■カリブ殲滅戦
大西洋での大規模な戦闘での勝利、カリブへの橋頭堡の確保、大西洋・太平洋での制海権の確保などを受けて、連合国側は今後の戦争の展望について語り合うため、北アフリカのカサブランカ市に首脳の大半があつまり首脳会談を行いました。 この会談には、英国のチャーチル、ドイツのヒトラー、日本の吉田、イタリアのムッソリーニ、フランスのド・ゴール、ソ連のフルシチョフ、中華民国の蒋介石、インドのネルーとアメリカ以外の全ての列強と大国の首脳が顔を揃えていました。(なお、ソ連のフルシチョフ、中華民国の蒋介石はオブザーバー的な位置で参加していただけで、インドのネルーはオブザーバーどころか、インド自体はまだ正式に独立してすらいませんでした。) 1944年11月21日に共同宣言がなされることになる「カサブランカ会談」と呼ばれたこの会談で出された宣言の内容は、必然的にその多くがアメリカに向けられたものでした。 中でも強烈だったのが、『無条件降伏』に触れた言葉で、この宣言ではまだ明言されていないこの一言により、アメリカ市民をさらなる抗戦に駆り立てる事になり、戦争のさらなる泥沼化を呼び込む事になりました。 なお、この会談はもともと戦争の展望を話し合うもので、無条件降伏という言葉もアメリカが徹底抗戦した場合の一つの選択肢という程度で、この頃はむしろようやく戦略的優位を獲得した事で、このまま何とか停戦に持ち込めないかと言う意見の方が優勢だったほどです。 列強はすでに疲れ始めていたのです。
そして月が変わって44年12月、戦争が再び動き出します。 動き出した戦線はカリブ海戦線でした。 一方のカナダ戦線は、『ポニー・ウォー』のまま動いていませんでしたが、事実上北米に入るまでに洋上で阻止すべき戦力をアメリカが大きく損なっていた事から(水上艦隊は壊滅、潜水艦はほぼ制圧され、空軍も洋上攻撃できる戦力はすでに多くが人的資源の面で失われていた)、徐々にカナダに様々な兵力が流れ込み始めており、翌年明けにもケベックに流れ込んだ連合国陸上兵力により最初の軍集団の司令部が開設される事になります。 ですが米政府が、事態が予測不可能な北米戦に及び腰であったため、また連合国側もまだまだ兵力敵に十分でなかったため、偵察以上の行動が双方でなされる事はなく、しばらく大兵力同士の睨み合いが継続される事になります。
つまり、当面の戦闘正面はカリブ海の西インド諸島でした。特にアメリカ領のプエルトリコ、米本土のフロリダ半島の間に深いクサビを打ち込むように連合国の手で占領されたキューバ島が争点となりました。 この頃連合国軍は、キューバ東部の要衝グアンタナモ、隣接するジャマイカ島を中心に増強1個軍団(4個師団規模)の陸兵と、1個航空艦隊の基地航空隊(予備を含めて定数700機程度)、そして巡洋艦を中心とした艦隊が駐留していました。 なお、パナマには日本の第三機動艦隊と英国のZフォース、カリブ海東部のアンティル諸島にはフランス大西洋艦隊改めカリブ艦隊が、バミューダ島には英国の艦隊が待機していました。カナダ東岸、アイスランド、アゾレス、ダカールなどにひしめく連合国軍については言うまでもないでしょう。 これに対するアメリカ軍は、フロリダ半島部にこそ50万人もの大軍がひしめいていましたが、カリブ海、特に遠くパナマに手を出せるのは重爆撃隊を中心とした航空戦力のみ。遠距離の制海権、制空権について大きな不安があった事から、44念春からの戦闘で何度も連合国に叩かれているプエルトリコ島には、補給線を半ば途絶され小アンティル諸島などから叩かれつつも、2個師団の海兵隊と100機程度の機体が気息奄々の状態で辛うじて篭っていました。 また洋上戦力は、先だっての海戦で主力が壊滅的打撃を受けており、打撃力こそ大きいものの機動力の点で問題があが故に先だっての戦闘に加入しなかった旧式戦艦からなる打撃艦隊がメキシコ湾の奥にあるだけで、とてもアクティブに活動できる状態ではなく、かろうじて空軍力でメキシコ湾、カリブ海西部とキューバ島西部の制空権と制海権を確保しつつ、キューバ島の東部を占領できる兵力を陸路と細々とした海路で派遣するのがやっとの状態でした。 もっとも、在キューバ陸上戦力は連合国とほぼ拮抗しており、また基地航空隊の戦術爆撃機は連合国側にとって強い脅威で、一応周辺海域の制空権と制海権を獲得している連合国としても、おいそれと米軍の占領地域に手を伸ばせる状態にはありませんでした。 単純に見れば、膠着状態という事です。
しかし1944年12月、ついに動きが見られました。 この動きを引き起こしたのは、連合国側のちょっとした増援の到来が発端となります。 遠くカリブに到来したのは、日本本土からやって来たそれなりの数の航空戦力でした。増援は同様にパナマにも押し寄せていましたが、米軍には事のほかキューバに増援された兵力が脅威と映ったのです。 これは、アメリカにとってのキューバ島の感覚的な地理的位置が、日本にとっての奄美大島や朝鮮半島ぐらいと言えば、アメリカ政府の心理的なショックも多少は分かっていただけると思います。 この時日本軍は、キューバとパナマの双方に日本海軍の言うところの大型陸上攻撃機、つまり欧米の一般では重爆撃機(戦略爆撃機)に分類される航空戦隊を複数投入しました。キューバ・グアンタナモに派遣されたのは当面戦闘を行う部隊、パナマに派遣されたのは防衛用としてよりもグアンタナモとの交替用の部隊でした。このため同じ機体を装備していたのです。 配備されたのは「連山改」。日本海軍の手によって生み出された、高高度精密爆撃から雷撃までこなすと言う変り種の万能高速重爆撃機の新顔でした。日本海軍は、米軍の「B-29」に匹敵するこの機体を制海権獲得のために付近の通商破壊、索敵など洋上での広範な任務のため、あくまで日本海軍のドクトリンで言うところの「陸上攻撃機」として多数持ち込んだのですが、米政府はそうはとりませんでした。 米政府は、これを米本土を爆撃するための南方への先遣部隊と受け取ったのです。 そして、米本土への直接攻撃を恐れる米政府は、これの撃滅を全軍に優先事項として通達しました。 半年もの間ジャングルをはいずり回りながらはるかグアンタナモを地道に目指していた連邦陸軍は、連合国の防衛線を無視するかのごとくその歩みを強引に強め、海軍はカリブ艦隊に可能なかぎりの増援を付けて護送船団を送り出しキューバ奪回の動きを加速させ、主にキューバに展開する陸・海・海兵各軍の基地航空隊は、キューバ東部全域の爆撃を強化しました。
当然これは、連合国の激しい反撃を呼びます。 連合国は、相手の突然の行動の理由が分からぬまま急遽多数の増援の航空隊をグアンタナモ周辺の島々に送り込み、それを維持するための輸送船団をパナマと大西洋の双方から派遣し、大西洋で一度半壊した艦隊の再編成を急ぎました。西から迫りつつあった米陸兵に対抗するために、地上部隊のさらなる派遣を行ったのは言うまでもありません。 大西洋での勝利を受けて、次のステップに向けてそれなりに準備を整えていたため、連合国の増援は米軍の泥縄式の攻撃が本格化するまでになんとか間に合いました。 そして、キューバ島を中心としたカリブの空は、双方の航空機が乱舞する航空撃滅戦の様相を呈していきます。 連合国側としては、この時期に米軍が自らが今更過剰な反撃を行うことは意外でしかありませんでしたが、せっかく手に入れた橋頭堡の一つを失う気はさらさらなく、それだけに米軍並かそれ以上にこの地域に深く足を突っ込む事になります。 それは、カナダへの兵力移動を停滞させてまで行われました。 このため、概ねキューバ西部は連合国の勢力圏に止まる事となり、米領土であるプエルトリコ周辺の制空権すらも獲得する事にも成功していました。 ではここで少し、この当時の双方の航空機材について見ましょう。 まずは攻撃側と言える米軍ですが、陸軍航空隊の主力航空機は「リパブリックP-47(サンダーボルト)」でした。 この機体は、連合国側がついに戦闘機には装備できなかった排気ターボ過給器を装備しているがゆえに高高度でも十分活動可能で、また大馬力エンジンが生み出すペイロードの大きさ、丈夫な機体構造などあいまって、だれ見紛うと事なき重戦闘機ながらあらゆる任務に投入され、まさに米陸軍航空隊の主力戦闘機として、さまざまな連合国機と渡り合う事になります。 ただ同機は、戦闘機同士の格闘戦はやや苦手だったため、この辺りはそれがある程度マシな海軍機などにゆだねられていました。 そしてその海軍機の主力は「グラマンF6F(ヘルキャット)」と海兵隊も広く使用した「チャンス・ヴォートF4-U(コルセア)」。どちらも艦上機として設計されたため空母艦載機としても使用されましたが、海上での戦いも多かった事から海軍機が重宝され、さらにこのカリブでの戦いでも速度に優れる連合国機が相手だった事もあり、もっぱらコルセアの方が用いられいました。他に紆余曲折の末夜間戦闘機となった「ノースロップP-61(ブラック・ウィドー)」があり、単発機のレーダー搭載型と共に米軍の夜を守っていました。特にこれは、後の連合国による米本土爆撃で大きく活躍する事になります。 また、変わり種だったのが、「ノースアメリカンP-51(ムスタング)」の存在です。同機は、日本軍の「飛燕I」を捕獲して同機を深く研究した末に、アメリカの優れた工業技術を以て新たに誕生した液冷の軽戦闘機でしたが、航空機にとっての心臓であるエンジンに恵まれず、日本液冷戦闘機最高と言われる優れた機体設計を引き継いでいたにも関わらず主力戦闘機の座を射止めるには至らず、低空で用いられる目立たない戦闘爆撃機の一機種としての生涯を終えています。 ただし、大戦後半に同様に捕獲されたスピットファイアMK-XIIのグリフォンエンジンをコピーしたパッカードエンジンを搭載した一部試作機が作られ非常な高性能を発揮し、一部精鋭部隊がこれを装備したと言われていますが、実際パッカードエンジンは工場が爆撃されたため本格的に量産される事はなく、戦中、戦後の混乱したアメリカでの正確な情報が得られない為、捕獲エンジンを用いた試験機だと多くの戦史家は結論づけています。 また、この逸話は、日本軍の主力戦闘機として大いに活躍した「飛燕II」と比べるとあまりに不憫な生涯を終えた、異形の兄弟機に対する手向けの話しとも言われています。 そしてそれを証明するかのように、同じアリソンエンジンを搭載した液冷機の「ベルP-63(キングコブラ)」がエンジンの強化でそれなりに使えた事から主力戦闘爆撃機として使用されていました。 さらに、ドイツなどでのジェット機開発に触発されるように開発が進められていた新世代の戦闘機の開発、量産も始められようとしており、「ロッキードP-80(シューティングスター)」が1945年には量産体制に入ると見られていました。 そして攻撃機の方は戦闘機よりも豊富な機種をもっており、「ダグラスA-26(インベーダー)」、「ノースアメリカンB-25(ミッチェル)」、「マーチンB-26(マローダー)」の地上襲撃機型が主力を占めていました。また、重爆撃機は事実上の国内戦と言う現状では必要性がかなり薄れていましたが、早々にカリフォルニアとテキサス方面に疎開した工場で「ボーイングB-29(スーパーフォートレス)」1本で生産が続けられていました。
一方のこの頃の連合国の主力生産機は、戦闘機は英国のグリフォンエンジンを搭載した「スピットファイアMk-XII」、「ホーカー・テンペスト」、ドイツの「Fw190D(フォッケウルフD)」、「Me109K」、日本軍の「中島・疾風改」、「川崎・飛燕II」が主力を占めており、これに日本海軍の「三菱・烈風改」が加わります。 どれも新型の強馬力エンジンを搭載した、最高650km/h以上の速力発揮が可能なレシプロ戦闘機の終末期を飾る重戦闘機ばかりで、中には750km/hもの速度発揮が可能な駿馬もいました。 なお、フランスやイタリアはこの頃新型機開発で、エンジン開発の面で日英独に追いつけなくなっていた事から、これらの国から輸入した機体を使用していました(イタリアは、「マッキ」シリーズにドイツのBD603エンジンのライセンス生産型を搭載して何とか頑張っていたが。)。 また、まだ少数でしたが、ドイツから「Me-262」の形式番号を与えられた世界初の実用ジェット戦闘機がロールアウトし、その姿をカナダに現しつつありました。他にも、日英独のジェット戦闘機、日独の奇妙な形の迎撃戦闘機なども少数が活動に入っており、後方でその羽ばたく時を待っていました。 ただし、欧州の機体は一部の例外を除いてどれも航続距離が短く、このキューバでの殲滅戦では初戦が迎撃が主体だったので、それほど問題ありませんでしたが、北米へ深く乗り込む時どうするかが大きな問題とされていました。 (基本的には、ドイツ空軍の手法が取られると見られていたが。) また、攻撃機の主力はどちらもエンジンを換装しパワーアップされた、英国の万能攻撃機「デハビランド DH98モスキート」、日本の多目的攻撃機「三菱・銀河改」が北米・カリブでは過半を占めており、これにドイツ軍がジェット爆撃機の新型「アラド Ar234爆撃機」を大量投入しようとしていました。 一方、今後重要性を再び増すことが疑いのない重爆撃機は、英国の「アブロ ランカスター」、日本の「中島G8N1(連山)」、「中島G8N3(連山改)」が大量生産され、そして日英共同開発の「G10N2(富嶽)」(英名:センチュリー)がロールアウトしつつありました。なお、ドイツは依然として重爆撃機の開発にあまり熱心ではなく、重爆撃機の開発能力のない仏伊同様日英から供与を受けていました。 もっとも、これらの重爆を北米の攻撃圏内に送り込んだらアメリカ側の反応が予測できないことから、進出の準備だけを進めつついまだ双方の本土や中継拠点でたむろしている状況でした。
キューバ島西部からジャマイカ島、小アンティル諸島を中心としたカリブ海での航空撃滅戦は、本土の近在というアメリカ軍に大きなアドバンテージがあるという筈なのに、連合国の優勢が日に日に増していきます。 これは、太平洋、大西洋、カナダと合衆国のあらゆる方面から連合国側が軍事的圧力を強めている事から、それらの方面に多くの兵力を貼付けざるをえないため、大兵力をカリブに派遣できない事により必然的に兵力の逐次投入となったのが大きな原因でした。 また、米軍が主に連合国の拠点目指して攻撃を行ったことから、戦場となるのが主に連合国が制空権、制海権を確保している場所となるため、機体が撃墜されてパイロットが脱出できても救出する事ができず、しかも最初から大兵力を送り込み、その後も各国でローテーションを組みつつ戦闘を継続している連合国側に対して合衆国側の消耗が激しい事、そして防御側の優位という戦術原則が原因でした。(もっとも連合国側が初戦で防御に徹して攻撃をあまり行わなかったのは、主に英独の戦闘機の航続距離が短い事と、北米へ攻撃するには兵力が不足していると認識していたに過ぎませんでしたが。) この損害は、200万人態勢(第一線機12000機、訓練機25000機)という一国で考えればあまりにも巨大な空軍態勢を以てしても人員の損失を埋めるには至りません。(反対に機材はいくらでもあったが。) これは、42年夏からの半年間の北太平洋で戦前に時間をかけて育成された良質な搭乗員を大きく消耗していた事、以前から継続されていたパナマへの無理な攻撃で重爆撃隊に大損害が生じていた事(一時的に数千名もの搭乗員を失って、その後も損害を増やし続けていた。)、それまでのカリブ海の攻防で少なからず損害を受けていた事、44年に入ってから二度も海軍が太平洋・大西洋の決戦で敗北し合計で2000名近い搭乗員(パイロットだけでも1000名以上)を一度に失っていた事が重なっていたからです。 これらを合計すると、約9ヵ月間で3000名もの熟練パイロットとその数倍の各種搭乗員を失っており(全体の四分の一)、いかな米軍のシステマチックなパイロット養成システムを以てしても損害の補充どころか、維持すら追いつきませんでした。 そこにきて、44年12月からの激烈な航空消耗戦です。 一日当りの損害は数人から数十人でも、これが連続して3ヵ月も続くと目を覆わんばかりの数字になりました。しかも、消耗が激しい事から熟練パイロットを下げることができないので、連戦の中優秀なものも撃墜されいなくなり、その穴埋めに新たに補充されるパイロットは、連合国パイロットに撃墜スコアを稼がせるだけで、15機撃墜でなければ鉄十字勲章授与者(エース)となれないドイツ空軍においてすら多数のエースを生み出させる事になります。 そしてこの頃には、カリブ海だけでなくそれに連なるフロリダ半島も、米軍の視点でも本土とは切り離されるようになっており、連合国も優勢がハッキリしてからは敵基地に的をしぼった攻撃を日常的に行うようになっていました。 当初の目的を忘れ、どちらもそれまでの常識を越えた大規模な戦闘で感覚が麻痺していたのです。 ちなみに、熟練パイロットと新米パイロットのキル・レシオは一説には20対1とすら言われ、カリブの空は1945年を迎えようとしていた頃、これを如実に示すようになっていました。 1945年2月には、米パイロットは連合国パイロットに落される為に出撃しているような状態になっていたのです。 そして、本土爆撃を恐れる米政府中央は、連続した敵拠点への攻撃こそがそれを物理的阻止できると考え、前線部隊は愚直にこれに従った結果が数ヵ月で数千名のパイロット喪失という結果だったのです。 そうして3ヵ月が経過して、さすがに損害に堪えかねて脅威度の低い他方面の兵力と航空軍ごと交替させましたが、今度はその交替のスキに連合国にキューバの占領地域を大きくさせる事になり、またキューバ各地の米軍拠点に反撃を受け本来なら不必要な損害を受けます。 しかも、投入された新規兵力も一部の熟練パイロット以外は、これまでの消耗の影響を受けて練度が全般的に下がっており、カリブで待ちかまえる熟練パイロットの集団とすら言える連合国空軍戦力の前には、新たな生贄に過ぎませんでした。
機体や機材はともかく、アメリカ軍の航空戦力はパイロットの面で自ら殲滅しつつあったのです。 機材はさておき、ここでのキルレシオを戦闘機同士で見てみると、44年6月ぐらいのキューバ島を中心とした小競り合いでは、当初それこそ1対1程度だったのが(それでも連合国側がわずかに優位だった)、パイロットの消耗率の差から8月には1対1.5に開き、10月には1対2にまで悪化していました。 これは、その当時4個投入されていた航空軍(米陸軍航空隊の20%に当る数・第一線機約2500機が定数)がまるごと2つ入れ替えた事で多少改善しましたが、泥沼の殴り合いで一度降下線に入った数字を覆す事はかなわず、せっかく入れ替えた航空軍もまたたくまに消耗し1ヵ月でさらなる交替を余儀なくされ、そこにきて10月末に海軍機動部隊が全滅し、補充要員を大統領命令で陸軍からすら回された事で回復率が落ち、12月からの大規模な消耗戦になだれ込みます。 そして1945年2月初頭、撃滅戦から二ヵ月が経過した時点で、キルレシオはついに1対3以上に開いていました。しかもこれがパイロットそのものの損耗比率となると制空権・制海権などの問題から二倍以上の開きを見せているのですから、米航空戦力がそれこそ「あっ」という間に弱体化しても不思議はないでしょう。 その後部隊のさらなる総入れ替えにより、パイロットの質の面が向上したため一時的に持ち直しましたが、それもそれまでとは比較にならない撃滅戦の前に長くは続かず、3月には米航空戦力は国外の空で活動しようと思ったら、散発的な嫌がらせレベルの攻撃以外が事実上不可能になっていました。 特に全島が航空要塞化されていたジャマイカ島の基地群を沈黙させるため、多数投入された攻撃機・爆撃機の損害は大きく、45年2月にはカリブを指向する米航空隊の大半が、一般的な尺度からなら活動不能に追い込まれていました。要するに軍事的用語で言うところの「全滅」するほど消耗していたのです。 そして、キューバ全土とプエルトリコ島、ジャマイカ島は、米軍、連合国軍が落す爆弾により軍事施設以外は文字通り全島廃虚と化し、一般人にも甚大な被害が発生していました。 空での壮絶な戦いが行われている頃、海でも同様に何度か激しい戦いが行われます。 44年5月ぐらいから日常的に行われていたのは、双方の戦術攻撃機が相手の輸送船団を襲うという形式の海戦でしたが、これは主に敵制空権下に船団と護衛艦艇を送り込んでいた米軍に甚大な損害を発生させていました。そして半年後には、駆逐艦のなど護衛艦艇の不足と言う事態すらもたらします。 また、北千島での戦いがそうだったように、戦局を戦術的に打開を図るため、双方の洋上機動戦力を投入しての戦いも、撃滅戦のさなか行われました。 さらに北千島での戦いと同様に、連合国の空軍拠点をアメリカ軍が攻撃するという図式で戦闘の想定が行われ、付近界面での小規模だが熾烈な海戦が何度か発生する事になります。 時にはようやく少し回復した、母艦航空戦力を用いた戦闘すら行われました。 この頃(1945年初頭)、カリブ近在にあった双方の海上戦力は、アメリカ軍が以前から配備されている低速の打撃兵力である主に防衛を任務とするカリブ艦隊に、44年末の大海戦による損害と新造艦からスクラップ&ビルドされた、1個水上打撃艦隊と1個機動部隊の合計3個艦隊。 連合国側が、最初に太平洋からパナマを越えた「英Zフォース」と「日第三機動艦隊」、そしていくらかカリブ海など北米大陸に多少は馴染みのあるフランス海軍と、同じく44年末の大海戦から回復しつつあった、日英の打撃艦隊が1個ずつと日本の第二機動艦隊の合計6個艦隊がありました。 戦力的には、連合国側が2倍(内容はそれ以上)と圧倒的に優勢でしたが、連合国側がシフトをしつつジャマイカ島やキューバ島西部のグアンタナモ近海にそれぞれ打撃艦隊を常に待機させておかねばならないのに対して、攻撃する側の米軍が「コレ」と言う時に兵力を近在から集中投入できるため、決して楽観できる状態ではありませんでした。 そして、日本艦隊とフランス艦隊が防衛のシフト任務に付いていた時、米海軍の大規模な襲撃を受ける事になります。
以下がこの時の双方の布陣になります。
●米軍 ・第48任務部隊(艦載機:常用約210機) CV:「ハンコック」、「アンティー・タイム」 CVL:インディペンデンス級1隻 CL:3隻 CLA:1隻 DD:14隻
・第46任務部隊 BB:「ヴァーモント」 BB:「オハイオ」、「メイン」、「ウィスコンシン」 CG:2隻 CL:3隻 DD:16隻
第61任務部隊 BB:「インディアナ」、「モンタナ」、「カリフォルニア」 CG:2隻 CL:2隻 DD:12隻
●連合国軍 フランス・カリブ艦隊(艦載機:常用約120機) BB:「リシリュー」、「ジャン・パール」 BB:「ダンケルク」、「ストラスブール」 CV:「ベアルン」 CVL:「ジョッフル」、「ペインヴェ」(英国製軽空母) CG:2隻 CL:3隻 DD:12隻
日本第三艦隊 BB:「武蔵」、「信濃」 BB:「穂高」 AC:「剣」、「黒姫」 CG:2隻 CL:1隻 DD:8隻
日本第二機動艦隊(艦載機:常用約310機) CV:「瑞鶴」、「千鶴」、「白鳳」 CVL:「千早」、「千景」 BB:「葛城」、「赤城」 CG:2隻 CLA:2隻 DDG:4隻 DD:10隻
また、それ以外に米軍の出撃情報を受けて、連合国側で急遽戦闘海域に向っている艦隊もありました。
英大西洋艦隊(Aフォース) BB:「St. アンドリュー」「St. グレゴリー」、「St. パトリック」 BB:「キング・ジョージ5世」 CG:2隻 CL:2隻 DD:8隻
見ていただければ分かりますが、カリブ海が決戦海域という事で、双方とも無理をして兵力を割いているのが分かると思います。また、本来なら双方とももっと多くの艦艇を保持していましたが、その多くが修理中でこの戦場に来ている艦艇のいくつかには修理が未完成なものすらありました。 なお、米海軍の場合、それまでの艦艇の損害よりも人員面での損害はすでに破断界に達しており、乗員の数はともかく練度の低下はかなりひどい数字に達しています。 そういう意味では、今まで補助的な作戦ばかりに従事して無傷で過ごしてきたフランス艦隊を投入できた連合国側が有利と言えるかもしれません。(ちなみに、フランス艦隊と同様にカリブに派遣されていたイタリア艦隊は、初期のカリブ海の戦いで米陸軍航空隊に一度激しく叩かれ、修理のためにこの時期は本国に帰っています。) また、個々の兵器で見てみると、米軍はようやく就役させた8万トン級の「ヴァーモント級」戦艦のネームシップの「ヴァーモント」を投入していました。 彼女は、8万トンの巨体に新開発の50口径18インチ砲を3連装で3基装備したオーソドックスな重戦艦でしたが、その巨体と巨砲ゆえ日本の「大和級」に唯一まともに対抗できる戦艦と目されていました。と言うよりもそのために建造された戦艦だと言えるでしょう。 しかしその日本も、「大和級」の3番艦にあたる「信濃」の投入に成功しており、総合的な打撃戦力の優位を維持していました。さらに、超大型空母の「大鳳級」の4番艦の「白鳳」も実戦投入してこの海域に優先して派遣していました。もちろん、この点どちらも潜水艦や危険を冒しての戦略偵察機の索敵では掴みきれてなく、このどちらも互いに戦場でまみえるまで気がつくことはありませんでした。
1945年4月5日深夜、チャールストン鎮守府とマイアミ軍港を出撃した米艦隊が、すぐさま張り付いていたドイツ海軍の潜水艦に発見された事により、饗宴の幕は開けます。 空襲を避けるためにジャマイカ島に停泊していた日仏の打撃艦隊が活動を開始し、パナマ近海で遊弋していた日本の空母機動部隊も進路をキューバ島方面に向け、米海軍との対決姿勢を強めました。 また、バミューダ島に進出していた英艦隊も敵の大規模出撃に対応して急遽出撃を決め、米艦隊を追いかけるようにカリブ海に進路を向けていました。 この時、連合国側の戦術論は二つに分かれていました。大西洋側からグアンタナモに達する為に必ず通る必要性のある、ウィンドゲート海峡で待ち伏せすべきだとする消極論と、大西洋上で迎撃してしまうべきだとする積極論の二つにです。 どちらの意見もそれなりに理にかなっていましたが、米軍の意図が夜間艦砲射撃にあり海峡突破も夜間、つまり混乱しやすい夜戦となる事を嫌った事から、連合国艦隊は空母を主軸として大西洋側での迎撃を決意するに至ります。 また、万が一捕捉に失敗した場合の保険として、フランス艦隊はグアンタナモで待機し、形式的には待ち伏せ部隊として伏せられる事になりました。 また、航空戦力で二倍の優勢にある事、米基地航空戦力の攻撃を嫌った事が、この選択を補強させるに事にもなりました。 一方、攻撃側の米艦隊でしたが、戦術的選択肢が元から少なかった事から、最初から防御を固め連合国艦隊を強引に突破して、グアンタナモ基地群に突撃する事になっていました。 しかし、艦隊全体の速力差に問題がある事から、低速艦隊は最初から分離行動しており、これを連合国側は掴んでいませんでした。 主力同士は正面からの殴り合いを行おうとしており、別動隊は互いに互いの存在を認識していなかったのです。 そしてこれは、双方が兵力分散をあえて行ない、互いに敵兵力の分力の行方を掴んでいないという、戦闘をする前から混乱が目に見えているような状態になっていました。
戦闘は、当然と言うべきか日米による正統的な激突からスタートします。 先制を放ったのは、大西洋各地の島嶼から電探搭載の長距離偵察機を多数放っていた日本艦隊で、日本側は米軍が戦艦を中核とした打撃艦隊と空母機動部隊から構成されている事を突き止めると、すぐさま艦載機の群を放ちます。しかも、自分たちはまだ見つかっていませんでした。 日本海軍空母部隊が夢にまで見た洋上での一方的な先制攻撃を、この戦闘においてついに実現したのです。 攻撃隊は、大西洋の大決戦でも多大な戦果を挙げた「鶴級」母艦を根城とする航空隊を中核とした2波合計250機からなっていました。ごく常識的な結果からすると、命中率1割、練度の高い部隊なのでその五割り増しから幸運に恵まれた場合は2割程度と見られいました。つまり、米艦隊が受ける命中弾の数は最低でも12発、最大25発にもなります。 半数が魚雷と言う事になるので、敵大型空母1〜2隻の撃沈の戦果は先制して攻撃隊を放った事から約束されたようなものと日本艦隊司令部は考えていました。 しかも、日本機は連合国各国から導入された技術と自国開発の技術により生み出された各種新兵器を装備するようにもなっており、この時も大西洋海戦でドイツ軍が使用した赤外線誘導爆弾を装備した機体と、自国開発の無線誘導ロケット兵器「五式誘導噴進弾(桜花)」を装備する部隊が各1個中隊程度存在していました。 このような事もあり、日本側とすれば勝ったも同然という雰囲気が強かったといいます。 この気分を象徴するものとして、艦隊司令部の参謀が攻撃隊が敵艦隊に向う様を見て「勝った」とつぶやいた事が後世にも伝わっています。
そして日本艦隊の司令部が予想した結果は、敵艦の撃沈破数に関してまずまず予想範囲内の展開になります。 様々な要因から防戦に全てを投入できなかった米軍の防空体制を「烈風」、「烈風改」が切り開き、そこを「流星改」、「彗星改」が持ち前の俊足で強引に突破、さまざまな種類の弾を米艦に叩きつけた結果、大型空母2隻、軽空母1隻撃沈、巡洋艦1隻撃沈、1隻大破、駆逐艦2隻撃沈という大戦果をもたらしました。 つまり、米艦隊の空母部隊は壊滅、と言うより一般市民レベルでの感覚で言えば全滅していたのです。 大戦果、快勝と言ってよいでしょう。戦史家の中には、この戦闘を空母戦でのパーフェクトゲームとすら呼ぶ者もいます。 当然これは、日本側にとっても予想以上の戦果であり、誘導兵器の効果もさることながら、それまで連合国側を苦しめていた米軍十八番のダメージコントロールが、兵員の練度の面から崩壊しつつある何よりの証拠でした。もっともこれについては、大西洋での決戦でも見られた傾向でしたので、日本側にとってはまだ予測範囲内だったとも言われています。 米海軍は、見た目以上にすでに消耗しつくしていたのを統計数字などから「知って」いたのです。 ただ、もう一つ日本側の予測をはるかに裏切ったものがありました。 それは自軍の損害です。 攻撃隊の損失5割、損害7割の数字がそれでした。 どちらも、それまでの5割り増し以上に達しており、しかも第一波だけで80機もの「烈風」「烈風改」を、敵防空隊の「コルセア」、「ヘルキャット」、そして少数投入された「ベア・キャット」を十分突破できる数の制空隊を送り込んだ結果がこれだったのです。 つまり、発生した損害の大半はインターセプターを突破した後に発生した事になります。その証拠に10km以上の遠距離から「桜花」誘導弾を放った「流星改」部隊の損害はほぼ皆無でした。 そう、ついにアメリカ軍も「VTフィーズ(近接信管)」を投入した何よりの証拠でした。しかも、攻撃したパイロットからの報告から、米軍は高角砲にこの脅威の信管を装備している事が分かると、日本艦隊の動揺はさらに大きなものとなりました。 自分たちですら、高角砲への使用はいまだ試作段階なのに、米軍がこれを自分たちよりも遅く開発を始めたのに、早く装備しているのです。 そして今回の結果は、これがもし半年早ければ、大西洋での大決戦の結果もどうなっていたか分からなかっただろうと想像させるには、十分すぎる経験でした。 もっとも、この懸念はある程度杞憂に終ります。 それは、連合国側でも同様のものが実用段階入っており、後方で再編成中の艦隊での実戦配備が始まっていたからです。そして、アメリカ海軍の活動状況がこれ以後極めて低調なものとなり、空母機動部隊を用いての洋上戦が希有なものになったからに他なりませんでした。今回の行動は、連合軍の手に乗り運用面で消耗していた米海軍にとっての最後とも言える積極的作戦だったのです。 そして、ロウソクの最後の瞬きのようなアメリカ海軍最後の重厚な打撃艦隊は、陸上目標に対してよりも、目前に迫っていた日本艦隊とその刃を交えようとするかのように進撃を継続していました。 1945年4月7日夕刻、日米の艦隊は互いの姿を電探(レーダー)によらず、目視で捉えることになります。 南北からの激突で、しかも日本艦隊が東に転進して東郷ターンを決めようとした事から、どちらも夕日を背にした形で砲撃戦を開始しました。 距離4万メートルからの遠距離砲撃戦の開始です。 もちろんこれは、史上最大の距離での砲撃戦の開始であり、その証拠に互いの16インチ砲以下の砲を装備した戦艦は、35000メートルに接近するまで沈黙したままでした。 日本側が「武蔵」、「信濃」、「穂高」、「剣」、「黒姫」の順で見事な隊列を作り、米側も「ヴァーモント」、「オハイオ」、「メイン」、「ウィスコンシン」の順で対抗していました。 米軍にとっては、先の大海戦で「大和」、「武蔵」だけで2隻の「ルイジアナ級」戦艦を事実上撃沈されていた事から、新造戦艦「ヴァーモント」を連れてのこの戦いはその復讐戦であり、意地に賭けても譲れない戦いでした。 そのためか、それとも巨砲戦艦の数で勝っていたためか、戦闘は米軍の比較的優位で進展します。 距離28000メートルあたりでほぼ固定された双方の殴り合いは、開始約30分の時点で「オハイオ」が日本海軍自慢の20インチ砲の前に大破戦線離脱を余儀なくされていましたが、互いに撃沈艦は出していませんでしたし、アメリカ側の新造戦艦の威力は確かに大きく、20インチ砲搭載戦艦である「武蔵」と互角の戦いを演じていました。しかも、砲撃開始37分に「信濃」の煙突基部に命中した「メイン」の18インチ砲弾が、ようやく彼女のバイタルパート内に躍り込み機関部の半分を破壊、。「信濃」は黒煙を吐きながら、よろばうようにと言う表現が似合うぐらいの船足で戦列を離脱しようとしました。 この時米軍は「勝ったと感じた」と言われています。 しかし、千鳥足で「信濃」が戦列を離れた数分後、「信濃」の空いた場所に入った「穂高」に16インチ砲弾1発が炸裂したその瞬間、まさにさらなる勝利を米艦隊側が確信した瞬間、全く別の方向から米艦隊の隊列に降り注いだ数十本の巨大な水柱が、その気分を吹き飛ばしてしまいます。 砲撃開始から43分。バミューダ海域から急行していた英大西洋艦隊(Aフォース)が戦闘加入した瞬間でした。 日本艦隊は、単にアメリカ艦隊を西インド諸島から引き離すだけでなく、このために進路を東にとったのです。 そして、全般的な捜索能力の衰えていた米軍が、英艦隊の出撃を察知しきれていなかった事もこの状況を演出させていました。さらに米艦のレーダーは、この時砲撃戦で損傷するか感度を低下させていた事から(互いの補助艦も激しい戦闘を行っていた。)、戦術的にも英艦隊の接近を捕捉しておらず、英国の誇る「守護聖人」の名を与えられた彼女たちが距離38000メートルで放った無数の竜殺しの槍の不意打ちを受ける事になったのです。 確かに、如何に英海軍の電探射撃と言えど、大遠距離からの初弾が命中する筈はありませんでしたが、この劇的な戦場の変化と逆転した戦力差により、戦場の女神は一気に連合国側に愛想を良くしました。 それを象徴するかのように、全ての米戦艦を相手どるように全身傷だらけになりながらも(と言っても、この時点でも強固すぎるバイタルパート内は無傷だったが)奮戦していた「武蔵」の20インチ砲弾が、一度に3発も「ヴァーモンド」に命中。今まで健在だった同艦を、一瞬にして大破に追い込みました。「ヴァーモンド」は、持ち前の防御力と優れたダメージコントロール技術のおかげで爆沈にこそ至りませんでしたが、2番砲塔が装甲貫通、砲塔内の砲弾誘爆により黒煙を上げるだけの穴とされ、艦橋基部に飛び込んだ砲弾によりCICを含む艦の中枢部を一気に叩き潰され、水中弾道となった最後の1発により3000トンもの浸水を発生させ主機の一つを破壊された米新鋭戦艦は、それまでの奮闘が嘘のようにただの浮かべる廃虚と化しました。 まさに、20インチ砲の豪刀なればこその破壊力であり、「武蔵」は先だっての戦いの傷を癒すため、いまだに虚しく英本土のドックで静養している「大和」に成り代わり、洋上の女帝が誰であるかを満天下に知らしめたのです。 その後、日本艦隊と英艦隊に挟み撃ちなり最有力艦と艦隊司令部を失った米艦隊は、慌てて撤退を開始しようとしましたが、依然30ノットの俊足を維持していた「ウィスコンシン」とわずかな随伴艦艇だけが離脱に成功しただけで、長い砲撃戦により夕闇から夜戦にもつれこんだ中、1隻また1隻と波間に没する事になりました。 これは、無傷の英艦隊が途中から戦闘加入した事が大きく影響しており、統制の取れた新規兵力による追撃は効果的な追撃を実現し、また「守護聖人級」の特異な艦型がこれをさらに助けていました。 このあまりにも効果的な追撃戦のため、英国の艦が前方に主砲を全てあつめて装備しているのを、このためだったのかと多くの将兵を誤解させる事にすらなったと言われています。 なお、この戦いは日英米の最強戦艦が一堂に会した最初で最後の戦闘ともなりました。
そして同日深夜、大西洋での饗宴の幕が下り混乱が治まりきらない中、キューバ島、グアンタナモ近海も混沌の渦へと飲まれようとしていました。 別動隊の米打撃艦隊が、連合国側の裏をかいて警戒線をくぐり抜ける事に成功したからです。 ですがその混乱の中にあっても、豊富な戦力を誇る連合国側には最後の番犬たち存在し、不埒な侵入者に向けて咆哮をあげようとしていました。 グアンタナモに待機していたのはもちろんフランス艦隊で、彼らは戦列艦(戦艦)4隻を主力としていましたが、中でも15インチ砲を装備した「リシュリュー級」2隻は、新世代の戦艦として就役しただけに列強の同クラスの新鋭戦艦と比べても遜色はなく、「ダニエル・プラン」の生き残りの戦艦相手なら十分対抗可能な戦闘力を持っていました。 投入戦力は、米側が「インディアナ」、「モンタナ」、「カリフォルニア」の3隻、フランス艦隊が「リシリュー」、「ジャン・パール」、「ダンケルク」、「ストラスブール」の4隻です。 艦の新旧を考えれば、戦力的には互角と言ってよいでしょう。 また、戦闘は米軍が時間を調整して突撃した事から、当然のごとく深夜の夜戦となりました。
フランス海軍にとっての第二次世界大戦初めての大規模海戦が、米軍の重戦艦相手の夜戦でしたが、比較的快調なスタートを切る事になります。 これは、当然といえば当然で、それまでの連合国側としての大西洋での活動で練度も実戦経験もそれなりに十分なものに達していましたし、何より日英供与のRDF(電探)を装備していた事が、カリブの夜の海をフランス海軍にとって十分活動可能な環境としていたのです。 もちろんアメリカ艦隊側も、この頃には信頼性の高いセンチ波レーダーを装備し、夜戦には何の不安もありませんでしたし、連合国側の電波技術の高さを知っていましたから、島影に隠れるような接近進路を取っていました。 しかし、島に接近しすぎていたが故に、思わぬ伏兵の襲撃を最初に受ける事となりました。 伏兵の存在は、イタリア海軍の魚雷艇部隊です。 地上からの監視網(主に目視によるもの)にギリギリ引っかかった米艦隊を捕捉した連合国軍のキューバ沿岸警備部隊は、緊急出撃を各地に指令。これに、多数緊急待機していた沿岸防衛用の魚雷艇、駆逐艦部隊が出撃、その中でも幸運にもイタリア艇部隊が米艦隊を捕捉する事に成功したのです。 この時の米艦隊と会敵した数は、12隻とも14隻とも言われていますが、島影からの完全な形での奇襲、しかもイタリア部隊にとっても出会い頭の攻撃となった事から、イタリアの魚雷艇部隊は3つの単縦陣に移行していた米艦隊の懐に難なく入り込み、思い思いの方向から大きなシルエットを持つ大型艦らしきターゲットに魚雷をたたき込み、仕事が終わると一目散に退散していきました。 まるで辻斬りか切り裂きジャックのような攻撃を受けた米艦隊は、イタリア部隊の攻撃がほぼ終了してから狂ったような弾幕を張り、これにより少なくとも4隻の魚雷艇が撃沈されましたが、それまでに彼らが放った魚雷は大きな戦果を挙げる事になります。 中央隊列の2番目に位置していた戦艦「モンタナ」が、魚雷を3本受け事実上の大破、同じく戦艦「カリフォルニア」が1本、そして一番島寄りを航行していた重巡洋艦「ボストン」が2本を受け、しかも悪いことに弾薬庫に1発受けものの数分で爆沈、駆逐艦1隻にも1発が命中し同じく撃沈すると言う大戦果でした。 恐らく魚雷艇単独による攻撃としては、史上最大級の戦果と言って良いでしょう。 ただ、米艦隊がどう考えてもイタリアの魚雷艇以外からの攻撃と思われる方向からの雷撃も受けている事から、この攻撃を行った中には常に隠密作戦ばかりを行ない戦後もその実態がようとして知れない日本海軍の特務潜水艇部隊(SSBF)が参加していたのではないかと言われており、実際に命中魚雷を与えたのもその大半が同部隊によるものだとする戦史家までいます。 どちらにせよ、この攻撃により陣形が大きく乱れ、この狂騒によりこれに気づいたフランス艦隊の接近を許すことになります。 この時フランス艦隊は、艦隊から空母とその護衛を切り離して、戦列艦「リシリュー」、「ジャン・パール」、「ダンケルク」、「ストラスブール」を中核として、距離22000の位置にありました。 そして「ダンケルク級」の52口径13インチ砲ですら十分な射程圏内に入っていた事から、この米艦隊の混乱を突くように一斉砲撃を開始します。 「リシリュー級」が「インディアナ」を「ダンケルク級」が「カリフォルニア」を狙いました。なお、魚雷を多数受け大きく遅れていた「モンタナ」は最初から無視されています。 数にして2対1、一見不利に見える「リシリュー級」級の15インチ砲は、後で就役した「ジャンパール」がヘビーシェルを使う事で、「ダンケルク級」の13インチ砲も、実質的には45口径14インチ砲よりも強力な52口径砲と言うことで砲力は十分にカバーされており、しかも新型戦艦特有の発射速度の速さを見せつけながら、対応の遅れた米艦隊に対して距離も近かった事から有利な戦いを展開しました。
当の殴られっぱなしの米艦隊としては、予想外のそして屈辱的な展開でした。 伏兵の小兵、しかもイタリア海軍に大きなダメージを受け(相手が誰であるかは敵の無線から戦闘の途中で判明している)、さらにワンクラス下と見下していたフランス海軍にいいようにこづき回されていたのですから、その怒りは理不尽なまでに大きなものでした。ライヴァルと目してきたイギリス海軍、日本海軍相手ならまだ多少の納得はできたでしょうが、この現実はあまりにも痛烈でした。 しかし現実には大きな損害が発生しており、しかもそれは仏艦艇の砲撃により拡大中で、当初の任務の継続すら困難と判断した艦隊司令部はそうそうに離脱を決意、そのための強引な突撃を仕掛けたました。この事は、練度の面でまだそのような突発的事態に対応しきれなかったフランス艦隊相手には有効だと判明し、またフランス海軍の大型艦が艦首方向に主砲を集中している点を利用して突破、そして戦場からの離脱を図り、砲雷撃戦の圏内からの離脱には成功します。 しかし、この時点ですでにどの艦も大型艦は大きく損傷しており、出しうる速力は最初に魚雷を片舷3発も受けロクに戦闘に参加できなかった「モンタナ」に至っては12ノット程度が限界で、当然連合国側の制空権外に離脱しきれなかったため、翌朝黎明、追撃してきたフランス艦隊の艦載機と基地航空隊の激しい空襲を受ける事になります。 もちろん、米軍もこの艦隊を守ろうとしましたが、連合国側の方が大きな兵力を投入していた事、低速戦艦たちがまだ近接信管をあまり搭載していなかった事などから、「サウスダコタ級」の2隻は相次いでカリブの波間に没し、ここに「ダニエル・プラン」の戦艦達は全て戦没する事になりました。 なお、戦艦「カリフォルニア」だけが何とか離脱に成功し、損傷を受けつつも何とか撤退できましたが、補助艦艇の損害も半数以上に達しており、ここにカリブ艦隊は壊滅、同時に発生した大西洋での結果も重ねると、ここに大規模な米海軍の洋上機動戦力は事実上消滅する事になります。 もちろん、いまだ修理中、建造中、艤装中、訓練中の艦艇は多数ありましたが、半年前の制海権の完全な獲得から北米に兵力を送り込み続けていた連合国側が、ついに米本土攻撃を開始する事でその再編もままならなくなり、以後大西洋での活動は事実上消滅する事になります。 そして、戦いは海から空にと移行しつつありました。