■米本土上陸

 1945年7月26日、ドイツ、ベルリンのポツダムから発表された宣言は、世界中にある種の納得を以て受入れられました。
 ポツダムから出された宣言が、アメリカ合衆国に「無条件降伏」を要求したものだったからです。
 戦術的・戦略的優位にあった連合国側の軍事力を以てすれば、米本土への地上侵攻も十分可能と思われていましたから、この宣言はむしろ戦争がいよいよ最終段階に入った、そのための通過儀礼なのだと世界中を納得させたのです。

 そして、当然と言うべきか、この宣言はアメリカ世論を激高させ、愛国心を高揚させ、爆撃の中戦意が衰えつつあったアメリカ合衆国を精神的に再び立ち上がらせる事になります。
 このため、アメリカ政府はポツダム宣言を黙殺、国境沿いでの対決姿勢を強めます。
 対して、一方の連合国は冷静でした。
 もちろん、ある種の恐怖や不安を持っていましたが、すでにパンドラの箱を開けた以上、最後の希望を見るまで箱をひっくり返す他ない事を悟っていたからです。
 そして世界は、連合軍の米本土侵攻のゼロ・アワーを固唾を呑んで見守りました。

 1945年8月7日、連合軍による米本土侵攻作戦の第一段階、「オペレーション・アーク・エンジェル(大天使)」(日本名:「天号作戦」)が始まります。
 この当時、連合国側の陸上戦力は、カナダに4個軍集団、カリブに1個軍集団存在していました。
 これを、「カリブ戦区」、「西海岸戦区」、「北米戦区」に区切り、「カリブ戦区」と「西海岸戦区」に各1個軍集団が属し、五大湖・東海岸部を担当する「北米戦区」には3個軍集団が属していました。
 また、「カリブ戦区」は日本軍、「西海岸戦区」は英連邦軍と日本の衛星国軍が主体で、「北米戦区」の3個軍集団は英独を中心とする欧州各国軍からなっていました。
 各戦区の目的は、「西海岸戦区」がワシントン州など西海岸部各地への侵攻による助攻や側面援護、米西海岸兵力の拘束などに置かれており、「カリブ戦区」は時期を見てのフロリダ半島もしくはメキシコ湾深部への軍集団ごとの強襲上陸による米防衛網を食い破る事、そして「北米戦区」が主攻としてアメリカの心臓部(東海岸北部と五大湖沿岸)を蹂躙する事とされていました。
 そして、カナダ国境線は米陸軍により殊の外厳重に防衛されている以上、どこに攻め込むかという戦場で最も有利なイニシアチブを最も多く有してる「カリブ戦区」が最初に動きだします。

 洋上での行動から始まった事から、一週間以上前から行動を開始していた連合国側の動きは米軍にも捉まれていましたが、米首脳部はこの大上陸部隊の上陸先をごく常識的にフロリダ半島のどこかとしており(付け根あたりではと予測していた)、この地域に増強2個軍にあたる50万人もの兵力を配備して待ちかまえていました。もちろん、はるか以前から陣地を構築しての待ち伏せ状態です。
 しかし、連合国軍が選んだ上陸先は、フロリダではなくメキシコ湾の奥地のニューオーリンズ市から少し東ずれたミシシッピ州からアラバマ州のメキシコ湾岸部でした。
 このメキシコ湾の防衛線は、あまりにも長大なエリアになるため、市民を納得させるためなどの物理的・感情的理由により、軍事的にはほとんど意味のない、申し訳程度の陣地と部隊が薄く長く配置についていただけなので、もし連合国が上陸すれば、それを阻止することなど最初から不可能でした。ただし、この地域の実質的な防衛は、全てが張付け部隊とすら言える南部軍集団ではなく、合衆国のほぼ中心部に陣取っている米中央軍集団が担っており、この機動性に優れた巨大な兵力でもってどこに敵が押し寄せようとも、張付け部隊が頑張っている間に駆けつけ海にけ落とす態勢が築かれていたのです。

 そして、8月5日から地獄の饗宴が幕開けします。
 キューバ島全島に展開した連合国空軍が、いっせいにフロリダ半島を中心に異常なほどの空爆を開始した事が、饗宴の開幕のベルとなりました。
 規模にして5個航空艦隊・3000機近い数の各種航空機が投入され、さも連合国軍がフロリダ半島の中部に上陸するぞと言うような戦闘を展開しました。
 この戦場では、3日間連合国側の激しい攻撃が継続され、当地の米空軍戦力を一時的に麻痺状態に追い込みます。
 また、カナダ正面の航空戦力も活発な活動を開始し、同方面の米空軍戦力を拘束し、移動を許しませんでした。
 なおここでの連合軍の目的は、メキシコ湾方面に向かないようにするためのアメリカ全航空戦力の拘束、並びにアメリカ南部の空軍力の消耗にありました。
 ただし、継続した戦略爆撃は変わることなく継続している事から、この時期のカナダ正面は航空戦そのものは従来より少し激しい戦いという程度でしかありませんでした。

 そして8月6日深夜、史上最大級の艦隊がメキシコ湾の深部、アメリカの柔らかい下腹部に連合国側がほぼ完全に占領下においたキューバ島とユカタン半島の間を抜けて出現します。
 以前にも一度、空母機動部隊が嵐のようにこの地域を破壊して回りましたが、今回は空母だけでなくありとあらゆる艦艇が広いメキシコ湾を埋め尽くしていました。
 その数、約1500隻。もちろんこれは、揚陸艦の腹の中に多数搭載された小型の揚陸艇を含めない数字です。
 この艦隊には、太平洋・大西洋に必要最小限の艦隊を残した連合国海軍力の全てが結集されていました。

 ここで艦隊を構成している全ての艦艇を紹介していると、枚数がいくらあっても足りないので概要だけの紹介としますが、艦隊は大きく前衛艦隊、機動部隊、主力艦隊、支援艦隊そして揚陸艦隊である本隊から成っていました。
 前衛艦隊は日英の巡洋戦艦(日本は装甲巡洋艦)を中心とした快速部隊が2個艦隊で構成され、彼らの任務はメキシコ湾の奥に逼塞する米残存艦隊(メキシコ湾には、巡洋艦を中心とするある程度の艦隊があると見られていた)が万が一出てきた場合の前路掃除がその任務でした。この次に全般的な制空権獲得を受け持った空母機動部隊が続きます。この艦隊は日英のありとあらゆる高速空母(「大鳳級」、「アーク・ロイヤルII級」のような超大型空母からやや低速の「コロッサス級」や「飛鷹級」までも含まれていた)が集結されており、その規模はほぼ一年前の大西洋での決戦をしのぐ、大小30隻もの高速空母と2000機近い艦載機から構成されていました。
 もちろん、史上最大級の破壊力を与えられた艦隊であり、この艦隊にあらがうことがいかに愚かであるかを、洋上に展開したその威容そのものが無言で語っていました。
 そして、機動部隊の後に、本隊にとって本当の意味での露払いをする役目を背負った主力艦隊がその後に続きます。
 この艦隊は、その名の通り主力艦である戦艦多数から構成されており、総数40隻以上、合計排水量200万トン以上もの海上の女王たちが6つの艦隊に分散してこの部隊を構成していました。
 国ごとで見ると、英国が最も多く18隻、次いで日本が17隻、イタリアが5隻、フランスが5隻となります。なおドイツの姿が見えないのは、ドイツの水上打撃部隊は大西洋にあり、米海軍の大西洋艦隊の残存部隊を牽制していたからです。
 これ以外にも無数の巡洋艦、駆逐艦などが主君に仕える従者のごとく艦隊を取り巻いており、それらを全て合せると戦闘艦艇の合計数は200隻を大きく上回っていました。
 そして、本隊の傍には護衛空母と呼称された商船改造の低速軽空母が支援艦隊として4群、500機以上の対地支援用の艦載戦闘爆撃機を抱えた20隻以上が展開しており、同じく支援艦隊となっている巡洋艦を中心とする近接火力支援艦隊と共に、上陸部隊に付き従うように進撃していました。
 そして最後が本隊となりますが、この部隊の主力は何と言っても各種揚陸艦艇と無数の輸送船です。
 主力を構成していたのは「戦時標準船」と呼ばれる排水量7000トン程度(1万重量トン)の高速輸送船とその各種派生型、5000トン程度のものを主体とする量産型ドック型揚陸艦とそれの半分程度の大きさのスロープ型揚陸艦、その用途から1500トン程度の排水量しかない戦車揚陸艦などでした。
 その数約1000隻、排水量500万トンにも上る各種揚陸船舶の腹の中には、100万の将兵を抱える大兵団の主力と当面必要とされた膨大は戦略物資が搭載されていました。
 なお、船団旗艦は標的にされにくくする為にごく標準的な戦時標準船に大量の通信アンテナを付けた船に過ぎませんでしたが、揚陸部隊旗艦には日本が建造したばかりの新鋭艦、3万トン以上の排水量を持つ大型ドック型揚陸艦の「大隅」で(回転翼機を多数搭載するため空母のような格納庫と飛行甲板すらも装備していた)、今回の作戦の最高司令官の日本陸軍大将が乗座しており、この艦が実質的な全艦隊の旗艦であり、戦後映画などでも多用された司令官の有名な訓示のアナウンスもこの「大隅」からなされました。

 この未曾有の大艦隊は、多少俗な表現を用いるのなら「20世紀の無敵艦隊(アルマダ)」と呼んでもよいだけの大艦隊であり、大国アメリカへ大挙上陸せんとするだけの規模と言えるでしょう。
 そして、連合国側の上陸地点の予測が外れた米軍の迎撃は完全に齟齬をきたし、現地に駐留していたごくわずかな空軍戦力が絶望的な戦闘を行っただけで、沿岸防衛用の魚雷艇を中心とする海軍部隊は文字通り拠点ごと粉砕され、海岸線を守るとされていた陸軍部隊に至っては、上陸部隊が押し寄せる頃には連合国海軍の砲爆撃により、軍事的に全滅を判断せざるをえない程の損害を受けていました。
 まさに連合国側にとっては、圧倒的な戦力を一箇所に注ぎ込んだ事による、教科書通りの上陸作戦となりました。
 また、アメリカという体質が、防御にあまり金をかけないという伝統的体質により、ドイツやソ連が作っていた強固な防御陣地や陣地帯を作らなかった事が、この水際での破滅を呼び込んだと言えるでしょう。
 なお、以下が第一波として乗船していた日本北米総軍の全部隊と、上陸後の進撃に際しての戦闘序列となります。

 ◆日本北米総軍
●直轄予備
 海軍陸戦第一軍団(上陸第一波)
 ・海軍陸戦第一師団(TpRag:3・TNRag:1・CaRag:1)
 ・海軍陸戦第二師団(TpRag:3・TNRag:1・CaRag:1)
 ・海軍陸戦第三師団(TpRag:3・TNRag:1・CaRag:1)
 ・第5師団(MTRag:1・ToRag:2・TuRag:1・TNRag:1・CaRag:1)
 ・イギリス海兵コマンド旅団
 ・イタリア海兵連隊

●総予備
 ・陸軍第1空挺師団(TpRag:2・CaRag:1)
 ・陸軍第2空挺師団(TpRag:2・CaRag:1)
 ・海軍第1空挺師団(TpRag:2・CaRag:1)

●(近衛)第6方面軍
 直轄
 ・第3空挺師団(TpRag:2・CaRag:1)
 ・近衛嚮導機甲旅団(MTRag:1・TuRag:1・TNRag:1・CaRag:1)

 近衛第1機甲軍
 ・近衛第1機甲師団(MTRag:2・TuRag:1・TNRag:3・CaRag:1)
 ・第1機甲師団(MTRag:1・TuRag:1・TNRag:3・CaRag:1)
 ・第2師団(MTRag:3・TuRag:1・TNRag:1・CaRag:1)

 近衛第2機甲軍
 ・近衛第2機甲師団(MTRag:2・TuRag:1・TNRag:3・CaRag:1)
 ・近衛第3機甲師団(MTRag:2・TuRag:1・TNRag:3・CaRag:1)

●第5方面軍
 第17軍
 ・第54師団(MTRag:1・ToRag:2・TuRag:1・TNRag:1・CaRag:1)
 ・第56師団(MTRag:1・ToRag:2・TuRag:1・TNRag:1・CaRag:1)
 ・第109師団(MTRag:1・ToRag:2・TuRag:1・TNRag:1・CaRag:1)

 第7機甲軍
 ・第2機甲師団(MTRag:1・TuRag:1・TNRag:3・CaRag:1)
 ・第3機甲師団(MTRag:1・TuRag:1・TNRag:3・CaRag:1)
 ・第9機甲師団(MTRag:1・TuRag:1・TNRag:3・CaRag:1)

●第7方面軍
 直轄
 ・第7機甲師団(MTRag:1・TuRag:1・TNRag:3・CaRag:1)

 第1機甲軍
 ・第10機甲師団(MTRag:1・TuRag:1・TNRag:3・CaRag:1)
 ・第1師団(MTRag:3・TuRag:1・TNRag:1・CaRag:1)
 ・第4師団(MTRag:3・TuRag:1・TNRag:1・CaRag:1)

 第3軍
 ・第4機甲師団(MTRag:1・TuRag:1・TNRag:3・CaRag:1)
 ・第6師団(MTRag:3・TuRag:1・TNRag:1・CaRag:1)
 ・第8師団(MTRag:3・TuRag:1・TNRag:1・CaRag:1)

TN=戦車
MT=機械化歩兵
Tp=自動車化歩兵
Tu=捜索
Ca=砲兵

Rag=連隊

 以上、上陸第一波は、師団数26個を中核として、これに軍(団)、方面軍ごとにいくつかの重砲兵旅団と高射砲旅団、工兵旅団、独立戦車旅団など大規模な支援部隊が付随します。
 なお、一応編成の大まかなところに触れましたが、近衛と一部の師団以外は概ね3個(機械化or自動車化)歩兵連隊と各1個ずつの捜索、戦車、砲兵連隊から構成されています。
 そして、たいていは2万人程度の兵員から構成されており、近衛師団のような大型重武装師団だとこれが3万人程度になります。ですが、さらに整備や補給段列などの支援部隊が師団ごとに付随するので、実質はこの五割増しの人員構成をしていました。
 なお、装甲兵力の詳細について少し見てみますが、歩兵部隊の連隊(Rag)はどれも各3個(各種歩兵)大隊+支援部隊から構成されていましたが、戦車連隊はこれに当てはまらず、通常師団が規模の小さい中隊(12両編成)が4つで合計50両(本部2両)、機甲師団が増強編成の中隊(17両編成)が5つの合計90両(本部5両)から構成されていました。また、機械化(装甲化)の進んだ通常師団の戦車連隊も機甲師団と同様の規模の連隊を有しているものもありました。
 捜索連隊は、欧米各国の機甲偵察連隊にあたる兵力でしたが、日本のこれはあくまで軽快な偵察部隊としてどの師団の編成にも含めており、そのため機甲師団所属の部隊でも欧米よりも装甲兵力が貧弱で、軽戦車か中戦車を1個中隊から増強1個中隊含んでいるだけで、あまり威力偵察などを目的としたものではありません。
 また、各師団はドイツやソ連から強く影響を受けた事から、対戦車砲部隊に砲戦車(実質的には対戦車自走砲で、別に重砲を搭載した「自走砲」が存在し機動砲兵連隊がこれを有していた。)を通常師団で中隊(12両)、機甲師団で大隊編成(36両)でこれを有しており、広義ではこれも装甲兵力と言えます。なお、一部は強力な対戦車自走砲を装備し、猟兵大隊とされているものもありました。
 そして、近衛師団の全てと第一から第四機甲師団には師団直轄の重戦車中隊(12両)が編入されており、装甲兵力を質の面で増強していました。
 ちなみに、これが近衛機甲師団だと戦車3個連隊(各90両)、重戦車中隊(12両)、捜索連隊(20両)、猟兵大隊(36両)の合計338両の対戦車装甲車両を有している事になります。もちろんこれは、各種兵員輸送車両、装輪式装甲車などを含めない数字です。
 さらに、機甲軍と付く「軍(団)」の全てと方面軍の直轄として、各兵団に独立戦車旅団(6個増強中隊・110両)と独立重戦車連隊(39両)が1〜2個存在しており、重戦車連隊にはその当時の最も強力な戦車が配備され、切り札もしくは破城鎚として期待されていました。
 これらを合計すると、第一波だけで約5000両以上の戦車と600両の砲戦車(対戦車自走砲)を有した一大機甲軍(車両合計数は補給部隊も含めると8万両にもなる!)と言う事になります。
 なお、通常師団の主力は、いささか旧式の「百式改」か米軍主力の「M4(シャーマン)」と互角の性能を持つ「三式」、機甲師団が「T-34/85」を凌駕すると言われる「四式」か「三式」、各重戦車部隊が「二式改」か世界的にも群を抜いた性能を誇る日本陸軍最強の「五式(侍)」が配備されていました。また、日本陸軍最精鋭とされる近衛師団の一部部隊も、最新鋭の「五式(侍)」を中戦車として装備していました。
 そして、最新鋭の「四式」と「五式」は日本本土や満州などで急ピッチで量産されており、その後急速に数を増す事になります。

 また、北米総軍には、第二波部隊として後方で待機している丸々1個方面軍が別に存在しており、この方面軍も高度に機械化された8個師団から成っていました。
 ちなみにこの頃の日本陸軍は、機甲師団8個、(歩兵)師団36個(うち機械化歩兵師団11個)、近衛(重機甲)師団3個、空挺師団3個の合計50個から構成されていました。
 このうち先述したように、30個師団(+海軍4個師団)が北米総軍に編入されていましたが、これ以外に太平洋のハワイに2個師団、パナマ固有の防衛に2個師団、アラスカに1個師団、キューバなどカリブ海に3個師団があり、さらに陸軍全体の総予備として2個師団が後方に残され、残り10個師団が内地にあって留守師団(訓練・後方警備専用)として存在していました。

 少し話がそれましたが、ミシシッピ川の東部、ミシシッピ州とアラバマ州に位置するメキシコ湾岸に無血上陸のような気楽さで北米の大地を踏んだ日本北米総軍は、上陸開始の8月7日の夕刻までに、戦車中隊などを増援された先鋒の捜索連隊は、早いもので10km近くも前進し、橋頭堡自体もまだ全てがつながっていませんでしたが幅120km、場所によっては奥行き5km程度を確保する事に成功します。もちろん、付近には米軍の有力な機動兵力も長距離砲兵もなく、制空権も奪われた米軍がこれに対し反撃する事はどう考えても不可能でした。
 第一波として上陸した部隊は、上陸作戦の専門部隊の約5個師団と機甲戦力の先遣部隊が同じく5個師団の合計約25万人で、これにキューバから飛んできた空挺師団が2個師団で合計3万人が降下していました。これだけでも、すでに史上最大規模と言えるでしょう。
 そして、敵の抵抗が微弱な事から上陸は予定通りかそれ以上に進展し、第二波に属する前進用の機甲兵力が、戦車揚陸艦などを多用して急速に上陸しつつありました。
 これは、上陸半日で海岸部の橋頭堡に、早くも日本軍による渋滞を発生させた程の早業で、展開のあまりの早さに上陸作戦司令部をして、「今最大の敵は自軍の交通渋滞である」と言わしめたと言われています。
 そして海岸部は、溢れかえる将兵と膨大な補給物資で、にわかに巨大な街か港ができたような程の活気に溢れかえっていました。
 そして、この大上陸部隊に対抗できる米陸軍兵力は、どれだけ急いでも丸1日の距離にあり、それも連合国軍空母部隊の空襲の前に大幅な遅延を余儀なくされていて、日本軍を水際で海に蹴落とす事は最初からあきらめなければなりませんでした。

 連合軍のゼロ・アワーから48時間が経過しました。
 ミシシッピの海岸部に展開する日本軍の数は50万人を数え、早くも段列を整えた部隊は、縦深を確保すべく強引な前進を開始しており、増強連隊戦闘団をいくつか編成すると、沖合の空母機動部隊が作り出す圧倒的な制空権のもと、貧弱な州軍と呼ばれるアメリカ軍の在郷部隊を粉砕しつつ、バクテリアが異常増殖するようにアメリカの大地に広がっていきました。
 なお、上陸した日本軍の目的地は、南部の交通の要衝アトランタ市で、ここに向けての突破戦闘が第一とされ、爾後状況によってはミシシッピ川を遡るように五大湖方面への占領地の拡大を目論んでおり、枝作戦として部隊を一部をミシシッピ川を渡河させてのルイジアナ州全土の占領を含んだニューオーリンズ市の攻略とテキサスへの道を開く事、東海岸を目指しフロリダの米軍をアメリカ中枢部から孤立させる事にありました。

 そして、上陸開始から3日目にして、ようやくアメリカの本当の陸軍たる連邦軍の正規部隊と日本軍が激突します。
 ですが、米軍の方も連合国側の空襲で隊列が伸びていた事から、日本軍と最初に接触した兵力は大隊規模の機甲偵察部隊で、しかも空襲でいくばくかの損害すら受けており、強力な日本軍の増強連隊戦闘団に抗すべくもなく、初手から遅滞防御を前提にした戦闘を展開せざるを得ませんでした。
 この接触の後、日本軍は機動力を駆使しつつ、大都市を迂回しながらも散発的に防御戦を展開する米連邦軍を撃破しながら、アトランタに向けての進撃を継続しました。
 交通の途絶から、米陸軍の集結が進んでおらず、それが日本軍による進撃を可能としていたのです。
 米軍が自国の領土で大規模かつ組織的な抵抗を可能とするようになったのは、連合軍のゼロ・アワーから一週間も経過した頃で、この頃までに日本軍は第一波の8割の上陸を終えており、場所によっては200km以上の前進に成功して、すでに海岸付近の平地には何箇所もの簡易飛行場すら展開し、陸軍機の活発な活動も始められていました。(これには、アメリカの発達した飛行機社会という側面が飛行場設営という面でこれを援護していました。)
 この時、遠く五大湖の向こうの友軍目指して快調な進撃を行っていたのは突破部隊とされた「近衛第六方面軍」で、この頃までにほぼ全ての兵力を整えての電錐戦を実施しており、その勢いは往年のドイツ装甲部隊もかくやという場面もあり、よく整えられたアメリカの交通網を利用しつつ(特に後方兵站面)順調な進撃を継続していました。
 自他共に認める日本陸軍最強の機甲軍であるこの装甲部隊は、「五式(侍)」を装備した近衛独立51重戦車連隊を先頭にした近衛第1機甲軍(近衛第1機甲師団、第1機甲師団、第2(機械化歩兵)師団)と戦車の全てを「五式(侍)」で固めた陸軍最精鋭部隊である近衛嚮導機甲旅団を先頭とした近衛第2機甲軍(近衛第2機甲師団、近衛第3機甲師団)が横並びで競争するように進撃しており、その後を直轄兵力と補給段列が伸びる補給線を気にしつつ追いかけていました。ちなみに、近衛独立51重戦車連隊は、戦車部隊の増設に伴い北千島の戦いで奮戦した第十一戦車連隊の一部から枝分かれしたもので、このため部隊に属する車両には「士魂」の文字が描かれており、北米でも常に最前線にあった事から、最強の「士魂部隊」として多くの戦場写真に収まっているのが後世に伝わっています。
 なお、この「近衛第六方面軍」は、日本本土で運用することなど最初から考えていない程の重武装を施されており、極端から極端へと走る傾向のある日本民族が、その恐怖心から生み出した戦車・砲戦車約2000両から構成された一大機甲軍で(これに匹敵する兵力はドイツ陸軍しか持っていない)、その大半が米軍戦車を圧倒する新鋭戦車で固められていた(最低でも「三式」)戦力評価「A+」の最優秀戦力である事から、単純な陸戦での戦力格差は、米軍の標準的な歩兵師団(戦力評価「C」)相手なら同数で三倍以上の兵力差があるとされていました。

 日米の機甲戦力の本格的な戦闘は、8月14日アラバマ州の中核都市にして州都モンゴメリー市南部で行われます。
 この頃日本軍は、息切れしそうな勢いでこの街にまで達し、この時あった装甲兵力は近衛嚮導機甲旅団の実質50両程度しかありませんでした。
 対する米軍は、州軍の歩兵師団所属戦車大隊と増援として慌てて駆けつけた第4機甲師団の先遣部隊が到着しており、この機甲師団だけで100両以上の戦車が所属していました。
 そして互いにある程度状況を掴んでいた事から、街を守る側である米陸軍が、先手を打って日本軍の鼻面を叩こうとするという形になりました。
 日本軍側も、後続兵力の到着まで街の包囲や迂回突破など言語道断という状態で、米軍増援の出現に現状の維持をせざるをえず、取りあえず航空機の援護だけ呼び、後はにわか作りの陣地に篭って米軍をしのぐこととなります。いかに「侍」を多数保有するとは言え、何が起こるか分からない戦場では致し方のないことでした。
 そして実際の戦いは、米軍の予想を大きく裏切る一方的なものとなります。
 もちろん予想を大きく裏切る以上、敗者は米軍でした。

 このとき米軍は76mm砲を装備したタイプの「M4A4」を主力としていましたが、中には増加装甲を装着し重量も31トンを越えたため履帯幅を増した「M4E」シリーズも一部装備されていました。ただし、「M26」シリーズは、欧州軍がひしめくカナダ国境の部隊に優先的に配備されており(当然ではあるが、誰もがドイツ軍を恐れていた)、南部に存在したのがごくわずかでしかありませんでした。
 対する日本軍は全て「五式(侍)」です。
 51トンもあるにも関らず、低姿勢にまとめられたボディに完全鋳造式の砲塔を載せ、62口径100mm戦車砲というこの当時距離1000メートルで正面から撃破できない戦車はドイツの「7号ティーゲルII」だけと言われる強力な戦車砲を搭載していました。
 装甲の方も車体が正面上部130mm・側面上部80mmの溶接式の傾斜装甲、砲塔も前面から側面にかけて120mm〜80mmの避弾効果を考えられた鋳造製と、とても中戦車とは思われない極めて優れた装甲防御力を持っていました。
 しかも、ロシア生まれの広い履帯に覆われた脚まわりと強力な心臓に裏打ちされた健脚は、優れた信頼性で知られる米軍戦車を凌駕する機動性を確保していました。実際、南部の湿地帯に等しい軟弱な大地でも進撃速度を低下させる事はありませんでした。
 もっとも基礎的な機械的な信頼性となるとさすがに米軍車両に一歩譲りましたが、防御側が日本側と言うこともあり、この戦闘では全く問題になりませんでした。ただし、日本製・ロシア製戦車共通の車内の狭さが唯一の欠点とされ、この当時のごく一般的な日本兵には特に問題はありませんでしたが、戦車の内部空間をこれでよしとするソ連以外、欧州で広く使用されなかった大きな理由とされています(特にドイツ戦車兵からは嫌われ、それが理由で本車がドイツ軍で採用されなかったとすら言われる)。また、主砲の発射速度も総じて米軍戦車の砲が早く(砲弾の大きさを考えれば人力装填なら当然だが)、この点も米戦車がつけ入るべき数少ない点でした。

 さて、肝心のこの戦闘の経過と結果ですが、米軍側も相手が重戦車(日本軍の分類では一応中戦車)の群だと知っていたので、正面からの戦闘は危険と判断し、一部を囮として正面から攻撃する以外は、主力が側面に回り接近戦で撃破しようとしました。
 一方の日本側は、数に勝る米軍の意図は正面と側面からの連携攻撃による包囲殲滅とごく常識的に想定していた事から、防御の基本を遠距離からの撃破と爾後の機動防御による撃退としていました。
 日本側としては、新鋭戦車の特性を十分に活かした一方的な戦闘を行う事で数の不利を補おうとしたのです。
 そして、日本軍の主力砲45口径88mm砲を想定していた米戦車隊は(この時米軍は、相手の主力が鋳造砲塔型の「二式改」と思っていた)、不用意に距離を取ろうとして、距離1500メートルに接近した段階で、遠距離から飛来する100mm徹甲榴弾の前に一方的に撃破される事になります。
 そしてこの距離であっても62口径という長砲身から射ち出される100mm徹甲榴弾の破壊力は、たとえ増加装甲型であろうとも「M4」に耐えられるような打撃力ではなく、一方的に射すくめられました。
 しかし、側面に回っていた主力は、正面からの囮が日本軍の砲火を引きつけている間に地形障害を利用して1000メートル以内の接近に成功し、戦術的にはそれなりに満足しうるタイミングで激しい砲火を日本軍戦車隊に浴びせかけました。
 ただ防戦一方の日本戦車はちょっとした丘を中心に布陣し、しかもダイナマイトで作り上げた即席の戦車壕に身を伏せた、米軍の言うところの「ダック・イン」戦法を取っていた事から、持ち前の強固な防御力もあって距離1000メートルでは「M4」の砲弾はそのほとんどが虚しく弾かれるだけでした。
 その後戦闘は激しさを増し、側面に回った米戦車隊は勇敢にも距離を750メートルにまで詰め、日本軍による数は少ないながらも強力な反撃砲火にさらされつつも、さらに後背に回ろうとする機動を見せていました。
 一方、完全に射すくめられた正面からしかけた米軍は三分の一以上の戦力を失い、戦闘たけなわな頃までに攻勢能力はなくしていました。
 そして、少数ながら崩れない「侍」の群を前にして、米軍側の攻勢が限界に達し、一旦態勢を建て直すために後退しようとしていた矢先、日本軍による機動防御が開始されます。
 2個戦車中隊と機動歩兵中隊が参加したこの反撃により、日本軍と同様に側面からの攻撃にさられた米戦車隊は、戦闘開始20分で実に20両以上の「M4」が撃破され、後退から潰走へと移る事となります。
 これは、日本側が形だけの防御態勢を敷いていたとは言え(この差は確かに無視できないが)、どちらも側面からの攻撃を受けたにも関らず、戦車の性能の差が戦闘結果に如実に影響を与えた、実に興味深い結果と言えるでしょう。
 そして、この戦闘の結果、米軍は全体の半数近くにあたる60両以上の戦車と相応の歩兵部隊などを失い、増援をひと足早く到着させた日本軍に再び進撃の勢いを取り戻させる事になります。
 ちなみに、この戦闘での「五式(侍)」対「M4(シャーマン)」のキルレシオは、5対1以上にも達しており、しかも日本側の大半がその後の修理で戦列に復帰していた事から、最終的な「五式(侍)」キルレシオは驚くべき事に10対1以上に達していました。
 なおこれは、これ以外の「五式(侍)」の戦闘結果でも相手が「M4」以下なら似たような数値を示し、正面突破戦闘のような犠牲の大きいとされる戦闘ですら3対1以上の戦果をおさめました。このためか「五式(侍)」を受領した部隊は、自分たちであだ名を付ける習慣が流行し、「侍」の名を与えられた戦車から連想される、「新撰組」、「雑賀衆」、「楠一党」など様々な時代の戦記物や講壇物でよく見かけるような名前が好んで付けられています。
 ただし、この戦車の致命的欠陥が一つあります。それは製造コストの高さと生産の難しさであり、生産こそ工場の効率化によりある程度クリアされていましたが、このコストの高さは戦時という事と量産による価格低下である程度許容されていましたが、それでもなお当時は高価な戦車で、ために「三式」、「四式」が終戦まで主力を占める事になり、戦後軍縮による戦力の整備で初めて主力戦車と呼びうる装備比率になっています。

 そして、日本軍の上陸から一ヵ月が経過しようとしていた頃、日本軍は五大湖へ至る交通の要衝であるバーミングハムを包囲下に置き、アトランタ前面で待ちかまえる米軍主力との決戦の時が今や遅しと待ちかまえていました。
 しかし、この日本軍のバーミングハム到達は、連合国側の作戦の次なる段階への号砲でもあったのです。


■「オペレーション・ダウンフォール」