■フェイズ2「ノモンハン事変と防共協定離脱」

 中華中央部で内乱が激化している最中、欧州では1939年9月に、ナチスに率いられたドイツを原因とする二度目の世界大戦の狼煙があがった。
 その頃日本は、中華中央部での内戦による武器売買で少しばかりの外貨を稼ぎつつも、自らも主に華北北部で共産党勢力とのゲリラ戦に追い回されフラストレーションを高める日々を送っていた。国内でも、都市部は政府主導の軍需景気が維持され好景気が続いていたが、貧困なままの農村部や財閥に搾取されていた低賃金工場労働者の不満は高いままだった。このままでは、国内の不満の暴発を避けるため、中華地域への武力侵攻も間近いだろうと言われていたほどだった。実際陸軍の一部は、陰謀を含めて準備もしていた。軍部は華北地域全てに傀儡政権をうち立て、自らの勢力圏(経済ブロック)にしようとしたのだ。実際華北部での日本の経済影響力は高く、繊維産業の多くは日本資本が入っていたのだから軍部の大陸急進派を推す声も強かった。また好景気を牽引していたのは主に軍需景気で、しかも膨大な国家の借金によってまかなわれていた。満州の開発熱もこの頃には下火となり、さらに満州では統制経済や政府一辺倒の開発に大きな陰りを見せていた。加えて、財政の「ざ」の字も知らない軍人達は、国費の垂れ流しをほとんど意に介していなかった。それどころか、大いに我慢しているつもりだったと言う。
 しかし大戦勃発の少し前、世界規模での大きな二つの動きによって日本の進路が大きく修正されてしまう。
 一つはソビエト連邦ロシアとの大規模な国境紛争となった「ノモンハン事変(紛争)」と、日本の意思による日独伊三国防共協定からの離脱である。

 「ノモンハン事変(紛争)」自体は、中華中央部の内乱激化に伴いソビエト連邦ロシアと大日本帝国の満州や朝鮮北部国境での緊張増大を反映したものだった。満州国建国以後、日本、ソ連共に相手軍備の増強に緊張感を増し、小規模な国境紛争が頻発していた。1938年7月に起きた「張鼓峰事件」などが代表的な例となる。それらが満州・モンゴル辺境部で起きた小競り合いの国境紛争を、大規模な国境紛争へと拡大させたのだ。
 もっとも紛争自体は、まったく偶然によって起きた事件であった。それは日本陸軍の状態を見ることで間接的にも見えてくる。
 「ノモンハン事変」発生当時、日本陸軍は他の多くの国と同様にほぼ平時状態にあった。陸軍は大正軍縮以後の17個師団・22万人体制のままで、平時レベルでの軍拡により航空隊と戦車隊が少しばかり増えたぐらいでしかなった。満州事変以後陸軍予算を中心に軍事費が大幅に増額されたと言っても、それはあくまで平時レベルの話でしかなかった。とてもではないが、陸軍が求めた動員時に50個師団を抱える大陸軍を作り上げるような予算規模ではなかった。満州での治安維持と国境警備のために、満州国軍の整備が精力的に進められたぐらいだ。これなら日本陸軍の予算で増強しなくてもよいからだ。
 共産党とのゲリラ戦に際しても、一部師団の動員体制が強められ派兵された、せいぜいが局地紛争に過ぎなかった。しかも陸軍の近代化は、先進国列強に比べて大きく遅れていた。陸軍が求めていた3単位制度導入による近代化や合理化、つまり実質的な軍備増強も、主に海軍の増強が先とする日本政府全体の雰囲気もあり、軍事力の整備は思うに任せなかった。当時の陸軍を端的に言い表せば、「第一次世界大戦型陸軍としての完成形」でしかなかったのだ。
 以上のような理由から、五カ年計画の成功で意気上がり軍備を大幅に増強したソ連赤軍に対して、当時の関東軍の戦力は大きな劣勢に立たされていた。単純に重要な戦略単位である師団数を比べても、関東軍の常駐が5個師団なのに対して、ソ連極東軍は12個師団規模で存在していた。しかも近代戦に不可欠な戦車、装甲車、航空機、野戦重砲といった重装備の数の差は歴然だった。満州事変を起こした石原完爾が、事実を知って唖然としたと言われている。しかも共産党ゲリラとの戦いで、熱河省から北京近辺にかけてのゲリラ戦に追われ、わざわざ予算をやり繰りして追加動員された2個師団がかり出されたままとなっていた。
 しかし現実が見えていない現地関東軍の一部軍人達は、偶発的に起きた小規模な国境紛争をこれ幸いと拡大して、ソ連との大規模な軍事衝突へと発展させてしまう。国境紛争で露助(ロシア人=ソ連)に一泡吹かせ、国民に自分たち(陸軍)の存在感を訴えようとしたのだ。
 なお戦闘は、5月の第一次と7月から8月にかけての第二次の二つに分かれて発生した。
 第一次事変は、まだ小競り合いに近く、航空戦を中心に日本の判定勝利で終えることができた。戦闘の規模が、本来の意味の中での国境紛争レベルの戦闘の延長でしかなかったからだ。当時同方面の関東軍が全てを合わせても1個旅団程度だったのだから、当然の結果と言うべきだろう。
 しかし第二次事変では、日本、ソ連共に準備期間を挟んで大軍を用意し、最終的に双方軍団規模の戦力と機械化部隊や航空機を大量投入しての戦闘が行われる。しかも日本は、動員のための臨時予算を獲得するため、紛争をある程度国民に知らせていた。師団規模の機械化部隊を動かすには、平時に黙りで行う金額ではなかったからだ。
 そして戦闘の結果は、物量戦、機械化戦など近代戦に対応できていなかった日本陸軍の敗北、当時の大衆新聞的な表現を用いれば「歴史的大敗」となった。後年の調査と情報公開で、ソ連赤軍の損害も大きかったことが分かったが、当時の日本政府、軍部の雰囲気を最悪とするには十分な物理的・心理的衝撃となった。何しろ当時の常備軍24万人うち、約一割に当たる戦力が失われるほどの大損害を受けていたのだ。
 しかし日本側では、日本軍の「大勝利」と宣伝され、ソ連軍を撃退したとされた。
 そして事変後の日本国内では、国内に対しての事態の隠蔽化を行い、現地の責任者を水面下で裁くと同時に、急ぎ大幅な陸軍増強と近代化が決められる。ただし国民には、紛争での大敗と共産ロシアの脅威増大を悟られる訳にはいかなかった。故に、ここで政治のゆがみが発生する。限られた予算内のうち、国家予算内の予備費のほとんど全てを投じてなお足りない予算を、主に海軍予算を削る事で、水面下での陸軍臨時予算に割り当てる事になったのだ。
 この影響で、海軍が当初1939年に開始した軍備整備計画である第四次補充計画は、1年繰り延べの1940年開始と修正された。そこで生じた予算を用いて、陸軍の戦力増強、戦車、装甲車、航空機の開発と増産に力が入れられるようになったのだ。列強に比べて遅れていた師団の改変も可能な限り急ピッチで進められ、改変で余った兵員を用いて新たな師団がいくつも誕生した。この陸軍増強に、海軍の主に縄張り意識から来る反発は猛烈だったが、陸軍に貸しを作るという建前を置くも政治力の差で押し切られた。「大敗」という事実を国民に公表しようと言う意見も一部には出たが、既に各種新聞がノモンハンでの日本軍の圧勝を連日連夜報じたていたので、今更真実を公表することなどできる筈もなかった。軍とは体面を重んじる官僚組織であり、当時の日本軍では顕著だったからだ。
 またその後の予算配分でも「ソ連侮りがたし」の政府・軍部内での感情論から陸軍予算は増額され、主にアメリカを見つめ続けていた海軍の整備計画は根本から狂っていく事になる。軍人が権力を握ったのだから、本来なら海軍予算も平行して引き上げても良さそうなものだが、事実は違っていたという事になる。
 いかに軍部が政治の主導権を握ったとはいえ、戦時でもないのに陸海双方の法外な予算要求を通すわけにはいかなかったからだ。しかも既に大幅な国債発行により軍事費が増額されているとあっては尚更だった。日本は諸外国から軍国主義と言われていたが、近代憲法と議会と内閣を持つ法的には立憲君主国のままなのだ。そして日本国民は簡単に扇動に乗るが故に、簡単に軍の批判に回る恐れが高く、理由なき軍備のさらなる拡大を許すまでに日本の軍部は力を持っていなかった。何しろ日本には、『独裁者』などという政治的存在が皆無だったからだ。

 一方、もう片方の紛争当事国だったソビエト連邦ロシアは、ドイツと突如『独ソ不可侵条約』を締結した。ドイツが事前の連絡一切なしにソ連と不可侵条約を結んだ事は、日本外交に大打撃を与えた。『欧州情勢は複雑怪奇』と言って退陣した時の内閣総理大臣の言葉がその象徴だった。
 しかもその時、日本はソ連とノモンハン事変最盛期であり、まさに紛争状態にあった。
 故に日本は、本来連動性の薄かった二つの事件が強くつながっていると判断するに至る。また日本がドイツとの関係強化を徐々に弱めた事への、ドイツによる行きすぎた懲罰措置もしくは対抗措置と考えられた。しかもドイツのさらなる行動は、日本の予測を大きく越えていた。
 ソ連と謀って、すぐにもポーランドに全面侵攻し、ポーランド全土を分割占領してしまったからだ。この戦争で第二次世界大戦が始まった事よりも、ドイツとソ連が手を組んだ事の方が日本にとっては大問題だった。
 日本から見れば、明らかにドイツの裏切り行為だった。世論から国内中枢に至るまで、ドイツの中華中央部での行動もあって、ドイツが信頼ならないと言う意見が国内で大半を占めるようになった。もちろん、日本のドイツ離れを助長した背景には、英仏がドイツに宣戦布告し第二次世界大戦へと発展したという大きな外交変化があった。別に日本は、英仏と戦争する理由はどこにも存在しなかった。第二次世界大戦を起こしたドイツに対しては、防共を無視して大規模な戦争を起こした事への反感の方が遙かに強かった。
 そして防共協定締結当時ドイツとの同盟を推進した陸軍は、今回の予算問題で海軍に対して借りもできたため、安易な親独傾向だけで協定維持を押すわけにはいかなかった。その陸軍自身もノモンハン事変敗北の反動もあってドイツに対して不審を抱いていたから、なおさら押しは弱かった。ドイツとの防共協定をソ連への抑止力にしようという意見も急進派を中心に多くあったが、ノモンハン事変を見る限り実効性は薄いと判断された。
 しかもアメリカが、日本がドイツとの関係を継続するなら、日米通商条約に関して考え直さなければならないと通知してきた。これに国内の一部が激高したが、別の方向からのアプローチが反米世論に待ったをかけた。ドイツと戦争状態に入ったイギリスが、日本がドイツとの関係を見直すならば貿易面とアジアでの行動で日本との優遇装置を図ると水面下で伝えてきたからだ。
 日本にとっては、片や死活問題、片や外交挽回の大きな機会だった。しかもドイツとの関係と違って、イギリスの申し出には実りある果実が付いていた。
 かくして日本は、39年10月にドイツ、イタリアとの三国防共協定の空文化を宣言。協定の理念と反する独ソ不可侵条約の締結が、空文化の理由とされた。そしてドイツの反発を受けて、最終的には40年春の協定からの完全離脱に至る。
 日本国内で反論すべき国内の軍部急進派も、ノモンハン事変で明らかになった現実と現状の国際環境を前にしては声が小さくならざるを得なかった。しかもドイツは、得意のプロパガンダ放送で日本の行為を即座にかつ悪し様にののしり、日本国内の親独派に追い打ちをかけてしまう。
 もっとも、日本にしてみれば自分たちの抱える第一の外交問題『防共』でドイツと連携したのだから、それ以外で連携の意味がないのなら関係解消は当然の結果でしかなかった。三国防共協定の空文化の主な理由も、独ソ不可侵条約が防共の理念から大きく逸脱するというものであった。
 そして日本の内部事情にあまり気づいていない英米仏などは、日本のいつになく「素早く」かつ「賢明な」外交姿勢を高く評価した。それは、日本が連合国側の国際社会に復帰するための大きな道標になるかと思われた。


フェイズ3「第二次世界大戦と日本 1」