■「DOOMS DAY」
1946年春、国土の半分近くを失ったアメリカは滅びに瀕していました。 しかし、条件付き降伏のタイミングを失い、戦争の幕を引く時、自国が少しでも主導権を握るには、今や国土を蹂躙している連合国軍に軍事的に一度戦術的に大規模な勝利をおさめ、それを材料に少しでも有利な停戦を望むしかないという状態でした。 往くも地獄、退くも地獄といった有り様です。 しかし、その軍事力も、海軍は西海岸に逼塞した艦隊以外は、壊滅するか連合国軍による接収もしくは自沈しており、例外は鎮守府の存在する州が中立宣言してしまったために、連合国が手を出せない東海岸のチャールストンに篭っている大西洋艦隊の残存部隊(数だけなら大型戦艦3隻、正規空母3隻も有していたが、空襲による損害で艦艇も損傷したままで、軍港には艦を動かすべき燃料がなくなっていた)があるだけでした。 ですが、連合国側の海軍力を考えると、潜水艦ですら出撃は自殺を意味するような状態であり、意味のある戦力的価値はほとんどありませんでした。 一方空軍戦力は、生産地域が数多く残っている事から依然数的には健在で、燃料問題も46年春までは余裕がありましたので連合国に対してもその5割程度の数を維持していました。 ただし、それまでの消耗戦によるパイロットの質の低下が激しく、戦力が集中された中西部においてすら、重要拠点の防空はともかく戦術的には局地的制空権の一時的優勢の獲得がやっとでした。 そして肝心の陸軍ですが、いまだ300万人以上の兵数は維持されており、さらにその半数は装備、練度の点でも十分な戦力を残していました。 ただ、航空機と違い生産地域の過半をすでに奪われていたため、一度装備が失われると巨体であるが故にその回復が難しく、疎開した工場だけでは日々の小さな消耗を補充するのがやっとで、続々と本国から増援を呼び込んでいる連合国に対して、物量面から勝機は一度あるかどうかと言うレベルでしかありませんでした。 また、ソ連のような民兵を組織する事も、以前は勝手にされるよりはとそれなりにされましたが、ソ連のような無茶苦茶な使い方でもしなければ効果は薄く、後方攪乱なども人種問題などもあり犠牲ばかりが大きく戦果が一向に上がらない事から、むしろ政府・軍の側からこれを縮小する方向にありました。この点はアメリカ政府が、戦後の人的資源の維持を図ろうとしていると言え、理性では自らの敗北は疑いないことを政府・軍共に悟っていた事を意味していたと言ってよいでしょう。このため、孤立した地域の州の中立や単独停戦も中央政府が容認方向にあったとも言えます。
一方の連合国軍は、あらゆる意味でアメリカ合衆国の残骸を完全に包囲していました。 そしてさらにこれを強化するため、海軍は大西洋やカリブに展開していたもののかなりを太平洋に再配置し、しかもユーラシア大陸の東西の島からはいまだに続々と新造艦が吐き出され、その数を増していました。 これは日英伊だけでなく、ドイツやフランスなどが行っていた海軍の再建により進んでいた新造艦艇の就役などで拍車がかかる事になります。 また、空軍力に関しては、すでに北米の半分以上の地域での制空権を握っており、残りの地域についてもよほど強固に防衛された地域でなければ、特に問題なく攻撃が可能と言える状態でした。これは、戦略爆撃機がアメリカの生命線であるテキサスの油田地帯を46年2月に完全に吹き飛ばした事で強くなり、燃料不足からさらに練度を低下させた米空軍を追いつめ、夏までには北米全土の制空権を奪えるものと予測されていました。 そして、今や北米に溢れんばかりに展開している陸軍部隊は、ワシントン州からオレゴン州へと西海岸部からカリフォルニアを狙っている英第6軍集団以外は、その過半が中西部への進撃をすべく集結していました。南から順に「日本北米総軍」、「独北米軍集団」、「英第9軍集団」、「英第21軍集団」、「英第14軍集団」(カナダ第1軍に欧州からのもう一個軍を加えて新たに編成)から成っていました。 昨年秋の侵攻による消耗も回復し、補給線の整備もほぼ満足しうるレベルにまで構築され、前線兵力も補充どころか増援すら受け取ったこれらの軍団は、合計で170個師団、500万人の兵員を抱えるまでに増大していました。 そして、一番北の「英第14軍集団」がカナダ国境の西部戦域からロッキー山脈の山並みに苦労しながら北部を進撃する他は、その過半が米陸軍主力に圧力を加えるような配置についていました。 さて、連合国軍による次なると言うよりは本次大戦における最後の作戦ですが、全面攻勢に出ることでアメリカを追いつめ、敵が動かざる状況にしテキサスにて米残存戦力との決戦に望み、これを可能ならば包囲殲滅し戦争の最後の帰趨を決定しようと言うものになります。 また、キューバ島やカナダ太平洋岸のバンクーバーにまで進出した戦略爆撃兵団による、アメリカの残存産業地帯に対する戦略爆撃を強化し、継戦能力そのものも完全に奪い取ろうともしました。 さらには、政治的衝撃度に重点を置いた、カリフォルニア各地への海上からの大規模な攻撃が企図され、このために多数の連合国の艦艇が太平洋へと送られていく事になります。 なお、地上侵攻作戦の名称は、アメリカ合衆国を滅ぼすと言う連合国の強い決意を示すかのように「DOOMS DAY(滅びの日)」とされました。
そして、この攻勢で連合国側は戦争の帰趨を決しようとしていましたが、これには非常に大きな理由がありました。 それは、経済的な問題です。 1939年9月から延々と総力戦を継続していた各国は、すでに戦争6年目後半に突入しており、生産力こそ維持されていましたが、長年の総力戦で財政どころか経済そのものが自転車操業もしくは火の車となりつつあり、国によっては何があろうともこの戦争を本年以内に終了させる必要がありました。 特に、この戦争が総力戦と言う事で、相手経済の破壊を目的としてしまった事で、たとえ戦争の勝ったところで、自国の債務を埋め合わせるための賠償を得るどころか、場合によっては相手国を復興させるためにさらなる出費すら覚悟せねばならなかったからです。 ただし、現地北米軍は、占領したアメリカ主要産業地帯の残骸を押えて一部修理して使用していた為、補給面は北米侵攻当初よりもむしろ改善しているぐらいで、爆撃と地上侵攻による戦災で四分の一以下に激減している筈の米産業の底力を見せつけられる思いで、それがなお一層の侵攻を決意させる一因にもなっていました。
1946年4月1日、新月のこの日、連合国による最後の攻勢が開始されます。 攻撃の口火を切ったのは、深夜多数カリフォルニア州とテキサス州に侵入した多数の戦略爆撃機でした。 カリフォルニア攻撃を日本軍が担当し、テキサス攻撃を英国軍が担当していました。投入されたのは、それぞれ完全編成の4個航空艦隊に匹敵する戦力、合計2500機にも達する戦略爆撃機たちと、それを護衛する前線に布陣していた1000機もの各種夜間戦闘機たちでした。なお、最新鋭の「富嶽」の数は、量産開始から実質1年な上に製造が非常に手間だった事もあり、この時においても全体の1割にも満たない数でしかありませんでした(その効果は絶大でしたが)。 そして、このあまりにも常軌を逸した飽和攻撃は、連合国の予想通り米空軍の防空能力を大きく逸脱しており、防空側の犠牲が大きかった割には全体の2%程度しか脱落させる事ができず(撃墜数は1%未満だった)、その過半は目的地で爆弾倉を開きました。特にこれは、日英独のそれぞれが終末期に属する強力なレシプロ戦闘機やジェット型の夜戦型すら実戦投入した事で米軍の犠牲を大きくしていました。 なお、天空から神の雷を落すかごとくの爆撃機の群が抱えていた爆弾の総量は、実に1万5000トン。15キロトンにも達していました。 これは、初期型原子核分裂反応弾の1発分にも達する破壊力であり、歴史的にも悪名を残す事になります。もちろん1回の通常爆撃としては、史上最大規模の爆撃でした。 ちなみにこれを、ドイツは直線的に「グロス・デア・シュラック」と呼んでいます。 この爆撃で、デンバー市、サクラメント市、ヒューストン市、サンアントニオ市の4つの街が灰燼に帰し、死傷者50万人(死者・行方不明者は約26万人)という空襲としては未曾有の大惨事になりました。 特に、サクラメント市とヒューストン市は多数の爆撃機に襲われた為、都市機能そのものすら一時停止するほどの人的・物的損害を発生させたほどの爆撃を受ける事となり、当時ですら連合国側の間でも物議を醸し出したと言われています。
この夜の攻撃は、さらに続きました。 爆撃機の群が夜の空を覆っている頃の4月2日午前2時過ぎ、闇夜に乗じてサンディエゴ軍港近在まで接近することに成功した連合国海軍の高速戦艦群は、距離25000メートルでその砲火を陸上の施設に対して開き、数時間にわたり一方的な艦砲射撃を実施したのです。 米海軍の事実上の最後の拠点に攻撃を仕掛けた作戦、戦況が有利になった段階で行われた、良く言えば野心的、悪く言えば危険な殴り込み的な作戦は、主にアメリカに安全な所などもはやないと言う政治的衝撃度だけを狙って行われたものでしたが、参加した戦艦たちが最強クラスのモンスターばかりだったため軍港施設に破滅的な効果を及ぼしました。 この時作戦に参加していた超大型戦艦は、日本海軍から「大和」、「武蔵」、「富士」、「阿蘇」、英国海軍から「St.アンドリュー」、「St.パトリック」、ドイツ海軍の新鋭「フリードリッヒ・デア・グロッセ」の7隻に及んでいました。 どれも18インチ砲以上の主砲を装備した世界最強クラスの戦艦たちであり、彼女達が繰り出す連撃に耐えうる建造物は事実上存在しないと言えるでしょう。 それを証明するかのように、何メートルものベトンに覆われた強固なブンカーや燃料貯蔵庫すら鉄とコンクリートの瓦礫と化し、サンディエゴは二度と再建が不可能なのでは、と思わせるほど破壊される事になります(連合国側はそうは判断していなかったが)。 この時射ち込まれた大型砲弾の数は3624発、これだけで5000トンもの鉄量に達していました。要するに戦術核を打ち込まれたよう破壊を振りまいたわけです。 ただ、連合国側にとって残念な事に、太平洋に残る艦艇の大半はサンフランシスコ湾の奥深くに疎開してしまっており、目ぼしい水上艦艇をしとめるには至りませんでした。 当然、夜明けと共に米空軍による復讐が始まりましたが、それも戦艦部隊と共に近在に来ていた強力な空母機動部隊の鉄壁の防空網により阻止され、米軍は傷口をさらに広げ、連合国側の宣伝に協力したような形になってしまいます。 まさに負け戦の典型のような顛末を以てこの戦闘も幕を閉じる事になったのです。 ちなみに、この時参加した戦艦たちは、秘匿暗号名称として聖書において世界の破滅の時にその始まりを告げるとされる7人の大天使の名前が付けられていました。当然、連合国指導部、特に英国人が皮肉を以て名付けたのは間違いないでしょう。 ですから、彼女達は終末の始まりを告げるためだけ、合衆国の終焉を演出するために出撃したと言えるかも知れません。
そして、地上でも破滅をもたらす666の名を持つ使者が動き出します。 連合軍による第二次北米地上攻勢が開始されたのです。 なぜそう記したかと言うと、この作戦における軍集団ごとの呼び出し符牒(コードネーム)を聖書に出る地獄の軍団の悪魔の長の名前から取っていたからです。 もう、何がなんでもアメリカを滅ぼす事を相手に伝えるための当てつけとしか思えないものですが、戦争と言う名の悪魔に対する皮肉とも取れるかもしれません。 なお、「ルシファー(Lucifer)」、「マンモン(Manmon)」、「アスモデウス(Asmodeus)」、「サタン(Satan)」、「ベルゼブブ(Beelzebub)」、「ベルフェゴール(Belphegor)」が北米の大地にある各軍集団に、当然と言うべきか特に関連性もなく分けて名付けられていましたが(順に日北米、英第6、英第14、英第21、独北米、英第9の命名順で、これは北米に足を踏み入れた順に適当に割り振ったとも言われている)、唯一いまだ北米に上陸していない軍集団、直接アメリカ西海岸を狙っている軍集団にのみ意図的に、海上からの強襲を狙っていた事から海の悪魔長たる「リヴァイアサン(Leviathan)」の名前が割り振られました。この軍集団は西海岸のカリフォルニア州攻撃のために新たに編成された部隊で、「日本太平洋総軍」と命名され、それまで各軍団が持っていた連合国側が有する全ての強襲上陸部隊をまとめた1個軍(海兵6個師団、歩兵1個師団)、同じく全ての空挺師団を集めた1個軍(空挺9個師団)、そして地上侵攻用の機械化部隊による1個軍(機甲3個、歩兵7個師団)から構成されていました。 当然、この部隊のために多数の艦艇が太平洋側に姿を見せており、メキシコ湾上陸作戦ほどではありませんでしたが、多数の艦船がパナマやバンクーバー、ハワイなどに分散してその時を待っていました。 また、史上最大クラスの大空輸部隊がシアトル付近に集結しており、同じく史上最大規模の降下作戦になるであろう作戦のゼロ・アワーを待っていました。
テキサスでの地上からの攻撃は、当然のように全ての重砲兵によるオープン・ファイアから始まります。 他と同じく1946年4月2日の未明から始まった北米全戦線で、合計2万門にも及ぶ重砲と無数のロケットランチャーによる制圧射撃は、その後24時間以上にわたり継続されました。 また、黎明と共に無数の、一説には10000機以上とも言われる(正確な数字が残っておらず諸説ある)戦術爆撃機、襲撃機、戦闘爆撃機による前線陣地に対する前線への広範な攻撃も開始されました。 そしてこれは同時に、北米に陣取る連合軍の6つの軍集団全てによる全面攻勢の号砲でもありました。 ちなみに、6つの軍集団と西海岸を直接狙っている軍集団を合せるとその兵員数は、後方を含めて実に800万人に達しており、米陸軍に対して三倍近い兵力を揃えていた事になります。
この常識を逸脱したかのような連合軍の攻撃に対して、米軍は戦域によって異なる対応がとられました。 オレゴン州にまで押し込まれた西海岸戦線を担当する「ウェスト」軍集団は、完全な遅滞防御態勢によりカリフォルニアへの道のりを阻止する方針を取るため、平野部の少ないオレゴン州全体を要塞化して待ちかまえ、カナダ国境など北部一帯の防衛を担当する「ノーザン」軍集団は、山岳部を利用した陣地固守による敵兵力の拘束を狙い、また中央部への援護のために決して側面をさらけ出させない事も求められていました。 そして主戦線であるテキサス戦線には、精鋭の「セントラル」と「サザンド」軍集団が連合軍主力との決戦をするために、テキサス州全域を巨大な要塞地帯にしてしまい、部隊を大きく要塞陣地を固守する「サザンド」軍集団と、敵が攻勢限界に達した段階で機動防御を行う予定の「セントラル」軍集団に分けていました。
そして米軍のテキサス防衛線を前にした連合軍は、現状を維持しつつ敵を圧迫する「英第9軍集団」が一見無意味な平押し攻撃をしている間に、北部からは「英第21軍集団」、南部からは「独北米軍集団」と「日北米軍集団」が機甲戦力を全面に押し立てて強引な進撃を行ない、米陸軍主力を包囲殲滅しようとしました。 これを単純な図式すると、以下のようになります。
◆開始当初
←「英第21軍」 「セントラル」 ↓ ← ←「サザンド」 ←「英第9軍」 ← ←「独北米」 ←「日北米」
◆クライマックス時(実際)
「英第21軍」 「セントラル」→ ↓↓ ← 「サザンド」←「英第9軍」 ← ↑↑ ↑↑ 「独北米」 「日北米」
米陸軍の作戦は、兵力差を考えれば基本的には堅実な防衛作戦であり、それゆえ優れたものと言えましたが、いくつか大きな問題がありました。まず制空権獲得率が自軍の上空ですら3対7以下て敵の優位にあった事です。これは陣地固守ではそれほど問題とも言えませんでしたが、機動防御の段階では激しい運動を行う部隊に対して、いかにして局地的制空権を握るかが大きな問題とされていました。 また、それよりも大きな問題は、彼我の兵力差が1対2と劣勢にあり、しかも前線部隊の装備の優劣を比較すると前線での兵力差は3対1以上と判断されており、これは攻者三倍の原則を十分敵は満たしていると見られ、軍事常識的にはとても支えきれないと言う点でした。 このため、当初の堅実な作戦案から修正が加えられ、全戦線での防衛と反撃ではなく、北部を単独で突進してくるであろう「英第21軍集団」に対する集中的な攻勢防御作戦とされ、この部隊に全ての予備兵力を叩きつけこれを撃破、それにより発生する一時的な連合国側の混乱を利用して、それを停戦のきっかけとしようとする方向にされました。
かくして、互いの思惑を抱えつつテキサスの攻防の幕は上がります。 連合国側の進撃は、4月3日の夜明け前の午前6時半を以て開始され、それまでの爆撃と砲撃と機械化工兵の活躍により完全に掃討された元地雷原と対戦車障害物を易々と通過し、合衆国陸軍の待ちかまえる対戦車防衛網に突っ込んでいきました。 連合軍による陣地突破は、彼らが予想した以上に苦戦を強いられる事になります。米軍のよく考えられた対戦車陣地とそれを構成する各種兵器、特に90mm対戦車砲(戦車砲)は連合軍戦車にとっても大きな脅威でした。ただ、独SS第6軍が各師団直轄(SS第1〜3)や独立重戦車大隊(501〜503)が多数有している「7号ティーゲルII」重戦車の群(第6軍合計だけで定数200両近くに達する)は、敵の地上からのあらゆる攻撃をものともせず、潤沢な後方支援に支えながら順調な進撃を継続していました。 また、英陸軍最精鋭軍の第8軍も、冬の間に多数配備された「センチュリオンII」(新開発の20ポンド戦車砲装備の改良型)、「チーフテン」(「五式(侍)」の英国名)を前面に押し立てて、ドイツ軍同様の強引な進撃を行っており、「英第21軍集団」の中で比較的装備の劣るイタリア第1軍(ほとんどが自国のやや貧弱な車両か、英独の型オチ供与兵器が主装備だから当然だが)が攻勢からやや取り残される事になります(士気の面の問題もあると言われるが)。 そして、連合軍の進撃開始から一週間後の4月10日、各軍の足並みの乱れを突いた米陸軍による反撃が始まります。 投入された戦力は米「セントラル」軍集団に属する、第3、第5の抽出部隊約20個師団の戦力で、その過半が機甲師団か高度に機械化された部隊で構成され、主力戦車のかなりも「M-26パーシング」系列で固められた合衆国最後の最精鋭部隊です。 彼らは、残存航空隊の精鋭を根こそぎ投入して現出された局地的制空権の下反撃を開始し、敵前線を大きく食い破る事に成功しました。 イタリア軍の進撃の遅延から、約二倍の兵力に側面を突かれた形になった戦線の最右翼(つまり最も西側)を進んでいた英第8軍は、反撃してきた部隊とそれまで防戦一方に努めていた部隊との挟み撃ちにあう事になり、しかも進撃の遅れていたイタリア軍も先鋒が米軍の反撃で叩かれ後退を余儀なくされ、約36時間で細く突出した状態に追い込まれ、事実上半包囲される事になります。 英第8軍だけでは跳ね返す事が不可能なだけの戦力を米軍は投入しており、これを救出しうる連合国側の陸上戦力は、同じ軍集団に属するイタリア第1軍かドイツSS第6軍、もしくはさらに西側(正確には北西)に位置する第14軍集団のカナダ第1軍でしたが、イタリア軍は米軍の奇襲により混乱のさなかで1日やそこらで反撃できる状態になく、カナダ軍は想定外の事態に対応不能で、軍集団の直轄予備(数個師団程度だが)以外の兵力で投入可能なのは、前面の敵を圧倒的破砕力で粉砕して戦力的に余裕のあるドイツSS第6軍だけでした。
この緊急事態に連合軍北米総司令部は、英第21軍に固守を命令すると共に、すぐに派遣できる予備兵力(と言っても合わせると軍団規模になる)を増援に付けて、ドイツSS第6軍に突出している米軍のさらに側面を突かせ、それを邪魔させないように、ドイツSS第6軍の横に位置する第9軍集団に圧迫を強めるよう指示しました。 そして、支援可能なあらゆる空軍戦力に対して阻止攻撃が命令され、急遽当初の想定よりもはるかに狭い地域を部隊にしての包囲殲滅戦へと強引に作戦を変更してしまいました。 この偶然と必然により、ダラスの南方で戦後俗に言われる「テキサス大戦車戦」が展開される事となります。 この戦闘に直接関った戦力は、連合軍の英陸軍が2個機甲師団、1個(機械化)歩兵師団、ドイツが4個SS装甲師団と2個SS装甲擲弾兵師団で、米軍が5個機甲師団と2個(機械化)歩兵師団でした。 戦車戦とされているので、戦車数を比較すると連合国側が約2000両、米陸軍が約1800両となります。 一見ほぼ互角の戦力ですが、米軍が強力な「M26パーシング」系列が全体の3分の1程度だったのに対して、連合軍の戦車はそれよりも優位な英国の「チーフテン」、「センチュリオンI、II」、「コメット」、ドイツの「ティーゲルI、II」、「パンター」系列の戦車が全体の約半数を占め、ドイツ軍などはこれに多数の突撃砲を有していたのですから、実際の戦車戦力差は2対1以上と言え、戦闘そのものも互いが互いの戦線を突破しようとした事から、ほぼ単純な殴り合いの、実際の戦術家が最も嫌う「派手なだけ」の力いくさになった事もあり双方夥しい損害が発生し、それだけに損害差そのものも、個々の兵器の性能の差を如実に反映したものとなりました。 また、戦車以外の戦力はほぼ互角の装備レベルでしたが、空軍力で連合国側が大きなアドバンテージを握っており、連合国側の戦力の集中が進むにつれてこれも直接的に双方の損害差に影響しました。特に米軍の重砲火力を連合国の襲撃機と戦術爆撃機の群が吹き飛ばした事は、戦局全体に大きな影響を与えています。
4月11〜13日にかけて、2匹の蛇が互いに喰らい尽くそうとするかのうような大混戦となった一連の機動戦により、連合国軍は400両の戦車を撃破され(その後二割が修理され戦線復帰しているが)5万の兵員を損失(死傷)しましたが、米軍はそれに倍する700両もの戦車と9万の兵員を失い、攻勢能力を完全に喪失しました。 もちろん、劣勢な側の起死回生の攻勢の終りは、敵の全面的な反攻を意味しており、周りにひしめく連合国軍に圧迫される形で、後退から敗走そして一部は包囲殲滅される事となります。 間違いなく、米陸軍の戦術的敗北でした。 ただし、米軍の反撃を受けた連合国側の北側の部隊(英第21軍集団)の犠牲も攻勢を継続すると考えると大きく、当然それまで順調だった攻勢速度は著しく低下し、また米軍の反撃による混乱から立ち直るためにも時間を必要とし、当然これは攻勢に参加していた全ての連合国軍による攻勢に影響を与え、アメリカが望んだ通りの結果を一時的に作りだす事になります。 そして、無条件降伏以外の、つまり条件付き降伏に関する交渉を行おうと努力していたアメリカ政府にとってこれは千載一遇のチャンスに映りました。 軍は壊滅しましたが、目的は達成してくれたのです。 そして、連合国側がここでの決戦だけを望んでいたのなら、戦費に大きな不安を感じていた連合国側は、攻勢頓挫による数ヵ月から半年の戦争の延長よりも停戦に応じたかも知れません。
しかしその翌日、全てを終らせるための、連合国軍による最後の作戦が開始さる事になります。