●フェイズ21「湾岸戦争と唯一の超大国」

 日本が天安門事件の余波で再び西側諸国にやや背を向け、ソ連と東欧を飲み込むことで国内景気を維持しようとしていた頃、またも日本経済を脅かす事件が起きる。1990年8月のイラクによるクウェート侵攻で始まった湾岸戦争だ。

 この頃日本と中東諸国の関係は、他の列強と違ってほとんど全方位外交状態だった。
 理由は石油にある。日本が新たな石油輸入先の欲しさに、ほとんど全ての産油国との関係を望み、原理主義の発祥地とでも呼ぶべきイランとの関係などは、列強の中で最も親密だった。当時日本に来ている出稼ぎのイラン労働者の数が、多くを物語っているだろう。イラン・イラク戦争での、イランが被害者という国際世論により作られた状態でもあった。ただし、ペルシャ湾に赴いた日本の巨人タンカーを攻撃したのが、日本がイラクに輸出した戦闘攻撃機と対艦ラケータだったことは、大いなる皮肉ではあった。
 一方では、(西側)世界の爪弾き者同士という連帯感も手伝って、アラブの天敵であるイスラエルとの関係も一定レベルで維持されていた。もっとも、イスラエルと日本の関係は実は複雑だった。
 イスラエルは、建国当初は様々な要因からソ連との関係が強かった。主にロシア系ユダヤ人が、イスラエルに多く済んでいたからだった(※国民の約二割)。そして連鎖的に、東側の資本主義国だった日本とイスラエルの関係が強まった。しかし60年代からはソ連とイスラエルの関係が断絶して、イスラエルは極度の親米国家(※実際は真逆とも言えるが)となった。そうした中、イスラエルのロシア系ユダヤ人、ソ連国内のユダヤ人は双方の国とつながりを保っていた日本を経由して互いの関係を強めるようになり、必然的にイスラエルと日本の関係も親密化したという経緯がある。そして日本人は、イスラエルが完全に親米国家となってからも、律儀にイスラエルとの関係を維持し続けたので、イスラエルからの一定の信頼も勝ち取っていた。ソ連も中東問題のパイプの一つとして、日本とイスラエルの関係継続を是認した。日本としても、イスラエルとの関係を維持することで、間接的にアメリカとの外交窓口を増やそうという意図があった。アメリカにおいても同じであった。
 なお、満州の大地を走っている日満陸軍の新型主力戦車が、どことなくイスラエルの国産戦車と似ている事が、日本とイスラエルの親密な関係を物語っていると言われる。
 しかし当然と言うべきか、日本はアラブ諸国のほとんどから好意的に見られなかった。それでも日本がアラブ諸国とそれなりの関係が維持されていたのは、様々な理由が絡み合っていた。
 一番の理由は、日本がアメリカ、イギリスと常に対立し、同じ陣営ながらロシア人とは一定の距離を置いているため(何より政体が違うし宗教も認めている)、感情面でアラブ人の感情が比較的良好だった事にある。日本がロシアに一度勝利したという歴史的要素も、この場合重要だった。要するに日本が、白人国家と対等以上に渡り合う国家であり民族だったからだ。国家関係となるとそうもいかないが、日本がアラブ地域で全方位外交ができたのは、そうした心理的要素が重要だった。アメリカ、イギリスと対立することは、第三世界での交流にはプラス面も多かったのだ。
 加えてイスラエルと日本の関係は、民間交流や経済はともかく政治及び直接的な軍事関係は冷戦期間中は常に最低限に抑えられており、アラブ諸国の反日感情を最低限とさせていた。

 また70年代中頃からの日本は、中東でも石油の輸入国となりつつあった。特にソ連国内の油田が設備の老朽化と更新予算の不足などで採掘力が明確に落ち、しかもソ連は外貨獲得のため価格引上げや、第三世界への輸出を行った。このため西側との関係が解消された80年代半ばに入ると、日本の中東に対する石油依存度は高まっていた。満州北部の昭和油田も、満州自身の発展と油田のコスト割れによって輸入が難しくなっていたから尚更だった。
 このため80年代に入ると、日本国内では突然のように省エネルギー化が言われるようになり、代換エネルギーの開発も熱心に行われるようになっていく。国内に商業用原子力発電所が俄然増え出し、日本が世界の商用原子力発電事業で大きな役割を果たすよになったのも、80年代に入ってからだ。宇宙先進国というかけ声と重なった太陽光発電などは、雨後の竹の子のような有様だった。その他の省エネルギー技術も、80年代半ば以降の日本の革新時期の間に一気に世界最先端へと突き進みつつあった。ただそれでも中東の石油は必要であり、日本は中東諸国との関係強化を模索するようになる。
 しかし経済面、感情面以外で日本と親密なアラブ諸国となると、かなり限られていた。冷戦構造と、石油とドルの関係の影響だった。
 当時日本と良好な関係を結んでいる中東諸国は、東側陣営に属しているが産油国ではないイエメンとシリアぐらいだった。イスラム圏全体まで広げれば、軍事独裁の続くリビア、何とか安定に向かいつつあるアフガニスタン、周辺国との仲介を日本に依頼してきたパキスタンが加わる。インドネシアとの関係も重要だった。だが、日本がソ連とのつき合いを重視している冷戦期間中に、アラブからの評価が落ちていた事も間違いなかった。僅かな慰めが、86年にリビアを攻撃した米軍機に対して、日本が輸出した防空システムがある程度有効に機能した事ぐらいだろう。少なくとも、撃墜された米軍機にアラブ諸国民は親日度を問わずに喝采を浴びせ、それを実現した日本兵器を褒め称えた。
 当然ながらアメリカと日本の関係も軍事面で悪化し、第二次天安門事件後の事実上の経済制裁も中東問題が絡んでいた。
 またイランとの関係が良いとは言っても、日本はイラクとも石油を輸入し武器を輸出するなど行っているため、親密とまではいっていなかった。日本がイランとの関係を維持しているのも、国際価格と関係が低い産油国という要素が強い。
 それでも日本にとってのイランの石油は、満州、ソ連(ロシア)、インドネシアに並んで生命線の一つと言えた(※石油輸入国には、当時欧米から制裁を受けていたリビアもあった。)。他に日本は、援助という名の企業進出で、イランの社会制度や基礎教育、社会資本の整備に大きな力を発揮し、徐々に勢力を拡大しつつあったイラン国内の改革勢力とのつながりを強めるようになる。そして、後にソ連から独立する中央アジア諸国、南アジア諸国から注目され、関係を深くする切っ掛けとなっていく。いわゆる「日本式統治方式」の輸出だ。また、アメリカのタガが緩み始めた南米各国との経済関係の強化も、冷戦崩壊後重視されるようになった。90年代半ば以後に南米諸国の多くで左派傾向が強まると、日本との関係も深まり、年を経るごとに強まっていった。
 とにかく、アメリカにとっての日本は、依然として目の上のたんこぶだった。

 話が少し逸れたが、日本にとって湾岸戦争が不利益だったのは、戦争による石油の高騰ではなかった。日本は世界の石油価格とは関係ない国から多くの石油を買っていたからだ。イランに立ち寄る日本国籍タンカーは、戦争中も日本海軍の護衛でペルシャ湾を通常通り航行していた。
 問題むしろは、日本の武器輸出にあった。と言うのは、世界的に日本の兵器のうち海軍装備以外は、ロシア人のものと様々な面で大差ないと考えられていたからだ。事実戦車、装甲車、火砲、戦闘機などのいくつかがソ連製のライセンス生産や共同開発で、国産兵器のかなりもソ連の影響を強く受けていた。純国産の主力戦車ですら、『○○式』ではなく『T○○』と揶揄されていた。そしてイラクにはソ連製の兵器が大量に流れ込んでおり、これが湾岸戦争勃発と共に射的大会のごとく西側兵器に撃破されたからだ。当然ながら、撃破される中には日本製兵器の姿もあった。リビアで活躍した日本製対空ミサイルも、使わなければただのハイテクオブジェに過ぎなかった。
 また、航空機デザインの一部も、最新鋭のものはソ連から技術輸入されており、Mig29やSu27系列とよく似た形状の戦闘機や戦闘爆撃機が最新鋭機として続々と配備されつつあった。日本空軍の主力戦闘機の一翼は、エンジンとアビオニクス、レーダーなどかなりの部分を独自型としたSu27のライセンス生産(Su27J)ですらあった。日本の独自性が強いのは海軍関連だけとされ、こちらの売れ行きは軽艦艇を中心に世界シェアの多くを占めていた。中古空母市場も、イギリスか日本かと言われた。
 そして日本は、世界中に武器を売り歩いており、アメリカ、ソ連、フランスに並ぶ武器輸出国、いわゆる死の商人として知られていた。しかもソ連製より予備部品提供や保守整備管理がしっかりしている物が多く、価格も同じぐらいのため人気があり、冷戦時代は日本輸出産業の牽引車の一つとなっていた。それが砂漠の射的大会のおかげで、大きく売り上げが落ち込むことが予測された。
 とは言え、冷戦時代欧州に展開していた大軍を丸ごと持ち込んだ実質的なNATO軍に、物理的に何かができるわけではなかった。ペルシャ湾にはタンカー護衛の海軍艦艇が展開し、イランとシリアには少数の軍事顧問団もいたが、義勇軍などの自国戦力が展開しているわけではなかった。仮に多国籍軍以外で兵力を派兵しようとしても、移動するだけで非難されるのがオチだった。実際、インド洋やペルシャ湾にいた日本軍艦艇が少し動いただけで、アメリカを始め各国が注目した。アメリカと日本の関係が悪化していた時期でもあったため、各国の対応も日本に対してはかなり神経質となっていた。
 しかもアメリカを中心とする多国籍軍は、自らが展開した膨大な物量の軍事力に対する戦費と補給の不足から、他国のペルシャ湾岸への介入に対して神経質だった。ただ日本が何かをする前に、自力で立てなくなる前に早期開戦へと傾いていったのだから、湾岸戦争という祭りに浮かれすぎていたと評すべきだろう。
 なお日本は、アメリカに再び背を向けたばかりなので、多国籍軍に参加する気は持っていなかった。アメリカ側も日本を事実上の敵視こそすれ、参加に誘うことはなかった。当然というべきか、日本から多国籍軍への援助や支援も結局全く行わなかった。日本が行ったことは、戦後になって治安維持部隊や掃海艇部隊の派遣を行って点数を稼いだぐらいだった。これも、自国の石油戦略のために行ったのであり、欧米諸国へのおべっかで行ったわけではなかった。
 一方、NATO軍が射的大会の的としているものの中には、アメリカのM60、西ドイツのレオパルド1、イギリスのチーフテン、フランスのAMX30など西側兵器も多く含まれており、日本兵器だけの評価が落ちたわけではなかった。イラク軍の豊富で多彩な兵器群は、イラン・イラク戦争で東側ばかりでなく西側がいかにイラクに肩入れしていたかを物語っていた。なお、この時イラク軍として撃破されていた日本製戦車は、当時の主力戦車「三九式」ではなく一世代前の第2世代主力戦車の「二六式」であり、この時の教訓もあって開発を抜本的に見直された第三・五世代戦車の「百式」戦車が開発されている。
 そしてこの時日本の武器産業に求められていたのは、新たな武器輸出競争に対する展望と展開であった。
 そこで日本軍需産業界は、兵器産業を大転換する事になる。ロシアからのフィッシングの背景には、より広範な自力での兵器開発と技術向上という背景も存在していたのだ。
 以後日本の兵器企業は、莫大な技術研究投資を行って兵器の全体的な自主開発を今まで以上に加速させ、見た目でもロシア風デザインを避けて独自性を求めるようになる。またココムも既になくなったため技術輸入の拡大を図り、先端技術についても欧米に追いつく努力がより一層重ねられ、国内各所の技術開発予算が大幅に増額された。加えて、西側の兵器企業との契約数も大幅に増えるようになった。古くから交流のあったフランスとは、兵器の共同開発すら行われたほどだ(残念ながら、多くが失敗したが)。先に紹介したイスラエルとの兵器の類似性も、この時期に始まっている。そして俄に開始された通常兵器分野での日本の『軍拡』は、アメリカを始め各国に警戒感を抱かせ、何度目かの対日批判と日本の欧米不信増大へとつながっていく。またこうした技術開発への豊富な投資は、従来と違って他の民生技術への技術転換や移植が活発に行われ、日本経済全体にも好影響を与えるようになっていた。
 なお湾岸戦争は、日本にとって良い面もあった。イラクが勝手に悪者になってくれたおかげでイランに対する風当たりが少し和らぎ、日本がイランから石油を大量に輸入している事への風当たりが弱まったからだ。加えて、台頭しつつあったイスラム原理主義勢力の攻撃対象が、明確に欧米特にアメリカに向いたこともプラス要因と考えられた。アフガン・ジェノサイトとイスラエルとの関係で、日本も相応に恨みを買っていたからだ。
 そうして、日本が自分のことに忙しく動き回っている間に、湾岸戦争と言う名の西側兵器在庫一斉処分市は終了した。

 湾岸戦争後、東側陣営も完全に崩壊した事も重なって、日本は再び孤立感を深めていた。しかもソ連崩壊により唯一の超大国となりおおせたアメリカなどは、日本が依然として軍備増強を熱心に行い、さらには世界から爪弾きされた国々との関係が強いと非難して、日本の視点から見た場合の国際社会への復帰を遅らせていた。当時のアメリカには、地域覇権国家すら許さないほどの雰囲気、傲慢とでも呼ぶべき風潮が存在していた。そして世界最大の地域覇権国家となっていた日本への風当たりが強いのは、ある種必然ですらあった。
 しかし日本としては、91年以後同盟国価格で入ってこなくなったソ連(ロシア)の資源に変わりうるものが是非とも必要であった。いちおう旧東側諸国とは国際価格での貿易は可能だし、シベリア鉄道とシベリアパイプライン群、日本海航路は、そのために稼働を続けてもいた。管理運営の多くも日本人が関わっているので、他の国から輸入するより安いぐらいだった。他の国々とも、関係が若干冷却化しただけで、交流や貿易が途絶したわけではなかった。経済発展を始めていたインドとの関係は、湾岸戦争での第三世界の対米警戒もあって良好と言えた。インドも、アメリカからなるべく影響が少ないまま、途上国から新興国に向けて大きな一歩を踏み出し始めていたからだ。ロシアからの様々なものの吸収も上手くいっている。従来の主力輸出商品であった兵器の輸出も、徐々に持ち直しつつあった。だが、それだけでは足りなくなっていた。
 なぜなら、西側先進国でないのに既にGDPでは世界第二位であり、満州、韓国を含めた域内3億5000万人以上の経済を支えるためには好調な筈の内需拡大を行っても足りず、もはやなりふり構っている訳にはいかなかったからだ。何しろ貿易が停滞した筈のアメリカと西ヨーロッパ諸国を合わせた経済力は、依然として世界全体の六割を占めているのだ。
 一方ソ連の自壊により一躍世界唯一の超大国となったアメリカは、アメリカの理論で簡単には動かない大国の一つである日本に対する風当たりを再び強めるようになっていた。まさに傲慢が呼び込んだ、高圧的対応だった。形としては第二次世界大戦終了前後に近かったかもしれない。
 対する日本では、91年の後藤田政権退陣後は指導力のある政治家が出ず政治的混乱が続くも、アメリカへの伝統的対立感情から対立路線を容易に崩すことはなかった。加えて60年に再編成された中央官僚団が、政治の混乱を最小限に押しとどめていた。
 そうして、天安門事件による日本に対する世界的な風当たりは、事件から2年もすると和らいだ。 元が感情的なものだから、当たり前と言えば当たり前だった。それに西欧諸国は、自国の経済のために日本の生産力と旺盛な購買力、つまりは軍事力ではなく経済力を必要としていた。
 だが、世界唯一の超大国になり仰せたアメリカだけは別だった。イラン、リビアなど問題国との関係を保つ日本に不満を持っていた。加えて、日本が旧東側陣営に今までのツテやコネを使って大きく経済進出している事にも大きな不満を持っていた。しかもアメリカが軍隊を動かすと、それに応じて日本も海軍を中心に動かしてくるので、やっている事は冷戦前と大した違いがなかった。冷戦構造崩壊で日本の締め出しができなくなった分だけ、アメリカにとっては質が悪いほどだった。
 とにかく日本のやることなすことが、アメリカの気に入らなかった。そして安易にドルを買わないという日本の国家政策は、最大級の屈辱に近いのと同時に、実のところアメリカの国難に近かった。
 ただしアメリカも、軽い威嚇以上では日本に軍事力を用いる気はなかった。日本が、大陸間弾道弾や潜水艦発射弾道弾すら装備する、世界第三位の戦略レベルでの極めて高度な核保有国だからだ。また日本の海空戦力は、技術的には自分たちより十年は劣るものの、十分以上に脅威と認識していた。核を含めた総合的な日本の戦力評価は、ロシアを凌いで世界第二の軍備と判定されていた。間違って本格的な戦闘にでも発展して大損害でも受ければ、アメリカの国内的に問題だった。日本の軍事予算が三割以上減ったからと言っても、実質的に何も変化がないに等しかった。日本の原子力空母群や戦略爆撃機は、数こそ減らせど元気に活動していた。
 それ故に、対日政策の基本は経済面での締め付けが中心となるが、今までの日米関係から効果が薄いばかりか、かえって日本を頑なにして、他との関係を強めさせるだけに終わっていた。何しろ日本とアメリカ経済のつながりは、1960年代から冷戦期間中常に最低限で、つい五年ほど前までは主に第三国を経由したものでしかなかった。
 そしてこの短い対立期間の間、アメリカが日本に対して成功した外交は、相対的に日本の軍事力を弱体化させる各種核兵器交渉と条約の締結に関してだけに終わった。しかも日本でのさらなる軍事費低下は、日本の経済成長への呼び水ともなった。その経済面での関係改善はEC諸国に完全に先を越されてしまい、西欧企業が積極的に日本への再進出を開始していた。連動して、ロシアへの資本進出まで遅れをとってしまう。
 しかも93年から2期8年続いたアメリカ民主党政権は、日本との関係改善には常に消極的だった。かといって、新たにアメリカの敵と認定した共産中華との関係を安易に修復することも政治選択として難しかった。ただただ自国経済の回復に力を注ぎ、その過程で貿易摩擦が発生した日本との対立を深めていくという悪循環を繰り返していた。
 また日本との対立関係は、実質的にフランクリン・ルーズベルト大統領だった頃の民主党政権が始めた事だけに、伝統を覆すことは内政的にも容易ではなかった。
 ただし、アメリカにとって向こう四半世紀の間の経済価値が高い日本との関係改善を、民主党政権以外の多くが望んでいた。民主党自身も、自ら押し進めている金融を中心とした新自由主義路線推進のためには、新たな市場にして生産拠点となる日本と日本市場そのものが必要だと考えていた。明日の市場よりも今日の市場というわけだ。また、日本をドル貿易圏の中に含めることができれば、世界通貨としてのドルの大幅な延命も可能と考えられ、アメリカ国債の購入先としても日本は有望だった。ドル(+米債権)を大量に抱えていたドイツなどが、熱心に日本を説得していたほどだった。
 しかし内心での思惑に反して、外交では失敗を重ねた。かつてのベトナム同様に脅しもすかしも通用しない相手では、唯一の超大国アメリカが演出しようとした『紳士的』な覇権国家的外交が機能しないからだ。かくして二期目に入った民主党政権は、日本への経済進出にも大きく後れをとり、次の選挙敗北へとつながった。
 しかし皮肉な事に、アメリカが最も手を焼いていた日本は、見た目はともかく中身の疲弊が進んでいた。



フェイズ22「日本政治の混乱と満州危機」