■フェイズ11「六十年騒乱とキューバ危機」

 満州紛争後、北東アジアは停滞期を迎えた。全ては『満州紛争』の影響だった。
 共産中華は、満州紛争での事前予測を大きく上回る敗北によって、軍事面で対外的に全くふるわなくなった。そればかりか、敗北を挽回するため強行された『大躍進』政策をより徹底して推進した結果、国内経済が崩壊して餓死者数千万人を出して自滅。激しくのたうち回っていた。しかも紛争を仕掛けた側として、西側社会はもちろん世界中からも依然無視されていた。友好国だったソビエト連邦ロシアも、紛争に関連する事前通達がなかったとして関係を大きく冷却化した。このソ連の行動は、西側でもソ連と共産中華の関係悪化の決定的ターニングポイントだと観測され、満州紛争でソ連が共産中華をそそのかしたのではないとの認識を持たせるようになった。
 そして共産中華では、紛争以後数年間は建国以来の危機と認識された。満州との自然境界線(万里の長城)から50キロほどしかない首都北京は以後長期に渡る厳戒令下に入り、防衛都市宣言が長年にわたって宣言され続けた。そして政府は、日本がいつ報復のため攻め寄せてくるのか、核兵器を搭載した重爆撃機が主要都市に飛来してくるのかと恐れた。何しろ攻めかかったのは自分たちであり、日本に政治的詐術や言い訳が通じるとは、この頃は流石に考えられなくなっていた。だからだろうか、日本が攻めてこないと分かっても無理を押して軍備再建に狂奔した。国力を無視した軍備再編成を懸命に行い、政府主要部に人海戦術で核シェルターを建設し、人民には防空訓練を日課とさせ、ほぼ戦時体制と言える状態のまま戦々恐々の毎日を送っていた。当然ながら、共産中華経済に悪影響を与え続けた。
 またこの時期、中華各地の軍閥が北京の中央政府に逆らったり独立を図らなかったのも、皮肉にも『満州紛争』が影響していた。略奪と戦闘参加による建前としての名誉欲に目がくらんだ軍閥が、こぞって紛争に参加して仲良く壊滅した。場合によっては従軍していた軍閥の首脳部が戦死したため、中央に対して反発や自立する実力や能力を失っていた。侵攻した軍閥の首脳部たちも、まさか自分たちの頭上にいきなり核爆弾が炸裂するとは考えていなかったのだ。
 なお、満州紛争とその後の体験が、毛沢東による多産政策をよりいっそう強固なものとさせたと言われている。事実中華人民共和国の人口は、政府の強力な指導によって、以後二十年間は国内での飢餓や食料不足を無視するかのように異常拡大を続けた。また一方で、中央政府がグロテスクに脚色した日本脅威論は国の団結を図るには格好の宣伝材料となり、内政面での成果は非常に大きかったとも言われている。
 ただし一方では、人民解放軍が日本に残存戦力の過半数を向け、逆に各方面の軍が激減した事を受けて、東トルキスタンとチベットがより強いレベルでの独立を改めて宣言した。また両国は、ソ連や日本などに強い庇護を求めた。日ソ両国も大なり小なりこれを受け入れたため、共産中華側も実質的な行動はできなかった。しかも日本は敵対国となったので、遠慮なくチベットや東トルキスタンに武器の輸出(直接空輸すら行った)や軍事顧問の派遣を始めたりしていた。
 なお共産中華は、満州紛争での敗北と大躍進政策の推進によって、第二次世界大戦で列強が被った以上の国家規模の損失を出したと言われている。確かに、軍事力の三分の一と国民の一割が失われ、さらに産業が壊滅したのだから、損害程度は全面戦争での敗北に匹敵しただろう。よく国が崩壊しなかったと、後に評価されたほどだった。逆を言えば、国を維持するために無理を重ね、それが次の『文化大革命』に繋がったのかもしれない。
 また世界の誰もが相手にしなかったからこそ、中華人民共和国が存続できたともいえる。誰も人間が異常に多いだけの貧しい土地など欲しがらなかったと見るべきだろう。満州紛争以後二十年ほどの共産中華では、それほど酷い状態が続く事になった。噂では、紛争以後十年以内の餓死者数だけで一億人に達したと言われている。

 一方日本も、のたうち回っていた。
 アメリカを中心とした国際世論が、大量の核兵器実戦使用がソ連が行った『ハンガリー動乱』など比較にならない軍事的暴挙として、日本を非難したのが影響していた。しかもアメリカにとっては、第三世界から英仏など欧州植民地国家の悪行(植民地主義とスエズ動乱(第二次中東戦争)など)を逸らすには、日本の行いはこれ以上はないインパクトを持っていた。何しろたった一週間で百万の人間を殺戮し、しかもその主力兵器こそが核兵器であったのだ。
 要するに日本の核兵器大量使用は、アメリカの対ソ非難包囲網の構築と第三世界で日本ではなくアメリカが主導権を握るために、大いに利用されたと見るべきだろう。
 ただしこの時の原因を作ったのは『アメリカの陰謀』などではなく、皮肉にも日本自身だった。ただし核兵器使用そのものではない。
 満州紛争頃の日本は、自らの正当性を主張するために世界中の報道関係者を戦場近くに招き入れていた。日本としては、とにかく西側諸国と言うよりもアメリカに満州国を認めさせたかった。だが教条的な米政府では埒があかないので、アメリカ市民に直接訴えようとしていた。そして共産中華の侵略は、またとない機会だと考えられた。
 しかも日本政府は、自らが組み上げた『完璧な防衛戦争計画』に非常に満足しており、絶対の自信を持って諸外国の報道関係者や観戦武官を引き入れ、可能な限り自由に行動させていた。
 しかし満州紛争においては、日本が見せようとした侵略者の中華と被害者にして守護者の日本という図式は、日本軍が総反撃を開始するまでしか成立しなかった。日本軍のオーバー・キルに恐怖し、負傷者や被害を目にした段階で変化してしまったのだ。しかも核兵器使用後には、日本の関係各位が規制をかける前に、いち早く世界中を原爆被災者の写真が席巻していった。それ以前の問題として、未曾有の侵攻に対する反撃作戦の完全な成功に驚喜していた日本は、何が起こっているのか正確には理解できないまま日数を過ごしてしまい、自らが不利な報道に対する規制が完全に後手後手に回った。それはアメリカなど西側政府も同様であり、「生」の情報は世界中を駆けめぐり、核兵器というものを実体を伝えてしまう。
 あまりにショッキングな写真の数々に世論が沸騰。特にアメリカ国内では極めて短期間で世論の大勢が百八十度変化したため、アメリカ大統領並びに政府は日本への強い非難、核兵器使用への非難へと大きく傾いた。新聞各紙や情報誌の一面を飾った被爆者の写真の数々は、それこそアメリカに実弾の原爆を落としたよりも効果があったのではないかと言われたほどだった。万が一肯定的意見を続けていれば、日本の核兵器使用を非難する市民の声は、自らの政府を非難する声になっただろう。アイゼンハワーの嘆きも、日本の核使用に対する嘆きなどではなく、残虐行為を報道関係者に見せてしまうという日本の愚か過ぎる行動の結果のためだと言われている。
 本来ならアメリカは、紛争を契機に日本を東側から引き剥がすことを狙っていたと言われているが、感情的世論のおかげで国家戦略を全く逆の行動を取らざるを得なかったからだ。
 そしてこの時の状況が、報道が戦争に影響を与える最たる例の一つだと世界的に認識され、いずれアメリカも大きなしっぺ返しを受けることになる。『満州紛争』は、報道や宣伝が国際的世論を容易く動かすことを立証した最初の大規模戦闘だったのだ。
 またアメリカにとっては、核兵器という未知の大規模破壊兵器が表面上の理論や政治を越えてあまりにも安易に使用された事は政治的誤算であり、アメリカに日本の核兵器使用を非難させた大きな材料だった。しかしアメリカが強かなのは、日本を『悪』とする事で日本脅威論を煽り、自国及び自陣営の核武装を肯定した事だろう。

 アメリカの事はともかく、日本は核兵器使用とその後の反核世論により形成された国際非難とその影響で海外貿易の多くを失った。それまでの発展と繁栄が嘘のように消え失せていた。早くも1958年秋には、域内全てが大きな不景気に見舞われた。当初日本政府は、既に西側諸国とのつながりが大きく弱まっているためそれほど深刻だとは考えていなかったが、海外貿易の三分の一が消えた事の影響は巨大すぎた。そしてこれは、日本が海外との貿易を基本とした資本主義市場経済の国だった事の何よりの現れだった。
 なおこ時の長期的な不況を、日本人達は『原爆不況』呼んだ。

 満州紛争後の1958年10月に新たに首相となった岸信介は、軍事費を削減して大規模な内需拡大政策を打ち出すが、不景気の出口はどこにもなかった。官僚、軍人、伝統階級、財閥資本、地主階層などありとあらゆる日本の既得権益が複雑に絡み合って、岸が日本救済のため断行しようとしたドラスティックな経済政策と政治改革を阻止していたのだ。この時岸が何度も暗殺未遂を経験した事からも、抵抗の激しさを見ることができる。
 しかも、悪いことは重なっていく。
 1959年(昭和34年)には、1940年のやり直しを目指して活動していた64年のオリンピック招致までも国際評価の失墜を主な原因として逸したのだ。また、未曾有の不景気により、大都市(首都圏と京阪神圏)と他の地方との格差、資本家と労働者との格差、富裕層(国民の約8%)と貧民(約20%)との格差が改めて浮き彫りにされた。
 そして日本国内では、経済壊滅と五輪招致失敗をもたらした無能な政府・政治家、加えて軍部の行き過ぎた戦闘行為に対する批判と民衆運動が大きなうねりとなった。日本列島内どころか域内全域でも大きな運動となり、もはや治安維持法と特高、憲兵では対処のしようがなかった。何しろ相手は、既に国内では死滅しつつあると考えられていた少数の夢想的な共産主義者や無政府主義者ではない。明日の生活を肩に背負った日本国民と域内の国民全てなのだ。しかも軍や警察の下層階層出身者までもが、こぞって運動に参加していた。
 結果、第二次岸内閣が発足。首相以外の顔ぶれがほとんど代わり、軍人は陸海空軍の大臣職からすら出されることはなくなった。事実上の「敗戦責任」をとらされたのだ。岸が首相に残れたのも、少数のリベラル派以外で最も政治力のある人間だったからに過ぎない。そして新たな内閣の元で大規模な政治改革や憲法改正、税制改革が断行されると同時に、軍の政治力と発言力がかなり低下するという結果に至る。これが1960年初夏に起きた、俗に言う『六十年騒乱』であった。
 『六十年騒乱』では、帝都東京では政治改革と経済対策を求める百万人を越える民衆が、皇居、国会前、陸海空軍省などに押し掛けた。集会は日本各地でも連携して行われ、日本中での集会参加者は国民の一割以上の1000万人を越えたと言われている。政府や企業側の厳重な警告をほとんど無視して、日本中の労働者が「総力戦」のもと結集して全面同盟罷業(通称「ゼンヒ」=ゼネラルストライキ)を実施した。治安維持法などによる逮捕者は、警察の処理能力を完全に麻痺させてしまう。少なくとも帝都を守護する警視庁は、地方からの大規模な応援がなければ何も出来なくなっていた。法律うんぬん以前に、治安維持装置の機能麻痺などそれまでの日本では考えられない非常事態だった。
 しかもここにきて警察組織と憲兵、というより内務省と陸海空軍省との対立が決定的に悪化した。内務省関係者は、官僚、政治家を問わず主に軍が求めた厳戒令に反対し続けた。さらに警察は軍を敵視して、出動や介入さらには出動準備までも許さず、陸軍の活動をあからさまに邪魔した。不法出動の兆候があるとして、事実上の軟禁や拘束すら行った。これに対して主に矢面に立った陸軍側も、民衆(国民)ではなく警察に対して敵意を向けるようになり、嵐が過ぎ去るまで事実上の籠城に入ってしまう。政府も国民からの支持を無くした軍を投入する気はなく、これらの行動を追認した。軍を投入したら、収拾のつかない事態になる可能性が極めて高いと判断されたからだった。
 しかし国民全ての政府に対する行動は、ある意味で他国が本土侵攻してきたよりも日本の為政者達に危機感を抱かせたと言われている。日本の歴史上、「民」という「内」から崩壊する初めての政権になるのではと考えられたからだ。
 さらに一部では、共産中華から強力な支援を受けたと言われる活動家(主に学生の夢想的共産主義者と農村部の毛派過激派)などによる過激な運動や集会、さらには重犯罪、テロ、テロ未遂も多数発生した。日本中が、今にも市民革命や共産主義革命が起きるのではと対外報道されたほどの大騒ぎとなったのだ。
(※不思議な事に、西側の報道機関や企業は日本から完全に閉め出されたことがない。)
 結局、岸信介首相の豪腕により、軍部の権限をある程度抑える大幅な憲法改正を伴う政治改革が実行された。そしてその上で、斬新(ドラスティック)な民主化政策、税制改革、社会保障政策、教育政策の多くがほとんど即決で実行、法案化された。年内には日本中で総選挙と統一地方選挙が実施され、民意により高齢化していた政治家の多くが消え去った。軍人の政治家化もほとんど葬り去られた。華族の特権のいくつかも法的に抹消された。連動して、混乱の責任をとるとして、高年齢の官僚、軍人の多くも降格や早期退職、下野を余儀なくされた。貴族院も、それまでとは違って、半数を在野の有識者から民主選挙で選ぶことと法改定された。そしてこの時、これまで前例の無かった無学の国会議員として颯爽と登場したのが、後に今太閤と呼ばれることになる田中角栄であった。
 そして第三次内閣を組閣した岸首相のもとで、一時的な軍事費の大幅な削減と公共投資増額が長期政策として決められた。加えて国内の流通促進による地域格差の是正と日本全土への社会基盤整備の根幹として、日本全土への新幹線敷設計画の拡大と高速道路整備計画も承認され、その他多くの経済政策が実行される事が決まる。都市開発の邪魔の象徴だった帝都に居座っていた近衛師団、大阪市内に居座り続けていた陸軍造兵工廠の郊外移転も決まった。そして長期十カ年計画とされた法案通過を待っていた国民の多くも、ようやく家路へとついた。
 一方で財界も、政治と似たような経緯で大幅に再編成を余儀なくされた。労働者に対する労働環境や給与を改善し、保障制度も充実した。労働者組合の力も強まり、一部の財閥資本家の企業に対する支配力も大きく低下した。
 そして内部での世代交代と革新が進んだ各大企業と日本経団連は、軍隊の徴兵が労働者人口の減少と景気減速をもたらしているとして、徴兵の削減もしくは志願制軍隊の導入を強く要求する。
 これに対しては軍は、三軍を挙げて猛反発。そして次の選挙の票が欲しい政治家が出した政府の折衷案として、日本国内の長期的視点での出産率の維持・上昇を行う政策を大規模に実行することになった。この計画は長期的な国家計画とされ、子供に対する出産から医療、養育に至る社会主義国を凌ぐ手厚い社会保障政策が順次実行され、日本人出生率と総人口の継続的上昇に大きな貢献を果たすことになる。またこの時期にこうした要求が出た背景には、単に経済や産業の発展があるばかりではなく、日本人の出生率が徐々に低下し始めていた事も影響していた。つまり日本が、実質面で充実し始めていた事を示している。ただし事実上の多産政策は、その後半世紀継続され続けて日本人人口を大きく引き上げ、今なお大きな効果を発揮し続けている。
 なおこの時の日本での大規模な変化と改革、そして各種経済政策と軍事費比率の一時的な低下は、日本経済と財政に好影響を与えると同時に、皮肉にも大日本帝国を長らく延命させる大きな要因となった。またこの時軍部が結果として政府や国民に対してほとんど武力や武器を用いなかった事が、国際的に不思議がられると同時に、少しばかり日本軍の評価が持ち直すきっかけともなった。
 ただし日本に対する対外的評価は、軍国主義が国家社会主義もしくは国家資本主義に変化しただけだとされた。そしてここに、後に世界で最も成功した社会主義と言われる新たな軍国主義国家としての大日本帝国が出現する。
 なお、この時の騒乱と憲法改正の副産物のような形で、皇室の大幅な改革が実施された。無論、国民に対するガス抜きと対外心証を良くする為の政策の一環だった。そして国民により近い皇室を目指すと昭和天皇自らが宣言を下され、皇太子が民間からお后を迎えることを決定。日本人の間に、明るい雰囲気をもたらした。
(※この世界では、日本が総力戦を一度もしないという時代の流れの影響で、天皇=現人神の意識はそれほど高くありません。)

 なおこの時期、対外的に日本にとって幸運だった関連事件がいくつか存在した。
 一番のものは、共産中華とソ連の関係悪化であった。なればこそ日本は、内部でゲバ抗争や内政改革に明け暮れる事が出来たともいえるだろう。
 なお、満州紛争前の1957年7月にフルシチョフが訪中し、そこで彼は大躍進・人民公社建設を批判して毛沢東の反発を買った事がソ中関係悪化の原因だとされている。また58年の東トルキスタンの完全独立をソ連が支持したことが、共産中華の対ソ不信をいっそう強いものにしたのは間違いない。また共産中華が求めた日本に対する行動(共産主義革命の誘発など)を、ソ連が否定したからだとも言われる。
 そして満州紛争では、侵略した側となる共産中華を痛烈に批判し、直接的な関係冷却化を告げた。西側はこれを、満州紛争が共産中華単独による行動とする要素としたが、事実は違っていた。
 ソ連のコントロールを酷く嫌う共産中華そのものを、ソ連が受け入れなかったための分裂というのが真相だった。満州紛争はただの切っ掛けに過ぎない。しかしこの時点では、両者は完全に関係を遮断する事までには至らず、以後しばらくは共産中華は政治的に東側陣営に止まることになる。ソ連側は安易にアメリカに走らせないためで、共産中華側は日本の全面的な報復を防げると考えていたからだ。
 一方のソ連は、自陣営の維持と極東防衛・極東開発、対米圧力のために、共産中華よりも日本を必要としていた。急速に孤立を深くした日本も、様々な面でソ連を必要としていた。また皮肉と言えば皮肉な事に、日本の政体は資本主義と社会主義、イデオロギーの違いさえ見なかったことにすればソ連とよく似ていたので、実務レベルでは意外に馬が合った。国家のエリートを自認する官僚団同士の関係は、特に親密だったと言われる。そして当時の日本は、60年に再編成された大政翼賛連合と軍部、そして中央の官僚団により運営されていた。
 ある皮肉に、『日本は最も成功した社会主義国』という言葉ある。これはこの時の『六十年騒乱』によって完成した体制だったのだ。また当時のソ連指導者フルシチョフは、ロシアの優秀な指導者の通例としてかなりのリアリストであり、そうした為政者の面でも日ソ関係は親密なまま継続される事になる。フルシチョフの言葉に、『日本人で特定の個人以外で信頼できるのは、職務に忠実な中央官僚団の仕事ぶりだけである』というものがある。
 また西側諸国では、フランスが日本に急接近した。
 発端はド・ゴールが第五共和制を成立させて、初代大統領に選ばれた事が強く影響していた。そしてド・ゴールは、日本の岸首相と相互訪問を実施して関係を深めた。東西両陣営の対立の中での独自路線や大国主義を貫くに際して連携すべき国が、実のところ日本であったためだ。
 しかもフランスは、独自の核軍備を進めるにあたりアメリカやイギリスと溝を深めており、西側諸国で唯一公式に日本の核兵器使用を肯定する発言を行っている。そしてフランスとの日本の関係はド・ゴール政権中に進み、東西双方のそれぞれの窓口としての役割を果たすようになっていく。
 ただし効果がすぐ現れるものではなく、日本は国内改革と内需拡大に狂奔しつつ国際世論が沈静化する努力を続ける事になる。

 北東アジアの停滞と混乱をよそに、世界は緊迫度合いを急速に増していた。1959年のキューバ革命から1962年10月のキューバ危機に至る、いわゆる米ソ全面核戦争の恐怖が世界を覆ったからだ。
 そしてこの時、間接的に重要な役割を果たしていたのが大日本帝国だった。
 1958年8月の満州紛争において日本は、世界で初めて核兵器を実戦使用した。この時複数の原子力爆弾を使用し、約30万人が爆発から12時間以内に死亡したと判定され、さらに20万人の重度の被爆者をその後一週間以内に見殺しもしくは殺害したとされている(※事実は、被爆地の長期封鎖(二次被爆防止と報道関係者を入れないため)による重度被爆者の短期間での死亡。被爆者の総数は、軽度の者を含めると70万人達すると見られているが、共産中華側の情報が不確かなため不明。)。
 しかも核兵器使用による効果は、日本とソ連の研究者や調査団によってくまなく調査されて、その当時の技術に反映されたり後世に詳細な報告書として残された。純科学的には、極めて大きな成果があったと言われている。恐怖の方は、共産中華による誇張し尽くされたプロパガンダによって、その後世界に振りまかれた。中華共産党報道部は、自らの核兵器による死者数を実数の50万人ではなく、侵攻部隊の総数よりもはるかに多い300万人以上だと世界中に宣伝してまわった。しかも帰国した被爆者の姿も進んで西側報道組織に公開して、日本の悪辣さと自国の被害者面を強調した。そして世界中は、日本と共産中華の事などほとんど無視して、核兵器の「効果」だけを恐れ怯えた。キューバ危機後、米ソの核兵器運用責任者への措置が緩和されたほどだった。
 一方使用者の日本軍だが、対外的には反省するそぶりを見せず、新たな兵器を自らの軍事体系に組み込むことに余念がなかった。満州事変は、政治的にはともかく軍事的には完璧な成功であり、予算とウラン保有量以外で核兵器配備を止める理由が存在しなかったからだと言われる。こうした点で、日本は間違いなく軍部やそれに連なる人々の影響が強い国家だったと言えるだろう。
 そして、アメリカ軍が最も脅威と考える日本海上戦力は、核兵器とりわけ戦術核兵器装備の先鋭的な集団と化していた。主に日本にウランを輸出していたソ連も、日本に一定の価値を認めていたため小言言ったり難癖を付けながらも大量にウランを輸出して、日本国内では民間発電用に建設された筈の原子炉までが大量のプルトニウムを吐き出していた。ソ連にとって満州紛争後の日本は、自分のかわりに莫大な予算をつぎ込んで対米戦備を整えてくれる有り難い相手だった。
 なおこの頃日本海軍は軍縮されても尚、数隻の巨大戦艦と大型空母複数を中核とした、依然として世界第二位の海軍力を保持していた。欧州大戦で疲弊し第二次中東戦争(スエズ動乱)でさらに国家財政が傾いたイギリスに往年の力はなく、ソ連海軍はいまだ発展途上であり、日本海軍こそがアメリカ海軍の唯一のライバルであった。複数のジェット機を搭載した大型空母が機動部隊を編成して西太平洋を動き回っているのだから、当然と言えば当然だろう。満州紛争に驚いたアメリカが、革新的なエンタープライズ級原子力空母を3隻も急ぎ追加建造(実際は既存計画の変更)した事からも、日本軍に対するアメリカの恐怖を見ることができる。
 しかし日本の主要海上戦力は、この頃派手な水上艦艇ではなくなっていた。空軍の有する巨大な戦術型戦略爆撃機群(タクティカルタイプ・ストラテジーボマーズ)と海軍の潜水艦隊こそが、戦力と予算の主要な部分を占めていた。共に主装備は、ソ連との共同開発の核弾頭装備の長距離誘導ラケータであり、日本人の操る戦略爆撃機と攻撃潜水艦はロシア人の同種の兵器よりも脅威であるとアメリカも強く認識していた。しかも日本海軍は、米ソに続いて原子力潜水艦の開発及び量産配備にも既に成功していた。アメリカにとって幸いだったのは、日本海軍や日本空軍があくまで「戦術軍」として組み上げられている事と、太平洋の4分の1を使った防衛戦、つまり漸減戦術を金科玉条としている事だった。つまり、満州紛争のように彼らの縄張りに入らない限り、不用意に攻撃される可能性は低いのだ。
 ただし逆を言えば、日本軍が核兵器を戦術兵器として認識している事は、1958年の例があるように戦場での使用に躊躇しない事を意味していた。また日本自体に攻撃を行おうとすれば、太平洋に存在するありとあらゆる敵性軍事力は、日本軍の極めて攻撃的な戦術核攻撃にさらされる可能性が高い事を意味していた。
 つまり日本には、少なくとも戦術面でのエスカレーション理論が通用しない可能性が高かった。『エスカレーション理論』を提唱したケネディも、これだけは黙認という形で認めざるを得なかった。
 しかも日本は、国内の混乱や大幅な改革、さらには不景気にもめげずに、1960年には水爆実験を成功。すぐにも量産して、重爆撃機などに搭載するようになっていた。
 故に、アラスカとハワイからオーストラリアにかけて緩やかに日本を包囲する以上のことが出来ないのが、アメリカ以下自由主義諸国軍の現状となっていた。日本の勢力圏内のアメリカ領グァムやフィリピン・ルソン島などのアメリカ軍基地は、アラモの砦状態だった。いまだ中華民国が気息奄々のまま居座っている海南島などは、一年中厳戒令下だった。「狂戦士」や「狂犬」というこの頃の西側の日本軍評が、気分的なものを如実に現していると言えるであろう。
 そしてソ連も、ややもてあまし気味な狂戦士の最低限の使い方をわきまえていた。アメリカとの正面切っての争いの場を日本が手出しできないカリブ海として、米ソだけでの政治的駆け引きとした事がその現れだ。ただし日本には、自分たちのゲームにつきあうようにだけは言ってきた。加えて、ゲームに参加する以上の事は決してしないでくれとも、厳重という以上の態度で言ってきた。
 かくしてキューバ島の弾道弾を巡る米ソのにらみ合いが続く頃、西部太平洋上では日米の大艦隊同士が激しくにらみ合う一触即発の事態に発展していた。アメリカの最新鋭の《エンタープライズ級》原子力空母の一番艦以外の全て、アメリカらしい贅沢な突貫工事で就役したばかりの《ディスカバリー》《コンステレーション》《コンスティテューション》を中心とした大機動部隊が太平洋に展開していた事からも、アメリカの日本に対する姿勢を見ることができる。しかも日本に対抗するためだけに《モンタナ級》戦艦3隻も配備されていたのだから、アメリカ海軍が実際誰に目を向けていたのかが垣間見える。
 対する日本海軍も、緊急措置で現役復帰した戦艦《大和》を旗艦として、戦艦3隻、大型空母5隻を中心として百隻近い大艦隊を布陣させた。択捉島、硫黄島、沖縄、台湾など各地に展開する巨人爆撃機群も、水爆哨戒の増加など重度の臨戦態勢に入った。さらに互いの弾道弾搭載潜水艦も、双方の本土近辺に厳重な護衛付きで展開していたと言われている。双方の膨大な数の攻撃潜水艦群については言うまでもない。互いの主力艦隊が正面から睨み合う事態を考えれば、キューバ以上の緊迫度だったと言えるだろう。
 ただし満州紛争での日本軍の姿勢と眼前の大艦隊を前に、アメリカの軍事指導者達の積極姿勢に少なからぬ影響を与えたと言われている。当時海軍を預かっていたかつてのUボートキラーだったバーク提督に、「戦闘を始めた次の瞬間に太平洋艦隊がキノコ雲の下に消え、ハワイやグァムが地図の上のシミになる」と言われては、何事かを考えさせずには置かなかったという事だろう。
 ただし民間人一人いない洋上の出来事であったため、長らく歴史の表に出ることはなかった。そして世界が注目したキューバ危機そのものは、アメリカの断固とした海上封鎖によってソ連側の妥協と撤退という結末を迎える。
 ただしアメリカとソ連忘れなかった。
 日本軍が先だって核兵器を実戦使用して必要以上に目立ったからこそ、今回の事件がにらみ合いで終えることができた事を。その証拠とばかりに、事件後すぐにもソ連と日本の間にホットラインが敷かれ、後にアメリカと日本との間にも敷かれることになる。
 どう猛で危険な孤狼も、鎖を付けて飼い慣らせば立派な番犬や猟犬に変わることもあるのだ。
 米ソ両大国は、そう考えることにした。



フェイズ12「ベトナム戦争と日本」