」が行われ、半ば無意味な陸海での決戦が膠着状態に陥った太平洋戦線でしたが、日米双方とも後方では活発に活動を行っていました。 これは、千島戦線が消耗戦の様相と呈しつつあったからに他ならず、その地理的な要因からアメリカ側が日本よりも遥に多くの努力を費やさねばならない状況でした。 この時の米軍の後方兵站部隊の努力は、まさにアメリカ政府の望む献身的な働きを行い、5万以上もの陸兵を抱えるカムチャッカ・千島方面の米前線部隊を維持し続けていました。 米軍が必要以上に前線補給に苦労していたのは、本来太平洋での交通路としてありとあらゆる地点への中継点となるべきハワイ諸島を日本軍が頑強に保持しており、米軍の現有兵力では太平洋のど真ん中で孤立した巨大な拠点を奪い取る事がかなわないからに他なりませんでした。 しかも日本軍はここに日本海軍最強、つまりこの当時世界最強と評してよい46cm砲搭載の6万トン級戦艦の全てにあたる8隻の戦艦を擁する艦隊を、数百機の航空機、数個師団の陸兵とともに駐留させており、これを戦訓により強固に防御された島々を結んだ補給ルートで維持していました。 そして、ハワイ駐留艦隊の中核である8隻の戦艦たちは、ことあるごとに米軍の動きをけん制し、米側の補給線を脅かしたり、時には大胆にもアラスカやアリューシャンの基地を艦砲射撃する事すらありました。軽空母以外の機動航空戦力を持たない艦隊としては、あまりにも大胆な行動と評する事ができるでしょう。 そして、米軍はこの強大な艦隊と駐留兵力に対応するため、自らも主力と評してよい「アイオワ級」の全てに当る6隻の大型戦艦を中核とした艦隊を後方に拘束され(ダッチハーバーに常駐化していました)、それ以外にも補給線や太平洋側のありとあらゆる拠点や大都市部に必要以上の戦争資源を消費せねばなりませんでした。 このため、この当時の「ハワイ駐留艦隊」は、全ての連合国側海軍の中で最も米市民に恐れられており、「ハワイ駐留艦隊」とは悪魔の代名詞に他ならず、日本側も最強戦艦の群が積極的な意味での抑止戦力として機能していることに大きな満足を示しており、一進一退を続ける千島戦線から国民の眼を反らすためもあり、新聞などのメディアで「ハワイ駐留艦隊」の存在をアピールする事になります。 目に見える戦果はほとんどあげていませんでしたが、こうして双方のマスコミが「ハワイ駐留艦隊」の幻想を大きくし、戦中、戦後にいくつもの逸話と寓話を作りだす事になります。 もっとも、最強のヒロイン達をかかえるハワイ駐留艦隊は、ふさわしいだけの散財を日本に強要したため、補給部隊の努力は米軍のそれに匹敵したとすら言われています。
一方、日米が直接対決をしている本来の戦場たる千島戦線でしたが、「北太平洋海戦」後も日米双方ともより多くの戦争努力を傾注していました。 これは、この戦場がすでに政治的な戦場と化してしまっており、双方とも引っ込みがつかなくなっていたからに他なりませんでした。 そして、冬が迫っており双方とも補給にすら支障を来すようになっていた事から、双方とも早期に決定的な戦いを望むようになっていた事も影響します。 日米とも増援の陸軍兵力を師団単位で投入すると共に、できうる限りの水上艦艇を同海域へと派遣しました。 しかし、大規模な海戦から一ヵ月も経過していないため、強力な母艦戦力の派遣は双方望むべくもありませんでした。 そしてこれは、基地航空隊による航空消耗戦で劣勢に立たされつつあった米軍にとって非常に憂慮すべき問題でした。特に米軍の大型可動空母が年末までない事から、日本軍よりも周辺海域の制空権確保という問題で深刻でした。 このため、水上打撃艦隊を用いた野心的な作戦が太平洋艦隊の一部から提案される事になります。 作戦の骨子は、幌延(パラムシル)島に多数展開する日本軍航空基地を夜間艦砲射撃にて撃滅すると言うものです。そして、可能なかぎりこれを反復して行い、当地の制空権を確固たるものとして、さらにこの迎撃に慌てて現れるであろう日本軍水上艦隊を撃破するというものでした。 これにより、冬に入る前にこの地域の制空権と制海権を握るのが目的でした。 当然日本側も、米水上艦隊の活発な活動の予兆を掴んでおり、また自らも大規模な陸兵の投入を計画していたという意味からも、制海権の維持が必要であり、このため有力な艦隊を幌延島近海に遊弋させ、防戦の準備を整えました。
以下が日米双方がこの戦闘に投入した艦艇です。
◆米海軍 第35任務部隊 CG:「サンフランシスコ」、「ノーザンプトン」 CL:「サヴァンナ」、「ナッシュヴィル」 DD:6隻
第33任務部隊 BB:「アイオワ」、「ワシントン」、「サウスダコタ」 CLA:「アトランタ」「ジュノー」 DD:6隻
◆日本海軍 第一機動艦隊:(艦載機:常用約150機) BB:「金剛」、「榛名」 CV:「飛龍」 CVL:「隼鷹」、「瑞鳳」 CLA:「大淀」、「綾瀬」 DDG:3隻 DDG:6隻
第二艦隊 BB:「加賀」、「土佐」、「陸奥」 CG:「伊吹」、「鞍馬」 CL:「酒匂」 DD:7隻
第五艦隊 BB:「比叡」 AC:「剣」 CG:「古鷹」、「青葉」 CLA:「初瀬」 DD:4隻
日米が艦隊をいくつかに分けている理由は、艦艇の準備の都合と米側が作戦の二段階に分けて反復攻撃を予定していたために部隊を二つにしていたためです。一方の日本側は単に艦隊区分の関係上そのまま分離して行動していただけで、特に大きな理由はありませんでした。 そして、一見して日本艦隊の方が優勢な戦力を保持している事も分かると思います。これは、米軍が大西洋と太平洋の双方で日英という世界最強の二つの海軍国を同時に相手取っている事から総じて戦力不足に陥っている事と、ここでの戦いが日本側が本土の近くである事から兵力の派遣が容易な事が影響していました。 そして、双方ともこれらの艦隊が援護する形で、駆逐艦と高速輸送船からなるコンボイが陸軍師団を運んでおり、この地域が吹雪と氷で閉ざされてしまう前に、戦争を決定づけようとしました。 また、米軍は艦砲射撃を企てている事は先述の通りです。 これらの目的のため、日米の艦隊は積極的な活動を展開し、11月11日深夜にその第一ラウンドが行われました。 双方エントリーしたのは、アメリカ側が巡洋艦を中核とする第35任務部隊で、日本側が先鋒を仰せつかった第五艦隊でした。
戦闘の前段階は、付近界面が夜半の上に霧も発生していた事もあり、視界は極めて悪く、双方電波に頼って目標を達成しようとしました。 そして、双方とも数ヵ月にわたるこの悪夢の海域での度重なる戦闘のおかげで、電波兵器を目とする戦闘に熟練させられていた事から、大きな混乱をもたらすことなく、互いに相手の姿を発見する事に成功します。 しかし、双方が電波兵器の特性を研究した戦術を使用したが故に、互いに島などの障害物を利用して目的地に至ろうとした事から、かなりの近距離で互いの姿を認める事になります。 戦闘は11月11日の午後11時49分に、双方ほぼ同時に砲火を開く事で開始されます。 そして、双方の誤認と戦場特有の錯誤から、あっという間に泥沼の殴り合いへと移行する事になりました。 日米双方の戦力差は、数こそほぼ互角でしたが、日本側が軽量級とは言え戦艦と呼びうる艦艇を2隻も投入していたこと、そしてその大型艦のうち1隻は就役したばかりの新鋭艦だった事もあり、日本側が鉄量と言う殴り合いとなった戦場で最も重要な要素で優位に立っていました。 しかもこの新鋭艦は、装甲巡洋艦と呼ばれる水雷戦隊の旗艦から、水上打撃戦の中核艦、はては空母機動部隊の直衛任務艦としての能力を付与されていた事から、極めて強力な電波兵器と通信施設、そして防空能力を保持していました。 特に流星雨のごとく艦腹から打ち出される高射砲でもある両用砲の射撃は絶大な効果を発揮し、巡洋艦や駆逐艦からなる米艦隊を穴だらけにしていました。 戦闘そのものは、混沌とした砲撃戦から、互いの駆逐艦が接近しあった事から雷撃を交えたものに発展し、さらに混沌とした状況になり、誰もが状況を理解できないまま終幕を迎える事になります。 そして、その結果に双方唖然とする事になります。それは、無傷の艦が1隻も存在しなかったからです。 しかも、大型艦の近距離からの砲撃を受けた米軍に至っては、大型艦の大半が大破・撃沈していました。もちろん、当初米軍が企図した艦砲射撃など全くできませんでした。 もっとも、結果だけからなら勝者と言ってよい日本側も、戦艦「比叡」が近距離から多数の小口径砲を大量に受けた事から、舵の損傷を含めて事実上の大破していました。もし、日本側が付近界面の制空権を握っていなければ、自沈処置しなければならなかったと言うのが定説になる程の損傷でした。 そして、戦闘は双方戦艦を中核とする艦隊を投入した第二ラウンドへと移行する事になります。これは、日本軍は戦果拡大のチャンスと捉え、米軍が初手の失敗をなんとしても取り換えそうとしたからに他なりませんでした。 また、大規模な低気圧が一週間以内に襲来し、以後半月はまともな作戦行動が不可能になると予測された事もあり、両陣営とも結果を急いだ事から、第二ラウンドは二日後の11月13日深夜となりました。 双方のラインナップの違いは、先だっての海戦からかろうじて健在だった日本側が第五艦隊の残存であり損傷の軽かった、装甲巡洋艦の「剣」と駆逐艦2隻が追加参加しており、米軍側は軽巡洋艦「ナッシュヴィル」が付き従っていました。
11月13日深夜は、第一ラウンドとは打って変わって、好く晴れ渡った夜となり海面状態もそこが北の海であると考えれば極めて良好な状態でした。 つまり、夜間とは言え砲雷撃戦には、これ以上は望めないというコンディションだと言うことです。 戦闘は、双方ともどこが戦場であるか分かり切っていた事から、先だっての戦いと違い電波兵器を用いての中距離砲撃戦と言う、新時代の夜戦にこそふさわしい状態で始まります。 それは、近代海戦では珍しい正面からの激突でした。 米艦隊は、臨時に対ハワイ艦隊から編入された「アイオワ」を先頭に「ワシントン」、「サウスダコタ」と続き、日本側は「加賀」、「土佐」、「陸奥」、「剣」の順で進んでいました。 砲撃は、教科書通りと言ってよい距離20000メートルから開始され、どちらも電探のみを使用した、完全な電探(レーダー)管制射撃を実施しました。 最初の命中弾は、日本艦隊が出します。二斉射目の事でした。 この結果は、当然といえば当然の結果でした。なぜなら、「加賀級」、「長門級」は、八八艦隊の中で最古参であり、それゆえ練度の高い兵員により操られていたからです。これは、艦の実質的な支配者と言われる下士官の多くが第一次太平洋戦争の実戦を同じ艦で経験していると言えば分かりやすいでしょう。彼らは自らの乗艦を、古女房のように知り尽くしていたのです。さらに、新兵器である電探(レーダー)の運用に関しても、英国からの技術供与、共同開発を経て、米軍よりも遥に多くの経験値を持つ日本側にアドバンテージがあり、この二つの要素が二斉射目の命中弾へと結実したのです。 しかも、隊列を作り上げる戦艦の全てが三斉射目までに命中弾を出しており、しかも最後尾を行く「剣」は米艦を上回る20秒に一回という、重巡洋艦なみの射撃速度で高初速の30cm砲弾を先頭艦に叩きつけていました。 もちろん、米艦隊も新鋭艦ばかりで占められていた事から、三斉射目あたりから30秒に一回という早いペースでの砲撃を開始し、「魔弾の射手」の群である日本艦隊に技術的アドバンテージで以て果敢に対抗しました。 このため、どちらも統制のとれた砲撃戦をしていましたが、これまでのどの戦場よりも熾烈な夜間砲撃戦となり、双方に被害が続出する事になります。 最初にひざを屈したのは米軍の「ワシントン」で、彼女は「土佐」からの正確無比な射撃により戦闘開始10分を待たずして、艦の主要部を全て破壊され、単なる鉄の標的に成り果ててしまいました。もちろん大破で、後に駆逐艦の魚雷により撃沈されています。 米軍が期待を以て投入した「アイオワ」も、満足のいく結果にはなりませんでした。戦闘たけなわの時、彼女は「加賀」と「剣」から滅多打ちにされ、`艦の全ての場所に砲弾を受ける事となります。特に所構わず飛び込んでくる「剣」の30cm砲弾は、艦の比較的軽防御の部分を容赦なく破壊し、満載5万トンに達する戦艦の全身を傷だらけにし、火災を起こし浸水量を増大させていました。しかし、新鋭戦艦としての矜持がそうさせたのか、正確な砲弾を送り込んでいる「加賀」を、自らも全身火だるまになって大破するまでに、手の施しようのない大火災に追い込んでいました。 「陸奥」と「サウスダコタ」の戦いはなお壮絶で、完全な一騎打ちとなった両者の戦いは、互いの砲弾により満身創痍となり、両者とも艦長戦死、大破。艦のコントロールもままならないため戦線離脱。そして、どちらも朝日を見ることなく、波間に没する事になりました。 また、軽艦艇同士の戦いも、先日の海戦を思わせる激戦となり、互いの隊列への強引な突撃を行ったことから双方に被害が続出し、またも無傷の艦を捜すほうが難しいという結末を生むことになります。 結局海戦そのものは、双方の主力艦の電探(レーダー)が使用不能に追い込まれ、互いの艦隊が満身創痍となった事から、自然に幕切れを迎えました。 そして海戦の仕上げは、翌朝黎明より索敵攻撃を行った日本側の第一機動艦隊が行いました。10月末の海戦の傷が癒えていない身体を引きずって参加した彼女達は(無理やり修理した残存稼働艦が航空機とパイロットの補充だけ受けて作戦参加していた)、米軍の残存大型艦への攻撃を行ない、この海戦そものを日本の戦術的勝利に持込み、戦略目的も達成できなかった米軍のこの地域での劣勢を決定づける仕上げを行ったのです。 そして双方に生じた損害は、損害の結果だけを見ると一体何処で戦争の帰趨を決するような大艦隊同士の艦隊決戦が行われたのかと思わせるモノがありました。 以下が、この海戦、「第三次幌延島沖海戦」と呼ばれた戦闘での双方の損害です。
◆撃沈(自沈含む) 日本海軍 BB:「加賀」、「陸奥」 CG:「古鷹」 DD:3隻
アメリカ海軍 BB:「ワシントン」、「サウスダコタ」 CG:「サンフランシスコ」、「ノーザンプトン」 CL:「サヴァンナ」 CLA:「アトランタ」「ジュノー」 DD:5隻
◆大中破 日本海軍 BB:「土佐」、「比叡」 AC:「剣」 CG:「伊吹」、「鞍馬」、「青葉」 CL:「酒匂」 CLA:「初瀬」 DD:3隻
アメリカ海軍 BB:「アイオワ」 CL:「ナッシュヴィル」 DD:4隻
結果を見ても分かる通り、日本軍の辛うじての判定勝ちで、実際はダブルKOと言ってもよいでしょう。 そして、ある種の皮肉を感じるのは、唯一戦闘力を残していた大型艦が、両日の海戦に参加した日本側の装甲巡洋艦「剣」ただ一隻だった事ではないでしょうか。 そして、この海戦の結果で最も重要な事は、北太平洋方面の制海権を米軍が失った事です。 また、この冷たい海域での大規模な戦闘は、双方に膨大な数の死傷者を出す事になり、特に海戦後制海権を失っていた米軍の人的な面での損害は大きく、これも戦局に少なからぬ影響を与える事になります。
その後、幌延(パラムシル)島と占守島の戦いそのものも、制海権の有無から増援戦力を上げ、海からの援護が円滑に出来るようになった日本軍の優位に、本格的な優位に戦闘そのものを展開できるようになり、米軍の局地的な劣勢は明らかとなりました。 そして、この状況は米軍、そして米政府の望むところであるわけもなく、ここで米軍は数々の虚飾に満ちた戦況報道を行ない、国民に嘘をつくことになります。しかし、嘘ばかりでなく、何かしらのアクティブな戦果も必要であると認識された事から、またこの時期にこの地域へ攻め込んだ事への意義を国民に見せるための無茶な作戦が、中央から提示される事になります。 政府中央から内示された作戦内容は、なんでもいいから千島などの僻地でない日本本土、できれば市街地や工業地帯、軍の根拠地などを攻撃しろと言うものでした。 同時に政府は、国民の士気を鼓舞するために是非とも必要だと、現地軍の幹部に説明していました。 合衆国軍たるもの、政府からの命令は絶対であり、自らもこれまでの戦術的失態を補うため、何かしらの得点を稼ぐ必要に、主に政治的必要から迫られていた事から、無茶な作戦である事を承知で黙って受入れ、この「日本本土爆撃」と言う作戦が推進されることになります。
作戦の骨子は可能なかぎり簡略化され、最も大きな航続距離を持つB-24を米軍の占領下にあるカムチャッカ半島の基地から放ち、北海道各地を半ばゲリラ的に爆撃すると言うものになります。本来なら、帝都東京などもっと重要な都市や軍事基地への攻撃を行いたかったのですが、距離の問題と以外に厳重な日本本土の防空網の体制からこの作戦方針に従い、立案・実行される事になったのです。 用意されたB-24は、臨時編成の三個飛行大隊、約100機。数は多少無理をしてそれなりに用意されましたが、軍事的な意味での爆撃効果よりも政治的な要求を少しでも満たす為に、爆弾槽の一部には燃料を積み込み少しでも航続距離を増大させていいました。 そして、もともと長大な航続距離が売り物のB-24でしたので、北海道の函館や青森の大湊などに対しても軽荷状態なら爆撃可能なまでの数値を得ることに成功します。 また、当然の事でしたが護衛戦闘機の随伴ができませんから、その点の危険を少しでも減らすため夜間攻撃が選択され、他の千島列島各地に対する事前攻撃、同時攻撃も実行される事も決まりました。これに動員される航空機の数は約200機、寒さと霧、荒れた海に苦しむ米軍がこの時攻撃任務に動員できた最大数でした。 攻撃日時は、全く以て政治的な観点から12月24日から25日の間に攻撃がされる事を指定されました。 つまり、日本時間の25日午後12時から翌26日の午前3時ぐらいまでに攻撃が行われる事になります。 そしてこれは、戦争の重圧に耐えている国民に対する、「ちょっとした」クリスマスプレゼントと言う訳です。 ですから、この作戦には基本的によほどひどい天候でもない限り延期はなく、かなり硬直した作戦でした。 一方、米軍の妙な動きをある程度察知していた日本軍でしたが、ある程度の暗号情報などを得ていたにも関らず、米軍の作戦意図を全く取り違えており、陽動として発動されるほうの作戦に対する完全なシフトに移行し、千島列島全域に対する可能なかぎりの防空体制を整えていました。 もちろん、北海道・東北地方に対する大規模な爆撃など考えもつかず、本土の防空体制は通常以上のものではありませんでした。それに、冬を迎えつつあり、北の空からの大規模爆撃など軍事常識的には無意味と考えるのが普通ですから、日本側の考えこそ健全と言えるでしょう。 しかし、北海道の各地は前線部隊の後方拠点にして、ローテーション休暇配置場所としての役割を果たしていたので、本土のどの地域よりも多数の航空機が駐留しており、基地施設、基地防空体制もそれ相応のものが存在していた事は、これから発生する戦闘で大きなファクターとなりました。
日本時間の1942年12月25日午後10時、最初の攻撃隊が米軍占領下の旧ペトロパブロフスク・カムチャッカスキーの陸軍航空隊の基地を飛び立ちました。 その後1時間の間に3つの飛行場から合わせて108機のB-24が離陸し、途中までP-38の護衛に伴われつつ、一路日本本土、北海道、東北地方を目指しました。 さらに、北千島を攻撃するための重爆部隊も離陸を開始し、日本軍の各基地に対する嫌がらせ的な爆撃のための出撃を行いました。 これに対して、いつもより大規模な夜間爆撃に戸惑いを見せる日本軍でしたが、出撃できる限りの夜間戦闘機を出撃させ、被害を少しでも減少させるための努力が開始されます。 しかし、北海道に展開する各地の早期警戒部隊から、千歳基地に本部を置く北海道防空司令部(正式には日本軍北部方面軍統合航空指揮所)に米軍の大規模な編隊の北海道侵入の警報が届けられます。 当然のごとく、北海道に存在する全ての航空部隊、防空部隊は蜂の巣を突いたような騒ぎとなり、泥縄式に出撃できる全ての機体に対する出撃を命令しました。 飛び立った航空機は、千島での消耗戦に備えていた事からじつに多種多様で、増加試作型の夜間戦闘機からはては昼間戦闘機、電探を搭載した偵察用の重爆撃機、練習機にまで至っており、300機もの航空機が司令部の指示に従い、迎撃位置へと赴きました。 米軍の日本本土爆撃隊は、オホーツク海沿岸までは半ば奇襲に成功していた事から順調な進撃を継続していましたが、北海道沿岸部に達しようとした辺りから、五月雨式に襲いかかってくる各種の日本軍航空機の迎撃にさらされ、がっちり組まれていた編隊は、石狩平野や根釧台地に至までに撃墜、損傷による後退で櫛の歯が欠けるように数を減じ、彼らが目指した目標付近までに到達するまでに半減以下となる損害を受けていました。日本側で特に威力を発揮したのは、電探を搭載した夜間戦闘機で、欧州での戦訓を取入れて製造が開始されたばかりの新型夜戦は、すでに配備されていた夜間戦闘機の二倍以上の戦果を上げることに成功します。これらの機体の戦果が大きかったのは、電探の搭載はもちろんでしたが、「斜銃」と呼ばれる機銃配置をしていたり、異常なまでの重武装を施されていたからでした。この戦いでデビューを飾った新型夜戦は、その後各地に配備され、高初速の20mm、30mm弾により、米爆撃機の機体を乗員もろとも切り刻み、米爆撃機パイロットたちに恐怖を植え付ける事になります。 しかし、防御力の低いと言われるB-24相手でしたが、日本側も全くの無傷と言うわけにはいかず、また夜間に無茶な迎撃に出撃した単発戦闘機が多数あった事から、最終的に数十機の損害を受けることになります。 これがもし継続的な戦略爆撃であったなら、到底受入れられる損害ではなく、日本本土の防空網が宣伝されていたよりもはるかに穴だらけであったという何よりの証拠でしょう。
半減する損害を受けながらも北海道、東北北部に侵空した米重爆撃機部隊は、日本機の断続的な迎撃を受けつつも、ようやく目的地上空にその姿をあらわし、探照灯、高射砲の盛大な出迎えの中、ようやく腹の中の荷物をぶちまけ、その目的を達成しました。 爆撃に成功した機体の数は、わずかに47機。うち当初の爆撃目標に到達できたものはそのさらに半数以下で、欧州で一般的に行われている戦略爆撃に比べるべくもない程の成功率しかありませんでした。 もちろん、日本が被った爆撃による被害も、規模から考えれば十二分に許容範囲内なものでしかありませんでした。 この事を以て日本側は迎撃の成功を宣言し、もとより政治的意図のみを狙って爆撃を行ったアメリカ側は、日本本土の大都市と呼んでよい場所を多数の爆撃機が攻撃に成功したことを、世界中に宣伝、特に国内に宣伝し、作戦の成功をうたいあげました。 そして、米軍はこの爆撃の成功を以て、カムチャッカ・北千島作戦の完了を宣言し、また、新たな大規模な反撃作戦のための戦力集中を理由に、幌延島、占守島、そしてカムチャッカ半島よりの『転進』を決定します。 時に1942年12月の大晦日の事でした。
戦後もこの作戦の正否は議論の的ですが、純軍事的な点から見るなら日本側の勝利、宣伝戦ならアメリカ側の勝利と言えるでしょう。 そして、この政治的な勝利と敗北が、太平洋を再び熱い戦いへと駆り立てていく事になります。
なお、42年5月からクリスマスまでの北の海での激しい戦いにより、日米とも当座に使える戦力の三分の一が消耗したと言われており、特に難しい地域での補給線の維持を半年以上も行ったアメリカの消耗は激しく、特に人的資源での消耗は米国をしてもその回復は容易ではありませんでした。 なお、この一連戦いと補給線の維持のために米国が失った船舶量は、半年間で150万トン以上にも上っており、船員、兵員の損失も合計すると3万のオーダーにも達し、多方面での作戦が不可能になるほどの人的損害も受けていました。もちろんこれは、北の島で散った2万もの陸兵と海兵隊の損害を除いての数字です。