■アメリカ降伏

 1945年7月26日、ドイツ、ベルリンのポツダムから発表された宣言は、世界中に連合国が平和を望んでいる事を知らしめました。
 ポツダムから出された宣言が、アメリカ合衆国に和平のテーブルに付くことを要求したものだったからです。
 圧倒的優位にあった連合国側の軍事力を以てすれば、米本土への地上侵攻も十分可能と思われていましたから、この宣言は世界をむしろ驚かせる事になります。

 しかし、アメリカ政府、軍は少し違った解釈をしました。
 連合国側は、講和か地上侵攻かをアメリカ側の選択に任せたと考えたのです。
 良く言えば、戦争のイニシアチブを自ら明け渡したわけですが、現在の戦況を冷静に見れば、被告に懲役刑か死刑執行の判決文を二つ渡し、その選択を任せたと言う風にとったのです。
 もちろん、長きの戦いで連合国各国が疲弊しており、それ故この辺りで手打ちにしようと呼びかけてきたのだと、ある種欧州的な戦争のケリを付けようとしたのだと単純に解釈する事もできましたが、覇権国家を目指す国のどれもがそうであるように、アメリカは実にアメリカらしく、連合国側は戦争の手打ちではなく、死刑執行を自らの判断に任せたのだと解釈しました。
 このため、連合国が思った以上に、アメリカは悩む事になります。
 講和すべきか戦うべきか。
 選択は二つに一つでしたが、どちらも主に感情面で納得のいかないものだったからです。
 講和はプライドが許さず、抗戦は発生する人的損害を考えると倫理的に許されないからです。
 プライドにかけて戦うか、倫理観に従って握手をするか。
 しかし、実にアメリカ的な考えがこの二者択一に終止符を打ちました。
 もともとこの戦争は、アメリカの現在、そして未来の経済のためにアジア市場を獲得しようとして始めたものであり、現在の戦況はそれを望むべくもありませんから短期的にこれを獲得することは叶わず、ならもう短期的な戦略でなく長期的な戦略に転向すべきで、それならば、ここで講和をしてしまい、未来のためにも国家としての発言権を維持するのが最良であると言う考えです。

 アメリカの国家としての結論は出ました。
 しかし、講和のテーブルに付くには何か大きなきっかけが必要です。
 戦争で多くの犠牲を強いてきた国民としては、政府が健在で寸土を明け渡していないのに降伏するなど早々受入れられない事態です。
 国民の感情としては、戦争に何らかの成果が出るか、精神的に負けたのだとあきらめがつかねば戦争をやめられるものではありません。
 そして、連合国側が陸海の国境を封鎖をしつつ、合衆国全土に対する爆撃を継続する以外の戦争をしかけようとしてない以上、アメリカ側からリアクションを起こす必要がありました。
 しかも、目に見えやすい形で戦争の終幕を分からせる軍事的行動が必要だと判断されました。
 陸戦は御法度、空軍を用いた戦争ではインパクトに欠ける、となると作戦は海軍によるものとなります。
 しかも、軍艦を用いた作戦であるなら目立ちやすく、また一般国民にも勝敗がわかりやすく、今回だけはこの点が実に好都合でした。
 そして、東海岸南部、連合国の爆撃圏から比較的離れたチャールストン鎮守府に疎開していた、大西洋艦隊に出撃命令が下りました。
 作戦目的は、ニューファンドランド島に展開する連合国軍爆撃機基地をその砲力をもって粉砕する事です。
 作戦の骨子もいたって簡単で、米空軍が何とか制空権を維持している東海岸を、空軍戦力の援護を受けながら一気に北上し、待ちかまえているであろう連合軍艦隊撃破、ニューファンドランドに達したら弾の尽きるまで砲撃を行ない、爾後反転帰投すると言うものでした。

 この当時、連合国海軍は、米軍の嫌がらせの爆撃を嫌って、主力の全てを米本土近海に配置しておらず、特に日本の強大な空母機動部隊は、7月初旬の一連のメキシコ湾岸への攻撃を終えて、補給と整備のため一旦パナマにまで後退していました。
 それでも、強大な海軍力を維持する連合国側でしたので、キューバのグアンタナモ、カナダのハリファックスを拠点として常に数個艦隊を展開しており、そのどちらもが残存する米大西洋艦隊を十分撃退できる戦力でした。

 以下がこの時の戦闘に関りのあった戦力です。

◆アメリカ海軍
 第二艦隊(TF29)(艦載機約180機)
BB:「ヴァージニア」、「ジョージア」
BB:「ウィスコンシン」
CV:「アンティー・タイム」、「オリスカニー」
CG:2隻 CL:1隻 DD:11隻

◆連合国海軍
 英大西洋艦隊(Aフォース)
BB:「St. アンドリュー」「St. グレゴリー」、「St. パトリック」
BB:「キング・ジョージV」
BB:「大和」、「甲斐」
CG:3隻 CL:4隻 DD:16隻

 英機動部隊(Mフォース)(艦載機:常用約320機)
BC:「アンソン」、「ハウ」
CV:「アーク・ロイヤルII」
CV:「イラストリアス」、「ヴィクトリアス」
CV:「インフレキシブル」、「インコンパラブル」
CG:2隻 CL:2隻 CLA:4隻 DD:16隻

 ドイツ第一空母戦隊(艦載機:常用約100機)
BB:「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」
CV:「グラーフ・ツェペリン」、「フォン・リヒトホーフェン」
CL:3隻 DD:8隻

 双方の装備を比較すると、アメリカ側が8万トン級の「ヴァーモント級」戦艦を2隻投入しているのが目を引きます。
 もっとも、米海軍の場合はそれ以外は取り立てたものはなく、まさに敗北を迎えようとしていた海洋帝国の末路を見せられるようです。ただ、この時点でも正規空母を艦隊に編入できるのはさすがアメリカ海軍と言うべきでしょう。
 ただし、アメリカ海軍最後の希望でもあった超大型空母の「ユナイテッド・ステーツ級」は、そのネームシップである「ユナイテッド・ステーツ」が苦労して就役したその数日後にチャールストンへの回航途中に潜水艦により撃沈されており、敗北しつつある国家の一側面を見せていると言えるでしょう。
 なお、他にも艦艇はいくらか残っていましたが、作戦に際して速度の関係から参加しなかったもの、太平洋に残存していたものなどで今回は参加が見送られています。また、空母はもっと多数ありましたが、艦載機に回す機体と搭乗員がない事から2隻のみの参加となっています。
 対する連合国側は、英国の主力艦隊に日本最強、つまり世界最強の戦艦「大和級」が2隻も編入されている事がまず眼を引きます。これは、連合国側がアメリカが「ヴァーモント級」を複数完成させた事から、大西洋の南北にこれを十分撃破できる戦艦を配備しておくべきだと考えたからです。
 また、ドイツにおいても空母機動部隊が編成されているのも特筆に値するでしょう。確かに日英米に比ぶべくもありませんが、何かの始まりである事には間違いないでしょう。
 さらに、英国が最新の超大型空母「アーク・ロイヤルII」を、ドイツが改「グラーフ・ツェペリン級」の「フォン・リヒトホーフェン」がこの戦闘が初お目見えになる艦艇と言うことになります。そのどちらもが、日米の空母に強く影響され、また技術援助を受けて急ぎ建造された純然たる大型空母で、これらのクラスの就役で、欧州海軍もようやく太平洋並になったと言えるかも知れません。

 米艦隊の出撃は1945年8月6日。8月8〜9日深夜にニューファンドランド海域に侵入する予定になっていました。
 この出撃は、その当初から連合国軍の知るところとなっており、米艦隊が明確に北を指向した航路を取っていることが分かると、積極的な妨害活動が開始されると同時に、北米にあった艦隊に迎撃の準備が指令されました。
 ですが、連合国側の妨害活動の方はあまりうまくは行きませんでした。ですが、東海岸から援護の傘をかける米空軍の努力の結果ではありませんでした。
 この前後北米東海岸付近は、フロリダ半島を通過して大西洋に出てしまったハリケーンの成れの果ての激しい暴風雨の残滓に覆われており、ハリケーンの規模が大きかった事から天候の悪化が東海岸北部にまで及んでいたからでした。
 しかも8月8日に入ると、北米東海岸北部は激しい波浪にみまわれており、天候も必ずしも良いとは言えず、その上8日から9日にかけての月は既朔とほぼ新月でその光も少なく、昼間の空母艦載機の運用はもちろん、夜間の基地航空隊による迎撃もままならない状態でした。
 そして、天候を味方につけた米艦隊は順調な航海を続け、ほぼ予定通りの日程で東海岸北部へと到達しようとしていました。
 しかし、その悪天候によって基地機による迎撃に失敗した事で、よりいっそう阻止しなければという強迫観念にかられていた連合国司令部の命令に従い、英独の空母機動部隊は、8日午前8時頃に北上する米艦隊を捕捉すると、ベテランパイロットからなる攻撃隊を無理やり放ちました。
 この攻撃隊は、マジック・フィーズの威力によりいまだ強力な対空砲火を放つ米艦隊に苦戦を強いられますが、次世代の兵器である空対艦無線誘導ロケット、赤外線誘導爆弾を目標に向けて放ち、連合国側が最も脅威と認識していた空母2隻に複数の命中弾を浴びせ、これを脱落することに成功しました。
 そして、命中したのがそれら新兵器だけだったと言うのが、これからの海戦の試金石としては極めて興味深い結果でもありました。

 しかし、ここまでくれば米艦隊に空母はもはや不要でした。
 ミッション・レポートには書かれていませんでしたが、この出撃は事実上の片道出撃。ニューファンドランドに戦艦の1隻でもたどり着ければその目的は達成できる、この出撃は海軍とアメリカの敗北のための儀式のようなものだと艦隊将兵は、敗軍特有の感覚で肌で実感していたと言います。
 この出撃に大きく異を唱えなかったのは、開戦からここまで、国家に勝利をもたらさなかった事に対する、祖国への彼らなりの償いであったのかもしれません。

 そして、日付が8日から9日に入ろうとする頃、損傷した空母と最低限の駆逐艦を切り離した米艦隊は、最後の針路に乗ろうとしていました。
 そして、その前面には英国の本国艦隊が待ちかまえており、この戦争最後の大規模砲撃戦へと移行する事になります。
 双方とも全く引くそぶりはなく、珍しいまでの真っ正面からの激突でした。
 連合国側が「St. アンドリュー」「St. グレゴリー」、「St. パトリック」、「大和」、「甲斐」、「キング・ジョージV」の順で米軍の針路を横切るように隊列を作り上げ、そこに「ヴァージニア」、「ジョージア」、「ウィスコンシン」の順で並んだ米艦隊が同航戦に持ち込む針路をとりつつ突撃していきました。
 戦力差的には、連合国側の勝利は疑いなく、しかも前進していた米軍駆逐艦のレーダーは、さらに遠方から急速接近する中規模の艦隊の姿すら捉えていました。

 砲撃開始は4月9日午前零時12分、米艦隊が先に発砲しました。これまで何度も行われた夜間戦闘でしたが、彼らの戦術ドクトリン通りの距離30000メートルからの射撃開始でした。
 一方の連合国艦隊と言うよりも日英艦隊は、ここにきて戦争遂行に齟齬をきたすことは許されないため、彼らを完全に撃滅する事を使命としていたので、25000、できれば20000メートルまで引きつける事を決めており、このためしばらく砲撃は行いませんでした。
 そして日英の戦艦たちは、しばらくは一方的に撃たれる事になります。
 この事から米軍はチャンス到来とばかりに猛烈な射撃を浴びせかけましたが、夜間の荒れた海での遠距離射撃が大きな効果を挙げるはずもなく、距離25000メートルまで接近した時点で連合国側の戦艦たちも報復の刃を抜き放ちました。
 この後、激しい砲撃戦は40分近く継続しましたが、奇蹟でも起きなければ米軍が勝利する可能性などなく、ランチェスターモデルよりはいくらかマシな戦況でしたが、日英側の「St. アンドリュー」「St. グレゴリー」が全身を傷だらけにされつつ戦線離脱を余儀なくされた頃、20インチ、18インチ砲の猛射を受けた米軍の戦艦の全てがその行き脚を大きく落し猛火に包まれており、排水量の割に低い直接防御力しかない「アイオワ級」の「ウィスコンシン」に至っては、英戦艦の放つ「ドラゴン・スレイヤー」の前にたやすくひざを屈し、早くも波間に没しようとしていました。
 そして、退路を断つような針路で強引に戦場に新規参入したドイツの「シャルンホルスト級」二隻を中核とする艦隊が砲撃を開始する事で大勢は完全に決します。

 戦闘開始から1時間半程が経過した頃、戦闘は完全に下火となり、猛火に包まれつつも沈むことを拒んでいた2隻の巨大戦艦も、護衛艦隊を排除した日英の補助艦艇が放つ魚雷によりとどめをさされていきました。時間にして1945年4月9日、午前1時48分の事です。
 米艦隊は、目的地に達することはできず、また引くこともできず、依然速力を維持していたいくらかの補助艦艇が離脱に成功しただけで、作戦参加した大型艦の全てが撃沈される事にりました。

 まさに大敗。しかも戦術的、戦略的意図の極めて低い作戦での、勝利する可能性が極めて低いと言う悪条件の中での当たり前の敗北でした。
 そして、多数の魚雷を受けてなお沈没を拒んでいた「ヴァーモント級」戦艦が、朝日を浴びながら波間に没しようとする光景を目にした連合国側の将兵たちも、これがアメリカ降伏のための儀式だった事に気づきます。
 そして、この海戦のニュースは、全世界特にアメリカ国内を駆け巡りました。もちろん、アメリカ政府が意図的に流したものです。
 曰く、合衆国の最後の希望の火は消え、米本土を蝕んでいる連合国軍の戦略爆撃機の基地は依然健在である、と。
 この知らせは、アメリカ国民に大きな落胆をもたらしましたが、同時に自分たちは戦争を完全に失ったのだと、多くの国民に体感的に悟らせる事にもなります。

 そしてそれを見越したかのように、1945年8月11日、再度連合国側からアメリカ政府に対して講和のテーブルに付くようにと要求が出されました。
 これを、アメリカ政府は受入れる意向を秘密裏に示します。
 連合国側も当然受入れる姿勢を示し、8月15日午前12時をもって全軍に停戦が通達・施行される事になりました。
 この話は内示と言う形で伝えられ、数日前から示し合わされた停戦だったため、戦争の幕切れはとても静かで、それまで未曾有の大戦争を行っていたとは感じさせないほどの夏の昼下がりの中、第二次世界大戦は静かに終幕を迎える事なりました。

 翌月の9月3日には、早くも停戦の調印式が各国の間で執り行われ、10月にはカナダのモントリオールにて講和会議が開催されようとしていました。
 もっとも、表面的には公平な講和会議とされていましたが、実質的にはアメリカ合衆国の降伏による講和であり、連合国側、つまり世界中の列強の生き残りによる、講和会議の席上でのアメリカ合衆国への最後のリンチでしかありませんでした。
 ですが、この会議は各国の微妙な思惑の違いにより、迷走を余儀なくされます。
 対アメリカ問題だけですら、日英とドイツの意見は食い違いが見られるのに、欧州での本格的な決着の付け方でイギリスとドイツは水面下の対立を繰り広げます。そしてこれにフランス、イタリア、ソヴィエト連邦が首を突っ込み、このスキを突いてアメリカが国際的地位の維持を図ろうと画策しようとしました。
 また、アジアの政治的混乱も、ここで表面化されました。
 当然、戦争にもっとも貢献した日本がアジア情勢を主導権を握っていましたが、近代以降緩やかな中華大陸との対立を続けていた日本は、満州問題での対立が再び表面化しつつあり、そこに加えて中華民国は以前ソ連からの援助を受ける中華ソヴィエトとの対立をしており、この点では日本も中華民国を助けようとし、これにインド、東南アジアの欧州植民地の独立問題が混乱に輪をかけていました。
 また、最後の主戦場の一つとなった中米は、この時を利用してアメリカからの離脱をしようとする国家と、欧州よりになろうとする国、南米各国の誘いに乗ろうとしていた国などがあり、ここも混沌に満ちていました。
 要するに戦争は取りあえず終わらせましたが、世界中が徹底的な戦闘をしなかった故に、それまで先送りにされていた問題が一気に噴出してしまったのです。
 ですが、勝者は勝者としの義務があり、戦勝から何らかの利益が欲しい事から混乱の芽が出つつも結局は取りあえず結束する事になります。
 日英を中心として最初から連合国に所属していた陣営は一応の結束を保っており、英国の植民地問題に関しても自国で何とかできそうな状態で、混乱は最小限にとどめられていました。
 一方、欧州の方も、結局のところ各国が長きの戦争で疲弊しきっている事から、第三ラウンドと言うわけにもいかず、また近代国家の矜持がそうさせるのか、何とか話し合いで解決を図ろうという方向に流れており、アメリカ問題に関しては、対立こそありましたが、全ての列強が実質的にアメリカを自国内に閉じこめてしまう事で意見が一致していましたので、この件に関する混乱だけはありませんでした。

 しかし、混乱は混乱である事には間違いなく、モントリオールでの講和会議は紛糾し、ダラダラと長期間続けられる事になります。
 そして1946年3月13日、ようやくその結論が出され、世に言う所の「モントリオール講和会議」は一応の結論を出される事になりました。
 この結果、世界は国際連盟を拡大再編成する事で、一つの安定を作り上げることにします。
 この組織はそれまでの国連とは違い、極めて大きな権限を付与されており、その中には軍事力の行使すらも含まれ、国連の決定さえあれば、国連に参加しているいないの有無に関らず武力が行使される程のものとされていました。
 また、20世紀の円卓会議と呼ばれる事になる常任理事国は、イギリス、ドイツ、日本、アメリカ、イタリア、ソ連、フランスという今次大戦を牽引してきた列強に加えて、中華民国と新たに独立が決定したインドが名を連ねていました。
 そして、肝心の戦後政治・経済地図は、結局欧州がドイツの手に入る事になり、多くの領土を失いましたがソ連が生き残り、北米・アメリカ合衆国以外の全ては英日を始めとする伝統的自由主義陣営の手に帰したため、日英もドイツの勢力圏に関しては許容されました。そして、ここで興味深いのは何とか生き残ったソヴィエト連邦が、中立状態になりながらもどちらかと言えば日英よりの姿勢を示していた事でしょう。
 また、最後の戦場となったアメリカ合衆国は、戦争の惨禍からモンロー主義への回帰を強くしてしまい、国連にこそようやく加盟しましたが、世界をリードするだけの国力を持ちながらそれをなさない国、しかも戦後復興が終り経済が回復してから後は、ただ広い敷地に住む金満家なだけの無定見な国家、国民へと変貌していくことになります。
 これは、ある意味世界中の列強が望んだことでしたが、後に世界中を呆れ返らせる事になりました。

 なお、この講和会議において、アメリカに対して過酷な要求がいくつか出され、一つはパナマ運河の国際管理であり、もう一つは全ての海外領土の割譲でした(アラスカ準州も日英の共同管理で割譲された)。この二つは、日英の海洋覇権をより確かなものとするためのものでしたが、アメリカのモンロー主義への回帰を決定づけたとも言えます。
 また、それ以外に各国が調整をはかる形で大規模な軍備縮小が実施される事も同時に決められ、世界は取りあえず今後10年程は列強間で大戦争をするつもりがない事を暗に決定しました。

 そして大日本帝国は、その混沌とした戦後世界においてアジア・太平洋全域の勢力圏を確立し、それなりの国際的地位と市場・利権を得ると同時に、相応の責任を負うことになり、真の意味での大国として歩んでいく事になります。
 そして、その新生日本にとっての最初の外交的活動は、英国の暗黙の了解の元、旧欧州列強から独立しようとする東南アジア各国の独立を明に暗に助けることでした。
 アジア・太平洋は日本のものとなったのです。

 なお、この戦争において、日本は新たにハワイ諸島、アリューシャン列島などアメリカが領有していた太平洋の赤道より北側にある全ての領土を国連の委任統治領と言う形式こそとっていましたが賠償として得ており、アジアでの勢力拡大と合わせて制海覇権の拡大はそれまで以上のものがあり、このため海軍は現状維持されるどころか、今まで以上に強化する必要があった事から、戦後の軍縮の嵐にあっても大きな勢力を維持し、戦後軍縮一方だった英国をしり目に1950年頃には世界最大級の海軍へと躍り出る事になり、日本の顔として長きにわたりの役割を果すことになります。

 では、最後に今次大戦に参加した戦艦での顛末を記して本ルートを終えたいと思います。

 ◆戦艦
 ・金剛:終戦時残存 1948年退役
 ・比叡:終戦時残存 1948年退役
 ・榛名:終戦時残存 1948年退役

 ・伊勢:1943年2月空母として再就役・終戦時残存
 ・日向:1943年4月空母として再就役・終戦時残存

 ・長門:終戦時残存 1948年予備役
 ・陸奥:1942年11月13日・幌延島近海で沈没
 ・加賀:1942年11月13日・幌延島近海で沈没
 ・土佐:終戦時残存 1948年予備役
 ・赤城:終戦時残存 1948年予備役
 ・愛宕:1942年9月7日・アイスランド島沖で沈没
 ・高雄:1944年10月25日・北大西洋上で沈没

 ・紀伊:1944年10月25日・北大西洋上で沈没
 ・尾張:終戦時残存 1955年予備役
 ・駿河:1944年10月25日・北大西洋上で沈没
 ・近江:終戦時残存 1955年予備役

 ・富士:終戦時残存 1960年予備役
 ・阿蘇:終戦時残存 1960年予備役
 ・雲仙:終戦時残存 1960年予備役
 ・浅間:1944年10月25日・北大西洋上で沈没
 ・葛城:終戦時残存 1955年予備役

 ・大和:1942年12月就役・終戦時残存
 ・武蔵:1943年6月就役・終戦時残存
 ・信濃:1945年1月就役・終戦時残存
 ・甲斐:1945年4月就役・終戦時残存

 ・剣 :1942年11月就役・終戦時残存
 ・黒姫:1943年2月就役・終戦時残存

■あとがきのようなもの