■ニュークリアー
1946年4月16日午前零時、ロスアンゼルスから合衆国全土、否、全世界に向けて放送が行われました。 久しぶりに国民の前に姿を現したヒューイ=ロング・アメリカ合衆国大統領は、静かに議場に入るとマイクが無数に林立した壇上で語り始めました。 「議員の皆様、記者の諸君、前線で戦っている兵士達、そしてアメリカ合衆国全ての市民の皆さん、今日は皆様に残念なお話しをしなくてはなりません。」この言葉から始まったロング大統領の演説は、連合国から改めて無条件降伏に関する通達があった事を伝え、連合国側が合衆国に対してあくまで無条件降伏を求める姿勢を崩さないのなら、政府の方針としては国家としての誇り、アメリカ人としての誇りにかけて、合衆国から講和を求める事はできないとして、徹底抗戦を訴えるものでした。 しかし、あくまで民主主義国家の元首として、講和か徹底抗戦かを議会にもう一度提案する事も合せて伝えられました。
そして、この放送はアメリカ全土を大きく揺るがす事になります。 どうみても敗北しつつある祖国は、なお戦おうとしている。 しかし、心情面では大統領の言はもっともだし、既に大きな犠牲を払っているのにここで手を上げることなどできないという感情も強くあり、そして何より祖国に対して無条件降伏と国家の消滅を狙い戦争を継続しようとする連合国への敵愾心から、一般民衆レベルでは抗戦の継続は一部理性的とされる人間以外からは好意的に受け止められました。 もっとも、日本のある政府要人は、「ちょんまげした侍じゃないんだから、そろそろ手を上げてくれよ。別に皆殺しにしようって訳じゃないんだから。」とあきれ果てたと言われています。 『滅びの美学』など独特の風潮を持つ日本人にここまで言われてしまったのですから、それだけで合衆国の追いつめられた心理的現状が知れようと言うものですが、あえて理論的にかつ端的これの状態を分析するなら、誰もが長きの戦争で血に酔い、さらに戦争特有のパラノイア的な心理状態がそれを助長、一部の理性的な政治家・軍人たちをして、その流れを押しとどめることはできなかったと言えるでしょう。 アメリカ滅亡というゴールに達するまでは。
しかし、一部意見を異にする者たちもありました。 彼らは、この放送をとある僻地にて聞きながら、その確信をさらに強くしていました。 自分たちこそが、一撃で戦争を終結させてみせる。 この決意の元、世界最高の技術と知識を持つ人々が、中部太平洋上のとある環礁に参集していました。 国籍は様々でしたが、目的は一つ。 彼らの目的は、原子核分裂反応技術を応用した新型爆弾、ニュークリアー・ウェポンの実験でした。
原子核分裂反応技術を用いた爆弾、ニュークリアー・ウェポンの開発は、今次大戦の開始前後から列強各国で研究開発が進められていましたが、戦争中盤からのアメリカ合衆国という大国との本格的戦争を前にして、いかにしてあの大国を屈服させるかについて悩み、そしてそれぞれが協力しあう事で、ジョーカーを一枚持っておこうという結論に達し、本来国家単位で開発されるべきものが共同開発という事になったのです。 もっとも、当初は日英単独で研究・開発が行われていたのですが、その当時戦争を継続中だったドイツが同様の兵器の開発を急ピッチで進めている事が共同開発への呼び水となり、アメリカとの本格的戦争が決定打となったのです。 また、当然極秘開発にされ、連合国の各国、特にドイツやソヴィエトには厳重に秘密にされていました。 そして、1946年4月28日のその日、ようやく最初の実弾を用いた実験にまでこぎ着ける事ができたのです。 これまでに日英が投入した予算はポンド計算で20億以上、大艦隊が丸々もう一揃えできる資金が投入されていました。 もちろん、日英そして欧州から亡命した世界最高の頭脳の全てが投入されたことは言うまでもありません。
マーシャル諸島のとある環礁で行われた「爆発単位20」とされた20キロトンの威力を持った試作弾(プロトタイプ)の実験は完全に成功裏に終り、科学者と開発に関った者たちは、自らの生み出したものに恐怖を覚えると共に、この力こそが泥沼化している北米大陸での戦争に終止符を打つものと、さらなる確信を持たせる事になります。 そして、実験部隊指揮官は、すでに数発の同様の物体が完成していた事からこれをただちに実戦投入し、数発使用の後改めて無条件降伏をアメリカ政府に内密に要求、それが受入れられるまで少しずつ日数を空けて使用を繰り返そうと言う作戦案を提示しました。 アメリカの残り全てを破壊し尽くすにはまだ数が少なく、あまりの破壊力の大きさゆえにこのような中途半端な案が提案される事になったのです。 そして、連合国側の全ての軍事作戦を統括する総司令部の最先任参謀は、日英の新型爆弾の使用に対するゴーサインを出します。 しかしそれは、同じような経緯をたどって同様の兵器を開発・完成させていたドイツからも同じような提案がなされ、同時に使用が認められていました。 日英とドイツは、同時に次世代の破滅的な兵器の開発に成功していたのです。
使用場所は、各国の調停によりまず二箇所が選ばれ、テキサスにある米陸軍の最後の拠点の一つであるサンアントニオ市、そして海軍最後の軍事基地であるサンディエゴ軍港が選ばれました。 無差別都市爆撃を平然と日常的に行っていた連合国軍でしたが、第一撃目はさすがにこの新兵器の破壊力に後ろめたさがあったのか、破壊力を確かめたいという欲求と共にその効果が高く、なおかつ軍事的価値の高い目標が選ばれたのです。
新型爆弾の投下は、4月30日にサンディエゴ軍港で、5月1日にサンアントニオ市に行われ、それぞれの地域を半径数キロにわたって破壊し尽くし、数十万の死傷者を発生させていました。 もちろん、両都市の軍事的価値が完全に消滅したことは言うまでもありません。特に市の中心部で爆発のあったサンアントニオ市は多数の死傷者の発生と共に都市機能も壊滅していました。
また、地上侵攻の方も全く手抜きされる事はなく、西海岸に上陸した日本軍は橋頭堡を拡大するとサンフランシスコ一帯の人口地帯の包囲を行うと共にワシントン州から南下してくる友軍との握手目指して進撃を続け、テキサスで一大包囲作戦を展開中の4個軍集団も、米陸軍主力の撃破・包囲殲滅を図ると共にテキサス州の中核都市であるダラス市を包囲せんとしていました。 新型爆弾の使用とこれらの進撃で、アメリカ合衆国に残された大都市は、もはや臨時首都の置かれたロスアンゼルス市周辺だけとなり(ロッキー山脈の合間にある中規模都市のいくつかもあったが)、それすら連日の通常無差別爆撃で瓦礫の山と化しつつありました。 陸上侵攻と戦略爆撃、新型爆弾による都市の破壊により、連合国軍司令部の予想では1946年9月までにアメリカ合衆国の過半を占領できると見ており、それは列強各国が強く望んでいたこの年のうちの終戦という条件を満たすものでもありました。 いまだ広大な領土を保持していたのに、これほど早い戦争終結の目算がたったのは、アメリカの生産施設が残り僅かであり、軍事力も枯渇しつつあるという現実もありましたが、何より戦略的に邪魔なものは大威力を誇る新型爆弾で吹き飛ばしてしまえばよいという、物理的な側面が大きな役割を果たしていたのは間違いないでしょう。
一方世界最初のニュークリアーの被爆国となったアメリカ合衆国でしたが、同国でも自国領内が蹂躙されるまで同様の物理現象の研究、兵器への応用研究が進んでいた事から、同兵器の量産が非常に難しいと判断しており、最初の二発が使用された時点では、戦略爆撃の一変形で都市が一つ壊滅したという程度にしか受け取っていませんでしたが、続く5月4日に三発目の爆弾がロッキー山脈の玄関口にあるデンバー市を劫火に包んだ事で顔色を変える事になります。 しかも、今さらながら入った諜報情報から、日英共同そしてドイツ単独で同様の兵器を保有するようになっており、互いが競うようにその兵器の量産を行おうとし、そのまたとない実験台として自分たちが選ばれた事に強いショックを受けることになります。 新型爆弾はこれからもどんどん頭上から降り注ぎ、いずれは合衆国の手にある都市の全てが灰燼に帰してしまう。 これはもう悪夢以上のできごとであり、それまでの戦争では考えられない破壊と破滅を振りまくことを意味していました。 そして、合衆国に無条件降伏を突き付けていた連合国側にとって、アメリカを破壊し尽くすことが戦争目的である以上、同種の戦闘行為を止める手だては、自らが手を上げる以外には存在しないことも意味していました。 そしてそれを現すかのように、4発目がいまだ厳重な防空体制にあるロスアンゼルス市近郊のロングビーチ市に使用されました。連合国側はあえてこの街を『富嶽』を使わして破壊したのです。この時、日本最強の重爆撃機である『富嶽』は、ロングビーチに至る空路を陽動目的で3個大隊で進撃していた隊を除くと、他は全て3機単位でそれを7つも送り込まれ、その進入で混乱するさなか間隙を抜くように『富嶽』のさらなる改良型、従来のレシプロエンジンを推進式にし、ジェットエンジンを4基さらに搭載して機体もジェット時代に向けたかのように改修された、空の悪魔としてさらに進化した『富嶽改』3機を以て攻撃させ、20キロトンのニュークで爆撃を行いました。またこれは、ドイツに向けた日英のデモンストレーションとも言えた事から、まだ試作段階の新鋭機が投入されたのです。 死傷者の数は1週間の間に落された四発だけで100万人以上に達しており、これがロスのような大都市に複数使用されたどうなるかを予想させるには十分でした。
もっとも皮肉といえば皮肉な事は、この新型兵器が使用された時点でアメリカの大都市の過半がすでに連合国の占領下だった事でしょう。ただ、東部や五大湖の大都市は、通常の戦略爆撃により瓦礫の山と化していたので(地上侵攻では大半が無防備都市を宣言していた)、再度破壊する価値があったかどうかについては大きな疑問があると言われています。
そしてロングビーチ被爆以後、降伏の協議がアメリカ議会で真実味を帯びて議論されるようになります。しかし、その後一週間は地上侵攻こそ継続されていましたが、新型爆弾の使用が行われる事はありませんでした。 米政府の一部では、日英独もそれ程保有数がまだないのかと訝しみ、一方的に誤解する向きもありましたが、ちょうど一週間後に5発目が高度14000メートルの『富嶽改』からテキサス西部に展開する米陸軍の大規模野外物資集積拠点に投下された事により、はかない幻想である事を思い知らされる事になります。 そして、その後合衆国政府に再び降伏勧告が行われました。 要約すれば「無条件降伏しなければ、週に一度合衆国に属する土地のどこかに新型爆弾を投下する」です。 慈悲も妥協も何もない、勝者の側からの一方的な死刑宣告でした。 これを人間に例えるなら、今すぐなぶり殺しのような銃殺刑に処されるか、独房で緩慢に絞首刑台に立つ日を待つかの選択を迫ったようなものでした。 どちらにせよ、待っているのは「死」しかないのです。 これを敢えて理性的に表現するなら、総力戦の最悪の形である殲滅戦争において降伏時期を誤った国の末路の一つの形、と表現できるかもしれません。 またこの一撃は、単に一個軍の戦略物資を吹き飛ばしただけでなく、合衆国の完全なモラルブレイクを引き起こす事になります。 それまで踏みとどまっていた都市部の住人は我先に田舎への疎開を始め、軍隊では抗戦の無意味さから下級兵士の脱走が頻発し、将校も部下の素行を戒めようとすらしなくなりつつありました。 厭戦気分という言葉だけでは表現できない程の士気の崩壊です。 もう体面も誇りもない状態です。 全てを破壊されたくなければ降伏するしかありませんでした。
ですが、混乱するアメリカ政府中央の状態を、相手の状態が混乱しているが故に正確に掴んでいなかった連合国は、焦りからさらに決定的な一撃が必要と考えました。 そして、この最後の一撃を最初から計画していたドイツ軍親衛隊ロケット旅団の手により、アメリカの脳髄に対する一撃が放たれる事になったのです。 ロスアンゼルス市中心部に「A9」中距離弾道弾により運ばれた20キロトン級の爆発が二度起きました。 ロスの防御力がまだ高い事から戦略爆撃機による輸送に不安があり、中距離弾道弾の信頼性が低い事から、弾道弾二発が同時に放たれたのです。 街は臨時の行政地区を中心に、二発の爆発による相乗効果で完全に壊滅。人口100万人以上の街に対する爆撃だった事もあり、死傷者の数も一瞬にして50万人以上が追加されました。 特に爆心地あたりはガラス状の大地で覆われた完全な更地となっており、ロスの街を再興するのは不可能ではないかという程の破壊のツメ跡を残すことになります。 1946年7月1日、ついにアメリカ合衆国は連合国に対して無条件降伏を受諾。 降伏した時の大統領は、優先順位が二ケタになるという順位の低い本来なら何のことはない議員の一人でした。ロスの街への攻撃が、政府首脳や議員の生き残りのかなりを文字通り抹殺してしまったのです。 この時までにサンフランシスコ市は、最後に上陸してきた日本軍の進撃の前に無防備都市を宣言しその軍門に下り、アメリカ全土もロッキー山脈以外の地域の過半が地上戦の惨禍にさらされ、中立を宣言した一部の州以外の多くが連合軍の占領下となり、それ以外の全ての中規模以上の都市は無差別爆撃の対象とされ、さらに5つの街が核分裂反応爆弾の劫火で焼き払われていました。 この戦争でアメリカ合衆国が受けた人的損害は軍人だけで450万人、一般人のそれは推定で1500万人に達していました。 総人口の1割以上が犠牲になったのです。 しかも、早期に連合国側の占領下になった東部と五大湖地域、一部戦争途中で中立を宣言した州以外の産業、インフラの大半が連合国が軍事的に必要で再興したもの以外は破壊されてしまっており、物的な損害となると予想すらつかない額に達していました。 ただ一つ言える事は、近代国家としてのアメリカは事実上滅亡したと言うことです。
そして、1946年の9月からカナダのモントリオールで講和会議が行われる事になりましたが、無条件降伏したアメリカは完全に蚊帳の外に置かれ、会議は連合国の主要国の間で行われる事になりました。 そして、戦後統治の意見の不一致から日英側と独伊側の対立があり、フランスと中華民国以外の全てがこのどちらかに同調、それが現地での軍主導による勝手な占領統治へとつながり、とりあえず旧アメリカ合衆国については、各国による分割統治と言うことでなし崩しに意見がまとめられ、会議は世界の他の地域のこと、列強同士の問題に移行してしまいました。 この時日英独は、意図的にアメリカ問題を先送りにしてしまったのです。 そして、各国による分割占領により、英国(とその衛星国)が五大湖一帯と東海岸東部、ドイツが東海岸中部と南部地域一帯、日本(とその衛星国)が西海岸と中西部地域、それぞれの緩衝地帯になるエリアがフランスやイタリア、中華民国、インドなどの占領する所となりました。 北米は、文字通りピザのように切り刻まれてしまったのです。 しかし、日英独の政府首脳は、この決定を行う前に水面下で一つの了解に達していました。 要約すれば以下のようになります。 「いずれ復活する(それが50年後か100年後かは分からないが)アメリカから、(アメリカを徹底的に破壊した)自分たちが恨まれるのは必然なので、その矛先を少しでも反らすため、また北米に二度と強大な国家を作らせないため、自分たちが再び少し仲が悪くなる事でアメリカを政治的に分割してしまおう。 基本的に日英とドイツは、政体も主義も何もかもが違うのだから、アメリカとの戦争が終れば自分たちが再び対立状態に戻る方が自然だと世界は解釈するだろうし、北米をバラバラにするには、自分たちの政治形態の違いは非常に都合よい。 もちろん、自分たち自身もそれによる必然的な不利益を被るだろうが、今回のような馬鹿馬鹿しい大戦争を行うような事さえしなければ(そして大国としての節度を失わなければ)、後はどうにでもなるだろう(自分たちは力を持った大国なのだから)。それに、互いに元々(政治的に)嫌っているのだから、どうせ自然な状態に戻るのなら、その前にそれを利用しない手もないだろう。」と。 もちろんこれを決めた者達と実行する者達は、この事を地獄にまで持っていく事としたと伝えられています。また、これは単なる歴史ミステリー作家のフィクションだとも言われてもいます。
とにかく北米の大地は、日英主導による旧合衆国的政府の後身と言える政府と、旧南部地域を中心としたドイツ主導による国家社会主義政府がドイツ占領軍(主に一般親衛隊)の指導の元樹立され、さらにカナダ隣接の州のいくつかが英国(カナダ)に、カリフォルニア州が日本に、フロリダ州がドイツに戦時賠償として割譲される事になります。 もちろん、アメリカがそれまで持っていた全ての海外領土は割譲され、それぞれの地域に地理的に適合した国の統治するところとなりました。 なお、それぞれのアメリカの正式な独立復帰は、戦争から15年が経過した1961年。 アメリカ合衆国(北部)とアメリカ連合共和国(南部)として国際復帰を果す事になります。 また、互いの軍事対立と双方の後押しをする陣営からのそれなりの援助で、最低限の鉱工業生産能力は取り戻しており、それを使っての再軍備を進めつつ、北米大陸でさっそく睨み合いを始めていました。 もちろん、長い間の占領期間により、国家としてのアメリカの理想や良心は自ら自身と列強各国によりねじ曲げられ、無責任な批判や発言をする事はあっても、海外にその目を向けることはなくなっていました。 そして、東海岸北部のいくつかの州と西海岸のワシントン州、そしてアラスカを併合したカナダは、英国からの実質的な独立を果しカナダ連邦共和国となり、二つのアメリカを十分牽制、抑止しうる大国に成長していました。また、主に東部からの大量の亡命のような移民が続いた事から、戦前のアメリカが生きている地域のようになってもいきます。ですが、カナダが英連邦の一員として英国の世界の海洋支配を支えた事は言うまでもありませんので、この状態は英国の北米に対する番犬と言えるのかもしれません。 日本の占領下にあるカリフォルニアも、戦争終盤の地上侵攻、無差別爆撃、ニュークリアーの使用により半ば半壊していましたが、戦後の日本の積極的な行政指導と企業進出によりサンフランシスコ湾岸地域を中心に復興が進められ、また復興に伴いアジア各地と合衆国からの移民流入により1970年代から高度成長を開始、北米でも最も豊かな地域へと成長していき、二つのアメリカから恨みと羨望を受けつつも、その豊かさを失わない為にそこに住む住民自らの判断で日本領であり続ける事になります。そして日本も太平洋の安定のために彼の地を必要としたことから手厚い施政を施し、大軍を駐留させ維持に努めました。 なお、ドイツが直接統治するフロリダは、ドイツの支援を受ける南部への『出島』としての機能を十分果すと共に、海洋帝国に対するドイツの数少ない海外拠点として極めて重要なポジション、そして日英との関係が改善してからは、(ドイツの影響下にある)欧州大陸の保養地の一つとしても発展していきました。
総合的に評価するなら、北米は四半世紀をかけてようやく列強の新たな経済植民地として復活こそしましたが、概ね日英独の望んだ通りの道を歩んでいると言えるでしょう。
一方、北米以外のその後の世界情勢ですが、戦後のアメリカ統治の意見の不一致と欧州での政治的主導権の駆け引きから英国とドイツ(+フランス・イタリア)の対立が(半ば意図的にそして自然発生的に)再燃し、また日本も欧州植民地の独立問題から主にフランス・オランダなどとの関係を極度に悪化させ、同様の問題から英国とも決して円滑とは言えない時期もありました。 また、中華大陸では、中華民国と日英と対立する様々な勢力からの支援を受ける共産中華の内戦が再燃化し、欧州ロシア地域でもドイツ占領下だったロシア地域(一応独立国が作られている)とウラル以西に生き残ったソヴィエト連邦による慢性的な国境紛争状態へとシフトしつつあり、どこも戦争の小さな火種には事欠かない状態となりました。 アメリカという強大無比な富を持つ国家を滅ぼした事で、各国は自分の足下をようやく見れるようになったからこその混乱と言えるでしょう。 そして、ルールをわきまえた大国同士の駆け引きと、衰退した大国といまだ力のない植民地の独立が主な混乱の原因だった事もあり、10年も経つと事態の大半は一応沈静化し、1970年代には世界は日英を中心とする海洋国家連合とドイツを中心とする欧州国家連合の二つの政治勢力による緩やかな対立と協調による二極化時代へと突入していく事になります。 また、アジア・太平洋・アフリカ地域の過半が日英側に、北アフリカと中東の一部が欧州側につきましたが(南米はモザイク状だった、中華とロシアは分断国家で対立状態)、北米だけは互いに憎悪するようなった事と他地域から隔離された地理的環境から世界の中から孤立し、完全に置いていかれていました。もちろんこれは、日英独が強く望んだ事でしたが、近親憎悪から年を経るごとに対立を激化させているアメリカ人自身の望んだ事でもあり、1980年代には宗主国のコントロールを完全に離れてしまい、各国も手を出す事は自国にとって危険になりすぎたため、あえてコントロールを取り戻そうとはせず、日英独は大きくなりすぎたペットを捨てるような政治的状態に移行し、自分たちのルールで動く世界の管理だけを熱心に行うようになっていました。 そして、欧州連合と海洋連合が主に経済的に妥協して世界をコントロールするようになる1990年代には、分断国家のあるロシア、中華地域の大陸国家が大量の通常兵器を向けあっての冷戦状態にこそありましたが、むしろそのため旧合衆国地域を除いて完全な安定期に入り、旧合衆国地域が互いが多数保有するニュークリアーの脅威に脅えている中、世界的視野から見ると一つの安定期を迎えることになります。
なお、第二次世界大戦末期に登場したニュークリアー兵器は、戦後の日英独の初期の政治的努力により非常に強い保有規制がなされ、保有を制限する条約が第二次世界大戦の講和会議の間に作られた事から、条約違反をして保有する国以外では、日英独が最低限度の抑止戦力として僅かに保有するだけなのはよく知られている事でしょう。 念のため記載しますが、条約違反をしているのは、南北アメリカと条約に加盟しなかったソ連のみで、日英独も1980年代以降は、いくばくかの巡航ミサイルと弾道弾搭載潜水艦を数隻ずつ政治的なプレゼンス用として保有するのみで、短距離、中距離弾道弾と大洋間弾道弾は保有が禁止されるか全廃されています。日英独ともにそんなものに大金をかける余裕など、ある目的のためにはどこにも存在していなかったからです。ただ、それでも究極の破壊兵器である事と北米大陸への対抗から保持されていたようなものでした。そして、各国の歴代元首たちは、大国同士のパイ投げ合戦など考えもしなかったと言われています。 (日本に至ってはコスト的に合わないとして、建造してしまった弾道弾搭載潜水艦の何隻かを自ら通常型装備に改造して、巡航ミサイル搭載専門艦・「水中戦艦」にしてしまってすらいる。) ただし、戦後世界が同種の兵器の保有を厳しく制限した理由は、北米での惨禍が、このある種の人間の良心を現出させたのではなく、大量保有にかかるコストのあまりの高さから、どの国も保有競争などして経済崩壊を避けたかったからに他ならないと言います。 つまり、適度な睨み合いを望んだ事による一つの結末と言えるのではないでしょうか。
なお、1960年以後の大日本帝国は、1950年に国号を「日本国」に改称し憲法を改定してからは、英国のような完全な立憲君主国となりました。なお、これ以後の日本の領土は、江戸時代から有する日本固有領土と言える弧状列島とその周辺地域以外に、樺太全島、カムチャッカ半島の南半分、アリューシャン列島、台湾(特別自治区)、南洋諸島、そしてハワイ諸島と旧カリフォルニア州(日本名称:カリフォルニア特別自治区)と言う広大な領域が含まれていました。要するに太平洋の北半分の全てが日本人の手にあるようなものでした(アラスカは日英共同の委任統治領)。 また、強い影響下にあるのは、日本の手によって独立した満州国、フィリピン共和国の二つの国で、この二国は衛星国と言うよりは連邦国の構成国のような位置に長らくあり、これに戦後独立した東南アジア各地域が政治的・経済的な衛星国の位置にあります(中華地域は慢性的な内戦状態で、韓国は日本と英国の間をノラリクラリとする無定見な国家となっていた)。また、第二次世界大戦初戦で深く関った、本来なら英国の影響圏のインドから北アフリカ地域にかけてのインド洋地域も、英国の影響力の低下にしがたいそれなりの勢力と発言力を持つようになっており、英国との国力関係も同時期に逆転、1970年代以降は世界第二位の大国と自他共に認めるほど拡大する事になりました。
そして、北米を滅ぼした後の世界をリードする事になった日本は、戦後も遠隔地での自己完結性と緊急展開能力に優れた海軍(+海軍陸戦隊)の整備を非常な努力をもって継続的に行ない(次に努力されたのは、空軍から分離されたと言ってよい『宇宙軍』でした)、英国との共同歩調で世界の半分の国際的治安を維持すべく活動を行う事になります。 このため、海軍の体質は戦中からさらに変化し、完全な外洋海軍になったのは当然として、柔軟性に優れた兵器として航空母艦(揚陸母艦)が非常に重視された軍備が整備され、戦力価値のわりに維持・管理に大きな努力を必要とする戦艦は、第二次大戦での活躍にも関らず、戦後の縮軍の中その大半が予備役もしくは即時退役にされ、僅かに残った艦艇の多くも、1970年までには姿を消し、各地の軍港で記念艦として往時の姿を留めているに過ぎなくなりました。 なお、一応現役艦艇もしくはモスボール状態で海軍籍として保管されている戦艦は、わずかに世界最大の戦艦の「大和」と「武蔵」のみであり(「信濃」は横須賀、「甲斐」は大神で記念艦として往時の姿で一般公開されている)、これすら戦力価値を無理矢理持たせて最強海軍としての見栄で保持されているようなもので、1965年に予備役に編入されてからは出撃しておらず、1980年代に入り「“天弓”管制装置」(「天弓」は、仏法守護の愛染明王の持つ全ての敵を射ぬくという仏具より引用。また、英名は「ランスロット」でアーサー物語の騎士の彼の持つ『湖の盾』にあやかる)の搭載による近代改装計画による重防空艦枠でようやく予算が認められ現役に復帰する運びになり、その雄姿を洋上に復活させるに止まっています。 もっともこれすら、『戦艦』としてではなく、あくまで空母機動部隊のピケット任務の防空艦としての運用を目的としての現役復帰であり、単に丈夫で大きなな船体が保存してあったから再利用したに過ぎませんでした。
このため第二次世界大戦は、戦艦が活躍した最後の戦争であると同時に、戦艦が滅び去った戦争であるとも言われています。
Fin.