■アメリカ参戦
1942年に入りましたが、欧州での戦線は冬と言う事もあり、ドーバーを挟んでの航空戦とシーレーンの攻防戦以外は大きく動く事はありませんでした。 全般的な戦況は、あえて言うなら市民レベルの視点からすると、連合国、枢軸国どちらが有利とは言えないと言う認識です。 もっとも、それぞれの政府レベルでは、違う見解を持っていました。 一つは、このまま千日手(勝負がつかない)になってしまうのではと言う意見と、もう一つは、基本的な国力の差から連合軍側の判定勝ちで終わるだろうと言う意見でした。ただしこれには条件があります。アメリカ合衆国の参戦の有無です。 また、連合国側の意見として共通しているのは、アメリカ合衆国が今後どう動くかと言う事で、共にこちらから手を出さない限り、アメリカに開戦理由は全くないし、アメリカ国民の厭戦感情は高いので無視するのが一番と言うものです。そうすれば、最悪の事態は避けられるだろうとどちらも結論づけていました。 つまりこの意見は、アメリカが参戦したら連合国側の敗北で終わるだろうと言う事を示してもいましす。 アメリカの戦時生産の能力は世界の4割、場合によっては半分に達するので、もしアメリカがドイツの側に立って参戦した場合、連合国側はよくて判定負け、順当に考えれば条件付き降伏を迫られるのが大勢を占める意見となります。 そして反対に枢軸国側は、戦争に勝利するためには何としてもアメリカ合衆国の正式参戦を必要としており、このため様々な外交努力が行われましたが、この時点では援助以上の事を引き出す事はできませんでした。
もっとも、アメリカ政府自身は、世界とは違う意見を持っていました。 アメリカは、この戦争の間にアメリカの経済を立て直すためにアジア市場を欲しているのであり、別に欧州の全てが廃墟になろうがどうでもよかったのです。そう、戦争は手段であり目的ではなかったのです。 もっとも、欧州列強がこの戦争で大きく疲弊してくれれば、商売敵もなくなり、それに勝るものはないと言うのが正直なところでしょう。 もちろん、債務や貿易などで一時的利益を得る事に徹する事も考えられましたが、政府中枢では今後半世紀、一世紀を考えれば、このチャンスに勢力圏を大きく拡大しておく必要が大いにあると判断されたのです。 そして、アジアをアメリカの影響圏におさめる為に、日本・アジアを目標とした戦争で圧倒的な勝利を勝ち取り、その片手間で欧州を疲弊させる。この二つの目的に合致した最初の一手が「武器援助法」であり、そのため無理をしてこの法案の議会を通過させたのです。 しかし、この誘いに連合国側、意中の国たる日本すらのってこないのですから、アメリカの焦燥は深いものとなります。 連合国、そして日本が挑発に乗ってこないのでは、現状ではドイツに利しているだけで、戦争はこのまま推移し、結局欧州をドイツが、それ以外を連合国側が手にして終わり、アメリカはまたも蚊帳の外で、今度も世界外交の孤児になってしまうのではと言う考えに至るまで、それ程時間はかかりませんでした。
こうした考えのもと、アメリカの連合国、とりわけ日本をターゲットとした挑発が41年末から激しさを増すようになります。 突然、無茶な外交要求を押しつけたり、ドイツに対する援助を大きくしたり、連合国の軍の移動に文句を付けたりと、なりふり構っていない様が見て取れるような動きが次々と行われました。 さらに、軍艦を日本の領海近くや委任統治領に派遣したりすると言う、あからさまな挑発すら行われるようになります。 これに対して連合国側は、英国が政治的な主導的地位にあった事もあり、また日本自身もよく自制したので、42年の春を迎えようとしてもアメリカとの「戦争」と言う事態に発展する事はありませんでした。 しかし、その裏ではもしもの場合に備えた準備と、作戦がいくつも用意されれる事になります。アメリカの挑発があからさますぎたので、日英のそれ程の対応をとらせる事になったのです。これは、ある意味アメリカの望んだ事でしたが、後で痛いしっぺ返しを喰らうことになります。
そして、日米の中が不安定になった頃から続けられていた日米交渉において、突如アメリカ政府側から、それまでの交渉をまるで白紙に戻すような、そしておおよそ外交常識を無視した内容の書簡が手渡されます。 俗に言う「ハル・ノート」です。この書簡は1942年3月26日に日本政府の米全権大使に手渡されました。 そしてこれを受け取った瞬間、日本は対米戦争は避けられない事を悟ります。 日本政府がこのアメリカからの無茶な要求を飲む事は、それまでの近代日本の成果を全て無にする事を意味していました。 書簡の内容は、戦争勃発により国連の名目でなし崩しにハワイ、フィリピンに駐留している日本軍の全面撤退を求めるのは今まで通りで、これに関しては日本も妥協するつもりはありましたが、それ以外にも全中華地域(満州含む)からの兵力の撤退や対独戦争の一国のみによる停戦、日本市場の完全解放、そして一度は認めた満州国の解体まで含まれており、到底日本政府が受け入れられないものばかりでした。 そして、要求が受け入れられないなら、通商条約の破棄、対日貿易全面禁止、日本資産の凍結などの厳しい対処処置を講じるとされていました。 そして、この書簡に対して日本政府からは、到底受け入れられないとの当然とも言える返答が出され、同時に従来の交渉に沿った対案も出され、交渉を継続したいとの逆提案がなされます。近代国家の外交常識なら、十分とは言えないまでも、それで問題はないはずでした。英国などもこの方針を支持しました。日本市場の開放は、英国市場の開放にもつながり、日本の外交的屈服は連合国に大きなダメージを与えるからです。
しかし、4月1日にアメリカから強硬な返答がされます。合わせてロング大統領のスピーチまで発表されました。戦後の大衆紙などで「エイプリル・フール宣言」と言われたものです。 曰く「大日本帝国は、英国との実効力のない条約を軍事同盟と勝手に解釈し、不当に欧州の戦争に介入するだけでなく、戦争のどさくさに紛れて、軍事力によりアジア・太平洋地域での覇権を大きく広げています。そして、これに対して警告したアメリカ政府からの提案を、全て無視するような返答がされました。この事は平和と自由を愛するアメリカとして、到底受け入れられるものではありません。そして、この大日本帝国の返答は、かの帝国がかつて行われた太平洋戦争以後も、帝国主義的膨張政策を依然持っている証であり、アメリカ政府は日本が我が政府が示した提案を受け入れないのなら、しかるべき措置を取らねばならないでしょう」と言った内容でした。 そして、要求と大統領のスピーチは、(第一次)太平洋戦争で日本に対してあまり良い感情を持っていない市民に対して受け入れられ、「リメンバー・パシフィック・ウォー」と言うかけ声のもと、アメリカの対日戦争機運が一気に高まることになります。 これに対して、日本政府から様々な提案と話し合いが持ちかけられましたが、表面上以上にアメリカが受け入れる事はありませんでした。 そして、アメリカ軍の動向を掴んだ日本政府は、これ以上の交渉は事実上不可能と判断し、連合国の了解の上対米戦争の決定を行います。
日本時間の1942年4月8日未明前、アメリカ合衆国は日本政府がアメリカ政府の提案を受け入れなかったとして、これに対して大日本帝国に対して宣戦を布告するに至りました。 第二次太平洋戦争の勃発です。 そして、第二次世界大戦はこの戦争勃発で、本当の世界大戦へと拡大する事になりました。
開戦壁頭、米軍の攻撃を受ける事となったのは、日本軍の予測した通りハワイ諸島でした。もっとも、常識的には戦術的・戦略的にハワイを攻略せねば、太平洋への進撃はできないのですから、予測が外れる可能性の方が稀と言えるでしょう。 他の島嶼では、港湾・泊地の規模、気象条件などから到底大艦隊の停泊、侵攻が出来ないからです。 そして、ここでの戦闘を予期していた日本艦隊と米太平洋艦隊との間に、必然的な戦闘が発生しました。 「第二次ハワイ沖海戦」と呼ばれる、空母対空母によって行われた初めての戦闘がそれに当たります。 では最初に、双方の兵力配置を見てみましょう。なお、陸軍兵力はここでは省いています。
■日本軍 第一機動艦隊:(艦載機:常用約250機) 第五戦隊:「金剛」、「榛名」、「比叡」 第一航空戦隊:「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」 第四航空戦隊:「龍驤」、「龍鳳」 第二十一戦隊:「大淀」、「仁淀」 艦隊型駆逐艦:12隻
第二艦隊:(艦載機:常用約60機) 第三戦隊:「加賀」、「土佐」、「長門」、「陸奥」 第八戦隊:「古鷹」、「青葉」 第十三航空戦隊:「日進」、「瑞穂」 第十戦隊:5500t型:4隻 第四水雷戦隊:「酒匂」 艦隊型駆逐艦:16隻
第四艦隊(遣布艦隊): 第五戦隊:「伊勢」、「日向」 第十五戦隊:5500t型:3隻 第五水雷戦隊:5500t型:1隻 艦隊型駆逐艦:8隻
在ハワイ空軍戦力 第1航空艦隊・第21航空戦隊 (戦闘機150・爆撃機110・他多数) 陸軍第5航空集団 (戦闘機100・爆撃機110・他多数)
■アメリカ軍 第五任務部隊(太平洋艦隊) 第二戦隊:「アイオワ」、「ニュージャージ」、「ミズーリ」 第三戦隊:「ウィスコンシン」、「イリノイ」、「ケンタッキー」 第四巡洋艦戦隊: 「ニューオーリンズ」、「サンフランシスコ」、「タスカルーザ」 第五巡洋艦戦隊:「ヘレナ」、「セントルイス」 第三水雷戦隊:「ローリー」 駆逐艦16隻
第七任務部隊(太平洋艦隊)(艦載機:常用約340機) 第一空母戦隊:「エンタープライズ」、「ホーネット」 第二空母戦隊:「ヨークタウン2」、「ワスプ」 第八巡洋艦戦隊:「サヴァンナ」、「ナッシュヴィル」 第四水雷戦隊:「コンコード」 駆逐艦16隻
第四任務部隊(太平洋艦隊)(艦載機:常用約160機) 第三空母戦隊:「レンジャー」、「ラングレー」 第六巡洋艦戦隊:「ブルックリン」、「フェニックス」 第六水雷戦隊: 駆逐艦8隻
以上双方とも、ハワイ方面に投入できる最大規模の海上機動戦力を投入していた事になります。 特に航空戦力は、双方とも欧州での戦訓から多数が投入されていました。これは、日本の基地航空戦力において顕著であり、陸海合わせて1個航空艦隊にものぼる戦力が、ハワイに展開していた事になります。そして、既に戦時体制に入っていた日本が、現時点においてこの点で非常に優位立っていました。 なお、これ以外の太平洋上での日米の有力な兵力は、それぞれの主力打撃艦隊が北太平洋でにらみ合っているものがあるだけです。また、アメリカは大西洋方面をがら空きにもできないので、そちらにもある程度の海洋戦力を保持しており、結果的に兵力を分散せざるをえなくなっています。
ハワイ東方の沖合で行われたこの一連の海戦は、開戦までに極秘裏にハワイ近海まで近づいていた米機動部隊による、黎明からのハワイ諸島に対する航空攻撃から幕を明けます。 これは、後世言われるよりも、米軍が戦術原則を守っていた事を何よりも現す例でしょう。 当然、アメリカ軍は、敵の厳重に防御された根拠地、しかも開戦後の戦闘と言う事から、強襲となる事を予測していたので、その攻撃にはほぼ全力が割かれました。故に6隻の空母から放たれた米軍の攻撃隊は、第一波240機、第二波180機にも及ぶ洋上艦艇から放たれた規模としては空前のものとなります。 これに対して日本軍も、ハワイ一帯に哨戒機や哨戒艇、電探などによる厳重な監視網を作り上げていたので、この攻撃に対して大きく遅れを取ることはなく、敵部隊を素早く探知すると在ハワイ航空戦力の全力を挙げた迎撃が行われました。なお、米艦載機がハワイに達するまでに、迎撃位置につけた戦闘機の数は約200機で、迎撃機のほぼ全力にあたりました。 日本軍がこれ程素早く、しかも統制のとれた迎撃網を敷けた背景には、欧州のバトル・オブ・ブリテンでの戦訓がよく活かされた結果であり、この点すでに豊富な戦闘経験を持つ日本側の大きなアドバンテージとなりました。 日本防空隊は、英本土での航空機統制と同じシステムにより米艦載機を効果的に迎撃し、2波に分かれた米部隊のスキを突いて、激しい迎撃戦を展開しました。しかし、二倍に達する攻撃部隊を防ぎきる事はやはり出来ず、ハワイの軍港施設、航空機基地は大きなダメージを受けることになります。 ですが、日本側の迎撃により米艦載機は、全体の3割にも上る犠牲を強いられる事になり、また迎撃機の妨害と激しい対空砲火のため、オワフ島の施設を叩ききる事もできませんでした。
しかも、米軍の攻撃が終わり帰投しようとしていた頃、まさにその時、日本軍による反撃が開始されます。 日本側の反撃の一番ヤリを仰せつかったのは、米軍の空襲を避けるために空中退避を兼ねて索敵攻撃に出撃していた日本海軍の第21航空戦隊の96中攻撃と1式陸攻となりました。 索敵攻撃のため当初襲いかかったのは、攻撃部隊の三分の一程度でしたが、その後敵位置を知らされた他部隊も順次到着したため、結果的に五月雨式の攻撃となり、これが米防空部隊の疲弊を誘う事になります。 この一連の基地航空隊の攻撃は、その性格上散発的となったため日本側の犠牲も大きく、結果的に未帰還5割以上と言う悲劇的結果に終わりますが、戦艦、重巡洋艦各2隻を損傷させ、防空隊にも2割以上の損害を与えた為、この後の米主力艦隊によるオワフ島の艦砲射撃を一時断念させる成果を挙げます。 しかも、日本軍の反撃はこれだけではありませんでした。この時、ようやく戦場に到着した日本海軍の機動部隊が、一斉に殴りかかったからです。2波200機にも上る攻撃隊は、基地航空隊が作り出した防空網の隙間を抜く形で米空母機動部隊に殺到し、これらに対して痛打を浴びせる事に成功します。 これは、2次攻撃隊が攻撃を終了するまでに日本軍機は、空母「ヨークタウン2」、「ワスプ」を撃沈、「ホーネット」大破の戦果をあげます。 もっとも、米軍もこの時には、近くに接近していた日本空母機動部隊を発見しており、ハワイから帰投した部隊を再編成し急ぎ攻撃隊を放ち、カウンターパンチとして、空母「雲龍」、軽空母「龍驤」を撃沈、空母「蒼龍」撃破の戦果を挙げます。 そしてその後、双方ともさらにもう一度攻撃隊を放ち、それぞれの主力艦隊に対して痛打を浴びせる事に成功します。 つまりこの結果、太平洋上にあった双方の洋上機動戦力が、開戦初頭に早くも傷つき消耗してしまったと言うことです。 特に、日米双方とも太平洋上(つまり米軍は全海軍)の母艦航空戦力の半数を消耗する損害を受けていました。
そして、ハワイ強襲とその後のハワイ諸島に対する電撃的攻略作戦を予定していたアメリカ側の失望は大きく、この一連の海戦が以後の戦局に大きく影響する事になります。