■フェイズ14「日ソ蜜月時代と宇宙開発競争」

 満州国の承認と朝鮮独立、そして日本での国際万博の開催を契機として、満州紛争から続いていた日本と西側諸国、特にアメリカ合衆国との外交関係はようやく正常に近い形になった。共産中華とも、ようやく国交が正常化した。米ソデタントの流れもあって、東側の資本主義国ながら再び国際市場にもほんの少しだけだが受け入れられるようになってきた。共産中華とアメリカの行動によって関係の冷却化もあったが、今更他の国々国交を閉ざすような事はなかった。
 一方では、インドなどアメリカと距離を置く非共産国との交流の活発さは、それまでにない程となっていた。また第三国を経由した欧米諸国との貿易も行われるようになり、日本側は採算を無視してでも西側の最新工作機械や技術パテントを購入したり、製品のライセンス生産権利を獲得しようとした。西側もいまだ日本の側からの東側離脱という政治的動き完全にを捨てていないため、先端軍事技術、先端一般技術以外では強い制限を設けるも技術輸出を容認すらした。無論、日本やソ連が持っていて自分たちにない技術を得るという行動も忘れていなかった。そう言った技術交流面では、日本はソ連よりも関係を深めやすかった。こういった状態にこそ、日本の立ち位置の不透明さと中途半端さが現れていると言えるだろう。
 しかし、イコール日本の東側からの離脱とはならなかった。むしろ共産中華の一連の東側に対する敵対行動と西側諸国の対応によって日ソ関係は強化され、「日ソ蜜月時代」とすら言われるようになっていた。
 アメリカとしては、日中双方を東側から引き剥がして一気に状況を有利に持ち込もうとしたのだが、半分しか叶わなかったという事になる。日中間の問題解決を先送りし、日本がソ連をはじめ東側陣営や世界の爪弾き国家との関係を断ち切ろうとしない点を非難した事が、日本を東側陣営に残すことになった。結局、日本をココム対象国とする事もそのままだった。
 ただし結局のところ、ソ連が世界の覇権国家たらんとし、日本が中途半端な姿勢のまま地域覇権国家を維持しようとした事を、世界の覇権国家であるアメリカが受け入れられなかったからこその状況と言えるだろう。
 そして日本の東側残留に内心ほっと一息ついたソ連だったが、日本自身の内心はともかく、それまで以上に日本に気を遣わなくてはならなくなってしまう。同盟国価格での資源輸出はもちろん、様々な先端理論、先端技術の供与や情報提供も忘れるわけにはいかなかった。当然これらは、ソ連の国庫と経済に小さくない負担を継続的に与えることになる。このソ連の対日優遇政策は、日本が支えている形になりつつあったソ連経済をかえって悪化させているのではないかと研究されており、ある程度は事実だったと今日では結論されている。
 また日ソ間の貿易や交流も、いっそう強化された。驚くべき事に70年代半ばからは、ソ連国内への日本企業単独での進出すら限られた形ながら許された。それまでソ連国内での活動は、ソ連の国有企業との合弁企業や共同出資が限界だったのが大きな変化だった。日本のおかげで順調な極東・シベリア開発ですら、それまではソ連の国営企業との合弁が限界だったのだ。しかし日本側からの不満が大きかったため、日本企業単独でのソ連進出が認められるようになった。
 なお、この時形成された日本企業や日本資本の工場が集まる都市部の特別区画を、ソ連国内では経済特区と呼んだが、人々は非公式に「日本租界」と呼んだ。特に一般人が商品を買える大都市部の商業区画(「ギンザ」と俗称された)では、ソ連国民が気軽に市場経済に触れる機会を得ることになる。特にソ連国民の間では社会主義に従って物品の個人所有が制限されるため、対象外となる飲食業が発展。日本資本の飲食店や食料雑貨店が大人気を博した。何故かコカコーラやハンバーガーなどアメリカ資本主義の象徴的な食べ物も、そこでは「日本の食品」として食べることができたほどだ。ただし冷戦崩壊まで、『租界』の出入り口がKGBなどの厳重な監視付きなのは変わらなかった。
 また逆に、日本にもロシア、東欧の食料品と食文化が大量に入り込んでおり、日本人の摂取カロリーの上昇は60年代に入ると急速な勢いで加速した。何しろ北の国の食べ物は、日本人及び日本食から見た場合、異常なほど高カロリー食品だった。だが日本で牛乳や各種乳製品、肉類と肉加工品のハムやソーセージなどが大量に消費されるようになったのも、ソ連や東欧諸国との交流の結果だった。そしてソ連などにとっても、日本に特例で進出した国営百貨店などがもたらす外貨は、常に上昇を続けかなりの金額だったため貴重な収入となった。そうした点から見た場合、日本はアメリカ以外の国と比較するなら十分以上の大衆消費国家であった。
 一方で50年代以後になると、日本が工業力を質的な面でもソ連より成長させていた。世界レベルで見ても、各種工業製品の小型化技術に優れるようになったため、日本との共同開発はソ連にとっても利益は大きくなった。日本国内での競争とソ連よりも西側経済との繋がりが太いためか、技術の進歩や工作機械の更新や開発も早く、工作機械などの日本からの大量輸入もソ連産業にとっては欠かせなかった。さらには、曲がりなりにも資本主義国であるためか、技術管理(エンジニアリング・マネジメント)もソ連一般より高くなっていた。様々な鉱工業分野での技術支援も、既に傾き始めていたソ連鉱工業には欠かせなくなっていた。70年代に入ると、ソ連の生命線である地下資源開発やプラントのメンテナンス分野でも、日本の企業が深く関わるようになっていた。気が付いたら、東側工作機械のかなりが東ドイツ製やチェコ製ではなく日本製に置き換わっていた。プラントそのものが日本製に置き換わった場所も少なくない。東側唯一の資本主義国である日本は、自らの食い扶持を確保するために、西側より若干遅れながらも、せっせと東側諸国の技術更新と維持を行っていたのだ。もし日本が社会主義経済だったら、このような現象は発生しなかっただろう。
 また超大国としてアメリカとの覇権競争を行わなくてはならないソ連側にとって、日本の誇る海軍とそれを支える高い造船技術が、70年代に入ると日ソ共同での航空宇宙開発が是非とも必要になっていた。ソ連が日本製の大型空母を丸ごと輸入したり、航空機や原子力潜水艦の共同開発を行うなど、その様は蜜月というレベルを超えるほどだと言われた。一九六七年(昭和四二年)とその翌年に日本で就役した《モスクワ》と《レニングラード》こそが、ソ連海軍が遂に手にした大型空母だった。これは、当時日本海軍最新鋭だった《飛鷹級》をタイプシップとした、艦載機約60機、満載排水量6万トンを越えるれっきとした大型空母であった。代金には、向こう十年間のウラン無償供与が約束されたと言われており、日ソ蜜月の象徴とも言われた。
 当然ながら西側諸国からの対日批判は強く、ソ連にとっては白海の守護神として長らく活躍する事になる。無論アメリカにいらぬ軍備拡張を行わせる事になり、軍事のみならず政治に与えた影響も大きかった。
 また順調に伸展しているシベリア開発は、もはや日本とその影響圏抜きには考えられなくなっていた。ナホトカ、チタ、ハバロフスク、さらには軍事都市ウラジオストクなどの極東主要都市が栄えているのは、近隣に日本(+北東アジア)という巨大で友好的な経済圏が存在していたからだった。サハリンもカラフトと呼ばれる方が多くなっていた。加えて、日本とその影響国が資本主義国であるため、東側陣営の人々の「出稼ぎ先」として重宝されると同時に、東側が入手しにくい物品の供給源にもなっていた。70年代に入るとソ連以下東側社会主義国全てで、日本円が地下通貨として流通するようにもなった。またソ連高級官僚(ノーメンクラツゥーラ)及び高級軍人の海外旅行先としても、日本圏は欠かすことができなかった。サイパンなどは、グァムの米軍の『監視』という名目で一大リゾートと化していた。
 加えて、日本の国鉄や満鉄により強化・改良、そして効率化されたシベリア鉄道は、ロシアや東欧と北東アジアを結ぶ大動脈へとさらに進化していた。枕木はほとんどが重コンクリートに変えられ、電化区間も多くなった。主要全線が複線化されたのはもちろん、一部の都市部では複々線の地域まであったほどだ。各駅及び駅前や操車場も日本資本によって整備・開発され、シベリア鉄道沿線各地は現代のシルクロードと言われるほどの活況を示した。管理運営にも国鉄や満鉄が広く参画し、ロシア人の鉄道とは思われないほど正確で複雑な鉄道ダイヤでシベリア鉄道が運行されるようになった。主に運行されたのは百両編成の貨物列車や出稼ぎ用の旅客(ホテル)列車だったが、同じ路線を走る豪華特急(通称『シベリア超特急』)は日本とソ連の友好の架け橋だと宣伝された。しかも日ソ間には、大西洋に匹敵するとすら宣伝されたほど大量の航空機が就航するようになり、大型の貨物機が主力ながら大量の物資がシベリアの空を我が物顔に飛び交っていた。そして中間点となったシベリア中部のノヴォシビルスクには、4000メートル級の滑走路が5本も整備された巨大飛行場が出現した。北極海も、多数の砕氷船、砕氷原子力船が日ソ双方で精力的に整備され、シベリア開発を支援すると共に重量大型貨物を北極海航路で年中運んで見せたりもした。
 また鉄道ではなかったが、60年代に入るとシベリア各地から極東、日本を目指すパイプラインは天文学的と言われる費用を投じて高度なシステムとして幾重にも組み上げられ、無尽蔵の地下資源を日本列島に注ぎ込み始めていた。
 そうした様を西側諸国は、日本が資本主義国としての対面を維持するためにいらぬ努力、無駄な精力を注いでいると小馬鹿にしていた。だが、実質的な物流の流れと経済に与えた影響は、極めて大きなものだった事がその後の研究と統計数字によって明らかになっている。
 そして事実上日本の輸送力で東(アジア)から西(東欧)に運ばれてくる物産は、年を経るごとに豊富となっていった。その有様は、社会主義経済や計画経済を通り越えるほど計画的だったとすら言われている。
 日本産の南方の果物や魚介類の缶詰は、ロシアや東欧庶民の味として喜ばれた。寿司、天ぷら、ラーメン、カレーライスなど日本生まれの食べ物が、東欧圏の庶民の間に各国の味に修正した後に広まり始めたのもこの頃からだ。個人商店で使われる計算装置がソロバンから安価なデンタクに変わったのは、間違いなく日本のおかげだった。そしてソ連を始め東側陣営の経済停滞を多少なりとも緩和もしくは進展させたのは、間違いなく資本主義国としての日本の存在だった。そして日本の資本主義は、主にケインズ式の公平分配型となっていたため、アメリカが時代と共に追い求めたハイエク型傾斜分配と違って社会主義経済にある程度馴染みやすかった。しかも日本の資本主義は、ソ連官僚が見本とするほどの強力な中央官僚主導だった。日本国内での軍人の地位もまだまだ高く、いまだに相応の権力を握っていた。このため社会主義経済、政治との相性がそれなりによかった事も、日本型資本主義が社会主義諸国に受け入れられた要因と言えるだろう。特にかつてまともな資本主義経済のあった東欧諸国では、日本の進出は大いに歓迎されていた。東ドイツ、チェコ、ハンガリーなどの経済発展には、日本企業が大きく影響した。
 つまりは、ある意味独裁者無き国家社会主義もしくは国家資本主義こそが、大日本帝国だったと言えるかもしれない。もしくは、マルクスとケインズ双方が理想とした国家形態こそが、この時期の大日本帝国だったのかもしれない。
 とにかく経済や産業が傾き始めていたソ連や東側陣営全体にとって、日本経済は無くてはならなくなっていた。何しろ60年代半ば以後の東側陣営の約半分の経済活動の実質部分は、日本が行っているものだったのだ。
 つまり東側陣営を維持する使命を背負っていたソ連にとって、日本の多少の我が儘は可能な限り受け入れなくてはならなかった。しかも日本は、東側経済の重要な一翼にして太平洋の防波堤であるばかりか、これからは裏切り者の共産中華に対する重石でもあるのだ。事実、キーとなる満州を握る日本に極東防衛が一任され、ソ連軍は中ソ対立以後も極東・シベリアの軍備をあまり増強する必要がなかった。西太平洋の戦術面での防衛については言うまでもない。
 だが70年代からのソ連が日本に最も価値を見いだしていたのが、軍国主義国家日本の軍事力ではなく、資本主義国として相応に淘汰と発展が継続されていた日本の経済力と基礎技術力そのものだったのだ。

 一方では、技術分野で大きな成果を上げたものが、米ソがしのぎを削っていた宇宙開発だった。
 もともと宇宙開発では、当初からソ連がアメリカをリードしていた。世界で最初に人工衛星を飛ばし、人類を最初に宇宙に送り込んだ事実からも明からだ。そしてアメリカの追い上げが目立ち始めた60年代半ばからは、日本が自らの国威発揚のため最初はソ連に資金と人材を積極的に送り込んだ。焦りの見えていたソ連も、日本を受け入れた。これにより日本は米ソの次に自国人を宇宙へと送り出し、60年代のうちに自力でラケータを打ち上げることにも成功した。自力での打ち上げは、1965年となった。
 ただしソ連は、当初はラケータ技術の日本への供与や協力を拒んでいた。ラケータはそのまま弾道弾兵器に転用できるからだ。だが日本は「国際地球観測年」前後にラケータ開発を本格化させると、独自技術で固体燃料ラケータを開発してしまっていた。つまり初期の日本のラケータ開発に、ソ連の技術はほとんど見られなかった。ラケータの姿もソ連一般のものよりは、欧米のものに近かった。よく考えれば、50年代までのラケータ推進式誘導兵器の多くも日本独自のものが多い。もっとも日ソ蜜月以後は、ソ連のR7系列(ソユーズ)に似た姿となっている。だが補助ブースターはノズルの少ない固体燃料型が多く、その点では日本独自と言えた。
 そして日本の順調な宇宙開発を見たロシア人は、最初は日本を疑ったが事実を知ると少しばかり方針を転換した。どうやら日本人は、自分たちに比べて異常に器用らしい、と。
 そしてソ連の方向転換の象徴が、N1ラケータの日ソ共同開発だ。一品物開発が得意な日本的職人芸は、数が限られるならばクラスター式ラケータ開発に有効だった。
 N1と命名されたロシアの超巨大月ラケータは、アメリカに先駆けて月旅行(※月周回軌道への有人での到達であって月面着陸ではない)を実現させた。そしてアメリカに数ヶ月遅れるが、ソ連国旗を月面にうち立てさせる事にも成功した。
 しかも四度目の月面着陸では、地球軌道で2機の宇宙船をドッキングした上で月面を目指し、『月面基地』を設営することにすら成功する。この『月面基地』は、二倍の規模となった月宇宙船及び着陸船を用いて大量の消耗品と気化財(主に空気)を積載したものだった。このため乗組員はそれまで同様に3名で、月に降り立ったのも2名でしかなかった。
 しかし大量の物資を積載しているため、長期の月面滞在が可能となっていた。つまりソ連は、「月面基地」の建設に成功した事になる。事実「月面基地」は派手に宣伝され、ソ連宇宙開発の勝利として大いに宣伝された。
 なお、ロシア人2人の宇宙飛行士が月面に一ヶ月間滞在。月軌道に迎えの船が来ると帰還船で合流、無事に地球への帰還を達成した。これが1970年末の事だった。
 日本人の器用さとロシア人の我慢強さが、宇宙開発で完全に花開いた瞬間だ。
 そしてこれで、ソ連の月面開発も終わりを告げる。だが月面基地設営後も、ソ連は宇宙に湯水のように国費をつぎ込み、次の目標である火星を目指し始める。既に西側に対して色々と不利な面が見え始めていたため、宇宙開発だけは譲るわけにはいかなかったためだ。故に日本が支えていた形のソ連経済を、大きく傾かせるほどの熱心さとなった。アメリカが予算不足から月面探査を終えた後も、ソ連の国庫の一割が宇宙開発予算のままだった事で多くを理解できるだろう。月面着陸で後れを取った事を挽回するべく、1996年の火星有人探査へと傾いていたのだ。
 一方でソ連は、驚くべき事に極めて扱いにくいN1ラケータの技術を、残された現物とともに日本に渡してしまう。当然と言うべきか、国威発揚の赴くままソ連の技術を応用した日本の宇宙開発は、大規模に行われるようになっていった。何しろ経費や人員を多く負担したのに、日本人は月面に結局降り立てなかったからだ。
 そしてソ連としては、恩を売ると同時に日本に大規模な宇宙開発を行わせて、順調な経済状況に足かせを付けようとした。少なくとも当時の日本経済は、ソ連にも脅威と思わせるほど発展ていると見られていたのだ(※無論事実は違う。相変わらずの軍需主導の借金財政だし、技術レベルは西側よりも遅れていた。)。しかし日本人は、一度の大事故によって月への興味を失い、身の丈にあった宇宙開発に乗り換えてしまった。衛星軌道上の軍事、通信分野で、米ソはともかく欧州に後れをとるわけにはいかないからだ。こういった点では、日本は正統派の軍国主義だったと言えるだろう。もしくは日本人は、夢は見ても一瞬の事でしかなかったと言えるかもしれない。
 なお、70年代半ばからは、日ソ共同での低軌道宇宙基地開発が熱心に行われた。初期のサリュートでの実験は、アメリカ率いる西側陣営に先駆けて、人間の長期滞在実験記録を次々に塗り替えていく。そしてこれは、ラケータ技術を十年かけてモノにしてしまった日本人達が、大規模に宇宙基地開発に参画したからこその成功だった。ソ連の「サリュート」と日本の「ひかり」のドッキングが有名だろう。
 そしてソ連は、成功を踏まえて次なる実験を開始する。目的は、宇宙空間での実験よりも人間の長期滞在に重点が置かれていた。次の巨大計画となる、火星有人探査での人間の長期宇宙滞在実験が目的だったからだ。だがそこに日本が共同開発を提案してくる。日本も同時期、低軌道での宇宙開発を本格化させていたからだ。提案を受けたソ連も、計画規模の大きさのため予算的に苦しい事と、東側の結束を見せるために日本を全面的に受け入れる。まさに宇宙開発こそが、「日ソ蜜月」の象徴だったのだ。
 そしてソ連、日本を中心に東側諸国全てが結集した共同の宇宙基地計画が1970年代末にスタートする。計画には、東側諸国だけでなく、インドなど欧米と距離を置く国も参加しているほどの規模だった。
 計画及び基地名は、当初ソ連側は「ミール(世界又は平和)」を予定していたが、日本側の提案を受け入れて「ナディエージダ(日本名:きぼう)」とされた。そして1980年から、アメリカのスペースシャトル計画に対抗するように実働を開始。バイコヌール宇宙基地と嘉手納宇宙基地からは、続々と大型ラケータを用いてモジュールが打ち上げられた。宇宙基地は5年間で300トンに達し、1986年には4人の滞在を可能とする本格的な施設となった。しかもアメリカのスペースシャトルは爆発事故を起こして、宇宙計画自体が大きく後退。少なくともソ連は、宇宙開発競争での勝者となった。滞在実験も最長で600日を達成。人類が火星に赴く目処がこれで立証される。また各種科学実験は多くの成果を日ソにもたらし、多くの新規パテントを東側に独占させる事になる。日本国内でも、「無重力」が流行語になったほどだった。
 しかしこの時点でソ連経済が完全に傾き、ロシアの宇宙開発費用は激減。宇宙基地も運用効率が大きく低下する。そして日本主導では長期間の宇宙基地維持が難しく、滞在員も常駐で3人に低下した。そこに和解を果たした欧米諸国が新たな提案、つまり「国際宇宙ステーション(ISS)」計画を提案する。
 ここで東西の宇宙計画が一つになり、より大規模化した宇宙基地の建設へとつながる。
 ISSは、2002年になんとか第一期完成にこぎ着けた。「ナディエージダ」から「ISS」と名を変えた宇宙基地の総重量は600トンに増え、8人の滞在が可能な施設へと拡大を遂げた。さらに追加モジュールを組み込んで、次の月面を目指す新たな計画への利用も予定されている。
 そしてISS後の日本にとって重要なのは、日本の外交的孤立が存在した時期に、このISSが日本と世界をつなぐ際に有効だったという点になるだろう。日本も国庫を傾かせるほど湯水のように使ってきた宇宙開発予算だったが、その効果は大きかったと言えるだろう。



フェイズ15「オイルショック前後の日本経済」