■赤化

 1946年4月16日午前零時、ロスアンゼルスから合衆国全土、否、全世界に向けて放送が行われました。
 久しぶりに国民の前に姿を現したヒューイ=ロング・アメリカ合衆国大統領は、静かに議場に入るとマイクが無数に林立した壇上で語り始めました。
 「議員の皆様、記者の諸君、前線で戦っている兵士達、そしてアメリカ合衆国全ての市民の皆さん、わたくしことヒューイ・ロングは、今日この時、アメリカ合衆国大統領として、そして一人の合衆国市民として、ここに連合国が提示した『ポツダム宣言』をステイツが受諾する事を議会に提案します。」
 この言葉から始まったアメリカ大統領ヒューイ・ロングの演説は、この戦争の意義、目的を語ると共に、その目的を達せず大きな犠牲を払った事を戦争を指導した大統領として謝罪し、もし降伏したとしてもアメリカ市民として理性的な行動を取るように呼びかけるものとなりました。
 また、降伏に関する事を話し終えた後、降伏交渉がまとまるまで大統領の職責を全うし、それをもって本戦争の責任を取り辞任するとも発表しました。

 この放送は、アメリカ全土に大きな驚きと落胆を持って迎えられましたが、これまで戦争を主導してきた元首の口から『負けた』との言葉が発せられた事、そして物理的にも戦争が敗戦以外ありえない事から、敗戦を迎え入れる最初の心の準備となりました。
 日本で言う所の『言霊』の効果とでも言うのでしょうか、その後協議に入った議会も一部強硬な意見こそありましたが、概ねポツダム宣言を受入れる方向に流れました。
 もちろん、これには連合国側から提示された、合衆国の保持という言葉が大きな効果を挙げていたからに他なりません。
 連合国側が示した、最後の妥協が物理的にも敗北しつつあるアメリカを降伏へと誘っていったのです。

 ですが、議会が降伏を決議するのには、民主国家であるが故にそれなりの手続きを必要とし、前線ではしばらく戦いが継続される事になります。
 アメリカ軍はいまだ白旗を掲げておらず、連合国は西海岸ではまだ橋頭堡を確保したばかりで、テキサスでは未曾有の大軍による追撃戦の真っ最中という事が影響していました。
 双方戦争が終ると決まっていないのに、戦闘に手を抜くわけにはいかなかったのです。
 また、アメリカに降伏の路を示した以上、一刻も早くそれを実現するためにも連合国側の攻撃は手を抜かれることはなく、それどころかそれまで以上に攻勢を強化する事になります。
 さすがに無差別都市爆撃こそは多少控えられましたが、特に軍隊に対する攻撃は対面していると言うこともあって、各地で激しい戦いがもう数日展開される事になります。
 後世の目から見れば、ここから数日間の戦いは無意味に映りますが、戦争当事者にとっては戦争が本当に終るという保証がない以上、決して手を抜けるものではありませんでした。特に命をやり取りしている前線の兵士達にとってはなおさらです。
 テキサスでは、連合軍の追撃がついに包囲殲滅という本来の形に戻りダラスの街を包囲せんと進撃を継続、4月20日の日本北米総軍と英第21軍集団先鋒の握手という形で決着がつき、西海岸に上陸した日本軍は、幅150km、縦深30kmという地域を完全に確保、1週間以内にサンフランシスコ一帯を包囲し、さらに1ヵ月後にはカリフォルニア全土を蹂躙できる目算がたつまでの態勢を整えることに成功していました。
 なお、この間に死傷した双方の兵士の数は、なまじ規模の大きな戦闘であった事から10万人以上にも及びました。もちろん、死傷者の過半はアメリカ側のものです。また、一般市民の死傷者の数も人口地帯での戦闘だった事から、多くが疎開していたにも関らず万の単位に達しています。

 そして議会はその間、極めて重要な案件であるにも関らず、それまでの最短記録を更新するかのように議事を進め、4月20日には連合国に対する降伏を決議するに至ります。
 もちろん、提案者にして合衆国を統べる立場の大統領にこれを拒む理由はなく、ただちに連合国各国に降伏を正式に打診しました。
 連合国側もこれをただちに受入れ、グリニッジ標準時での1946年4月21日午前十二時零分をもって、アメリカの降伏が決まり、あしかけ6年半にも及び、世界の全てを戦場とした未曾有の戦争もここにカーテンコールを迎えることになります。
 もちろん、アンコールはありません。

 そして残ったものは、世界の半分の廃虚でした。
 そう表現してよいでしょう。何しろ陸戦の主戦場となったアメリカ合衆国とソヴィエト連邦を合せた戦前の重工業生産力は世界の半分に達しており、アメリカ一国での国力はそれだけで世界の4割に達していたからです。それが灰燼に帰したのです。
 また、欧州の各地も大戦の初戦で戦場となった事から、決して無視できない損害を受けており、戦争の影に隠れてあまり見えませんでしたが、ポンドやマルク、フランに換算しても軽く百億の単位に達する惨禍を創りだしていました。
 一見すると、大国として唯一戦争のツメ跡の小さい日本だけが大きくなったと見ることもできます。
 そして、世界中で一億人以上の兵員を動員し、多数の戦争被害者を出し、そして本次大戦により本土が直接戦場となったアメリカとソ連は文字通りの廃虚となり、主に両国における戦死者、一般市民の死者数の合計は終戦時点の統計でも3000万人の大台に達していました。
 しかし、未曾有の大戦争はここに終息したのです。
 アメリカ合衆国の降伏と言う結末を以て。

 戦争は、とにかく終りました。これにより生き残った列強は、パイの再分配と焼け野原となった戦後の世界についての話しあいを始める事になります。
 戦争の総決算を決める最後の話し合いは、連合軍の占領下のワシントンにて行われる事になりました。
 この街は、爆撃により半分ほど壊滅していましたが、連合軍の陸上侵攻に際して無防備都市を宣言したため完全な破滅を免れ、またそれまで整備されたインフラの便利さに、この街を占領した連合国もここを通信・情報の拠点として活用していた事から早くから復興が進められ、終戦時には近代都市として十分機能していました。
 『ワシントン会議』と呼ばれる事になる話し合いは、大きく二つに分けられていました。
 一つは、世界全体での戦後世界の話し合い。
 もう一つは、「ワシントン軍事裁判」と呼ばれるアメリカ一国に対する軍事裁判という、外交常識からは考えられない特異な裁判の開催です。
 そしてこれが、本大戦の終了のための儀式でした。

 また、アメリカの降伏とともに、連合国の間でアメリカ占領軍が新たに設置され、それまで侵攻していた部隊のかなりがそれに再度所属し(と言っても戦争終了と共に半数以上の兵力はそれぞれの国に帰国していたが)、広大なアメリカ全土の統治を行いました。
 なお、この占領軍総司令官には、英国のモンゴメリー元帥が就任し、副司令官として日本軍の今村大将(対外的には元帥待遇)、ドイツ軍のパウルス元帥がその任務に就いていました。
 これは、戦後を主導する大国が誰であるかを、それ以上ないぐらい現すものと言えるでしょう。
 なお、占領にあたっては、各国分担で州ごとに占領にあたり、主に政治的理由でモザイク状に配置され、日英独はもちろんフランスやイタリア、ソ連、中華民国などが抜け駆けして一定の地域を分離独立させようとしても物理的に不可能な状態とされました。もっともこのため、事あるごとに小さな混乱が発生し、アメリカの占領統治を混乱させる事にもなります。

 1947年1月15日にワシントン軍事裁判は終り、その一週間後に連合国の戦後の世界統治に関する話し合いも一つの合意に達しようとしていました。
 世界最大の国家たるアメリカとの戦争が、欧州列強を始めとする世界を呉越同舟という形でしたが一つにし、世界中が北米に軍事力を集めていたという極端な状態が(反対に欧州やアジアは軍事的空白だった。そうして、兵力を捻出しなければアメリカは妥当できなかったからだ)、主義主張の違う国々を無理やりまとめさせたと言えるかも知れません。

 軍事裁判においては、ヒューイ・ロング大統領、マーシャル総参謀長、海軍のキング提督、ニミッツ提督、陸軍のアイゼンハワー将軍、マッカーサー将軍など軍の要職にあった者、ルメイ少将など戦争重犯罪人とされた軍人などの終身刑の決定と共にアメリカ国内で実に2000人もの戦争犯罪人が処罰され、また公正さをアピールするために、連合国各国からも特に非難された作戦や行ないをしたとされる軍人の幾人かが処罰されました。
 なお、この軍事裁判では、全員無罪を主張する一部検事などからの意見を踏まえて、未来への遺恨を残さないためとして死刑は一人も出さない方針が採られており、このため日本などが強く主張したアメリカ政府首脳に対する死刑要求すら緩められ、終身刑以上の者は出ていません。
 また、戦後の枠組みについては、権限の制限から機能しなかった国際連盟に代わって新たに『国際連合』の設立が決定し、この組織に全ての列強・大国が参加する事、組織そのものに強大な権限を与える事で、二度と今次大戦のような悲劇を繰り返さない事が誓われました。
 もちろん常任理事国には、大英帝国、ドイツ帝国、大日本帝国、フランス共和国、イタリア王国、ソヴィエト連邦、そして戦争中に独立を果したインド共和国がその名を連ね、共和国、立憲君主国、社会主義国、国家社会主義国など様々な政体の国家が一つの組織の下に参集する事になります。
 そして、特に日英独などその中でも主動的地位と国力を持つ大国の暗黙の了解は、二度とアメリカやビクトリア朝時代の英国のようなスーパーパワーを作り上げない、というその一点に政治的努力が図られる事になります。日本で言うところの三竦みで世界の安定を図ろうというものでした。二大勢力の対立などロクな事はない、と言うのが二十世紀前半での二度の世界大戦で、世界が学んだことと言う事です。
 ちなみに、これを聖書にあてはめて、好意的に「三賢者の時代」とする歴史家もいます。

 これ以後の時代は、ある種大国の間だけの平和が保たれる事になりますが、これを大戦争を戦ったが故の反動とするものもあれば、アメリカを滅ぼしたその姿に自分たちの一つの未来を投影し、その恐怖ゆえに自制したのだとするものもありました。
 どちらにせよ、数年間も国力の全てを傾けて行う戦争は、戦争にかかる経費そのものがばく大になりすぎて、これ以後人類が地上にあるうちは物理的に行えなくなったのですから、心理的側面はその付け足しに過ぎないというのが、経済学者や軍事戦略の研究家の一般的な見解となっています。
 一部の国家を除き、国政とは理論的に行うものであるのが普通ですから、この意見が最も妥当と言えるでしょう。
 そして、その理性がアメリカの近代国家としての最低限の復興を後押しすることになり、終戦からちょうど10年後の1956年9月1日にアメリカはサンフランシスコ平和条約に調印し、独立を復帰させ、日英独のコントロールのもと中南米のような国土だけ大きな資源輸出国として国際復帰を果すことになります。

 なお、アジア唯一の大国として第二次世界大戦を戦い抜いた大日本帝国ですが、その後英国の衰退による国際的地位の相対的な低下と、独ソの水面下の対立の中、アジア、太平洋、インド洋での覇権を英国の暗黙の了解と一部独断専行により拡大し、広大な勢力圏を抱えた世界的視野での大国として浮上、世界中の戦後復興の中でも抜きん出る事に成功、名実ともに英国、ドイツと共に世界の三大国の地位を確固たるものとしました。
 それに対して、1956年にようやく独立復帰したアメリカ合衆国でしたが、10年間もの連合国による占領期間の間に軍産複合体などと呼ばれた巨大な軍需産業は完全に解体され、工業の復活も連合国各国が自国の復興を優先した事から形以上に援助される事は少なく、また本来自国を復興させるべきアメリカの企業そのものが、自国内での(設備的に採掘できない資源以外の)全てのモノ不足から、主に欧州や戦後の日本の資産投下で爆発的発展を遂げている満州地域などへと逃亡してしまっており、最小限のインフラ復興以外はほぼ放置状態で、世界中の他のどの国の大企業もまずは自国とその影響圏への努力を集中しなければならない状態だった事から、こちらも北米への進出や復興援助は各国政府が行わせた形以上のものはなく、連合国各国が必要とした鉱工業の一部復興以外はありませんでした。
 これを統計数値で見てみると、1940年の開戦前、世界の40%を占めていた工業生産量は、アメリカ国内のインフラを辛うじて維持できる程度の7%(6分の1)にまで激減、その多くも民生を支える軽工業が主で連合国側が熱心に破壊して回った重化学工業生産に至っては、鉄鋼、造船、自動車、製油などありとあらゆる分野で1910年代初頭の日本とたいして代わらないレベルと言える程度にまで下落する事になります。
 とどのつまり、開戦前世界第一級の工業大国にして産業大国だった国が、鉱工業生産と農業生産により辛うじて命脈を保っている三等国家へ下落してしまったと言うことです。

 長きの国内での外国との戦争、拍子抜けするような連合国側の最後の降伏勧告による米国民のモラルの喪失と、遅々として進まないだらだらした戦後復興が、この状況を作り上げたと言えるでしょう。
 そして、これは当然のように資本や企業だけでなく、資産家、節度のある知識階級の『国外逃亡』を助長し、それまでアメリカの発展を支えていた頭脳と背骨が文字通り骨抜きになる現象を生み出します。

 そして、戦後の国全体のモラル低下、戦後の泥沼のような不況、そして一部勢力の影からの支援が、1958年夏、一つの形に結実する事になります。
 アメリカの『赤化』です。
 戦後しばらくして大量の失業者を抱えるようになったアメリカ産業をささえていた労働者層その原動力でしたが、日英独が牽制しあう緩慢な占領軍による統治の後遺症による地方行政の混乱、何とか生き残ったソヴィエト連邦の世界的な生き残り戦略として行われた、シンパを増やすための思想的な面での草の根活動、合衆国に残ったエリート崩れの知識階級の暴走、そして戦争の大敗が生み出した、アメリカ的自由資本主義の理想・思想的崩壊が、この現象を数年かけて作りだしたのです。
 また、発生当初は一部の州での低調な活動だった事と、どの国もこれ以上北米での当座の面倒を抱え込むことを強く嫌った故の責任の擦りつけあいがこれを助長し、占領軍の一部だったソ連が独立後もその時培った裏ルートを使い武器の横流しをした事で事態が加速、そして占領軍がアメリカの軍備復活に全く熱心でなかった事で坂道を転がるようにアメリカ全土を『赤化』の嵐に覆わせる事になります。

 1958年8月に早くもアメリカ・ソヴィエト臨時政府の樹立が東部のバーミンガム市で宣言され、臨時政府がいまだ各地に残る占領軍の即時退去をまず第一に求めた事から、長きにわたる占領に大きな不満を持っていた民衆がこれに賛同、アメリカ全土は再び戦闘状態へと移行。
 これを、全てソヴィエト連邦(ロシア人)の責任だとしたドイツは、遠い海の果てのアメリカなどの事よりも隣りのロシアへの警戒感を強めた事から、民衆に追い出される前に早々に北米から足を抜き、カナダなどへの赤化の伝搬を恐れ、ロシア革命での手痛い経験を持つ英国も、カナダとそれに隣接する一部の州に対する治安維持以外は手を出さず(陸上兵力的にも出せない状態だったが)、また日本も生命線の満州と隣接するロシア人と共産中華に対する警戒をまず重視せねばならず、また太平洋さえ安定していれば当面の問題は回避できるとして、西海岸での活動こそそれなりに行いましたが、それ以外は事実上放置。統領の統治体制に大きな不安を抱え戦後経済も停滞していたイタリアに北米に介入する政治的・軍事的な力はなく、フランスは英国とドイツに対する独自姿勢を維持するという政治を優先して、政治的パフォーマンスだけの勝手な行動を行っただけで物理的には事実上の静観、中華民国は自国でも燻っている共産中華との事実上の内戦で北米などどうでもよいというのが実情で、独立から10年のインドは国内統治にこそ力を入れる段階で、国外、しかも遠く北米に何をする力もありませんでした。

 事態の深刻さが増した1959年に入り、ようやく英国が日本などと歩調を合わせて事態の沈静化に本格的に取り組もうとしましたが、この時には既にアメリカ・ソヴィエトの勢力は北米の東部と南部で強大になりすぎており、もはや本格的軍事介入以外にこの事態を止めるのは不可能という程悪化していました。
 そして、まだどの国もそれだけの金はなく、また一度破壊してしまったアメリカにそこまでする必要性を(短期戦略的に)認めず、太平洋での制海権の獲得のためにも必要で、日本などが何とか維持している西海岸地域での努力こそなされる事になりましたが、他は独立復帰した彼らに任せる事となりました。
 ハッキリ言ってしまえば、戦後さらに混沌とした世界にあって、列強にとって両洋で孤立した北米大陸など二の次に過ぎず、彼の地に強大な国家さえなければ、後はどうでもよかったと言うことになるかも知れません。

 1959年10月、ついにワシントンにあった「正当な」アメリカ合衆国政府は再びロスアンゼルスに亡命、同地にはアメリカ・ソヴィエトが入り、赤と白のストライプの部分を真っ赤に染めあげた新たな旗を掲げ、アメリカ社会主義合衆国の成立を宣言するに至ります。
 また、占領中の連合国側の怠慢と事態拡大後の努力のおかげで、双方の北米での軍事力が極めて少なかった事から、西海岸に亡命したアメリカ合衆国政府は、ロスアンゼルスを恒久的な「臨時首都」として10数個の中西部の州での影響力を保持し、なんとか生き残る事にも成功していました。
 ただ皮肉な事に、その後赤化したアメリカは、ロシアとは違う道のりの社会主義路線を辿り(資本主義の寵児から転向したのだから当然だが)、生き残った筈のアメリカ合衆国は日英の事実上の衛星国、悪く言えば防波堤としての属国のような存在に成り下がっていました。
 そして一番の皮肉は、アメリカの赤化がドイツの国家社会主義路線に大きな影響を与え、ドイツを日英との本格的共同歩調へと歩ませた事でしょう。
 これは、ドイツ占領地域であり新たな領土としていつ併合されるかと言う事だけが注目されていた欧州ロシア地域が、彼の地を緩衝地帯とする事を決めたドイツ人の手によりロシア共和国として比較的穏便に独立を宣言し、ロシアの本格的な東西分裂を行わせる政治的激変をもたらすことにもなります。西ロシアは、緩やかなかたちでドイツの生存権である資源地帯にして緩衝地帯とされたのです。
 また、欧州全土が反共で一つとなり、これに日本など太平洋諸国が連携し、伝統的(資本主義)体制と革新的(社会主義)体制による新たな対立構造、ロンドンなどのマスコミの言う所の『レッド・ストライプ』という、地理的に政治的マダラ模様の対立構造を作りだす事になります。

 世界は以後、第二次世界大戦のような大戦争を行える時代が過ぎ去った事から、代理戦争と膨大な通常戦力を抱えての対立時代へと移行して行く事になります。
 そして、最も大きな軍事負担を強いられる事になる、分断国家たる北米大陸、ロシア、中華地域はその膨大な軍事費の負担と外交的イニシアチブの喪失から世界から置いていかれる事になり、必要以上に軍備に金を使わなかった日英独の三大パワーによる「三賢者の時代」の時代を補強する重要なファクターとなりました。

 なお、戦後の日本は、パナマ運河からスエズ運河に至る広大な太平洋・インド洋地域の勢力圏を日本が確立した事で、必然的に同地域の制海権を獲得できるだけの海軍力の維持を余儀なくされ、戦後必然的に発生した大規模な軍縮の中にあっても、有事に対応しやすい機動力があり自己完結性の高い装備を多数有していた事から強大な軍備すぐにも復活させ、戦前と変わらず日本の外に向けての顔としての役割を果していくことになります。
 ただし、『八八艦隊』のような、どこか常識を置き忘れたかのような大海軍が建設されることは二度と無く、世界の理を知った政府に相応しい分相応の海軍以上になることはありませんでした。
 破滅的なアメリカ合衆国との戦争が、日本に体感的にそれを学ばせたのです。

Fin.

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