■フェイズ9「満州紛争前夜」

 1950年代後半は、東側陣営の混乱と再編成の時期だとされた。1956年のソ連書記長フルシチョフによる「スターリン批判」に端を発する東欧での様々な混乱があったからだ。
 またアジアでは、大きな変化があった。英仏が荷担した第二次中東紛争の余韻がまだ残る1958年8月、人民解放軍約200万人が満州との境界線となっていた万里の長城を突破。一路旧南満州鉄道沿線都市を目指して進撃を開始した。
 「満州紛争」が勃発したのである。
 この紛争と日中決別の原因を求めると、そもそも日本が植民地国家満州国を建国したからだと言われる事が多い。また日本と共産中華との政体の違いが、遂に相容れなくなったからだとも言われている。多くはその通りだったが、最後の引き金は意外にも1955年4月に行われた「アジア=アフリカ会議(AA会議)」だった。
 この会議には日本も出席し、周恩来、ネルー、ナセル、スカルノらに並んで、日本の首相山本五十六が主導権を握った。中でも参加国中で唯一近代工業と近代軍(+兵器の自力生産力)を持つ日本の存在感は強かった。しかも当時の日本の国力は、いまだ大戦の荒廃から立ち直れていない西欧各国よりも大きく、米ソに次ぐ大国と見られていた。
 加えて日本は、反大国主義、反白人主義という観点から見れば、共産主義ロシアのパートナーでこそあるが、同時に過半の資本主義諸国とは一線を画してもいる存在だった。国際的に孤立しがちな日本も、状況打開のための独自路線追求と貿易拡大のため、各国、各地域との関係強化並びに植民地独立に積極的だった。特に山本五十六内閣は、ソ連と一定の距離を置く姿勢を示しており、また国民からの支持も高いため強力な指導体制下にあった。しかも日本は、同年東側で結成されたワルシャワ条約機構には加盟せず、経済相互援助会議(コメコン)にも非社会主義協力国として参加したに止まっている。つまり国際組織上では非同盟主義であり、東側陣営予備軍でしかなかった。
 そうした日本のAA会議参加に苦虫をかみつぶしたのは、ソ連、共産中華(=中華人民共和国)共に同じだった。だがソ連は、自陣営の維持・拡大のためには日本の力と勢力圏、そして巨大な軍備と工業が必要であり、少しばかり言葉でたしなめる以外の行動には出なかった。日本の事は、アメリカにとっての西欧諸国、分けてもフランスだと思えばまだ我慢できたからだ。陣営内の大国とは勝手に動きたがるものなのだ。一方日本も自立したいが、いまだそれが不可能なことを理解しているのでロシア人を裏切ることまではしなかった。
 だがもう一方の共産中華は、日本に文句を言う程度で済ますわけにはいかなかった。会議後、日本が会議に連れてきた満州国やチベットを承認する国が増え、さらには国際的に孤立しがちだった日本の立ち位置が、第三世界、非同盟主義の盟主という地位へと大きく変化する一大転機となるいう観測が大多数を占めたからだ。しかも第三世界、非同盟主義の盟主という地位は、本来なら自分たち共産中華が得るはずの地位だった。
 そして日本は、会議に前後して自らの影響力拡大のため、各国への援助や支援を東側陣営から第三世界の国々へと広げていった。この影響をマイナス面で最も受けたのが、支援や借款が激減した共産中華だった。おかげで第一次五カ年計画は、大幅な達成値の低下という結果に終わる。日本の援助による大規模製鉄所の建設計画も露と消えてしまった。そして次なる第二次五カ年計画となる「大躍進」では、経済顧問の日本人までがいなくなったため無茶な政策の実行に繋がっていく。
 そして支援の減少と第三世界での日本の影響力の急速な拡大に釘を差そうとした共産中華だったが、勢いに乗る日本は言葉だけでは振り向くことはなかった。しかも唯一日本が言葉を聞き入れるソ連は、フルシチョフのスターリン批判の後始末もあって、日本がとにかく東側陣営に止まりアメリカとの静かなにらみ合いを続けるのなら、たいていの行動は容認する姿勢を示していた。日本が強力な核軍備を実現してアメリカと対等の立場(軍備)にならない限り、日本が東側陣営から抜け出す可能性は小さなものだからだ。日本国内及び勢力圏での反共政策など、彼らの小さな勢力圏内の事なら問題ではなかった。国際政治上で、日本がどちらの陣営に属しているのかが重要なのだ。加えてソ連としては、日本がインドなどを西側から大きく引き剥がしたことの方が重要だと考えていた。日本を準勢力とさせる事で、相対的にアメリカと西欧の勢力圏を大きく削ることに成功している事になるからだ。一部では、日本をこのまま準第三勢力の反米勢力として育てても良いのではと言う意見があったほどだ。
 一方第三世界で勢力を広げる日本にとって、ソ連同様に各地の共産中華型(毛派)の共産主義は最も邪魔な存在となりつつあった。何しろ毛派は原始共産主義に近いため、途上国で広がりやすい性格を持っていた。
 そして日本は、西側とは距離を置き相応の近代化やできれば市場経済を受け入れる国家及び政府の支援を熱心に行い、進出国が似ているだけに各地で共産中華と対立するようになっていた。
 そして共産中華と日本の対立が決定的となったのは、1957年の訪中で山本五十六が毛沢東に、彼が行おうとする大躍進・人民公社建設を徹底的に批判して、今少し現実的な経済政策を行うように強く促したからだとされている。事実毛沢東は激怒し、すぐさま日本に軍事的懲罰を与えようとしたと言われる。すでに満州やチベット、ウイグル(東トルキスタン)問題でも怒りがたまっているのに、既に我慢の限界であった。だが彼をして戦争を押しとどめたのは、日本が独自開発の原爆実験に成功したからであり、そうでなければ直ちに念願の満州進撃を行っていたと言われている。
 もっとも、満州攻撃、日本に対する「軍事的懲罰」は結局行われることになった。
 ただし中華指導部にとっての満州攻撃は、予め戦術的には敗北しても構わない紛争として最初から規定されていた。満州で大規模な紛争を引き起こすこと自体が、共産中華指導部の様々な思惑が重なった結果だったからだ。また日本が、米ソ英同様に安易に核兵器を用いた全面戦争を行わないだろうという結論にも達したからでもあった。
 なお、共産中華が日本との全面戦争の危険を冒すほど追いつめられていた背景には、まさにこれから攻め込む満州が関係していた。

 1930年代から以後二十世紀の間ずっと、旧清朝の中華地域の重化学工業の実に90%以上が満州地域に集中していた(※「日本化」の進みすぎた台湾は除外)。日本が湯水のごとく自らの資金を注ぎ込み開発していただけに、1950年代には満州主要部は日本本土の地方程度にまで発展することができた。最終的には、日本勢力圏の重工業の三割近くに達した程だ。また計画都市新京の立派さは、東洋一とすら言われた。しかも満州の多くが計画的に作り上げられたため、効率としては世界随一と賞された。国家の存続と発展に伴い、国民意識すら芽生え始めていたほどだ。最後の点は、1949年以後中華中央からの移民もしくは流民を完全に遮断し、給食付き無料義務教育など手厚い政策を押し進めた事が効いていた。そして客観的に見ても、前大戦型(20世紀前半型)の国家開発として満州国は最も優れていた。それでも時代の最先端でないところが、常に西欧から一歩遅れていた日本らしいと言うべきだろう。
 しかし満州の全て日本人のものであり、共産中華のものではなかった。満州の地下資源も穀物も巨大な重工業も立派な施設も新たに出現した大都市も、そして豊かな富も全く手にすることはできなかった。
 翻って自分たち共産中華国内は、前近代的価値観しか持たない軍閥ばかりが跋扈する、遅れた農業国でしかなかった。共産党自身も建国以来常に資金不足に悩まされ、無定見で近視眼的でそして強欲な地方軍閥の影響を受け続けていた。主義よりも金と力が優先する中華世界では、国家を統一した筈の共産主義も大きな力ではなかったのだ。共産党が作り出した中央集権体制と優秀な中央官僚団が、国家を辛うじて一つにまとめていたと言えるだろう。そうした弱体もあって、ウイグル(東トルキスタン)やチベット問題で、ロシア人や日本人に譲歩せざるを得なかったのだ。
 そしてそれらの国内問題を少しでも解決する手段の一つこそが、満州への大規模な「奪回作戦」だったのだ。「奪回」により中央と名誉が資金を得て、軍閥には日本軍との戦闘で兵力を消耗させる事で、共産中華全体の統制を強化しようという目論見だったのだ。
 なお満州攻撃の主な目的は、最大成果を求めた場合は満州奪回による祖国統一の進展にあった。ただし成功率は、楽観的に見ても一割以下と見られていた。そして表向きの本命は、先にも挙げたように大躍進推進の資金確保のための満州からの略奪だった。また一度は満州に対して武力紛争しておくことで、満州を自分たちがいずれ獲得する際の方便として使おうとしていた。この点、部外者であるアメリカのダレス国務長官が、呆れながらマスコミにコメントした通りであった。盗賊と詐欺師のいがみ合いだ、と。
 しかし共産党指導部の真の目的は、中華版ソフホーズ、コルホーズとなる人民公社設立のために、外敵を作って国民を団結させることにあった。これならば紛争が成功しようが失敗しようが、目的は確実に達成できるのだ。
 そして自国の農村システムを一度破壊して作り直すという荒療治のためには、是非とも一時的な外敵が必要だった。
 また別の目的として、満州で大規模かつ長期的な紛争を引き起こす事で、日本を東側陣営から叩き出そうという思惑もあった。紛争が長引けば、国連を盾にしたアメリカが介入し、日本がそちらになびく可能性が高いと判断されたからだ。また全く逆にソ連が日本を強く支援すれば、既に関係が悪化している東側から西側へと自分たちが労せず衣替えできるという目算もあった。故にソ連には何も知らされていなかった。
 しかし、古今東西軍事的に中途半端な戦争行為が成功する可能性が低いと言うことを、この時の中華指導部は失念していた。さらに共産中華は政治と陰謀を弄びすぎ、相手が政治的駆け引きの通用しない軍国主義国家だと言うことを失念していた。日本は島国だが、中華的に見ればかつての北方馬賊と似た短絡的な暴力に走りやすい状態であることを迂闊にも見落としていた。
 ある意味日本を「まともな大国」と思っていた事への大きすぎる誤算こそが、この時の共産中華最大の失敗だったのだ。



フェイズ10「核兵器実戦使用」