■フェイズ1「国共内戦激化」

 蒋介石の突然の死により、中華中央は大きく混乱した。
 日本としては、混乱拡大で中華中央に対する満州の安全が確保されたようなものなので、満州防衛のため華北や内蒙古中央部に乗り出す必要性も薄れた。満州各地で行われていた対日テロも、頻度が著しく低下した。満州防衛という観点だけなら、北支工作(※現地軍閥の抱き込みと傀儡政府の建設工作)すら不要になっていたほどだ。故に日本軍は、本来の主目的である対ソ戦備へと大きく傾いていた。当時ソ連の優位だった軍事バランスを考えれば、至極真っ当な選択だと言えるだろう。政府も満州開発をより積極的に行い、また国内の景気維持のための投資を強めた。
 一方で華北への勢力拡大の絶好の機会と軍部急進派が色めき立つも、中華民国主流派は対日非戦派の汪兆銘という事もあり、政府中央ではあまり大きな声にはならなかった。日本としては、中華民国にほぼ完全に満州国を「黙認」させた事で当面は満足していた。そして汪兆銘こそが黙認実行者なのに、彼を追いつめる必要性はどこにもなかった。また広田弘毅を始めとする当時の日本の政治家たちは、中華民国との妥協を図る政策を優先していた。
 なお日本の動きの背景の一つには、万が一全面戦争になった場合まとまった交渉相手がいない可能性が大きいという懸念があった。中華民国内で国民党の中央統制が弱まったため、地方軍閥が勝手に動く可能性が高いからだ。故に以後の日本は、取りあえず中華中央部の事態を静観する動きを強くする。中華強硬派の陸軍軍部ですら、多くの者はまずは対ソ連戦備と考えていた。
 なお当時の日本は、軍部だけでなくほとんどの国民が中華(支那)を見くびっていた。だが、さすがに交渉相手が確かでない相手と戦争行為をする気にはなれなかった。そしてある種滑稽な事に、日本人のほとんど全てが、日本が戦争を決意しない限り中華中央部での全面戦争はあり得ないと考えていた。
 しかし当然と言うべきか、既に中華各勢力から十分に恨まれている日本が無事でいられるわけでもなかった。国民党や各地の軍閥以外にも、中華共産党が日本の敵として存在していたからだ。
 蒋介石の死以後国共内戦は激化したが、西安事件当時追いつめられていた中華共産党による、日本を標的とした無差別テロ行為が主に華北で断続して続いていた。蒋介石頓死から一時期テロやゲリラ活動は低下していたが、内戦激化から一年もすると華北北部の軍閥に対する動きも再び活発化した。
 彼ら共産党の目的は、日本と混乱状態の中華民国との間を全面的な戦争状態に追い込み、中華勢力に共通の敵を与えて取りあえず団結させることにあった。しかし国民党の混乱により、中華側から一致団結する可能性が低くなった。国民党は内戦激化により攻勢能力もなくしたので、日本を挑発するしかなくなった事を再確認させられた上での行動再開だった。
 そして日本を挑発する事で日中全面戦争を引き起こし、これにより国民党から攻撃される事がなくなり、さらには戦乱拡大による混乱の中で自分たちの勢力を拡大させるのが共産党の目的だった。加えて、日本によるソ連への圧力が軽減される事にもなる。最後の事は、共産中華勢力をバックアップするソビエト連邦・コミンテルンからの指示でもあった。
 つまりは『共産主義の陰謀』により、日本と中華は全面戦争に陥る危険性が高まっていた時期でもあった。長征により共産党の拠点が華北奥地に移っていたことが、これを助長していた。
 そして日本軍部と新聞や扇動家などに煽られた日本国民は、まんまと踊らされた。テロの激化に対して、師団規模の日本軍が北京のすぐ側まで来て戦闘行為に及ぶまで事態は悪化する。これを日本では有名なテロ事件を「盧溝橋(マルコポーロ橋)事件」、以後一連の戦闘行為を「北支事変」と呼ぶ事もある。
 しかし国民党は、相変わらず共産党攻撃を続けた。蒋介石存命時に戦争準備が行われていた筈の上海方面での日本権益や駐留する日本軍に攻撃をしかけるというような、中華全体が統一性の取れた動きをとる事はなかった。汪政権は、国際的得点を稼ぐために上海租界の中立地帯に作った塹壕を埋め戻したほどだ。華北の地方軍閥も日本に逆らう事はなかった。そして共産党自身も国民党に多くの努力を傾けざるを得ず、日本に対する工作は尻窄みとなっていく。
 それでも日本は、軍部などの野心と浅慮・短絡のまま踊り続けた。内蒙古の一部を事実上占領して自治政府まで作り、華北北部を中心にした共産党ゲリラ勢力との小規模な紛争状態を延々と続けることになる。幸いだったのは、北平(北京)の占領などというような派手な行動に何とか出なかった事だろう。しかし日本軍では、軍の一部増強が実施されたほどで、中華共産党とその後ろにいるコミンテルンと共産ロシアの陰謀は中途半端な形で達成されつつあったと言えたかもしれない。加えて、欧米の日本に対する外交的信用も下落を続けていた。
 ただし、日本が戦う相手は主に国際的に認められていない中華共産党で、戦闘も小規模紛争の域を出ておらず、欧米からの非難の声は小さなものだった。共産主義を警戒するイギリスなどは、日本を擁護する発言すら行っている。
 一方で、中華民国をいまだ主導する国民党の汪兆銘は、彼の非戦主義と現実主義的観点から日本とは妥協して、まずは国内の共産党殲滅に動いていた。国民党側としては、日本との全面戦争で共産党と妥協し戦乱の中で自陣営の後援者が衰退し、一方で共産党が勢力を拡大する可能性を危惧したため、日本とはやむなく妥協したのだ。一方の日本側も、頑なで近視眼的な独裁者だった蒋介石より話しやすい汪兆銘には好意的で、後に国民党には軍事顧問の派遣や軍事援助などすら行うようになっていった。また汪兆銘はアメリカやイギリスとの関係強化にも積極的で、華中以南では日本が欧米各国と連携するという形がなし崩しに作られていた。

 一方では、日本と中華民国の取りあえずの妥協ができたため、中華民国への武器の大量輸出や軍事顧問の派遣を行うナチス政権下のドイツと日本の関係が薄れてしまう。
 そもそも日本がナチスドイツと急速に関係を深めた大きな要因の一つとして、ドイツが中華民国と軍事関係を強化していた事があった。共産主義の脅威や国際的に孤立した者同士で連帯したという事象は、日本にとっては国際政治上での付加条件に過ぎない程だった。ドイツが国連を脱退して孤立していた事も、日本にとっては切っ掛けの一つに過ぎない。日本はドイツとの関係強化を行うことで、中華民国とドイツの関係を断ち切り中華情勢を有利にしようとしたのだ。
 そしてドイツでは、日本にとって渡りに船とすら言える親日派のリッペンドロプが外相に登用され、日独の関係は極めて短期間で形成される事になる。その象徴が、『西安事件』の直後に調印された『日独防共協定』だった。この協定は国民党に対して確かに効果があり、協定調印後しばらく国民党の反日活動は大きく低下した。
 だがその後、蒋介石の頓死を発端とする国共内戦の泥沼化と、日中の取りあえずの妥協により、日本にとってドイツとの関係強化の必要性が薄れていった。文字通り防共目的でしかドイツとの関係が必要ないというのなら、日本にとって重要な貿易相手でもあるイギリスとの関係を修復する方が有益だった。アメリカもイギリスと並んで日本の有力な貿易相手だったが、中華問題の実状を知らず反共傾向が弱いアメリカより、イギリスの方が日本にとっては話せる相手だった。また日独支による防共協定締結という道も日本の手によって模索されたが、今までの日支対立のこじれから協定を結ぶまでには至らなかった。
 そしてドイツは、徐々に欧州で対立状態を作り上げているため、日本もなし崩しに関係希薄化を進めるようになる。日本はドイツとの関係強化の動きを鈍らせ、政府及び軍内部の親英米派が勢力をある程度盛り返し、アジア外交を親中から親日へと大きく転換したドイツの焦りと苛立ちを募らせる事になる。
 そしてドイツは、日本との関係希薄化に平行するように、対中華民国支援や武器輸出の強化を実施。激化した国共内戦の中で外貨獲得に傾いていった。当然ながら、日本のドイツに対する反感はつのる。しかしドイツは防共協定履行の一環として中華共産党と戦う中華民国を支援しているに過ぎず、日本も協力するようにとすら言ってきた。そして日本としても、テロを仕掛けてくる共産党殲滅は優先事項の一つであり、ドイツの言っている事は一部では事実であるため、大きく反論する事ができなかった。そして日本は、ドイツを介して中華民国のコントロールを行おうと画策するようになる。必然外交は間接的なものとなり、日本の中華大陸中央に対する働きかけは表面上沈静化へと向かうようになる。
 一方アメリカやイギリスは、日本が特に大きな動きに出ないため、それまでの日本との関係を維持した。欧米各国としては、ドイツの動きが活発化しているので日本がおとなしいのならば、アジア情勢どころではないというのが本音だったのだ。チャイナへの進出がしたいアメリカには不満がないわけではないが、国民の大多数はアジアの辺境の事など知ったことではなく、誰も暴発しない東アジア情勢を見守るしかなかった。それよりも、アメリカ自身の不景気を回復することが先決だった。
 そしてその後しばらくの大日本帝国は、満州国境近辺での動きに終始した。当然ながら、中華民国との全面戦争や日本国内での大動員には至らなかった。英米そしてドイツとの関係もほぼ現状維持のままで、主に大陸での様々な陰謀と妥協の中で数年間を怠惰に過ごすことになる。


フェイズ2「ノモンハン事変と防共協定離脱」