■独ソ戦終結

 1942年が終り1943年に入っても、大局的な戦線はそれ程大きく動いていませんでした。
 日英ソ連合vs米独枢軸と言う一見拮抗した勢力同士が大戦争を演じていると言う事が大きく影響していましたが、寒い地域でばかり戦線を抱えているという事も影響していました。
 ロシアの大地も北太平洋も冬の白いベールに閉ざされ、冬が戦争を拒絶していたからこそ発生していた表面上の沈黙の時間でした。
 もっとも、連合国が何もしていないわけではなく、後方において完全に軌道にのった戦時生産の膨大な生産力を利用しての戦力の蓄積を進めると共に、ドイツ本土への継続的な戦略爆撃、米本土沿岸に対する機雷散布作戦、主にアメリカをターゲットとした無制限通商破壊を行っていました。
 対する枢軸側も無制限通商破壊を連合国の通商線全域で継続すると共に、連合国同様戦力の回復を図っていました。もっとも、生産力に関しては連合国側の妨害で相手ほど上手くはいっていませんでしたが。
 また、枢軸側の当面の目的は、米国がハワイ(日本)、ドイツがソ連でしたし、両国は日英に大西洋を遮断されている事もあり、事実上個々に戦争をしているような状態でした。
 そして、先述したように米国のもくろみは、43年春を迎える頃に無理に行われた攻勢により無為にとん挫し、夏から秋の反攻作戦そのものの遅延を余儀なくされていました。
 それに反するかのように、ドイツによる三度目となる対ソ攻勢の準備は着々と進行しており、過半の工業地帯と資源供給地を奪われ、日英から細々と援助を受けているだけのソ連をしり目に、予定通り5月の大攻勢の準備におさおさ怠りはありませんでした。
 これは、日英が仕掛けてくる戦略爆撃を防戦一方にしてしのぎ、地中海での日英のシーレーン途絶も嫌がらせレベルにまで低下して、ただ自らの東部戦線の陸空戦力の集中に努めていた事で、職業意識の高いドイツ軍人達をしても、前線に配備された兵力は満足しうるレベルに達していました。
 もっとも、日英の戦略爆撃は、ドイツに150万もの人員を防空戦に駆り出させており、日英が敵でなければどれほどたやすくソ連をくだすことが出来たかと、全てのドイツ人達に実感させるには十分な損失をドイツに与えていました。

 そして、待ちに待ったドイツ東方軍による三度目の対ソ夏季大攻勢が開始されます。
 作戦名称は「ヒンデンブルグ」。
 もちろん、この名は第一次世界大戦でロシア帝国軍を散々に打ち破った将軍から命名されたものです。
 この作戦名称からも、ドイツ軍のなみなみならぬ自信が伺えるでしょう。
 ドイツ軍の攻勢は、1943年5月15日に開始されます。
 1941年の全戦線での全面攻勢を彷彿とさせるような、ドイツの全軍事力を投入しての文字通りの大攻勢でした。
 攻勢発起点は、モスクワとスターリングラード改め、ブラウ・ポリス。モスクワからは1個軍集団が、ブラウ・ポリスからは2個軍集団がウラル山脈目指しての三度目の電撃戦を開始しました。
 攻勢には、この時においてすら枢軸軍合計で300万もの将兵が参加しており、それぞれの軍集団には1個航空艦隊が制空権獲得と支援爆撃のために付けられ、砲兵戦においても往年のソ連軍すら圧倒するほど投入され、ドイツという国を考えれば考える限りの手だてが講じられた攻勢作戦でした。
 装甲兵力も冬の間にそのかなりが一旦後方に下げられ、新装備の受領と共に再編成され、中でもGD師団やSSの各師団などの精鋭師団は、新型重戦車「6号(ティーゲル)」、改良された中戦車「3号J型」、「4号H型」を多数受領しており、他の師団も改良されたそれまでの主力戦車に加えて、新たな対装甲戦力として対戦車自走砲である突撃砲(主に3号突撃砲)を多数受領しており、実のところ初めてソ連軍に対して装甲兵力の質的優位を得るまでに強化されていました。
 これに対してソ連軍も、数の上なら500万以上の兵員を前線に配備し、編成の上では各種合計300個師団、2万両の装甲車両を保有していましたが、その実態は2年間の戦争の間に兵員の大半は一部の親衛隊を除くと、動員された新兵、しかも幼年兵と老年兵ばかり、装甲車両の数は日英からの援助物資を含めても定数の3割程度、航空機に至っては練度の問題からいくら数があっても落されるためにあるようなもので、とても紙の上のような戦力はありませんでした。
 唯一の明るい材料は、基本的にソ連軍の防御戦であり、防御陣地の構築はロシア人の得意とすると言うことと、冬の間にそれなりに強固な防衛線をウラルに至る各拠点を中心に施す事ができた事でした。
 ただ、陣地用のコンクリートや鉄材の不足はやはり如何ともしがたく、取りあえず数だけは揃えられた砲兵戦力も備蓄弾薬の量を思うと、とてもドイツ軍の進撃を止めれると安心できるものではありませんでした。
 しかも、日英からの援助物資は、ソ連が求める量よりはるかに少ないレベルでしかなく、ソ連軍、ソ連政府を大きく失望させていました。

 こうした情勢の中、ドイツ軍による第三次夏季攻勢は開始されました。
 1943年5月15日午前3時、一斉に重砲兵部隊の射撃が開始され、3時間にもわたる砲撃を継続、それが終ると共に新型戦車「ティーゲル」戦車中隊を先頭に押し立てたカンプ・クルッペによるドイツ装甲部隊の進撃が開始されました。
 彼らの頭上にはルフト・ヴァッフェの戦闘機が常に舞い、十分な装甲兵力ががっちりとしたパンツァー・カイルを作り上げ、新兵器「ネーヴェル・ヴェルファー」などのロケット兵器の大量使用と断続的な咆哮を続ける濃密な砲兵支援など、歴戦の将兵たちは、初めて自分たちが本当の物量戦を展開している事を実感させる情景を現出させていました。
 対するソ連軍も、もうこれ以上下がるべき場所はないという事で、持ち前の粘り強さを発揮しますが、火力、戦力、練度の差は如何ともしがたく、大包囲されないように後退するのが精いっぱいという状態でした。
 しかし、ドイツ軍の勢いは開戦当初よりすさまじく、ソ連軍主力の後退は一部死守部隊の犠牲無くして成立すらしないものとなっていました。

 攻勢開始から約一ヵ月が継続した頃、ドイツ軍はクイビシェフ市郊外に達します。ここはソ連(ロシア)にとっては、ウラル前面の最終防衛線と言ってもよい場所でした。
 ソ連軍は、ここを中心として大きな突出部を形成して戦線を張っていました(南北戦線はすでにズタズタだった)。そして、ドイツ軍としてもこの町を占領しなければ、ウラルへの道を開くにはかなりの不安が伴う場所でもありました。
 ここは、ウラルに篭るソ連軍にとって最後の防衛線と呼んでよく、ここには残存ソ連軍の主力が集結しドイツ軍に対抗しており、生半可な攻撃では物量戦を展開するドイツ軍と言えど突破できるものではありませんでした。

 ここが戦争の最後の天王山だと理解したドイツ軍首脳部は、現地軍の中からマンシュタイン上級大将を総司令官として、臨時軍集団を編成し、ただ一言命令しました。
 「全軍を挙げてクイビシェフ市の赤軍を蹂躙し、ウラルへの道を開け」と。
 クイビシェフ市周辺をめぐる戦闘は7月5日に開始されます。
 すでに日常となった、空軍のJu-87「ストゥーカ」による急降下爆撃と長時間にわたる砲兵のオープン・ファイアにより幕を開け、その後「ティーゲル」重戦車中隊を先頭に立てた強力なパンツァー・カイルが強引に進撃を行いました。その攻撃密度は、この戦争始まって以来のものであり、おそらく世界中のどの陸軍でもそれを防ぎきるのは不可能だと思わせるものがあったと言われています。事実、ドイツ軍はそれだけの努力をこの戦場で行っていました。
 もし、開戦一年ぐらいのソ連軍の戦力であるなら、これを阻止できたかも知れませんでしたが、この頃のソ連軍は全くもって消耗しており、いかに陣地によった巧みな防戦を行っても、圧倒的な鉄量を投入しつつ遮二無二突撃してくるドイツ軍を防ぎきる事はかなわず、作戦全般を立案したマンシュタイン将軍自らの指導による側面突破が成功すると、ソ連軍の前線は崩壊し、物資の不足から十分な二次、三次防衛戦を構築していなかったソ連側は、包囲、蹂躙され戦闘開始一週間をもって、この地域でのソ連軍の攻撃的防戦は終了、あとはいかにドイツ軍の包囲網から逃れるかが彼らの命題となる惨状に進展していました。
 なお、この強引な陣地突破戦闘において「ティーゲル」戦車は、持ち前の重装甲と強力な火力により、ソ連軍将兵(特に戦車兵)の恐怖の象徴として刻印され、この後もドイツに敵対した全ての陸軍にも同様の恐怖を振りまく存在として、無敵神話の伝説を作り上げる事になります。
 この戦場は、そのプロローグでした。

 少し話がそれましたが、この戦いはドイツ軍の大勝利に終りました。
 クイビシェフ市とその周辺には、50万人以上ものソ連軍精鋭が包囲されていました。つまり、ドイツ軍によりソ連赤軍は最後の精鋭部隊を殲滅され、この戦争の帰趨を実質的に決する事になったのです。
 確かに、その後も周辺地域での戦闘は継続し、さらにウラルに続く道でドイツ軍の電撃戦を前にソ連軍が絶望的な防戦を行うという構図が展開され、数々の小さな喜悲劇が織りなされますが、7月25日の時点でクイビシェフ市がついに降伏、これをもって少なくともソ連赤軍内では、停戦の考えが固まったと言われています。
 そして、それを証明するかのように、1943年8月8日に突如ヨシフ・スターリンが書記長を罷免され(その後すぐに投獄されている)、彼に連なっている権力者たちも政治家・軍人を問わず罷免されるか閑職に追いやられました。
 そして、ドイツとの講和を前提とした新たな政権が樹立されると言う、政治的激変を迎える事になります。
 もちろんこれは、実質的にはスターリンの独裁に対するクーデターであり、これはその後政治委員や強硬な共産党員の多くが事実上粛正された事でも間違いないでしょう。
 もっとも、講和を模索した勢力が、本当の粛正、血と銃によるクーデターを実施しなかったのは、戦後を見越して自らによる新たな政府のクリーンなイメージを作りだそうとしたからに過ぎませんでした。

 新たな書記長には、フルシチョフというそれまであまり注目されなかった、地方党員に過ぎなかった人物が就任しました。
 彼が書記長に就任できたのは、戦争開始と同時に疎開委員を拝命し、ウクライナからウラルへの工場の移転を行ない、その後実質的にウラルの地域を管理していた事が大きく影響していたと言われています。
 彼は書記長に就任すると、徹底抗戦をする意思などまるでないかのように、ジェーコブなど生き残りの将軍たちや共産党やスターリンに大きくなびかなかった赤軍・政府の首脳部と密接な連携の元、ドイツとの講和を画策しました。
 本来なら、抗戦の意思を見せつつ講和を図ろうとするのが常套ですらありますから、これはあまりにも異常で、停戦の提案を受けたドイツ首脳部を多いに困惑させる事になります。
 また、事実上の敗北により早期の講和を図り、連合国から脱落しようとしていたのですから日英側の混乱も大きなものとなります。
 しかし、フルシチョフは実に巧みでした。
 彼が巧みだったのは、今回の停戦交渉をドイツとソ連だけの単独講和を目指した秘密交渉などではなく、これを連合国各国にも正式に通達し、一気に欧州の戦乱そのものを終息させようと画策した点にありました。
 これによりソ連はドイツに敗北しますが、連合国としての体面を保ち、しかもそれによりドイツの影響を最小限にとどめつつ政治的な生き残りができる可能性があるからです。
 そして、この停戦はソ連が一時的な屈辱にさえ耐えるのなら(どうせ耐えねばならないのだから)、アメリカ以外誰もたいして損はしないと言う点が各国を引きつける事になります。
 特にこれに興味を示したのは、もちろんと言うべきかドイツ第三帝国でした。
 ドイツ総統アドルフ・ヒトラーにとって、ソ連政府の合意の元ヨーロッパ・ロシアを手に入れ(つまり戦後の混乱を最小限にできる)、しかも英国を始めとする欧州と講和が出来る(彼にとっての戦争を実質的に終らせる事ができる。)と言うのですから、これに興味を示さない方がおかしいとすら言えるかも知れません。
 そのためか、独ソの交渉は驚くほどのスピードで進展します。
 このため、日英を始めとする連合国側も独ソの交渉に対して、すぐにもリアクションを示すことが要求されました。
 もっとも、連合国の実質的なリーダーと言える英国は、ソ連が提示した講和の話に強い興味を持っていました。しかしこれが、講和を意味するわけではありません。
 確かに自分たちは、ドイツだけでなく世界最大の経済力を持つアメリカを敵として戦っており、今でこそ連合国各国軍の善戦により彼らを北米に押し込めていますが、彼らの戦時生産が本格的に軌道に乗れば、それもいつまで維持できるかはなはだ疑問であり、このまま米独二つの強敵と二正面戦争を継続することは、戦争で最も行ってはならないタブーをし続ける事で、プライド面以外でなら講和する事こそ、戦略的には正しいと言えるが、かといってここでドイツと講和しては欧州を彼らにくれてやるようなもので、「はい、そうしましょう。」とこの状態で容認できる事でもなかったからです。
 また、ドイツの占領下にある欧州大陸各国の一部も強い興味を持ちました。もちろん、上手く交渉が運んで独立復帰ができるかも知れないという、淡い期待があったからだけでしたが。
 さらに、ドイツ以外の枢軸各国も連合国各国との講和には積極的で、ドイツが講和を言い出してしばらくすると、活発な外交活動をするようになります。

 一方これに強く反発を示したのは、当然と言うべきかドイツとの実質的な同盟関係にあるアメリカ合衆国でした。
 ですが、現状で口汚く罵っては、それこそドイツと連合国が勝手に講和してしまいかねないので、ドイツ政府に対して明に暗にアプローチをかけました。
 また、連合国各国をけん制するための行動にも注意が払われます。特にドイツと連合国が講和に傾かないように様々な工作が行われました。
 これに対して、自らの政治的な圧倒的優位を確信したドイツ総統は、まずアメリカの駐独大使に対し、「あなた方は考え違いをしておられるようだ。問題は今や余が講和を望むかどうかではない。余はこの件に関してすでに賢明なるソ連指導部以上の道を示している。あとは、日英がそれを望むかどうかなのだよ。」とコメントしたと言われています。
 そしてそれは、おおむね事実でした。
 さらにドイツは、連合国、特に英国への働きかけを強くすると共に、フランスなどに対しても領土復帰を含めた話し合いの場を設けてもよいととれる声明を発表しました。

 もちろん、アメリカと真っ正面から戦っている日本政府にも声明が出され、特使までが派遣されました。
 彼らは言います。「自分たちは、国是に従いロシアの大地を自ら勢力圏とする意思を以て戦い、現在それは達成されました。そして、ロシアの大地にある新政府もそれを受入れています。これが現実です。また、不幸な行き違いから始まった欧州全体での戦いに対しては、我々も深く憂慮しており出来るかぎりの配慮をするつもりです。(中略)つまり、我がドイツはあなた方と戦う理由も意思ももはやないとお考えください。特に、大日本帝国に対しては、我が国が(利権問題から)争う理由など全くなく、総統閣下は一日も早くこの不幸な状態の改善を望んでおられます。」と。
 もちろん、この言葉は枕詞程度であり、アメリカとの戦争による現状をえぐるように突き、ドイツとの停戦による理を説いてきました。
 当然脅しもしてきました。特に日本側にとってショックだったのは、ロシアがドイツの手に落ち、日本もついに本当の二正面戦闘の危険性があるという事でした。
 現状では、戦局はむしろ自分たちが有利と言えますが、今後勝にしろ負けるにしろ、いかに帝国に犠牲が必要かを実感させるには、ドイツとの交渉は十分なものがありました。

 さて、ここで第二章の中でも恐らく最も遅い選択の時です。
 何を選択するのか?
 言うまでもないと思いますが、ソ連の実質的な降伏のどさくさに紛れて、ドイツと講和してしまうか、このままドイツを敵として戦い続けるかです。
 反対の見方からすれば、アメリカ一国と戦うか、そうでないかという風にも言えるでしょう。

 

 1. ドイツの講和に応じる。

 

 2. ドイツを倒すまで戦い続ける。