■フェイズ6「日本の去就と中華人民共和国」

 欧州大戦とも呼ばれた第二次世界大戦後、世界はアメリカ合衆国を中心とする自由主義陣営とソビエト連邦ロシアを中心とする共産主義陣営の二つに分かれたイデオロギー対立の時代、いわゆる『米ソ冷戦の時代』を迎える。少なくとも米ソを中心とする歴史教科書の上ではそうなっていた。
 しかし新たな構造の中に、早くも異端児が幾つか存在した。いずれ第三世界で主要な位置を占めるインド、域内での覇権確立が当面の第一課題なチャイナ、そして第二次世界大戦以後も軍国主義を依然維持すると定義されていたジャパンのアジア三大国だ。
 国際連合(UN)と米ソを中心にした新たな時代に何とか乗り遅れなかった大日本帝国だったが、日本人の視点から見た場合、大戦前と大戦後で世界の変化は国力差以外ではほとんど存在しなかった。日本人の周りには、以前からロシア人、アメリカ人、シナ人しか存在せず、戦前も戦後も行動の根本に変化がなかったからだ。日本人にとって欧州での戦争も戦後の変化も、半ばどうでもいい問題に過ぎなかった。強いて挙げるなら、欧州列強諸国の力が軒並み下落したのが変化になるが、それもロシア人とアメリカ人が大きな力を得たので力関係が相殺されているという見方をされていた。そして多くは事実だった。
 当然と言うべきか、日本の行動も変わらなかった。ただ日本の行動は、以前よりも矮小とならざるを得なかった。アメリカとソ連が、他国に比べて余りにも懸絶した国力と軍事力を持つようになっていたからだ。特にアメリカの力は、国力、工業力、技術力、経済力、そして軍事力全ての面で圧倒的という以上の力を持っていた。飲み込まれないようにするには、単独での対抗は既に不可能に近かった。総合的な海軍力差にいたっては、条約時代の対米6割から3割近くにまで低下していた。しかも大戦終了時の日本の常備戦力は、1930年代初頭の総数27万人、陸軍22万人、海軍5万人から、軍備増強とGDPの拡大もあって二倍近い総数約52万人にまで増強されていた。だがその程度では、到底アメリカの軍事力に追いつくことができなかったのだ。しかし大きく拡大した筈の経済力と国家予算を以てしても、この兵力維持が平時予算内でのほぼ限界だった。
 そして幸いと言うべきか不幸と言うべきか、共産主義の総本山であるソビエト連邦ロシアが日本との関係強化に依然として積極的だった。しかもソ連が日本に対して、両国間の領土問題もイデオロギーと政治姿勢の違いも問題外として関係強化を求めていることは、日本にとっても都合がよかった。ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの思惑がどこにあるのかは定かでなかったが、日本がアメリカに対抗するには帝国陸海軍に加える『何か』が必要になっていたのだ。
 なお、スターリンが日本と直接のつながりを強めたのは、共産主義の理想などではなく現実主義に裏打ちされたものだった。ロシア(ソ連)がアメリカに対抗するために、日本の国力と軍事力、そして地域そのものが必要だったからに過ぎない。またスターリンは、日本とつながりを直接保つことを重視した。自らの軍部と日本の軍部が結託することは、自国の政策運営上で可能な限り避けるべき事象だったからだ。また現状で安定している日本に対して、共産主義革命を起こすことは全く考えていなかったとされる。何よりソ連は、今の日本の力が欲しいのであって、赤化の過程で一時的に衰退する日本の力は、今必要なかった。もちろん水面下での日本赤化に向けての活動は皆無ではなかったが、それも現状では日本の中枢を「脅す」という程度のものでしかなかった。しかも「脅し」すぎて、日本がアメリカの側に走っては元も子もないので、日本勢力圏内での共産主義活動は、常にソ連共産党の厳重な監視下にあったと言われている。日本の特高や憲兵が突き止められなかった死亡事件が存在していた事が、後世においてのソ連関与の肯定だったとされている。
 なおソ連と日本の連携は、間違いなく呉越同舟であった。しかしアメリカを一番の脅威と考える日本の中枢は、今の日本には露助(ソ連)の力が必要だと考えた。ロシア人や共産主義者を全面的に信頼することはできないが、自らが油断せず利害関係の一致する限り協力関係を結んでおけば、名実共に世界最強の国家となったアメリカに付け入られることもないのではと考えられた。
 当時の日本中枢は、何かにつけて文句を付けてくるばかりのアメリカに付け入れられる事を最も恐れていたのだ。またそれは、それだけアメリカが大国だったと言うことでもあった。世界の半分の力を手にしたアメリカの自覚なき大国主義的外交が、日本への対応にも強く現れていたのだ。
 一方アメリカだが、自分たちの利益と自らが新たなライバルに指定したソ連を封じ込めるため、彼らなりに対日外交の挽回を図ろうとしていた。
 しかし、既に中華民国に深く肩入れしている以上、満州問題だけは譲るわけには行かず、どうしても日本との完全な関係改善には至らなかった。日本としては、自らが考える最低限の自立には満州の地下資源と穀物が必要だった。加えて大陸勢力との緩衝地帯としての満州そのものが、自存自衛のために必要だった。最恩恵貿易待遇にすると言われても、その代わりに今更アメリカの言い分通りしていては、結局中華勢力に全てを奪われ大国としての威信と力を失うと考えていた。つまり日本側の考え方の根本は、戦前からまったく変化無かったと言えるだろう。
 またアメリカが持つ資本力と資源、市場は大きな魅力であると同時に、体制維持を第一とする政体を持つ国にとっては大きな脅威でもあったのだ。そして中途半端に軍国主義化したままの日本にとって、平和的であろうともアメリカそのものが脅威となり、貿易面などで互いに妥協した以外での交渉はなかなかまとまらなかった。
 結局日本は、冷戦がまだ激化していない時期であった1940年代後半のうちは、英米など他の国々とは今まで通り一般的な関係を保ちつつも、ソ連との関係を徐々に強く深くしていく道を選択する。その背景の一つには、戦時特需で拡大した日本経済に対して、域内資源と市場の不足が強く影響していた。日本は、従来通り海外貿易と資源を英米に強く頼ることが、国家戦略上危険だと考えてのソ連への接近でもあった。

 なおこの時期、ソ連、アメリカ以外にも日本と積極的な協力関係を結ぼうとした勢力が二つ存在した。国民党と共産党双方の中華勢力だった。二つの勢力は、蒋介石の頓死以後断続的に中華地域内で激しい内戦を継続しており、それぞれ米ソの後ろ盾と援助によって内乱を続けていた。
 しかも奇妙なことに、中華民国は連合国に参加していたが、共産党は国家認定も受けていない波乱勢力であるにも関わらずソ連が支援していたため、中華民国の敵でありながら連合国の敵ではなかった。外交上ではただの内乱と内紛であり、国際問題ではないとされていたのだ。そして本来ならば、大戦の終了と共に内乱も終わらせて、国民党と共産党が共同で新時代の中華民国を形成するのが筋であると、世界の多くの人は漠然と考えていた。
 しかし1940年台後半のこの時期、中華地域の混乱は世界が予測した以上に酷かった。
 国民党は、44年に二代目総統となった汪兆銘までも病で失って党中央が混乱し、中華地域全体での勢力を大きく減退させつつあった。加えて、今までの自らの失政、つまりは理不尽を通り越えた徴税と紙幣乱発、特権乱用、強権政策、日常的な武力による弾圧などによって、民心喪失と勢力縮小が目を覆わんばかりの惨状を呈していた。アメリカが努力した中華地域の経済政策は、ほとんど無駄に終わっていた。なお、経済混乱の責任の一端は、満州国などを作った日本にある。
 対する共産党は、40年代に入るまでは、主に中央アジア経由で送られてくるソ連からの援助と、農村解放などの地道な努力によって着実に勢力を拡大していた。独ソ戦勃発後は、対日ゲリラ、テロも中止して、逆に積極的な対日関係の改善も図られていた。そして全力を華北での勢力拡大と、国民党との戦いに傾けた。行動が正反対となったのは、日本とソ連が協力関係を結び、ソ連コミンテルンから日本と関係改善することが命令されたからであった。そして日本も、大戦中のソ連との協力関係と欧州大戦後の自らの立ち位置の関係から、アメリカが援助する国民党への対抗外交から共産党の支援に動かざるを得なかった。
 かくして、大日本帝国と中華共産党が友好的になるという、数年前までなら全く考えられなかった劇的な変化をもたらしていた。そして日本と入れ替えのような形で、1942年以後はアメリカが国民党を強力に支援するようになる。米資本と武器は大きな力を発揮し、軍閥の多くが甘い汁を吸うために国民党へとなびいた。ただし華北軍閥には例外が多かった。日ソのアメとムチそしてジワジワと拡大していく共産党の勢力の前に、多くが既に国民党を見限っていたからだ。
 そうした状態で第二次世界大戦を終えた中華地域だったが、大戦後はアメリカが入り込んで両者の調停を行って一度は停戦合意にまでこぎ着け、緩やかに統合する予定までが組まれるまでに安定を回復したかに見えた。
 しかし共産党は、せっかく築いた足場と力を奪われる気はなかった。そして既に国内の団結と統制が取れなくなっていた国民党は、恐怖故に共産党に対する攻撃を開始。アメリカがガイドラインを引いた、「平和的な中華統合」と中華全域のアメリカの市場化という道を絶ってしまう。日本も、アメリカの影響が決定的な国民党より共産党支持に動いた。ソ連については言うまでもない。
 そして1946年頃から再び激しくなった国共内戦は、米ソ冷戦の初舞台となっていった。
 いわゆる「第三次国共内戦」の勃発だ。
 戦況は、当初圧倒的物量を誇る国民党軍が優位だった。国民党軍は、沿岸部の資本家勢力からの支援を受け、さらには主に大戦中にアメリカから大量の武器供与と資金援助を受けて戦っていた。一時は華北一帯も制圧し、共産党の本拠地延安までも奪取した。一時は中華統一が宣言されたほどで、日本が大きな焦りを見せた。しかし、47年中頃までしか優位を保てなかった。
 都市部を占領した米式装備の国民党軍を、共産党は農村から包囲して飢餓戦法を取ったのが始まりだった。
 しかも林彪率いる共産党軍主力部隊は、国民党軍が政治的に進軍できない内蒙古で、日本軍による訓練と日ソからの装備供与を受けて飛躍的に増強されていた。強化は第二次世界大戦中から始められていたので、ドイツ顧問に訓練された国民党精鋭部隊並の力を持っていた。国民党の活躍とアメリカの影が、日本の共産党への肩入れを強めさせた結果でもあった。そして林彪軍は包囲部隊に合流し、各地で国民党軍を撃破していった。中には日本やソ連の軍事顧問が率いている部隊もあり、数少ない機械化部隊に至っては、日ソ将兵による部隊だったと言われている。戦場に時折姿を現すT34/85は、国民党軍の恐怖の象徴だった。
 なお、国民党の内政の完全な失敗で、沿岸都市部住民以外の民心をなくしていた事が国民党敗北の主な原因だった。いかに多数の物資と資金があっても、統治者に民心が集まらなければ話にもならなかった。しかも最低限の公正さを欠くという点では、当時の国民党中華民国は日本の傀儡とされる満州国にすら遙かに劣る存在でしかなかった。国内再統一のため、共産党ばかりでなく各地の敵対的な軍閥とも戦った事も原因の一つだった。加えて国民党には、象徴となる指導者に欠けている点が組織として致命的だった。

 その後、アメリカが直接介入を決めるも、政治的難しさから結局直接的な動きに出ることはほとんどなかった。加えてアメリカは、日本を不必要に刺激するような軍事力を、安易に北東アジアに入れるわけにもいかなかった。莫大な援助を行ったアメリカは、無力で粗暴な国民党に絶望するだけとなった。そしてアメリカは、中華での争いを発端として三度目の世界大戦を起こす気はまったく無かった。将来はともかく、当時の中華地域にそこまでの価値は存在しなかったのだ。ましてや、大戦が終わったばかりなのに、多数のアメリカン・ボーイズの血を流すなど論外だった。
 かくして1949年10月、北京(北平)を占領して内戦に事実上勝利した中華人民共和国が独立宣言を行う。ソ連を含む共産主義陣営と協力関係にあった日本は、直ちに独立を承認。その後も両者の戦いは続いたが、国民党の劣勢を見た各地の軍閥が次々に離反して共産党に合流。いまだ上海に租界を持っていた列強も我先に逃げだした。皮肉なことに、正式承認される事のなかった日本租界だけが海軍陸戦隊に守られつつ現地に残って、進軍してきた共産党軍を迎え入れた。
 そして中華民国・国民党残党は、最終的に汪兆銘の基盤の一つだった海南島へと落ち延びていく。
 米ソ冷戦とソ連側に付いた日本という構図が、アジア地域で初めて影響を与えた瞬間だった。
 なおこの内乱で日本は、共産党を支援すると共に域内での商売を手広く行って利益を上げ、大戦終結以後停滞していた経済は内乱の期間中に限ってだが再び良好な状態を維持している。


フェイズ7「大国日本」