■フェイズ10「核兵器実戦使用」

 1958年8月2日深夜2時に開始された満州紛争だが、日本軍は人民解放軍の国境線集結を十分に察知していた。それに察知以前の問題として、現地関東軍と満州国軍は、国境から100キロメートル以上の緻密な縦深防衛網を敷き、十年以上の歳月をかけて陣地を構築していた。いずれ来るであろう未来が到来したに過ぎないため、日本側の準備は陣地帯から満州での動員と対テロ配置、戦場の付近住民(※ほとんどは、戦場にされる事を承知して住んでいた屯田兵)の緊急避難に至るまで周到であり、そして彼らの視点から見た場合完璧だった。彼らの得意とするゲリラ戦も住民がいなければ意味はなく、相手が火力を避ける戦い方ができないように土地を作り替えていた。しかも日本軍は、侵攻察知から二週間で満州防衛体制を完全に整えられるように、数年前から準備を整えていた。住民避難の様子は、まるで日本でよく起きる台風と呼ばれる季節災害に対応するかのようであったと言われている。
 一方攻める側の人民解放軍も、日本軍の準備はよく調べていたし、当然ながら激しい反撃を予測していたため用意周到だった。無論満州国や日本国内でのテロや扇動活動、特殊部隊による浸透工作がほとんど効果が無いこともよく知っていた。日本の特高と憲兵そして日本の警察組織は、彼らが欲しいと思うほど極めて優秀だった。加えて最近の満州では、重装備の民間警備会社すらが天敵となっていた。何しろ民間会社の彼らは、旧国民党軍出身の精鋭だったからだ。
 故に人民解放軍は、前線での努力に力を注いだ。
 攻撃部隊の移動は小規模ずつで行い、情報は小規模だと誤認させるように常に欺瞞を行った。前衛には、出来る限りの戦車などの機械化部隊を用意した。侵攻開始は雨天を狙い、しかも大規模な森林火災を起こして自分たちの行動を空から隠蔽し、さらには出来うる限りの航空支援も準備していた。部外者ながら何が起きているのかを偵察していたアメリカなどは、日本軍の過剰反応と考え日本に非難声明を出したほどだった。
 そしてこれらの準備が功を奏したのか、事実上の国境であった暗黙の中立地帯である万里の長城地帯はほぼ無抵抗で越る事ができた。越えたのはアメリカが予測すらできなかった数十万人の規模であり、地を埋め尽くすようだったと日本軍の偵察機搭乗員は後世に伝えている。
 そして長城を越えた人民解放軍約200万人は、開戦から三日間は順調に進撃した。最終目標は、500キロメートル近い彼方の南満州鉄道主線地帯。当座の目標ですら約100キロメートルの距離があった。
 これに対して日本側の当初の反撃は、満州国内での制空権獲得と防空任務の航空隊以外では、国境地帯での密度の高い地雷原と遠距離から遅滞防御のための重砲の弾幕射撃だけだった。侵攻が近いと判断したため住民の一時疎開や移動可能な資産の移動は何とか間に合ったが、相手の数に対しては防衛密度が低いと言わざるを得なかった。しかも国境線の日本軍は、嫌がらせの攻撃を行う以外、敵の侵攻を誘うように逃げているような有様だった。承徳の街も完全に放棄され、あまりの逃げっぷりに孔明の故事を思い出した人民解放軍将兵も多かったと言われる。
 このため情報の少ない西側情報筋は、人民解放軍の極めて大規模な奇襲攻撃が成功して、日本が厳しい苦況にあると判断したほどだ。国連の緊急安全保障会議でも、当初は日本への軍事支援が真剣に検討されたほどだ。また紛争当初のアメリカは、日本を東側から引き剥がす絶好の機会と見ていた。そして太平洋での兵力の準備が急ぎ開始され、日本に対しては全ての外交チャンネルを通じて好意的な意見を送り続けた。
 また一部では、これが三度目の世界大戦の発端になるかもしれないと考え、各国が水面下での準備を始める動きも見せ始めていた。この点当時のアメリカ合衆国大統領アイゼンハワーに抜かりはなかった。
 もっとも攻撃側の人民解放軍側は、日本軍の戦闘態度を相手を引き寄せ自らの防衛密度を上げるための戦術だと理解していた。日本軍から多くを学んでいただけに、日本軍の性癖は知り尽くしていた。日本軍は、徒歩中心の自分たちを強引に引き入れてから野戦にて一戦で殲滅するつもりで、それが彼らの「戦争」だと理解していた。だが人民解放軍は、最低でもまともな略奪のできる旧熱河省内の大都市(承徳や錦州など)か、できれば満州鉄道沿線まで進撃しなければならないので、罠とは分かっても立ち止まることはなかった。それに今回は、日本軍の予測を越える兵力と密度そして速度で進撃することが、戦術面での根幹だった。加えて後退しながら反撃体制を整えるのは古今東西難しく、常識を越える密度の大軍による間断ない進撃に十分勝算があると考えられていた。だがその過信から、一目散に逃げていく日本軍を強引に追いかけた人民解放軍の兵士は一時的に疲弊してしまう。
 そして徒歩がほとんどの人民解放軍の限界は、人間としての体力の限界と同じだった。それは、酒や覚醒効果を持つ薬物を用いても変わらなかった。何しろ日本軍は、人工的に作り替えられた平原をほとんど自動車両や鉄道でまともに戦わずに後退していたから、徒歩で追いつくはずがなかった。そこまで日本軍は予測して、防衛計画を立てていた。そして人民解放軍はたまらず一端停滞を余儀なくされ、各所で再集結しなおして進撃を再開しようとした。また後方からは、自軍の消耗をある程度計算した次の突破部隊が交替のため急ぎ進撃しつつあり、さらに各所では補給を担当する人海戦術の後方部隊が溢れていた。
 ちょうど四日で、人民解放軍二百万人、合計百師が十分に引き入れられた瞬間であり、つい最近まで自分自身も徒歩中心だった日本軍は、この時を待っていたのだ。
 また人民解放軍主力の一翼の前には野戦要塞化されていた錦州の街があり、その他の地域でも熱河省の主要都市が射程圏に入ったための行動でもあった。
 そして人民解放軍が自らの貧弱な平地での機動力と補給体制そして城塞攻略のため停滞し、後方からやってきた補給部隊が前線に来援する直前、後方で集結を終えていた日本軍の予定通りの総反撃が開始される。
 8月6日黎明、日本軍の全通信周波数に、攻撃開始を告げる「ニイタカヤマノボレ」が駆け巡った。
 なお、日本軍の反撃第一波は、最低でも当時約40万人配備されていた関東軍所属の陸軍精鋭部隊ではなかった。反撃の第一矢は、大量の妨害電波をBGMとして日本勢力圏全てから空を飛んでやってきた。
 空からの危険な来訪者達は、まずは圧倒的物量によって一瞬で制空権確保を行った。僅かなMig15しか持たない人民空軍では、当時列強屈指の空軍力を持つ日本軍の敵にもならなかった。何しろ既に完全な全天候型ラケータ戦闘機を多数有しているのだ。しかも噂の範囲内だが、実戦経験確保のためにソ連空軍も日本軍や満州国軍として参加していたと言われている。
 そして安全となった空を通り、戦略爆撃機から回転翼機に至る約4000機もの有りとあらゆる機体が飛来。各種爆弾と焼夷弾、そしてナパーム弾を無数に投下して、人民解放軍を焼き払っていった。次の攻撃開始や短時間での補給のため、平原に密集して展開していた人民解放軍の損害は甚大だった。人民空軍と高射砲が警戒のため配備され対空偽装も施していたが、何の役にも立たないまま一番にガラクタもしくは火葬とされた。そして地上部隊への攻撃は、通常の爆撃よりも薙払うや焼き払う攻撃が最大の効果を発揮したと言われた。現に多数の地上襲撃機と呼ばれる対地専門攻撃機が多数参加していた。これは、ソ連とドイツの戦いの資料を得た日本空軍が、新たに開発した兵器だった。しかも日本空軍は、健軍以来初めての本格的戦闘という事もあり、異常なほど張り切っていた。
 また沿岸部には、日本海軍の誇る超巨大戦艦複数が、後方に展開する空母機動部隊の支援を受けながら突如出現した。海の巨人達は、人民解放軍側に核攻撃と誤認させる程の破壊を振りまいて、全てを踏みつぶしていった。世界最強級の直接破壊力を誇る51センチ砲による沿岸部での破壊は徹底しており、破壊率は内陸部の三倍に達したと言われている。
 だが日本軍の攻撃のピークは、記録映像にも残る軍国主義を象徴するような巨人爆撃機群の絨毯爆撃や、独ソ戦真っ青の対地ロケット砲群の一斉射撃、巨大戦艦群の一斉砲撃ではなかった。
 日本の首相山本五十六は、短期間での紛争終結という彼の構想に基づいた政治目的実現のため、日本軍による核攻撃へのゴーサインを出していたのだ。
 そして発足から十年に満たない日本空軍に属する戦略爆撃機(ラケータ推進に変更した「富嶽改」と「Tu95(ベア)」の日本型(三菱製))数編隊が、熱河省西部上空約1万2000メートルに出現。人民解放軍の集結拠点もしくは補給拠点となっていた6カ所同時に、プルトニウム型原子力爆弾(核兵器)を投下、全てを地上から消滅させてしまったのが攻撃のピークであった。うち一発は錦州の西方20キロ近辺に落とされ、第二のバストーニュを期待して集まっていた世界中の冒険的な報道関係者の写真収まることになる。
 無論、世界で初めての核兵器実戦使用であり、この時撮られた写真の中の一枚がその年のピューリッツアー賞を獲得した。
 使用された核兵器は主に20キロトン級のプルトニウム型原子力爆弾で、ほか一発が50キロトン級の大型原爆、さらに一発が当時日本軍で試作されたばかりの200キロトン級の強化原爆だったと言われている。また噂の範囲内では、ソ連製の水爆も使用されたと言われているが、今現在においても確認されてはいない。
 そして核兵器の効果は、各種核実験の結果を踏まえていた事もあり完璧だった。自軍が放射能で損害を受けないように、風向きまで計算していたほどだ。また他の過剰なまでの攻撃効果もあって、人民解放軍約200万人は国境から100キロほど進んだところで、24時間以内に約三分の一の兵士が文字通り地上から消滅したと判定された。半数以上が一般的な意味での戦死とは少し違い、文字通りの消滅だった。しかも核兵器の破壊力とEMP放射によって指揮系統が大きく破壊されたため、核兵器投下から人民解放軍の士気崩壊と潰走が始まる。
 そして士気崩壊した生き残りの軍とも呼べない人々の群が、地上でも総反抗を開始した関東軍ご自慢の機甲軍団に蹂躙されながら数日間の逃避行を行う事で、紛争自体も呆気ない幕切れとなった。
 日の丸を付けたソ連製重戦車数百両を先頭とした関東軍重機甲部隊の進撃をフィナーレとした戦闘は、二年前に起きた第二次中東戦争が児戯と思えるほど大規模で激しく、そして一方的だった。敗走する人民解放軍は、あまりにも指揮系統と兵士の士気が崩壊していたため、一部の死守部隊以外にまともな殿(しんがり)がいなかった。後に日本軍は、この時の戦いを『関東軍特別大演習』と人民解放軍を完全に見下した俗称を付けたほどの結果となった。
 そして核兵器投下から爆撃、追撃戦に至るまで日本軍は自らの国内(正確には満州国内)での戦闘に終始し、一部の防御目的の砲撃以外で攻撃が国境を越えることはなかった。万里の長城から50〜100キロメートルほど入り込んだ辺り一帯が、人民解放軍殲滅のために準備された人民政府の言うところの『悪魔の園』だったのだ。
 なお日本側の防衛戦の姿勢は徹底しており、海に出現した巨大戦艦もわざわざ領海外から艦砲射撃を行っていたほどの念の入りようだった。主な戦闘期間も約一週間に過ぎず(紛争期間はほぼ二週間)、国連及び他国の介入を許さなかった。アメリカ太平洋艦隊の移動も間に合わず、ソ連軍の極東への移動も、移動が始まったばかりで終わっていた。
 それでいて日本軍の損害及び国家・国民の犠牲は最小限。そして戦果は空前絶後。まさに完璧な防衛戦だった。一部では北京など主要都市への核攻撃や爆撃も計画されていたが、全面戦争の必要がまったくないほどの完全勝利だった。『野戦軍主力の完全な撃滅』という要素を完璧に満たした、日本軍が求める『戦争』は完遂されたからだ。この戦果により、人民解放軍はむこう十年以上にわたり何ら能動的な行動は取れないだろうと判定された。
 一方の人民解放軍は、装備の違いと待ちかまえている敵に対する強襲となるため、侵攻軍の二割に当たる40万人までの戦死と全体の半数の損害を予測し許容するつもりだった。だが実際は110万人もの兵士が戦死した。祖国に戻れず降伏した兵士の数も、総数で10万人に達した。何とか生還した約80万人の兵士のうち、健常者は半数の40万人に達しなかった。
 撤退完了時に軍として組織を維持していた部隊は、全体の1割にも満たない。新聞など報道の言うところの全滅だった。そして、当時正式編成上にあった人民解放軍の約半数が壊滅し、三分の一の部隊が僅か一週間で文字通り消滅したことを同時に意味していた。この戦果を日本軍は、世界戦史上最高の包囲殲滅戦であり、正当な自衛戦闘、国土防衛戦であったと国内外に宣伝し、日本国内では国を挙げての提灯行列となった。
 しかし日本政府及び軍は、肝心なところで国際世論というものをまたも忘れていた。未知の強力な破壊力を持つ核兵器を平然と用いたことが、世界中から大問題とされる可能性をほとんど失念していたのだ。

 日本の核兵器使用が判明した瞬間、アイゼンハワーは大いに嘆き最上級の落胆の姿勢を示したと言われた。フルシチョフは普段の冷静さをかなぐり捨てて、日本の首相官邸との連絡を取ったと述懐している。毛沢東がどうしたか歴史は黙して語っていないが、革命の終幕を予感して乾いた笑いを浮かべたと噂されている。
 しかし日本は北京を吹き飛ばさなかったし、全面戦争も行わなかった。快調に進撃した地上部隊も行儀良く国境線で止まった。
 そして、日本が北京を吹き飛ばさないと分かり、三度目の世界大戦にもならない事が確定すると、世界中が日本を痛烈に非難し始めた。
 非難に対して日本側は、核兵器を侵攻してきた敵軍事力に対してしか、しかも自らも傷つく領域内でしか用いていないと説明した。だが、リベラルと自認する西側欧米世論には無駄だった。開戦当初世界中から同情的に見られていた理不尽な侵略、防衛戦争、自衛戦争だったという論調も、日本軍による核兵器使用が明らかになった一週間後には、ほとんど誰も言わなくなっていた。もたらされた凄惨な結果に、日本が中華を謀略に陥れたのだという、まったく根拠のない『日本陰謀説』が横行したほどだ。
 あまりにも凄惨で一方的な結果に世界中が恐怖し、核攻撃を平然と実行した日本に対する批判を天井知らずとしたのだ。そしてこの瞬間、日本は自らの手により悪の軍事国家というレッテルを貼ることになる。一時期の西側では、かつてのナチスドイツに並ぶ非道な国と言われたほどだ。
 結果、アジア=アフリカ会議以後上がっていた日本の国際評価は急落し、手段を選ばない軍国主義国家という認識を強めさせることになる。当然西側からは、痛烈な批判と貿易停止、国によっては大使引き上げなどの厳しい外交措置にさらされた。第三世界の多くも西側寄りな国はほぼ同じ措置を取り、残りの第三世界もほとぼりが冷めるまでは最低限の交流に限るようになった。強力な指導体制だった筈の山本内閣も、突然の不景気を被った民意により散々な総辞職を余儀なくされた。軍人の多くも、なまじ政治関わりすぎていた事が災いして、多くの現役軍人が退役や予備役を余儀なくされた。そして次の内閣には、国民から総すかんをくらった軍人は外され、官僚出身の岸信介が選ばれた。
 ちなみに、岸内閣成立時に軍を去った高級軍人の中に辻政信の姿もあった。彼は当時関東軍参謀長だったため責任をとらされて軍を退役。その後数年間の潜伏期間を挟んで、満州国の政治家として頭角を現す事になる。

 話を戻すが、日本にとって幸いな事に、既に共産中華と既に不仲だったソ連を始めとする東側陣営は、日本との国交と貿易状態をそのまま維持した。このため、日本が自暴自棄になるまでには至らなかった。捨て鉢になった日本が全面戦争を始めて、それが第三次世界大戦になることをロシア人達も大いに危惧したからだとも言われている。また一部では、反中華もしくは反米的な国とは一部関係が親密になったところもあった。アメリカと対抗するため、日本を脅しで使えると考えられたからだ。
 そしてこの紛争こそが、日本の立ち位置を改めて東側陣営に固定したことは間違いなかった。そして水面下で共産中華と日本の内情を知っていたソ連は、この結果がもたらされる可能性が最も高いと考えていたため、この時の紛争で大きな動きを起こさなかったと言われている。ロシア人は、どうせ中華とは仲違いするのだから、それを利用してしまえという事になるだろう。
 もっとも、1959年のキューバ革命以後激化する米ソの対立に世界の目が向いたため、紛争から数年もすると日本に対する風向きも緩くなった。
 最終的には、中華と日本の激しい対立状態と、核兵器を使用した場合の恐怖だけが世界に残された。


フェイズ11「六十年騒乱とキューバ危機」