■米本土爆撃

 1945年4月8日黎明前、カナダに面したほとんど全てのレーダーサイト、レーダー搭載型偵察機が、カナダ国境から150km以上奥まった場所に無数に存在する(基地そのものが当時のレーダーの索敵圏外が大半)連合国空軍基地から飛び立ったと思われる文字通り無数の、計測限界をはるかに上回った数の機影を捉えました。
 それまでの欧州での慣例(?)から、「バトル・オブ・アメリカ」と呼ばれる航空決戦の幕開けです。
 こと時までに、遠大なカナダ国境全域が、2年ほど前の英仏海峡のように、否それ以上の戦力が集められていました。
 どちらも、レーダー、目視など様々な手段による監視網と管制システムを作り上げ、無数の飛行場を建設し、重要拠点には数多の高射砲、高射機関砲を配備しました。
 その規模は、いまだ戦力の蓄積時期で戦端を開いていない状態だったため、全盛期の欧州での数倍に達していました。
 それは、長期間の実戦を経験した連合国側ですら不安を抱かせる規模となります。
 誰もが、ひとたび始まれば北米の空は、欧州の俗語で言うところの「魔女の鍋」状態になるだろうと想像させるには十二分なものとなってたのです。

 その地獄の饗宴の開幕のベルを鳴らすのは、誰もがニューファンドランド島にたむろする連合軍重爆撃機部隊と思っていましたが、米本土を最初に目指したのは、カナダ全域に配備された連合国側の戦術爆撃機と戦闘機の群でした。
 第一ターゲットは、レーダーサイトと飛行場。
 北米大陸での戦闘開始の第一撃目として連合国側が戦術爆撃を意図したのは、アメリカの原動力である工業施設の破壊を目的とした戦略爆撃ではなくバトル・オブ・ブリテンと同質の航空殲滅戦だと判断させるような攻撃でした。
 既にこれまでの戦いで、練度の面で降下線に入っている米パイロットとその支援組織をまず滅ぼそうとしたのだとしても不思議はないでしょう。
 また、どの程度の混乱が発生するのかを、重爆部隊よりは柔軟性の高い兵力により測ろうとしとも言われています。
 もっとも、その後すぐに開始される戦略爆撃の効果を少しでも上げるための事前攻撃だったというのが最も正しい評価だと思われます。

 しかし、連合国側の攻撃隊は、米軍のレーダーに写る前に既に多数が放たれていました。攻撃の一番手「デ・ハビランド モスキート」が低空、しかも超低空で多数、それこそRAFが有する全ての実戦部隊を投入したような奇襲攻撃隊が、持ち前の高速で一気にアメリカ本土に侵入し、レーダーサイトと戦闘機基地を吹き飛ばしたのです。
 数にして約600機。レーダーに写りにくい木製機だったためか低空を飛行していた故か(恐らく両方だろう)、対応がほとんど間に合わなかった五大湖・東海岸を中心に行われたこの攻撃で、国境近くのレーダーサイト、空軍基地の大半が奇襲に近い襲撃を受け、かなりの損害を受けました。
 しかも、午前4時頃の事実上の黎明前の夜間爆撃だったため、迎撃もほとんど間に合わず、英国空軍の損害は対空砲火により若干発生しただけでした。
 この攻撃は、単なる物理的な損害よりも、早期警戒システムに齟齬をきたした事による損害は致命的なまでに大きく、以後のその日の米軍の迎撃を難しいものとします。
 そして、多数の戦闘機を伴った二番手が、ありとあらゆる妨害電波の飛び交う中、大挙して押し寄せました。
 数にして約6000機。もちろん同じ時間にこれだけの機体が米本土に侵入したわけではありませんが、米軍の予想を超えた連合国側の大規模攻撃は、混乱した警戒システムの対処しきれない完全な飽和攻撃となりました。
 もっとも、攻撃した側の連合国軍ですら混乱したほどの規模だったのですから、米軍が混乱したのはむしろ当然でしょう。
 攻撃隊の主力は、2800馬力の出力を誇るハ45に換装して速度と搭載量を大きく増大させた「三菱・銀河改」と最高700km/h以上の最高速度を誇るジェット爆撃機「アラド Ar234」を中心とした軽爆撃機、攻撃機で、それを多数の「中島・疾風改」、「川崎・飛燕II」が中心となって護衛していました。また、一部の精鋭部隊では、投入されたばかりの新型機が運用されていました。
 なお、護衛の戦闘機が航続距離の長い日本のものばかりでしたが、操っているのは連合国の多数の国々の男たちからなっており、それを現すかのように日本生まれの機体には、実に多彩なシンボルマークが付けられていました。

 その日、太陽が出ている間中継続された連合国による間断ない攻撃は、米陸軍航空隊の懸命な防空戦闘と各地に配備された地上の防空部隊の活躍により、初戦で致命的な損害を受ける事はありませんでしたが、米軍そして米市民に欧州でどのような戦いが行われたかを実感させるには十二分なものがありました。
 また、米空軍もカナダに対しての報復攻撃を行おうとしましたが、初戦で根こそぎ投入してきた連合国軍機に対応するだけでほぼ手いっぱいで、対応の遅れもあり反撃は翌日に持ち越される事になりました。
 そして、連合軍による攻撃は夜に入っても続きます。
 ようやく、ニューファンドランド島に集結していた連合国重爆撃機部隊が動き出したのです。
 その数は重爆撃機だけで約2000機にものぼり、各地に分散していたにも関らず、離陸と空中集合だけで3時間もかかる程の規模でした。
 重爆撃機の主力は、「アブロ ランカスター」、「中島 連山」、「中島 連山改」と、そして若干数でしたが就役を開始したばかりの「富嶽」の姿もあり、さらに護衛に多数の夜間戦闘機を伴い、パスファインダー機に先導されながらの堂々の進撃でした。なお、こちらも日英の機体には、さまざまな国のシンボルマークが描かれていました。

 米空軍戦力は、早朝からの混乱から立ち直りきっていませんでしたが、このニューファンドランドからの出撃を、付近界面に潜伏していた潜水艦を始めとする監視網から掴むと、ありったけの夜間戦闘機を夜空に送り込みました。
 この夜、連合国軍重爆部隊が攻撃目標としたのは5箇所。東海岸を北から順にボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ノーフォークそしてやや内陸部にあるピッツバーグでした。
 それぞれ400機から500機程度の巨大な梯団を形成しており、しかも近在のボストンなどへの攻撃には多数の戦術爆撃機と護衛の戦闘機も伴われており、その総数は3000機にも達していました。
 連合国の夜の目標は、造船施設と巨大製鉄所。
 この目標が第一撃目に選ばれた理由は、造船施設の方が主目標で、完全に降下線にある米海軍と海運の回復力を奪い取り、彼らを北米大陸に完全に閉じこめてしまうことが目的で、巨大な製鉄所を抱えるピッツバーグ市が狙われた理由は、彼らの工業力の象徴を破壊する事そのものに意味があると思われたからです。
 もちろん、欧州での戦訓から完全な無差別爆撃が最初から選択されました。そうでなければ、夜間爆撃は効果があがらないからです。
 攻撃目標にデトロイトやシカゴが選ばれなかったのは、位置的に戦術爆撃で破壊可能だったからで、デトロイトに至っては陸軍の長距離重砲で十二分に破壊可能だったからに他ならず、アメリカもこの地域の工場を内陸に移していたからでした。
 また、太平洋側の攻撃が第一撃で選ばれなかったのは、単に米国民に与えるインパクトが低いと判断されただけに過ぎず、またワシントン州主要部の破壊は戦術爆撃だけで十分だろうと判断されていたからでした。事実、昼間の戦闘だけで防備が東海岸や五大湖周辺に比べて低かった当地域の防衛態勢を前に、連合国の攻撃の成功率は高い数値を示していました。

 なお、ピッツバーグとボストンにはそれぞれ600機のランカスターが押しかけ、このうち約8割、各3000トン(3キロトン)もの爆弾の投弾に成功、たった一撃でそれぞれの大都市に壊滅的なダメージを与えました。もっとも、アメリカ側が自らの防空態勢に根拠の薄い自信をいだき、工場そのものにあまり防御態勢を施していないがゆえの悲劇と言えるかも知れません。
 ですがこれはまさに飽和攻撃の効果で、これほどの爆撃になるとどれほど防空に気をつけようとも、阻止するのは事実上不可能だという事を米軍に思い知らせる事になります。
 また、ニューヨークやフィラデルフィアの港を狙った爆撃隊は、距離の関係と世界屈指の巨大都市であるがゆえに相応の歓迎を受け、高速の「連山」、「連山改」を主力としていたにも関らず爆激効果は満足いく数字に達しませんでしたが、それでもこの双方の港湾能力と造修能力を大きく奪い取る事に成功します。なお、この二つの街への攻撃は、この時は政治的効果を計るため市街地はなるべく避けて行われました。
 そして、最後のノーフォークに向ったのはたった60機の部隊でした。しかし、彼らは深夜の空を高度7000メートルで巡航速度550km/h以上で飛行していました。
 この数字はそれまでの常識を遥に上回るものであり、従来の夜間戦闘機では全く迎撃できない事を意味していました。事実、アメリカ側のインターセプトは全く対応できませんでした。
 この攻撃隊を占めていた機体は最新鋭の「富嶽」に他ならず、この機体以外にこのような芸当をできる爆撃機は世界中を探してもほとんど存在しないでしょう。
 彼らは、仇敵の心臓を難なく射抜く為に生まれたのですから、当然と言えば当然とも言えるかもしれません。
 連合国、日英の航空機技術を結集して建造されたこの重爆撃機は、翼長65mを越える巨体に、日本最強の3900馬力の中島=ロールスロイス製・二重星形空冷エンジン「究」を6基も搭載し、最高時速は加速用のロケットを用いた場合700km/hに達し(アシストロケットなしでも650km/hあった)、最大航続距離16000キロメートル、航続距離10000キロメートルで10トンの爆弾積載能力を持ち、しかも重要部には30mmもの装甲を持った文字通りの化け物でした(距離によれば最大20トン以上の搭載が可能。)。
 しかも、ついに日英でも量産化された排気タービン過給器を装備した事で最大高度14000メートル、巡航高度11000メートルにおいてすら最高630km/hもの速度発揮が可能でした。
 この機をまともに迎撃できる機体は、アメリカにおいては「P-47」ぐらいで、それもこの時期は「P-47」の夜間戦闘機型はほとんど存在せず、しかも最終的な無差別爆撃用の高度9000メートルに達すれば大半の高射砲は意味をなさなかったのですから、この時点において「富嶽」の迎撃は事実上不可能と言えました。夜間戦闘機の「P-61」に至っては、高空で動きが鈍ったところを弾幕射撃にさらされ、反対に撃墜されるものの方が多かったと言われています。
 そして、4月9日に日付が移ろうというこの時も、米防空隊の懸命の努力にも関らず、大半の機体がやすやすとノーフォーク軍港地帯への侵空を許すことになります。
 そして、ここまで到達した約50機の「富嶽」は(戦闘機の迎撃、高射砲による被弾と新鋭機の常である故障で、ある程度が途中で引き返している。)、それぞれ20発の800kg爆弾、16トンもの鉄量、合計で800トンもの爆弾をノーフォークとニューポートの軍港地帯にばらまきました。
 開戦劈頭での日英空母機動部隊の攻撃が児戯に思えるほどの破壊力でした。
 これが、通常の爆弾であっても相当の被害を覚悟しなければならない爆撃でしたが、爆弾の中にはクラスター状にされたものや新型の焼夷弾(ナパーム弾の初期型)なども含まれており、ただでさえ油など可燃物の多い工場地帯を紅蓮の火焔に包み込みます。
 しかも、最初に投下された爆弾の中には熱感知型の誘導爆弾がいくらか含まれており、灯火管制をしつつも24時間操業態勢にあり高い熱量を発散していた工場の煙突、ボイラーを焚いていた船舶に自ら軌道を修正しつつピンポイントで激突、800kgもの重量に成層圏の高度が与えた運動量によって生み出された戦艦の主砲弾に匹敵する破滅的な破壊を振りまきました。
 この攻撃により、ノーフォークとニューポートの稼働率は一気に40%にまで減少し、以後連合国側の継続した爆撃のためにこの数字がさらに落ち込みこそすれ、回復する事は二度とありませんでした。もちろん、ここで修理・建造中だった艦艇の多くが二度と洋上に出る事はありませんでした。
 この夜、アメリカ海軍に安住の地はなくなったのです。

 しかし翌朝。今度は米軍による報復が始まります。
 後方にあらかじめ退避させていた重爆撃機、軽爆撃機に多数の護衛戦闘機を付けての教科書通りの黎明出撃でしたが、その数は連合国側のそれに遜色することのない約4000機から成っており、昨日と同じように合衆国領土を目指す連合国軍機とすれ違うようにカナダへと侵空していきました。
 そして、カナダ国境を越えるあたりから、すぐにも連合国空軍の迎撃が始まります。
 先制した側が連合国側と言うことも在り、昨日の合衆国のような醜態をさらす事はなく、しかもこれを当然と昨日の夜明け前からずっと待ちかまえていた各国の迎撃機により激しいインターセプトが行われました。
 これは、連合国側の多くが欧州大陸で同種の戦闘をさんざん経験しているが故にアドバンテージを持っていたからこそ実現できた迎撃態勢と評価できるでしょう。経験がこの差をもたらしたのです。
 そして、机上でしか都市部での大規模航空撃滅戦を知らない米軍との決定的な違いでした。

 米軍機をインターセプトした主力は、主に英独軍機の「スピットファイアMk.XII」、「Me109K」、「Fw190D(フォッケウルフD)」から成っており、これら高速戦闘機の群は、米護衛戦闘機を俊足を活かして振り切ると、狙いを爆撃機、攻撃機に搾った攻撃を行いました。
 そして、カナダの重要拠点を攻撃しようとした部隊には、さらに強力な迎撃機が待ちかまえていました。
 ドイツの「メッサーシュミット Me-262」、「フォッケウルフ Ta152」「ドルニエ Do335プファイル」、イギリスの「グロースター ミーティア」、日本の「九州・震電」がそれでした。このうち「Ta152」、「Do335」、「震電」はレシプロ機最高と言われる戦闘機、英独の他の二つはジェット戦闘機でしたが、そのどれもが迎撃を主眼とした高速戦闘機であり(「Do335」のみ本来は戦闘爆撃機だが)、米軍が持ち込んだ戦闘機では全く追従が不可能な高速性能を見せつけ、持ち前の重火力により次々と米爆撃・攻撃機を葬っていくことになります。
 もちろん、米軍も連合国側のように「P-80(シューティングスター)」や「F8F(ベア・キャット)」のような新鋭機も一部投入していましたが、連合国側が本当の意味での新鋭機をいまだ技術的錬成の途上にあると考え、攻撃よりも迎撃に投入していたのに対して米軍は焦りのせいか攻撃に投入して、このため無理をさせる事になり、この戦闘でも故障や被弾で多くが無為に失われることになりました。

 米軍は夜も押しかけました。これはまさに航空撃滅戦の特徴である、報復攻撃、意趣返しでしかありませんでしたが、そのため多数の機体がこれに投入される事になります。
 ですが、それまでの消耗で、しかも短期間で熟練搭乗員を多数失ったツケは大きく、練度の問題から夜に出撃できた数は連合国側の半数程度の1000機を少し越える程度でしかありませんでした。ただし、その半数以上は「ボーイングB-29(スーパー・フォーとレス」でしたらから、必ずしも戦力が低いとは言い切れません。
 ですが、カナダの夜空は、それまでの戦闘で欧州大陸を守護していたルフト・バッフェの天下でした。
 連合国側の夜間迎撃機は、英国の夜間戦闘機型の「モスキート」、日本の新鋭夜戦「電光」など様々な夜間防空戦に参加していましたが、各国への売り込みに成功した「ハインケル He219ウーフー」が連合国側の主力を占めていました。もちろん、当のルフト・バッフェも彼ら自身の努力により海外派遣部隊に限りという政治的な足かせをはめられつつもメッサーシュミット社の横やりをかわして大量にこの機体を装備し、米軍の重爆撃機を待ちかまえていました。
 そして、梟の巣(「ウーフー」はドイツ語で「梟」の事)に飛び込んだB-17、B-24そしてB-29は、連合国各国が実戦から生み出したすぐれた夜間迎撃システムにより誘導された梟たちの鋭い爪と嘴による襲撃を受ける事になります。
 また、多数護衛についていた「P-61」などの夜間戦闘機も、双発戦闘機としても第二次世界大戦最高と評される程優秀だった梟たちの前には単なる獲物に過ぎませんでした。なお、この夜出撃した連合国の夜間戦闘機は、双発重戦闘機だけで500機を越えています。
 そして一夜で米重爆部隊が受けた損害は、損失だけで実に15%以上(つまり撃墜150機)にものぼっており、損害を含めるとこの数字は3割以上、継続した爆撃を行うのならとても許容できる損害ではありませんでした。
 しかも、米軍によるカナダへの戦略爆撃には、大きな問題が一つあります。
 それは、カナダには米軍の重爆の群が襲いかかるような場所が、軍事的に意味のある場所が、鉄道や限られた港湾部程度しかなかったことです。
 この頃英国は、カナダの生産施設の多くを英本土かオーストラリアなどに移設してしまっており、工場はカナダに広く分散され、厳重に防衛された修理専用の工場ばかり、一般住民の多く(特に国境近辺)も後方の田舎に疎開するか、両洋から兵団を運んできた船団に乗り込んで北米以外(主に英本土か濠州)に疎開してしまっており、カナダ全体を対米戦用の一大拠点そのものに作り替えていたのです。
 このため、敵の生産力を減退させるための戦略爆撃の対象として意味のある場所は、せいぜい資源を産出する場所か連合軍の兵団を運び込む港湾や集結地点などぐらいしかなく、その場所は必然的に極めて限られており、国土の全てが攻撃対象となりうるようなほど発展している合衆国と比べると、連合国の防衛は容易で、それゆえ連合国は兵力集中による重点防御をおこなってもいました。
 これが今回の損害の差にも結びついたのです。つまり、費用対効果が低いと言うことです。そこにきての、劈頭でのこの損害です。
 そして初戦での大損害にショックを受けた事が、これ以後アメリカ軍による戦略爆撃は極めて低調なものとさせ、二度と上昇しなかった航空機生産力の関係もあり、領内の防戦能力の維持、傾向をより一層強める事になります。

 しかし、その後も北米大陸を部隊とした航空撃滅戦と米本土をターゲットとした連合国側の戦略爆撃は継続されました。
 既に北米への盤石の補給線を確立していた連合国は、攻撃の手を緩めることはなく(初手のような異常なまでの飽和攻撃は行われなかったが)、必死の防戦を行う米空軍と熾烈な戦闘を行いつつも、米本土を確実に蝕んでいきました。
 これは、連合国側の戦略爆撃がカリブ海方面からも行われるようになる事で強化され、これにようやく完全復活した空母機動部隊による沿岸空襲が拍車をかけました。

 「バトル・オブ・アメリカ」が始まってから3ヵ月が経過した45年7月の時点で、アメリカの工業生産力は一時的に最盛時の50%近くにまで減退します。
 受けた損害額については、数百億ドルとも数千億ドルとも言われ、なまじ高度に発展した社会資本を有していただけに、戦略爆撃による損害は未曾有のものになっていました。連合国の投下した爆弾は、多少狙いが逸れてもどこかに大きな損害をもたらしていたのです。
 幸いと言うべきか、米政府の疎開政策と連合国側が極端な無差別爆撃都市爆撃(特に、単なる人口密集地を狙うタイプの爆撃)をこの時点はまだ避けていた事から、人的被害は物的損害に比べれば少ない数字を示していましたが、規模の違いからその絶対数はドイツが日英に受けたそれよりも遥に大きな数字に達していました。
 アメリカには、巨大な人口を抱えた工業都市が多すぎたのです。
 そしてアメリカがこれほどの被害を受けた理由は、アメリカの本当の意味での本土、心臓部である五大湖沿岸と東海岸部が連合国側の主な拠点であるカナダと隣接していた事、つまり戦術爆撃すらもが戦略的な攻撃が可能だった事が大きく影響していますが、連合国軍側がアメリカ各地に存在する製油施設に対して重点的な攻撃を行った事も無視できず、これもアメリカ産業そのものに重大な支障をきたすようになった事が影響していました(長距離侵攻を得意とする日本海軍航空隊による南部油田地帯への無差別爆撃では、一時期付近一帯を1ヵ月もの間火の海とするほどとなった。その後の原油災害については言うまでもないでしょう。)。
 また、アメリカ側が初期の爆撃以後、それまで緩慢だった工場の疎開を促進させた事による生産の混乱も影響していました。

 なお、連合国が行う米全土に対する攻撃は、米軍の防空態勢のさらなる強化を必然的に発生させ、これにのみ拘束される人員だけで実に300万人にも達し、各軍方面に大きな負担を強いていましたが、それだけに強固な防空態勢へと進化していました。
 また、それまでの軍事力の損害は、造船が壊滅的打撃を受けた事で、海軍はカリフォルニアの各拠点や、東海岸の奥地、メキシコ湾に疎開している一部艦艇を除いてその大半はすでに稼働状態にはなく、東海岸で建造中や修理中の艦艇の多くも港で無残な姿をさらしており、とてももう一度大西洋上で連合国側に決戦を挑めるような戦力はありませんでした。ただし、いまだ良好な状態で稼働中の軍港も存在し、艦船の生産も継続されていた事から全く力を無くした訳ではありませんでした。残存戦力の多くは、連合国の本土侵攻に備えていたのです。
 俗に言うところの、「艦隊保全(フリート・イン・ビーング)」と言う状態です。そして、これを選択した海軍の末路はいずれもじり貧だと言うことを忘れるべきではないでしょう。
 一方陸軍は、いまだ地上戦が始まっていない事と、連合国側が地上部隊をターゲットとしていない事から海外で壊滅した部隊を除いて依然その大半が健在で、要塞化された国境陣地と後方の機動兵団を中心に連合国軍を待ちかまえていました。
 そして、継続して激戦を展開している空軍ですが、陸軍、海軍、海兵隊の全ての航空戦力を投入しての防空戦は、防御側であるという事である程度有利に展開していました。
 また、南部や中西部での航空機の生産は、位置的に連合国側の攻撃が少なかった事からまだ順調と言ってよく、供給にも問題はありませんでした。ただ、それまでの熟練搭乗員の損失が大きく響いており、徐々に深刻になりつつある燃料不足がそれに拍車をかけようとしていました。
 なお、この時期の航空撃滅戦のスコアは、連合国軍:米軍=2:1でほぼ固定されており、これに航空機の生産力格差(初期で10:6.5、45年6月の時点で10:4.5)を加えると、ランチェスターモデルによる戦力差は、連合国空軍が三倍以上の数字に達していました。

 要するに、全世界を敵としての2年間の戦いで、アメリカは本土戦においてすら防戦一方に追い込まれていた、軍事的に表現するなら完全に包囲された状態となったと言うことです。
 もちろん、ここまでに払われた連合国軍(主に海空軍)の犠牲も小さくはありませんでしたが、絶対数で戦力的に優位に立っていた事から犠牲は全体的に小さく、特にアメリカに比べれば十分許容範囲でした。
 そして、これをそれまでの戦い、特に欧州でのドイツと日英側のレポートを比較したデータを元にした分析で、アメリカの現状をかなり正確に割り出しており、この爆撃をもう一年、長くても二年継続すればアメリカは戦争経済の面で崩壊を始め、向こうから講和か降伏を求めてくる可能性が高いと見ていました。
 しかし、盤石となったシーレーンを通ってはるばる到着した、東西からの地上部隊がカナダとカリブの各拠点に溢れ返りつつあり、その総数は1945年7月には、500万人にも達しようとしていました。
 つまり、連合国側から地上戦を仕掛けうる事も可能な状態ともなりつつあったと言うことです。
 そして、この戦況をかんがみ、連合国首脳部の間で今後の戦争についての展望が激しく議論されました。
 主な論点は、このまま空軍力で押しきり、アメリカを講和のテーブルに付かせるか、アメリカの隅々までを連合国軍将兵の軍靴で蹂躙しつくして軍門に下すかでした。
 これを仮に「空爆派」と「蹂躙派」に分けると、まず戦術論での「空爆派」の言い分が、地上戦などせずとも勝利は向こうからやって来る、人的損害も最小限で済むと言うもので、「蹂躙派」の方は戦争の降伏をアメリカ側に委ねるような消極策、しかもいつ終るともしれない戦争をダラダラと継続するよりも、陸からの電撃的侵攻で一気に勝敗を決するべきだと言うものです。なお、「蹂躙派」の説明では地上戦を行えば合衆国は半年で事実上講和でなく降伏を余儀なくされるとされていました。
 次に戦略論、政治論的な論点の差は、「空爆派」が地上戦を行うまで戦争を継続しては、アメリカの国土を破壊しすぎる事になり、当然アメリカの国際復帰は遅くなり、しかも城下の盟を誓わせると言うことは、復興の負担まで自分たちがしなければならず、それなら講和という形で敗北を認めさせ、その上で自力で復帰させるのが安上がりだと言うものです。
 一方の「蹂躙派」の言い分は、アメリカ合衆国はその存在そのものが大きすぎ、今後の禍根を絶つためにも地上侵攻を行ないこれを一度滅ぼしてしまい、戦後全土を連合国で占領、分割統治を経て分離独立させるべきだと言うものです。

 戦術論は、戦争そのものが不確定要素も大きいので、この際置いておくとして、戦略論は一長一短がありました。
 アメリカを存続させて安上がりな戦争で終らせるか、本土侵攻を行ない今後の禍根を少なくともアメリカ合衆国においてなくしてしまうかです。
 これを実際の政治的行動で示すなら、「無条件降伏」を要求するか、「条件付き講和」を持ちかけるかと言うことになります。
 なお、この意見に関してはどの国がどうと言うことはありませんでした。強いて言うなら各国空軍と財務官僚が「空爆派」であり、それ以外が「蹂躙派」と言えます。
 どの国も地球上の一等地と呼んでよい立地条件に築かれた、アメリカ合衆国と言う人工国家をそれ程恐れていたのです。
 そして、喧々囂々の議論の末、結局国家首脳が集まり結論を出さねばどうにもならない事態となり、1945年7月初頭、ドイツの首都ベルリン近郊のポツダムに再び集った各国首脳は、アメリカ合衆国に突きつける本戦争での最後の外交要求を決める事としました。

 では、ここで選択の時です。
 選択すべき外交事項は、アメリカ合衆国に講和のテーブルに付く事を要求するか、無条件降伏を要求するかです。



 

 1. アメリカ合衆国に「条件付き降伏」と講和のテーブルに付く事を要求する

 

 2. アメリカ合衆国に「無条件降伏」を要求する