■英国の巻き返しと第二次ハワイ攻防戦

 連合国側は、1942年春までに日本から地中海のシーレーンの確保に成功し、欧州大陸への戦略爆撃もルール工業地帯を中心に比較的優位に展開しており、しかも度重なる積極的な作戦指導で、米軍の大西洋方面での活動をほぼ封殺する事に成功し、ドイツとの水面下の戦いも五分以上に持込み、この時点での英国近辺の戦況は比較的落ち着いており、現状だけを見ればある程度楽観すらできると言える状態でした。
 しかし、ドイツ軍は今でこそソ連相手に軍の主力がかかりっきりですが、それも43年秋にはソ連の崩壊は確実と予測され、また最大の懸案である米国も現状でこそまだ戦時生産は軌道に乗っていませんが、43年末には巨大な生産力が本格的に稼働し、前線に部隊と物資が溢れかえる事が予想されました。そして、米国との戦争では北米大陸全般を戦場にしないという奇妙な不文律ができ上がっていましたが、これもいつまで維持されるかはわかったものでもありませんでした。
 このため、英国は海外生産のかなりを本来カナダですべきところを、予防策としてオーストラリアやインドなどに生産の重点を移していました。

 そして多数の懸案を抱えながらも、英国としてはここで米国に対して何らかの手を打っておきたいところ、と言うのが偽らざる本音です。
 しかし、米国との無制限戦争は何とかして避けたいところです。このため、ドイツに対して行っている無制限戦略爆撃は御法度。現状では勝てる見込みのない北米大陸での陸戦も航空撃滅戦も問題外。アメリカの領海外での無制限通商破壊が精いっぱいです。
 となると、できる事は限られています。米国の足下をすくい、なおかつ米国民に短期的に表面的な深刻感いだかせない作戦ぐらいです。そして、それにより米軍が攻勢を焦り、どこかに兵力の逐字投入をしてくれば言うことないと言う事ありません。

 こうして選択された作戦は、潜水艦、カナダからの少数機の爆撃機を使用した米沿岸全域と五大湖に対する機雷散布作戦でした。これなら、直接被る相手に対する人的被害も最小限のため、米市民の感情を刺激する可能性は少ないですが、コストの安さとその効果は言うまでもなく絶大であり、敵本拠地の目の前を保持しているという地の利を得ている今こそすべき戦略と言えました。
 このため、日本と協議の末、両洋とカナダからの広範囲な機雷散布作戦が展開される事になりました。
 もちろん広範囲な地域に対して行われる潜水艦によるか爆撃機の少数機数の米本土侵入による散布ですので、これだけでアメリカ軍の防衛網を翻弄することができ、連合国側の損害も最低限で済み、しかも報復として同様の攻撃をされても、アメリカ側に連合国の本土に対してこれを大規模に行うべき拠点はなく(ドイツとの連絡は航空機の強行突破か潜水艦による細々とした連絡ルート以外、ほぼ途絶している)、わざわざ連合国側が企図しているような機雷散布作戦を行う潜水艦を揃えるよりは、現状の通商破壊を継続する方が経済的で、あまり恐れる必要もありませんでした。
 そして、意外な事に日本軍も以前から同様の作戦を考えており、わざわざ専用の潜水艦の建造を以前から進めてすらいた事も、この作戦を後押しすることになりました。ちなみにこれは、パナマ運河封鎖を行うために建造が進められていた伊-400型と呼ばれる、機雷散布用の大型潜水艦で、42年末までに6隻が就役予定でした。
 また、太平洋方面では海流を利用して無差別に近い浮遊機雷の散布も行われることになり、隠密裏に大量の機雷を積載した船がハワイからカナダ北部へと入りました。

 作戦は1942年の11月から開始され、じわじわと増加する米船舶の損害をしり目に、双方のイタチごっことも言える散発的で地味な戦闘が米本土の港湾部、航路の全域で展開される事になります。
 米軍にとってまことに始末の悪い戦闘でした。
 潜水艦は、隙を見計らって侵入してくるので、通常の偵察任務や通商破壊よりも発見、撃破が難しく、さまざまな欺瞞を行いつつ少数機数で侵入する連合国軍機は、それまでの偵察機を追い払う事以上にやっかいでした。
 もちろん、これを撃退することは、巨大な米軍の力を以てすれば不可能ではありませんでしたが、この連合国の作戦に対抗するために膨大な戦争資源と人的資源が消費される事になり、本来なら攻勢のために使われる筈だった物資と人員の多くが本土防衛に費やされる事になります。
 しかも市民から政府中央の一部までが、いずれ近いうちに連合国がドイツに行っているのと同様の戦略爆撃をしてくるに違いないと考え、必要以上に防空体制を整える事態に発展します。
 この結果、連合軍側の機雷散布作戦は、アメリカの防衛体制の強化のため開始三ヵ月で事実上空からの散布は不可能となりました。
 しかし、連合国は以後も専門任務の潜水艦と一部航空機(モスキートに代表される高速軽爆撃機など)を使い作戦を継続し、合衆国本土軍を翻弄し続け、米国の戦争経済にくさびを打ち込む事に成功します。
 実際の効果も、米国の損害は船舶の損害は当初こそかなりの量に上りましたが、その後沈静化し船舶損耗グラフだけから見れば、連合国を落胆させる事になりましたが、掃海のための負担と混乱は予想した以上に大きく、船舶運用の主に時間的、金銭的なコスト面では、極めて大きな効果を発揮し、一説には通商破壊以上に米国戦時経済を圧迫したとすら言われる程の成果を挙げたと言われています。
 もっとも、これはごく当たり前の結果であり、運用した当の軍人達も当然の事として、仕掛けた側はそれなりの満足を示し、仕掛けられた側は苦虫を噛みつぶしただけでした。

 米本土に対する嫌がられ的な戦争は当面これで良いとされましたが、英国は国民そして全世界にアピールする意味で、目に見える形でのリアクションを起こすことになります。
 リアクションを起こしたのは、欧州ではなく太平洋方面でした。当方面は基本的に日本の戦略分担とされていましたが、アジア・太平洋方面には、英国や連合国各国の勢力圏が多く含まれている事と、日本が大軍を欧州に派遣しているのに、世界帝国たる英国が何もしていないと言うのは、実に外聞が悪かったからです。
 それに、一時的とは言え、戦力にゆとりができた事も、この英軍の太平洋方面派兵を後押ししました。
 派遣された兵力は、依然予断を許さない空軍戦力ではなく、度重なる海戦で戦略的優位すら獲得した海軍が主力とされ、これに一部濠州などで陸上兵力の手当てをつけて、日本軍の指揮下に入れる事になりました。
 以下が、「太平洋艦隊」として派遣された王立海軍の勢力です。

●英太平洋艦隊(Zフォース)(艦載機:常用約60機)
BB:「プリンス・オブ・ウェールズ」
BC:「インヴィンシヴル」、「インフレキシヴル」
CV:「フォーミダブル」、「ハーミス」
CG:「エクセター」、「ドーセットシャー」、「コーンウォール」
CL:2隻 DD:8隻

 規模的には1個艦隊でしたが、その特徴として機動性に優れていると言う事と、場合によって水上打撃戦、空母戦など太平洋という広大な戦場で発生しうるあらゆる任務に対応できるだけの編成と兵力を有している事は、この時期の英国海軍の現状を考えれば、可能なかぎり配慮された結果と見ることができると思います。
 また、艦隊には新鋭戦艦と「I級」巡洋戦艦が含まれており、英国がどれだけ太平洋を重視した派兵を行ったかを、内外に示す事も編成表の上であらわされていました。
 この艦隊は、1942年12月4日にシンガポールに入港し、同軍港で盛大な歓迎を受けた後、香港を経由して日本本土の大神海軍鎮守府へ12月15日に入港しました。
 もっともこの時、太平洋戦線は北千島での戦いが日本軍の優位と言う形で終幕を迎えつつあり、それ以外では東太平洋を挟んでハワイと北米西海岸で両軍がにらみ合っているだけでした。
 もちろん、水面下では双方の通商破壊が激しさを増しつつ行われており、また北米西海岸では日本軍の機雷散布作戦も継続中で、決して「ポニー・ウォー」と言うわけではありませんでした。
 そして、Zフォースは、しばらく太平洋で日本海軍との共同訓練を兼ねた慣熟を行った後、北の海で消耗した艦艇が、修理や長期整備に入っているのに入れ替わるように、太平洋へと乗り出す事になります。

 「英艦隊太平洋に現る!」と言うニュースは、瞬く間にアメリカ中に広まり、以前継続中であった機雷散布作戦と一時的に活動が活発化している日本海軍による通商破壊のニュースともども、アメリカ市民に対して太平洋での脅威が著しく増大しているように思わせてしまいました。
 これは、1943年の新年を迎えるとより大きな声となり、市民の声を政府が無視出来なくなるのに時間はかかりませんでした。
 もちろん連合国側としても、ある程度この効果を狙っていたのですが、アメリカの反応は連合国の予測をはるかに越えたものとなりました。
 市民の声を無視できない合衆国政府の命令により、夏に行われる予定の大作戦が春に始動される事に変更されたのです。

 米軍としては、まずは前年12月31日の会議で幌延島、占守島の放棄を、「作戦目的の達成による転進」と言う形(政治的体裁)で実現し、さらに事実上アリューシャン列島まで戦線を下げ、これにより前線のあらゆる負担を減らし、事実上連合国と相対する戦場を減らす事で一度艦艇の修理、整備を行い体制を建て直そうとしました。
 この千島列島からの撤退作戦は、43年の2月に流氷で閉ざされ、日本軍が完全に油断しているスキに行われ、砕氷船と高速艦艇を利用した迅速な撤退戦にて、戦闘での犠牲を出すことなく撤退に成功しました。
 そして再編した既存の兵力と、米軍の巨大な生産力が前線の戦力に大きな効果を現し始めたことで出現した戦力を合せ、43年の夏には再度ハワイ攻略を行うという基本に返った作戦を計画し、全てのやり直しをしようと言う目算を立てさせるにいたっていました。
 ところが、これが目前の連合国(日本軍)脅威論に振り回された結果、一日も早いハワイ奪還作戦発動という事態に進展してしまったのです。
 合衆国市民をしてそれほど日本軍に脅威を抱かせた原因は、1934年での戦争で海軍の敗北がその心理感情の根底にあるからで、様々な小さな現実の要因はその恐怖を呼び起こす要因にすぎませんでした。
 米軍は、市民の恐怖の幻像を振り払うために、無理だと分かっている大作戦を決行せざるをえなくなったのです。
 しかし、作戦は海軍の強い反対により、ハワイ奪還ではなく艦隊撃滅と基地機能の破壊という、多少なりとも現実的なものに変更され、その目的に従いハワイ正面に可能なかぎりの兵力が整えられる事になりました。
 なお、米軍によるハワイ攻撃作戦の予定は1943年4月末となります。

 一方の連合国というか日本の動きですが、米軍が戦線を縮小し戦力の再編成を進めている事は掴んでおり、自らもそれに合せる形で戦力の再編成に努めていました。
 また、この戦力の空白の時期の英国からの援軍を、形だけでなく本当に喜んでおり、その証拠に英本国の了解を取り付けるとさっそく最前線のハワイへと派遣していました。
 この時期日本が考えていた作戦は、1943年の5〜6月にハワイに大兵力を結集して米軍をけん制しつつ、別動隊を編成してアリューシャン列島を占領、日本本土に対する脅威を取り除くというものでした。
 しかし、ハワイ基地や哨戒活動を行っている潜水艦の偵察活動、同盟各国からの情報が4〜5月に米軍が太平洋方面で積極的な作戦活動を計画していると知らせて来ると、この方針に若干の変更をする事になります。
 変更内容は、取りあえずハワイに稼働全洋上機動戦力を結集し、北太平洋の脅威を根本から取り除くためにアラスカを攻撃すると思わせ敵艦隊を誘出、洋上で決戦に及び機動戦にて殲滅しようという野心的かつ攻撃的なものでした。
 まさに、日本海軍的な作戦であり、この作戦を立案した攻撃的な作戦参謀は、本作戦で太平洋での戦いの帰趨を決して見せると豪語したと言われています。
 そして、以下がこの戦闘に参加する事になった、両軍の水上艦艇です。

■連合国海軍(日英海軍)
 第一艦隊:
BB:「大和」
BB:「紀伊」、「尾張」、「駿河」、「近江」
BB:「富士」、「阿蘇」、「雲仙」、「浅間」
AC:「剣」、「黒姫」
CG:「妙高」、「那智」、「羽黒」、「足柄」
CL:1隻 DD:16隻

 第一機動艦隊:(艦載機:常用約340機)
CV:「大鳳」
CV:「蒼龍」、「飛龍」、
CV:「天龍」、「神龍」
BB:「金剛」、「榛名」、「比叡」
CLA:「綾瀬」、「初瀬」
DDG:4隻 DD:12隻

 第三機動艦隊:(艦載機:常用約280機)
CV:「伊勢」、「日向」
CVL:「飛鷹」、「隼鷹」
CVL:「瑞鳳」、「日進」
BB:「長門」
CLA:「大淀」、「仁淀」
DDG:2隻 DD:12隻

 英太平洋艦隊(Zフォース)(艦載機:常用約60機)
BB:「プリンス・オブ・ウェールズ」
BC:「インヴィンシヴル」、「インフレキシヴル」
CV:「フォーミダブル」、「ハーミス」
CG:「エクセター」、「ドーセットシャー」、「コーンウォール」
CL:2隻 DD:8隻

■アメリカ太平洋艦隊
 第13任務部隊
BB:「ルイジアナ」、「オハイオ」
BB:「ニュージャージ」、「ミズーリ」
BB:「ウィスコンシン」、「イリノイ」、「ケンタッキー」
BB:「ワシントン」
BC:「サラトガ」
CG:「ニューオーリンズ」、「タスカルーザ」
CL:3隻 DD:16隻

 第38任務部隊(艦載機:常用約550機)
 第1群
CV:「エセックス」
CV:「エンタープライズ」、「タイコンデロガ」
CVL:インディペンデンス級1隻
CL:2隻
CLA:「サンディエゴ」 DD:16隻

 第2群
CV:「イントレピット」、「ワスプ2」
CVL:インディペンデンス級2隻
CL:3隻 DD:16隻

 双方とも、太平洋方面にあるありったけ機動力を持った艦艇を集め、それだけで艦隊が構成されており、共に大部隊ながらハワイ東方海上の広大な戦場を駆け巡るには申し分ない大山力を展開しているのが分かると思います。
 戦力差的には連合国側の優勢は間違いなく、おおよその比率で10対7〜8程度で連合国側が優勢です。
 単純な数で見てみると日英vs米=BB18:9、CV8:5、CVL5:3、CG7:2、CL(A)7:9、DD54:46、艦載機680:550と言うことになります。
 技術力差もありませんし、新造艦や新兵器の導入も同程度のペースで進行していますから、どちらが見えない点でアドバンテージを持っていると言うこともなく、真っ正面からぶつかれば如何なる結果になるかは述べるまでもないでしょう。

 ですが、この当時双方とも相手の戦力をかなり誤って見積もっていた節がありました。
 アメリカ側は、英艦隊の増援こそ知っていましたが、日本海軍そのものについては、その回復力と艦艇建造能力をかなり低く見積もっていました。このため、母艦戦力においては自らの(わずかながらの)優位を確信していたという証言が多数あります。
 一方日英側は、カナダでの偵察活動により米軍よりは正確な情報を持っていましたが、当面大規模な戦力が揃えられない大西洋の戦力が移動していると信じて疑わず、このため実際よりも過大に見積もっており、自らと同等の戦力と考えていたようです。これは、米軍の努力により米東海岸沿岸部とカリブ海での偵察活動が難しくなっていた事も影響していました。
 この結果、実際の戦闘はシュミレーション・ゲームのような簡単なものとは、かなりイメージの違うものとなりました。
 そして、この戦闘を最も混沌とした原因は、互いが相手艦隊を自らの戦場へ誘出撃滅しようとした事にありました。
 戦闘に至るまでの航路設定を自らの都合の良いように行ない、それを察知した双方が相手の出方をいぶかしみ、どちらも泥縄式に艦隊進路を変更、ようやく戦いの舞台へと双方が上るという、大規模洋上決戦を前提としておきながら、どちらもが相手の撃滅を図ろうという意図を持っていたにも関らず、勇壮な艦隊決戦からはかけ離れたものとなってしまったのです。
 それだけ、どちらも事前の欺瞞が上手くいっていたとも言えますが、これも戦争の一つの姿であると言うのが正直なコメントでしょう。

 さて、『東太平洋海戦』と双方で呼称された二度目のハワイ攻防戦である実際の戦闘ですが、双方が勝手に戦場を設定しようとした事から、どちらも1943年4月25日前後を決戦日として設定していたにも関らず、互いの姿をそれも偵察に出ていた艦載機が発見したのが、1943年4月29日の午後を回ろうかという時間でした。
 しかも悪い事に、日英側が進出限界点に達しており、艦隊全体の燃料の問題から、この日中にはハワイに後退しなければならない状態で、対するアメリカも燃料は決して潤沢とは言えず、とても突撃して砲雷撃戦を挑めるような燃料を抱えてはいませんでした。
 つまり、戦闘はこの一合のみ。しかも、艦載機の一撃だけしかできないと言うことです。
 どちらも、大艦隊と共に御自慢の新鋭戦艦を戦場に持ち込んだと言うのに、実に皮肉な現実でした。
 しかし、相手と天ばかりを呪っても埒があかないので、どちらも一撃に全てを賭けた攻撃隊を、ありったけの空母から放つ事になります。
 また、相手空母艦載機から空母部隊を少しでも守るために、双方の戦艦部隊は艦隊の前衛に位置し、敵を待ちかまえました。
 空母を多数抱える大艦隊同士の戦闘と言えど、広大な戦場を舞台としては、小競り合いのような齟齬がえてして起こりやすいという何よりの証明と思わせる光景でした。
 なお、双方が放った攻撃隊の数は、日英側が二波で450機、米側が二波で400機。防空隊が日英側が約200機、米側も約150機でした。
 攻撃を放ったのは米軍が少しだけ早く、当然最初に敵を望む栄誉にほっしました。しかしそれは、必ずしも幸運とは言い切れませんでした。第一波は約250機から構成されていましたが、艦隊前衛には200機もの日英側防空戦闘機が待ちかまえており、これにより戦闘機の大半と攻撃隊の4割が目的を達する事ができなかったからです。
 さらに、日本軍第一艦隊上空前面にさしかかった米攻撃隊は、今までの常識を覆した統制防空砲撃を経験する事になります。
 何と日本海軍の戦艦たちは、米軍機を電探により正確に捕捉すると、自らの主砲のかま首を高く掲げ、よりにもよって対空電探による主砲を用いた電探統制防空戦を始めたのです。
 そして、第一艦隊の戦艦の一斉射撃から約60秒後、戦艦の砲撃を小馬鹿にしていた米艦載機に到達し、密集して空母上空へ突破しようとしていた米艦載機は、炎の壁に行く手を阻まれる事になります。
 「三式弾」と呼ばれる対空砲弾が、初めて敵に向かって放たれた瞬間でした。そして、それは空母同士の防空戦において最初で最後と言える大戦果を「三式弾」にもたらす事になります。
 なお、世界最強の20インチ砲が、最初に火焔を噴いた相手が航空機というのは皮肉と言えば皮肉でしょう。

 この統制砲撃により、日本側の防空戦闘機を突破した米第一波攻撃隊約100機のうち、一瞬にしてその3割が炎の壁に飲み込まれるか、触手のように伸びてくる炎に捕まれ大きく損傷しました。もちろん大半が撃墜です。
 さらに40秒後第二斉射が浴びせられ、米艦載機隊が編隊を解ききる前に到達。文字通り米攻撃隊を粉砕してしまいました。
 その後第一艦隊はもう一度砲弾を今度は広範囲にばらまくように斉射をあびせかけ、都合三度の砲撃だけで、実に半数近い米艦載機を撃墜もしくは損傷後退させ、生き残りの攻撃隊はその時点でモラル・ブレイクしてしまいました。
 それでも一部がなおも進撃しましたが、オープン・ファイアーにより全く勢いを失った少数機部隊の攻撃が成功する筈もなく、日本側は米軍機の攻撃を完全にはねのける事に成功します。
 もっとも、この情報が第二波に誇張表現で以て伝わっていた事から、米側は防空戦闘機を突破した時点で編隊を大きく散開させ、日英の艦隊のそれぞれを五月雨式に攻撃し、混乱させると言う点では実に効果的な攻撃を米艦載機にさせる事になります。分散されては、自慢の新兵器も役にはたたないと言うことでした。このため、日本軍は「三式弾」の防空戦の使用の戦訓を長短所共に知ることになり、以後さらなる研究が重ねられるようになります。

 なお、米艦載機の第二次攻撃により、日英の艦隊は1発とか2発程度でしたが意外に多数の艦艇が敵弾を受ける事になりました。
 ただし、この時点で投入されていた新造の装甲空母はその防御力の高さを見せつけ、日本人に戦場での蛮用に耐えうる空母とはどうあるべきかを実感させる事になります。また、この海戦での日英側は母艦の三分の一に損傷を受けましたが、幸いにして戦没艦を出すことはありませんでした。
 そして、ハワイ駐留艦隊と化していた第一艦隊に新たな伝説の一ページが記された事は言うまでもないでしょう。
 そして、満載10万トンに達する新鋭戦艦のデビューも、無事飾られたわけです。
 一方、日英側の攻撃も、米防空隊の盛大な歓迎を受ける事となります。もっとも、絶対数において日英側の方が多い事から、第一波、第二波とも、それまでの常識からしても納得できるだけの攻撃機が米艦隊上空まで到達する事に成功しました。
 数にして第一波120機、第二波100機です。
 当然数に似合う結果が生まれると思われましたが、米軍も艦隊防空には戦訓を踏まえて努力しており、レーダー管制射撃により艦隊輪形陣に突入した日英側は、これまでにない激しい防戦に苦戦し、攻撃機の3割を失うという大打撃を受けることになります。
 当然、命中率も低くなり7〜8%程度の命中弾しか発生しませんでした。
 しかし、220機の7%以上ですので命中弾の数は16発にものぼり、当然命中弾は大型艦に集中。しかも、第二波攻撃隊が1個空母任務群に集中した事から大型空母「ワスプ2」、軽空母「プリンストン」を撃沈、他大型空母1隻、軽空母1隻、戦艦1隻を大中破する大戦果を挙げることになります。

 そして、双方の攻撃隊が自らの艦隊に帰艦した時点で夕方を迎え、双方矛を引く事になります。
 なんとも、大艦隊同士ががっぷり四つに戦闘したにしては、呆気ない海戦であり、双方の犠牲も艦載機の損害はともかく、艦艇の損害は実に低いレベルに抑えられました。
 結局双方が母港に帰り着くまでに受けた損失は、海戦後の夜に日英側が潜水艦により駆逐艦1隻を失い、アメリカ側が空襲と潜水艦により大型空母「ワスプ2」、軽空母「プリンストン」と駆逐艦1隻を失っただけでした。アメリカ側にとって大型空母を含む2隻もの空母を失い、相手に同じだけのダメージを与えられなかった事は大きな失望でしたが、この海戦は別の意味にで双方に大きな心理的ダメージを与えていました。
 それが、双方共呆気なく後退させるに至ったのです。(もっとも日英側は燃料問題が主な原因でしたが。)
 予想外とも言える損害は、艦載機でした。双方とも損傷による破棄を含めると、半数近い艦載機を空戦と攻撃で失っており、もし時間的に行えたとしても、とてもその後反復攻撃を行える状態になかったのです。
 特に母艦の半数が損傷または撃沈していた米軍における艦載機の損耗率は7割近い数字を示しており、ごく常識的には戦闘を継続出来る状態ではありませんでした。艦載機の面からな米艦隊が軍事的に「全滅」していたのです。
 しかも、攻撃した艦載機や偵察機が、自らの二倍近い戦艦を日英側が持ち込んでいる事を知らせた事も、米軍の後退を決意させる事になりました。
 そして、戦闘の経過と相手戦力を伝えられた、米海軍上層部、合衆国政府も現場の艦隊の行動を肯定し、ハワイに偵察機の一機も送り込むことなく、ハワイ攻撃作戦は中止される事となりました。
 政治が要求した戦闘は、天の時、地の利、人の和のその全てを得られず、損害はともかく大失敗に終ることとなったのです。
 当然、敗北の続く合衆国海軍自体も、度重なる戦術的敗北に新たな1ページを増やしただけという気分が大きく、傷心の帰還となりました。
 一方の日本側は、攻撃隊の損害こそ大きかったのですが、艦隊全体からすると撃沈が帰還途中に潜水艦に襲われた駆逐艦1隻で、防空戦闘も十分な戦果を挙げた事から非常に士気は高く、意気揚々とハワイへと戻りました。
 そしてその後双方の政府から、いつも通りの手前勝手な勝利宣言が出されましたが、合衆国市民はハワイの脅威が取りあえず取り除かれたとされたので当面は沈静化し、そう言う点からなら合衆国にとり意味のある戦闘だったと結論づける事ができるでしょう。
 対する日本側としても、敵の意図を挫き戦果も自らの方が大きく、ハワイも全くもって健在で艦隊消耗も最低限なのですから、今回の戦闘を成功と判断していました。

 ですが、双方とも全体の戦局的には、この結果にあまり左右されることなく、次なる戦いに備えて再び再編成と新しい妹達の出迎えにいそしむ事になります。
 なお、一ヵ月もすると再びハワイ駐留艦隊が、大規模な護送船団を無事迎え入れたハワイを拠点として跳梁を再開するようになり、しかも今度は大型空母を伴って活発な活動を再開した事から、再びアメリカ市民の不安を煽り、米軍の戦略意図を無意味にし、双方の戦術的な結果からも、後世からもこの一連の戦闘は人命と艦艇と燃料を無意味に浪費しただけの意味のない戦闘と言われるに至っています。

■独ソ戦終結