■「オペレーション・ダウンフォール」

 1946年9月7日午前3時15分、カナダ国境の東海岸から五大湖中央部にかけての連合軍の全ての砲火が一斉に火ぶたを切りました。
 また、それより早く出撃を開始した、ありとあらゆる航空機(この中には戦略爆撃機部隊も多数含まれていた。)も、米軍の前線陣地と部隊に対する激しい攻撃を開始しました。
 連合国側によるアメリカ合衆国侵攻作戦の第二段階、「オペレーション・ダウンフォール(滅亡)」の開始です。

 この時、欧州軍を中心に編成された連合軍北米戦区に分類されていた地域に駐留していた連合国軍は、合計で3個軍集団以上、約130個師団、後方兵員も含めると300万人以上にも達していました。
 この大部隊は、英国を始めとする欧州の海運力の総力を挙げて、丸一年かけて運ばれた大兵力であり、いまだ後続が続々と大西洋を渡りつつありました。
 軍を構成していたのは、英連合王国、ドイツ帝国、イタリア王国、フランス共和国が主力として大軍を派遣しており、さらにフィンランド、ハンガリー、ルーマニアなどの枢軸衛星国、英独の政治的取引で何とか独立復帰したベネルクス三国、その他東欧諸国など、中立を維持している国以外の全ての欧州の国々が大きなもので師団単位から小は大隊規模でしたが部隊を派遣していました。
 また、形ばかりでしたが、依然として連合国側とされているソヴィエト連邦すらも、連合国の一翼を担うためとして経費を英国持ちで、彼らの基準での1個軍団を派遣していました。
 要するに、この欧州軍団は、アメリカの独善的自由主義を打破するための欧州を守るための十字軍と解釈もできるでしょう。それを証明するかのように、欧州の過半の国の国や軍のシンボルマークが、様々な十字の形をしていました。また、口さがないものは、自分たちの手から勝手に離反した新大陸人への旧大陸人の復讐であるとも断じています。

 一方、西海岸のバンクーバー市を中心とする西海岸方面には英第6軍集団があり、こちらは主にアジア・太平洋圏の日英の衛星国と連邦国から構成されており、英連邦のオーストラリア、ニュージーランド、インド、大日本帝国、大韓国、満州国、タイ王国、フィリピン共和国、中華民国、モンゴル共和国などから構成されており、こちらはどちらかと言えば白人に反撃する有色人種連合と言った感が強く、兵力数そのものも頭に「英」と冠していましたが、ANZAC諸国と英連邦の将校以外は大半が有色人種で占められていました。
 なお、こちらは28個師団、約90万人から構成されており、全体的に機械化率は低いレベルで兵力評価も評価「B」の師団が数個ある他はほとんどが「C」で、中には連合軍の一般的な常識からなら防衛用の最低限の兵力としてか、余裕があるなら後方警備などにしか使わない評価「D」以下の部隊も存在していました。
 それに、装備する兵器の大半が日英から供与されたものを使用しており、経費すらもそのかなりが日英が持っていました。
 これは、日英が自国民の損害を少しでも減らすためと言う現実的理由と、アメリカが世界の敵であるという政治が要求した方策でしたが、大半のアジア諸国の将兵は、日本以外(トルコや韓国が若干の例外)のアジアの民が初めて白人国家に鉄槌を下せると言うことで士気は非常に旺盛で、たとえ兵器の大半が日英の正規軍のお下がりか型オチであっても問題としていなかったと言われています。
 ただ、この軍集団の存在は、日英以外の欧州各国からは民度や人種などの問題から大きな懸念を以て見られており、実際後に大きな問題を発生させる事になります。
 また、この北米侵攻には中近東地域の国家から兵力を派遣している国は少なく、していても英国への付き合いとして大隊レベルで派遣している国が若干ある程度でした。

 さて、北米の主力を担当する北米戦区の3つの軍集団ですが、東から順に、「独北米軍集団」、「英第9軍集団」、「英第21軍集団」と分類されていました。この順番は主にカナダに来た順番に奥から並んでいただけで、特に大きな理由はありませんでした。これは、あまりにも大軍だったため物理的な理由以外で配置場所を決めることができなかったからです。
 次に進撃路を簡単に見ると、独北米軍集団が主要目標のニューヨーク、フィラデルフィアなど東海岸主要都市を攻略し、英第9軍集団がその脇を抜けるようにアパラチア山脈より西側の主要地域を第一目標ピッツバーグ目指して進み、英第21軍集団がデトロイトなど五大湖の間の陸の回廊からシカゴを目指して米五大湖一帯を制圧し、インディアナポリス市で第9軍集団と日本軍と握手すべく進撃する事になっていました。
 なお、これ以外にカナダ第1軍(機甲2個、歩兵8個、山岳1個師団基幹:英本国・カナダ・南アなどの英連邦のみで編成)が五大湖のさらに西側に存在し、英第21軍集団にあわせる形で五大湖西側の周辺地域をミネアポリス市目指して進撃する事になっていました。
 また、各軍集団の構成ですが、独北米軍集団がその名の通りほとんどドイツ軍のみの4個軍、41個師団(装甲11個、装甲擲弾兵10個、歩兵20個師団基幹)から構成されており、ドイツがこの戦いにかける意気込みを内外に示していました。また、英第9軍集団、英第21軍集団は、その名に反して共に英国軍は1個軍しか存在せず、英第9軍集団の方が英第2軍(機甲1個、歩兵8個師団、山岳1個師団基幹:英軍主体)の他は、フランス第1軍(機甲3個、歩兵12個師団基幹:仏軍主体)とその他雑多な国々の集合体である英16軍(機甲2個、歩兵11個師団基幹・ソ連など欧州各国軍で編成)で構成され、英第21軍集団には英陸軍最精鋭軍の第8軍(機甲4個、歩兵6個師団基幹:英本国軍のみ)以外にイタリア第1軍(機甲2個、歩兵8個師団基幹:伊軍主体)と独SS第6軍(機甲6個、装甲擲弾兵3個師団基幹:独軍のみ)から構成されていました。
 ドイツ軍の1個軍、しかも最精鋭と言ってよい軍事力が丸々英連邦軍に属しているのは、英独の友好関係を内外に示すという政治的理由もありましたが、ドイツ軍内部の国防軍と親衛隊との軋轢が強く影響していました。また、フランス軍とソ連軍が参加している部隊は師団規模が共に小さい事から、多数の師団が属していましたが兵員数は他とあまり変わりません。
 なお、この中で触れている「機甲」は、各国でさまざまな呼ばれ方をしている戦車を主体として装甲化された機動師団を便宜上こう呼称しています。なお、英国では機械化師団、ドイツでは装甲師団などと呼ばれており、機甲という言葉は日本の「機械化装甲」という略称からきており、日本語訳の便宜上の総称とされていました。
 また、「歩兵」とされている師団は、日本軍などと同様その全てが自動車化師団とされており、また一部は高度に装甲化された「機械化歩兵」師団もあります。また、ドイツの装甲擲弾兵師団は、強引に分かりやすく言えば歩兵を主体とした装甲師団であり、日本で言う所の機械化歩兵師団にあたります。
 そして当然ですが、各軍集団、軍、軍団には直轄の砲兵、工兵、高射砲、輸送などの支援部隊が多数所属しており、軍としての総合的な戦闘力を高めています。変わっているのは、ドイツ軍が軍、軍団レベルで重戦車からなる独立重戦車大隊を有している事で、各45両の重戦車から構成された強力な戦車部隊は、ロシア戦線がそうだったように突破戦闘においての破城鎚として決定的な役割が期待されていました。ちなみに、日本における同様の部隊は、これをモデルにしたと言われています。
 また、全軍の総予備のような形で、軍集団より上の総司令部直轄として、全ての空挺部隊が集められていました。この部隊には、英国が2個、ドイツが3個、イタリアが1個師団を提供し、この他にフランス、ポーランドが1個旅団、その他に大隊規模で何カ国かが出兵させ合計で1個旅団程度になっていました。
 つまり、この空挺部隊は合計で7個師団もの空挺師団を抱える一大空挺軍団と言うことになります。もっとも、空輸するための機材が全く足りないために、一度に降下できるのはグライダー連隊を含めても半数以下の3個師団あるかどうかでした。
 なお、この方面での攻勢は、陸軍と空軍がその過半を占めており、膨大な海軍部隊が参加した南部戦線とは大きく異なっていました。
 そして、この方面には、英国のシーレーン防衛部隊以外に、ドイツ海軍の戦艦部隊と空母部隊が展開しているだけで、大きな洋上機動戦力は存在しませんでした。
 これは、アメリカがすでに洋上機動戦を展開する能力を失っていると見られていた事と、万が一出撃してきても米海軍が引きこもっている半ば廃虚と化したノーフォークや東海岸南部のチャールストン鎮守府には、十重二十重の潜水艦が監視と出撃に際しての攻撃のために展開しており、それを突破したとしても空軍戦力でどうにでもできると見られていました。ドイツ艦隊の配備ですら政治的配慮と念のためという程度でしかなかったのです。

 一方、アメリカ合衆国連邦陸軍は、この頃連合国のそれに匹敵する600万人に達する動員を行ない、カナダ正面に対しては相手に合せるかのように全軍の半数以上にあたる兵力がおかれ、大きく3つの軍集団から構成されていました。
 長大なカナダ国境を西から順に、「ウェスト」、「ノーザン」、「イースト」の各軍集団です。
 どれも兵力量30個師団以上、兵員数100万人以上から成る大規模な軍集団でしたが、基本的にそのかなり(1個軍程度)が国境線近辺の防御用の張付け部隊であり、合衆国領土・市民を守るため戦術的選択肢を自ら狭めた部隊が多く、そのため陣地に篭る為の編成がなされ機動戦には不向きでした。しかも、カナダに面した中西部国境などのように戦域によっては国境線に広く分散して配備されており、連合国が一点に集中して攻撃できる事と比較すると、最初から局地的な兵力差で大きな劣勢を強いられていました。これは、呆気なく崩壊したフランス戦役を見るまでもなく、時代に則さない兵力配置と言え、いかに政治的理由とは言え後世からも強く批判されています。
 また、既に南部に大挙侵入した過剰なほど重装備を施された日本軍がアメリカ国内に深く食い込んでおり、これを阻止するため、すでに装備と機動力に優れた米軍最精鋭部隊を集めた「セントラル」軍集団のかなりが南部へと移動してしまい、本来主攻に対する予備兵力である筈の戦力が少ないことは、米軍にとっての大きな不安材料でした。
 この状況は、戦線をズタズタにされた南部の「サザンド」軍集団と市民そのものからの悲鳴のような救援要請を、合衆国という体質が断りきれなかった事から発生しており、最初から全ての国土を守るなど不可能であることが分かりつつも、それを実施しなければならなかったアメリカ陸軍の悲劇でした。
 また、米本土東部全域で制空権を奪われつつあると言う事は、陸軍の活動を大きく阻害しており、これも大きな懸念となっていました。

 あと、双方の軍ごとの総合戦力評価と装備についても少し見ましょう。
 先ほども少し触れましたが、陸軍師団の戦闘力はその国で使用されている装備その配備状況などにより「A」〜「E」の評価に分けられていました。これをさらに簡単な数字にすると10〜1の数(各段階ごとに2ずつ大きくなる)で評価する事も可能です。なお、この評価は同規模の部隊での評価となります。また、評価の基準は小銃から重砲に至るまでの個々の兵器の質はもちろん、その装備率、兵士の練度などを総合的に評価したものです。
 一般には陸軍国のドイツ陸軍の標準的な装甲師団や同じくソ連の戦車師団、日本の一部の機甲師団が評価「A」とされます。また、英国の機械化師団と日本の他の機甲師団もほぼ同様の評価にされ「B+」です(もっとも日本については1941年中ごろまでは「B」から「C+」程度だった)。
 それ以外は、各国の機械化歩兵師団が「B」、ごく一般的な自動車化師団が「C」、機械による移動力をほとんど持たない歩兵師団が「D」となります。
 ただし、空挺師団や山岳師団、海兵師団などは練度や用途の面などで必ずしもこれには含まれず、たいていは一段以上高い評価を受けています。また、米軍は装備は第一級でしたが個々の兵士の経験値の面でかなり低く評価されており、精鋭の機甲師団でも「B」、一般的な陸軍師団は「C」、予備役兵を含む州軍師団に至っては「D」もしくは「E」と連合国側では評価していました。ただし、ごく一部の実戦を経験している連邦軍師団のいくつかと海兵隊、空挺師団は連合国軍の各部隊と同等と見られていました。
 次に、実際の兵士の間では脅威度の低い兵器でしたが、近代戦にはもはや無くてはならない戦車についてですが、この頃発達する火砲などに対して正面からの戦闘に耐えうる戦車を生産できた国は、ドイツ、ソ連、イギリス、日本、アメリカの5カ国だけです。他にイタリアがドイツから技術援助を受けながらそれなりに自国生産し、ドイツの影響の強すぎるハンガリーやいまだ独立復帰していないチェコも戦車の生産能力はある程度ありました。また、単に生産だけなら日ソの工場が進出した満州国でも行われています。
 あと、フランスはまだ国土が復活したばかりで、工業力も復活中にありトラックなどならともかく高度な工業力を必要とする戦車を自力生産できるまで回復していません。
 ただし、何千両もの生産能力がある国は最初に挙げた5カ国だけで、北米の大地で蠢く鋼鉄の獣たちの過半もそれらの国出身でした。
 日本は紹介しましたので、ここではカナダ戦線のもののみ見てみましょう。まず受けて立つ側のアメリカ連邦陸軍ですが、生産の主力を76mm砲を搭載した「M4A」中戦車シリーズから重装甲の「M4E4」、「M4E8」、重戦車に分類され90mm砲を装備した「M26」へと移していましたが、数の上での現場の主力は「M4A」シリーズでした。「M4E」シリーズ、「M26」を装備していたのは機甲師団だけで、それも定数一杯と言うレベルには到達していませんでした。
 ただし、1943年から1944年夏ぐらいまでに異常なほどの増産がされた事から、全軍で1万両以上の「M4」が装備され、歩兵師団にすら大量に配備されていました。
 また、「M24」軽戦車が1943年から生産を始めており、軽戦車ながら数年前の中戦車並の装甲と小型ながら75mm砲を装備し、偵察部隊などに広く配備され、機甲戦力の一翼を担っています。
 さらに連合国軍、特にドイツ軍の重戦車に対抗するために、多数の対戦車自走砲が旧式戦車の車体などを利用して作られ、「M10」、「M36」などの76mm砲、90mm砲を搭載した待ち伏せ戦専用の防御用車両が多数製造されています。
 中でも、「M26」の車体を利用して作られドイツ軍や日本軍のように高射砲を流用し、分厚い装甲を備えた「M47」駆逐戦車が彼らのもう一つの切り札であり、高初速の砲を搭載したこの車両を用いれば「ティーゲル」、「二式改」ですら容易に撃破可能とされ(と言うよりそれが目的で製造された。当然開発時期から、それ以降の連合国軍の化け物達は明確に対象とされていない)、機甲師団や一部の独立部隊などに重点的に配備されていました。

 一方、カナダの連合国軍ですが、当地に大軍を派遣しているのは英国陸軍とドイツ陸軍で、工業力に裏打ちされた優秀さもあり自然とその装備も両国の装備が主になっていました。
 また、ドイツに降伏したソ連が、自分たちの戦争が終った事と外貨獲得のために大量に戦車などの兵器を販売しており、これを大量に買い取った日英が衛星国などに大量に供与していました。
 主に見かけられた戦車は、ドイツ製が「IV号H型戦車」、「V号戦車(パンター)」、「VI号重戦車(ティーゲルI)」、「VII号重戦車(ティーゲルII)」、「II号(偵察)戦車(ルクス)」、そして「マルダー」、「III号突撃砲」、「IV号突撃砲」や「ヤクート・パルテン」などの各種対戦車自走砲・突撃砲などで、主にドイツ軍と一部ドイツの衛星国が装備していました。
 英国製は、「チャーチル歩兵戦車」、「クロムウェル巡航戦車」、「コメット巡航戦車」、「センチュリオン巡航戦車」あたりになります。
 また、西海岸戦区のアジア系の部隊は、日本製の「百式改戦車」、「三式戦車」の供与を受けて主力としており、一部部隊が「四式戦車」を装備していました。
 そして、「T-34/76」の各タイプもアジア諸国を中心に多数見受ける事ができ、一部はロシア戦線でデビューしそこね、最新鋭と言ってよい「T-34/85」すら装備していました。
 そして、連合国側の戦車に言えることは、新鋭戦車の全てが米軍の「M4」よりも有力であり、突破戦力の重戦車と言えるドイツの「ティーゲルI、II」と英国の「センチュリオン」のどれもが米軍の切り札とも言える「M26」よりも有力な存在で(有力と言うなら「パンター」、「コメット」、「T-34/85」も含めてもよい)、連合軍は質の面でも米軍よりも優位にありました。

 少し兵器や兵力配置の話しが長くなりましたが、1946年9月7日連合軍のカナダ方面からの全面地上攻勢は開始されます。
 参加兵力は、カナダ全戦線で地上兵力が後方を含めて約400万人、航空機が1万1000機にも達していました。
 この攻勢は、先の説明の通りさっさと上陸した日本軍以外の連合国の全ての兵力が参加した攻勢となります。
 そして、ドイツ軍による対ソ攻勢を上回るほどの兵力が参加した全面攻勢は、その物量と言う点において、本来物量戦を旨とする米軍が相手という事もあり、南部の日本軍以上に過剰な物量が第一撃目に投入されたものとなりました。
 その証拠が事前の砲爆撃で、米加国境線には約27時間にわたる事前砲撃と、あらゆる航空戦力を投入した爆撃が絶え間なく継続された事で、アメリカ軍が国境線に広く長く敷設した地雷原と前線陣地の全てを吹き飛ばすかのような鉄量が叩き込まれます。
 この砲撃戦には、各種重砲はもちろん、欧州から多数持ち込まれた戦艦の主砲にすら匹敵する列車砲の数々も含まれており、主に仏独の有する列車砲が米軍の強固な陣地を破壊するのに大活躍する事になります。なお、主に使用されたのは20cmクラスの列車砲でしたが、最大級のものはセバストポリ要塞戦でも活躍した30cm以上の巨砲や80cmもの口径を持つ「ドーラ」も含まれていました。
 このカナダ全戦線が火を噴いたような光景は、砲兵戦を何より重視するソ連軍将校ですら呆気に取らせた光景であり、一部派遣されていたソ連軍の将校達に、この光景を実現させた資本主義の悪夢を見せる事になります。
 そして、空からの攻撃も熾烈を極めました。
 ただ、前線空軍部隊に対する激しい攻撃は、日本軍が上陸を開始した一ヵ月前から継続されていた為、米陸軍航空隊にこれを空から止める戦力はすでに無く(抵抗はまだ可能だったが、機体や燃料はともかくパイロットの面で資源が枯渇しつつあった)、この集中的な攻撃は既に各所ヒビが入っていた堤防を全面的に決壊させる事になります。
 そして、破れた堤防の裂け目から濁流となって平地に流れ込んだ奔流を押しとどめる術は米空軍部隊にはなく、第一線を十分に破壊できたと確認した連合国総司令部は、各部隊に対する前進を命令します。
 最初の部隊が米加国境を越えたのは、1946年9月8日午前6時17分の事でした。

 米陸軍の反撃は、この時点ではまだほとんどありませんでした。
 さすがに市民を守ることを第一とした米軍も、砲爆撃をしこたま喰らうような場所への部隊配置をするという、そこまで戦術原則を無視した防衛態勢は敷いておらず、また事前の砲爆撃は予測していた事から、連合軍の各部隊は前進陣地になおも残っていた部隊や米偵察部隊との散発的な戦闘を行いながらも、易々と国境を突破しました。
 米国境を突破した部隊は10kmほど進んだあたりから、米陸軍による本格的な抵抗にぶつかります。
 ただ、これは主にドイツ軍にとって拍子抜けするような防戦態勢でした。
 これが、ソ連領内なら街そのものを要塞陣地にして、場合によっては一般市民まで根こそぎ動員し最後の一人まで抵抗を続けるのが、それなりに立派な陣地こそ構築していましたが、それはあくまで陣地にすぎずロシアの大地で何度も出くわした堅固な都市要塞にはほど遠く、国境近辺の街の住民の過半は疎開してしまっており、しかも米兵も連合国軍側が優勢ならたやすく後退したり、包囲下にされ絶望的になるといとも簡単に降伏しました。これは、アメリカの巨大都市での市街戦を想定し、多数の戦闘工兵大隊を準備し、各部隊にも多数の火炎放射器や爆薬を用意していたドイツ軍前線歩兵部隊を本当に拍子抜けさせる事になります。
 もっとも、これはロシア戦を経験したドイツ兵など元枢軸国諸国兵の感想であり、米陸軍が敷いた第一次防衛ラインは、ひいき目に見ても十分合格点を与えてよい強固なものでした。
 しかし、陸軍そのものが大規模な陸戦の経験が乏しく、兵の練度と言う点でも、それまでの米陸軍は北千島かキューバで戦った一部の部隊以外は実戦経験を全く持たず(しかも実戦経験を持つ部隊の過半が陸軍ではなく米海兵隊で、彼らの多くはすでにカリブで壊滅していた)、その経験と言う面でそれまで数多の戦いを経験している連合国各国の兵士に比べやはり遜色しており、この個々の兵士の経験が大きな要素を占める接近戦でどうしても押しきられてしまい、連合国軍の進撃開始から24時間を待たずして、米陸軍の第一次防衛戦は早くも突破される事になります。分かりやすく言えば、状況は1940年5月のフランス軍より多少はマシな程度とまとめる事ができるでしょう。
 もちろん、第二線、第三線と長い期間をかけて構築された重厚な防衛用の陣地が築かれていましたし、最初の戦いで実戦を経験し生き残った兵士達の活躍もあり、無様に全面突破されると言うことはありませんでしたが、早くも米軍の防衛計画そのものに大きなほころびを見せるようになります。
 また、侵攻開始初日に、疎開とそれまでの攻撃でただの廃虚と化し建造物を利用した強固な防御陣地となっていたデトロイトを始めとする国境近くの都市は、早々に連合国側に包囲されていました。

 高度な近代文明地域の人口密集地帯であり、欧州と並んで世界一発達した交通網を持つアメリカの心臓部に進撃した連合国側は、それ故にいくつかの利益と不利益を受けていました。
 まず利益は、その発達した交通網そのもので、特にロシアの泥の海に苦しめられた経験を持つ枢軸軍将兵にとって北米東部の大地は天使の羽に運ばれているような環境であり、「ロシアの大地にこの10分の1でも道路が整備されていたならば、3ヵ月で我々は欧州ロシア全土を占領できた」などといわれ、しかも米軍が撤退しながら破壊しきれる交通網でなかっただけに、これらを利用した連合軍の進撃、特にトラックや鉄道を利用する後方兵站の輸送には大きく寄与していました。これは、道路だけでなく鉄道網についても同様で、連合国軍の快進撃を支える原動力となります。
 不利益は、ここがアメリカでも最も人口密集地帯な上に高度に発達した文明社会であったが故に、街そのものが大きく発展しており、地方都市ですら大きな都市規模を持ち、市街そのものが大きな地形障害と化しており、規模の問題から包囲するだけでも一苦労で、さらに大都市を迂回突破するとなると、平坦な場所に住宅地などが発展しすぎて、進撃を可能とする平地を確保する事が容易でない場合があった事でした。
 これは、いまだ農村社会が主流の南部ではそれ程大きな問題ではありませんでしたが、北部、特に東海岸部では進撃を阻害する大きな要因となります。
 また、五大湖・東海岸部はやたらと大都市が存在していたため、そこを占領すればその街の面倒も連合国側が見なければならず、初期の頃は物的にも距離的にも大きな問題ではありませんでしたが、徐々に大きな問題に膨れ上がり、農村地帯などを制圧するまでの間、連合国側の首脳の一部には、焦土戦術とは逆の方法で連合国軍の補給に大きな負担をかけようとしているのではないだろうかと疑問に思わせる程になります。
 もっともこの点は、アメリカ政府は少なくとも表面的には全く意図しておらず、呆気ない降伏も市民の安全のためのとむしろ推奨していた程です。
 次に、アメリカ社会そのものが市民の一般的な銃器保持を認めていた事から、軍や警察組織以外の抵抗が比較的容易で、しかも個人や少数グループで無秩序に行われた事も大きな問題でした。また抵抗せずとも個人レベルで銃器そのものを多数所持している事も問題でした。アメリカの法律ならともかくごく普通の軍政の支配する占領地域では、職業外での銃所持は国際法上単なるゲリラとすら言え、明確に武器を所持しているだけで即銃殺でも問題ないものでしたが、これを額面通り守っていては住民の何割かを「処刑」せねばならない地域もあり、特に無秩序な個人的感情による抵抗運動は、臨時徴兵などで市民を根こそぎ動員していたソ連軍の方がまだマトモだったと言わしめるに至ったと言われています。もちろん双方の犠牲、特にアメリカ市民の犠牲は、前線付近では膨大な数に上りました。
 このため、アメリカ特有のゲリラ活動は、英広報部により「デス・ボランティア」と命名され、連合国各国将兵に忌み嫌うべき対象として記憶される事になります。
 そして、これに主に後方で対抗した各国の憲兵部隊は多いに「活躍」する事となり、普段なら将兵に嫌われるだけの彼らに多くの称賛が寄せられたと言いますから、その有り様が分かろうと言うものでしょう。
 近代戦争に、市民の戦争ヒーローなど有りえないのです。
 ただし、一部憲兵などはあまりにも苛烈な制圧・鎮圧を行った事で、後に大きな禍根も残すことにもなりました。
 なお、この市民による抵抗活動について(ゲリラやパルチザンとすら呼べない類のものが多い)ですが、人種偏見が最も根強い南部に侵攻した日本軍と現地住民の特に農村部で頻発し、日本軍の過剰防衛により大きな犠牲を出した例があったり、反対に黒人などのそれまで抑圧されていた有色人種が日本などの有色人種部隊に協力する例が多々あったりと、連合軍が進撃すれば進撃するほど、自由を標榜とする筈のアメリカ社会の暗部をさらけ出させ、混沌とした渦をより大きくしていました。
 これは、連合国側が文明とメディアの発達した地域への侵攻と言う事で、兵士たちに国際法をうるさいほど守らせても統制するのは難しく、戦線がアメリカの内陸部に移るにつれて、連合国側の占領地域からいまだ合衆国に属している地域にまで広がりを見せつつありました。
 ちなみに、極めて異例と言われたのが、欧州やロシアで悪名を馳せたドイツ一般親衛隊が、後方の治安維持では最も効率的な活動を行い、また規律も優れているとされ、北米での戦いでは高い評価を得ている事でしょう。もっともこれは、非常に優れた親衛隊指揮官と言われるラインハルト・ハインドリッヒが現地組織を徹底して統制した事と、こういったことに大きな経験と実績を持つ同組織が戦後の占領統治を見越し、対米戦が決まった段階から入念に計画を立てていたからだとされています。

 なお、連合国側の45年内の目的は、北部地域で雪が本格的に降り出す11月半ばまでに、北米戦区では五大湖沿岸部・東海岸北部主要部の全てを占領する事を目標としており、日本軍の担当する南部戦区(カリブ戦区より改称)はアラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州を中心とした地域の完全制圧、西海岸戦区がワシントン州の制圧でした。
 また、可能であるならシカゴ、インディアナポリスを目指して進撃中の第21軍集団と日本軍が握手できるまでが自然停止線とされ、東部海岸もノーフォークまでの制圧が目標とされていました。
 さらに、南部線区は冬でも軍隊の移動には特に問題がない事から、米軍の残存戦力に応じて固守態勢に入るか、さらに攻勢を強化するかが決められる事になっていました。
 そして、翌年4月にもう一度大攻勢を仕掛け、アメリカ合衆国を完全に崩壊させる事が連合国の間で北米戦役の最終目標とされていました。

 当然、この連合国軍の目標とそれを阻止しようとするアメリカ合衆国軍の間で、北米全土を部隊として激しい戦闘が継続されます。そして、国土を蹂躙され多くの同胞、しかも必然と偶然から一般市民に多大な犠牲を強いられていたアメリカ側が、感情的な理由から最低でも敵を国外にたたき出すまで抗戦の継続を求めており、また連合国側も軍事的と言うよりは政治的な理由から、少なくともワシントンを占領するか、産業主要部全域を自らの軍門に下し合衆国の継戦能力を奪うまで戦いをやめるわけにはいかず、このため1945年8月に日本軍の上陸から始まった米本土戦は、晩秋にさしかかろうとしていましたが一向に治まる気配を見せず、10月30日にアメリカ合衆国が首都を臨時にワシントンからロスアンゼルスに移動することを発表した事で完全に泥沼化します。
 また、この首都移転と連合国側の進撃により危機感を感じた州のいくつかが、州の権限をもって中立、場合によっては連合国側との単独停戦に応じ、これは双方に大きな混乱をもたらすことにもなります。
 なお、中立や停戦に応じた州は旧南部地域の東海岸各州と、中西部の州のいくつかでした。そして、これにより冬の間に戦線は政治的に整理される事になります。

 さて、本来でしたら、ここで北米のどこで何があり、どのような戦闘が行われたかを明確に記録すべきかもしれませんが、それをしていればロシア戦線での戦い同様枚数がいくらあっても足りませんので、その点割愛させていただきますた。

 結果的には、11月13日ついにワシントンが無防備都市宣言をして陥落、同地域で電撃戦を展開していたドイツ軍の旗が翩翻と翻ることになります。
 また、10月に入り一旦一息ついて態勢を立て直したため、冬に入っても進撃を継続していた日本北米総軍は、メンフィス市郊外でカナダから進撃してきた英第21軍集団の先鋒と握手する事に成功し、ここにアメリカ心臓部と言える主要部は事実上連合国の手に帰する事になり、また主に日本軍とドイツ軍と激しい戦いを演じていた「セントラル」軍集団の主力と分断された「サザンド」、「ノーザン」両軍集団の残余など多数の部隊がテキサスなど中西部へと撤退した事で、以後の米軍反撃は散発的なものとなります。
 これにより連合国軍は、ミシシッピ河より西の事実上の占領をほぼ達成します。もちろん、東海岸南部諸州には連合国軍から無視され、移動力の低い部隊だった事から置き去りにされた形のフロリダの大兵力など少なからぬ兵力が残存していましたが、中央からの補給が途絶え、包囲下に置かれた以上軍事的な脅威度は低く、主に日独軍のその後の進撃と言いう名の残敵掃討と、南部諸州の中立宣言により無力化されていくことになります。
 なお、米軍主力ががあえて中西部に撤退したのは、基本的にはロシア人と同じ考えでした。もちろん、国の主要部で大激戦を展開して、国土をこれ以上傷つけまいとした点もありましたが、目的は別のところにあったのです。
 合衆国主要部での制空権を失い、不徹底な全地域の防衛戦略のため主要産業地帯の防衛に失敗した合衆国は、アメリカの広大な領土そのものを巨大な縦深防御として連合軍が再度の侵攻をしてきた時に、今度は結集した大軍による後手からの一撃で反撃の狼煙としようとしていたのです。
 そして、奇妙な沈黙の中、世界は1946年へと移行していきます。

■「DOOMS DAY」