●・フェイズ22「日本政治の混乱と満州危機」

 独裁国家や専制国家が最も恐れるのは、外からの侵略ではなく内からの体制崩壊、つまり「自壊」。自ら崩れ落ちてしまう事である。
 一見他国に侵略されたように見える国家でも、蹂躙される前段階として、たいてい内からの崩壊が始まっている。
 古今東西それは変わりなく、ローマ帝国や歴代の中華帝国などがその典型だろう。第二次世界大戦で他国に軍事力を用いて倒されたナチスドイツを始めとする枢軸国群の方が、近代においては例外と言える。あれほど強大に見えたソビエト連邦ロシアなどは、典型的な形で内から崩壊していった。世界の三割近くの大地に影響を及ぼした、歴史上屈指の巨大さを誇った筈の赤い帝国は、ライバルと国運を賭けた戦争をする事も無く歴史上から静かに消え去っていった。国家崩壊時の直接的な死傷者の相対的な人数を比べれば、歴史上希有な少なさと言えただろう。建国から70年という時間がもたらした様々な重みが、国家をも死に至らしめてしまったのだ。
 しかし、東側陣営第二の国家として存在し続けた、西側の俗称するところの『ラスト・エンパイアー』は少しばかり違っていた。

 大日本帝国は、古くは19世紀後半の建国時から、そして20世紀半ば以降『西側』と呼ばれる陣営から専制国家指定されていた。だが、国の体制が根本から倒れるとは、自らは全く誰も考えていなかった。経済不振による体制の揺らぎに対する心配も、ある種滑稽なことに常に日本経済と政治の足を引っ張っていた軍部中央の書類以外見たこともないような秀才将校達が主にしていた事だった。
 今更日本で天皇制が完全崩壊する可能性は極めて低く、有能で他国に比べ比較的清廉な中央の官僚集団なくしていかなる日本国家も成立しえないからだ。そして大久保利通の言葉が正しければ、日本の中央官僚制度は江戸幕府から受け継がれている事になるのだから、その強固さは歴史上屈指と言えるだろう。
 しかもこの時の中央官僚団は、1960年の混乱で一度大きな再編成を経験しており、歴史的事実に照らし合わせるならば、20世紀の間は小揺るぎもしない筈だった。一度混乱を経験した中央官僚団とは、非常に強力な組織だった。
 こうした官僚団による、それまでの欧州的な『帝国』とは違ったある種の自己完結性こそが、『自由』を標榜する西側陣営をして、大日本帝国を『ラスト・エンパイアー』とも呼ばしめたのだ。
 しかし、その帝国を背負っていると自認する人々の考えは少しばかり違っていた。
 89年の天安門事件以後の日本は、自国経済を維持する以外の行動が疎かなものとなっていた。一度ある方向に進み始めた場合、日本人及び日本という国家が陥る典型的状況だった。日本自身が決めた事なので、少しばかりの外圧など馬の耳に念仏でしかなかった。
 しかもこの大変な時期に、世代交代などで政治家の矮小化が急速に進み、共産主義陣営崩壊による混乱をまともに受けることになる。ヘッドライトなき帝国の出現というわけだ。これが世界を滅ぼせるほどの戦略核兵器を保有する国家のことなのだから、世界の危惧は極めて大きかった。アメリカがわめき立てた日本政治の危険性も、あながち間違いではなかった。
 特に1991年の後藤田政権退陣以後5年ほどは政府と政権政党の動きはあわただしく、筋の通った政策や大きな決断ができる状況には遠かった。
 この背景の一つに、ソ連邦崩壊に連動した国内での共産党合法化に伴う政治の解放により、それまで国内で押さえつけられていた市民勢力、いわゆる自由主義勢力と社会主義勢力の急速な台頭があった。にも関わらず、経済発展に伴う自由を求める民衆の声に、それまで大日本帝国を支えてきた「大政翼賛連合」と呼ばれた一党独裁型の巨大な保守政党が対応できなかった事が原因である。
 一見堅牢に見えた日本の政治も、権力の停滞による新陳代謝の低下に伴い、硬直と腐敗が進んでいたのだ。冷戦崩壊時に一気に吹き出さなかったのは、その時点で旧世代が踏みとどまっていたからに過ぎなかった。
 そして1993年6月、大政翼賛連合は総選挙で大敗。一部翼賛連合から分離した自由主義政党を名乗る政党連合による、日本初と言われたリベラル内閣が成立する。この内閣は政治改革と徴兵制完全撤廃、核軍備管理の一本化を始めとする大幅な軍縮と軍の整理を掲げた。また一党独裁政権を瓦解させた民主政党の政府として、西側からの受けも良かった。ついに、第二次世界大戦以前から生き延びている最後の亡霊が瓦解するのではないかと。
 しかしこの自由主義政党による政府は、多くのことを実行しようとして内部意見の統一がとれなくなって政策が停滞した。保守勢力や官僚からの反発も強かった。そして政権そのものが、強引に政策を推し進めるだけの力に乏しかった。
 結局何もできなくなり、唯一の政権基盤である国民からの信頼も失って、一年半ほどの比較的短命で自壊してしまう。唯一の成果らしい成果は、第一の公約とされた軍縮及び軍の改革だった。建国以来ほぼ独立していた陸海空の三軍を明治初期に存在した『兵部省』として、統合及び大きく再編成した。さらに、徴兵制から志願制軍隊への移行も実施した。軍事費の対GDP比率も、3%台にまで低下した。見た目で分かりやすい変化の一つは、兵器の正式名称で使われるのが皇紀から西暦に変わったことだろう。
 こうした軍縮だけは、大きく評価して良いと考えられている。志願制軍隊により新たな労働力を得た日本経団連は、政策実行当初は熱烈にリベラル政権を支持した。国民も途中までは、新たな政府に大きな期待を向けていた。
 しかし当然ながら軍部や保守勢力からの反感は強く、また翼賛連合から保守党へと改変された旧保守派連合は、もう一つの革新政党である社会党系政党を取り込んでまでして政権奪回を画策。巻き返しを図ろうとする。伝統的翼賛保守にしてみれば、あんな口先だけの大衆扇動家に核のボタンを預けるわけにはいかない、という事になるだろう。実際、リベラル政権は脳天気な発言をして、ロシアやアメリカを始め世界を慌てさせてもいた。
 しかしせっかく政権を奪回した保守革新連合による呉越同舟政権は、内外双方で大事件を抱えることになる。内政面での大事件は、95年1月の都市型直下型地震になる。関東大震災以来の大都市での大規模直下型地震は、中央政府から比較的遠い場所だったことと政治の混乱もあって、対応が後手後手に回った。このため、政府及び政権政党、加えて足を引っ張ってばかりいた社会党勢力に対する民衆の不審と不満を強める結果しか残さなかった。また大阪に実質的な本拠を置いていた中央官僚(通商産業省、国土交通省など経済関連の省庁が中心)からの不満は殊の外強かった。
 日本政府が強力な核のボタンを持つ事から、夢想的な事ばかり唱え現実を無視する社会党を含めた政府の世界的評価も最低となった。社会党系革新政党が歴史的に一瞬で滅び去った直接の原因は、間違いなくこの時の地震での対応にあった。
 そして外交面での大事件が、同年4月の満州国でのクーデター未遂事件になる。

 そもそも満州国は、1931年9月の『満州事件』を発端として日本が作り上げた人工国家だった。傀儡国家、と言っても全く問題はないだろう。実質的には日本の属国以下の扱いであり、軍事を用いて強引に作り上げた事に諸外国からの批判も大きかった。現地に居住する人々も、日本人を含めて実際上は満州国などという存在をほとんど認めていなかった。
 しかし日本は、何があろうと満州を手放すことはなかった。満州の地下資源や穀物は、日本列島の生命線となった。日本にとっては、ほとんど唯一の『フロンティア』だったからだ。当然ながら満州の開発にはひどく熱心であり、植民地というより本国の一部のような国造りを行っていく。
 日本からの移民の数も1950年までに計画通り500万人に達し、その後も日本本土からの移民と現地での自然増加により、21世紀初頭の日本人系住民の数は3000万人に達している。ただし満州国の総人口は1億4000万人近くに達するため、列島系日本人・日系人は国民の二割程度でしかない。一時期のアメリカ合衆国内のアングロ系よりも比率的には少ない。しかも満州国で今も続く日本民族優遇の状況から、日本人と血縁を結ぶ事で日本人化する中華系、朝鮮系民族が非常に多く、血統的な日本民族の数はかなり少ないのが現状だ。また満州国の人種的多数派は、漢族系、韓系、日本系だが、日本が東側陣営のため、ロシア人を始めスラブ系人口も無視できない比率に達していた。多くが冷戦時代の移民や出稼ぎ労働者が定住したものだが、日本政府が日本本土の東欧系出稼ぎを満州国に移民させたため、国民の一割がロシア・東欧系になるという、冷戦時代を象徴するような人種構成となっている。またインド、ベトナム、インドネシア、さらにはイランなどからも出稼ぎや移民が相次いだ事から、かつての国是だった「五族共和」の言葉は何時しかなくなり、「欧亞共和(ユーラシア共和)」が実質的な国是となってしまっていた。新京の金融街には、ユダヤ人までが闊歩していた。
 そして国内の民族的構成に関わらず、新興国、開拓国家として満州の発展は続く。第二次世界大戦で、ロシア援助の策源地となったのが発端だった。国共内戦が終わる頃には日本への属領意識が薄まり始め、現地の日本人ですら国民としては独自性を帯びるようになる。1950年代以後は国家自身も自立を始め、1958年の満州紛争が大きな転換点となった。中華中央部が、明確に『敵』となったからだ。1969年には念願の国連加盟を果たし、国家の内容も充実して政治も安定した。この独立前後に活躍したのが、満州国へと帰化して満州政界に転身していた元日本陸軍中将だった辻政信宰相だ。彼は政界引退後も満州国で影響を保ち続け、日本で『妖怪』と言われた岸信介と水面下で激しく対立し、満州国の自立に大きな貢献を果たした。もっとも彼自身も満州国の『妖怪』と言われていたので、彼にしてみれば不本意な事だったと思われる。しかしそうした個性的政治家の存在が、満州の政治的独自性の一助となった事は間違いない。
 なお満州の発展と自立は、日本とソ連の関係が常に好ましかった事が大きく影響していた。満州は、日本経済、ソ連極東経済の中間点としての役割を果たし、さらには強く連携することで常に発展を約束されていた。日本にとってはフロンティアであったが、日ソ両国の関係と東西対立の結果、重要な中間拠点となったのだ。

 満州国は、建国から半世紀以上経って冷戦崩壊により西側に解放された頃には、中華の一部ではなく日本の一地域(正確には北東アジアの一地域)へと変化していた。公用語は日本語であり通貨も満州円だった。国民も多数民族派の中で中華的な習慣や文化が残っているだけで、1億4000万人を数える国民のほとんどが自分たちを中華の一部だとは考えなくなっていた。共産中華からの侵略や干渉、テロ、そして宣伝工作に対しても、『解放』されると考えるよりも敵愾心の方がはるかに強かった。そして紛争と対立、そして共産主義者のテロ活動のおかげで国の団結と日本への親近感、そして反共産中華感情は強まっていた。
 むろん国民の半数近くが中華系民族(便宜上「漢族」)であったが、彼らは清朝こそが本来の中華の正当であると考えていた。そして共産中華を国家テロ集団と断じ、清朝の後継である満州国の国民であることに独自のアイデンティティーを持つに至っていた。満州国の事を『後清』と呼ぶ者も多い。この点日本は、漢民族住民の日本化に失敗しているのかもしれないが、中華中央と完全に別の国民を育てたのだから、十分に成功だったと見るべきだろう。
 また経済面でも、開放政策前の1985年のGNPで3000ドル近くあり、東側国家としては十分に発展した国家に成長していた。日本の産業を前提とした重化学工業と農業を中心とした産業形態に若干歪な点もあったが、十分に新興国としての資格を有していた。実際90年代半ばに入ると、日本の後を追う形で新興国として存在感を示している。21世紀初頭での一人当たりGDPでは、1万ドルを超える数字を示している。
 しかし、不満を持たない者は皆無ではなかった。どうしても存在する貧富の差を原因とする不満は、小規模ながら常に存在していた。国内には民族的な貧富の差も多いため、不満を抱く者の感情も大きかった。共産中華が裏で糸を引く共産テロや地下での共産主義活動は、60年代からの同国の慢性的問題だった。満州国軍と警察が対テロ、対ゲリラ戦に長け、国内に巨大な民間警備保障会社が何社も存在することからも、問題の深さを見せている。

 そして、冷戦崩壊による国際的な政治的混乱の流れも、満州国は避けられなかった。それ故に共産中華での天安門事件は、外圧を利用して国のたがを締め直す絶好の機会と考えられた。だが、その後日本と共に世界から受けた経済制裁により、むしろ満州国内の政情不安も大きくなった。
 そしてこれを利用しようとした勢力が二つあった。一つは当時国際的に追いつめられていた共産中華であり、もう一つは意外にも大日本帝国内の一部勢力、正確には国際的悪名高きあの『関東軍』だった。共産中華は、満州内に不安を増大させて日本軍を引き出すことで日本の国際評価をさらに落とそうと画策し、一方の関東軍は勢力圏内に危機を作り上げることで大日本帝国を内側から引き締め直そうとした。日本政府ではなく、軍の一部が独自に行動した事に、大日本帝国という国家及び軍の姿を見ることができるだろう。
 なお、動き出したのは共産中華が早く、92年頃から満州各地で共産中華が糸を引く不満分子によるテロや重犯罪行為が多発して政情不安を煽った。共産中華側としてはこのまま不安を世界中に宣伝して、満州の成長を少しでも遅らせる事を目指していた。すでに、仮に関東軍がいなくなっても、満州国軍単体で共産中華の脅威となりつつあるほど強力だったからだ。人口差で8倍近くあっても、一人当たりGDPで50倍以上の差が付けられては話にもならなかった。
 そして共産中華にとって、おあつらえの状況が出現する。1995年4月の皇帝崩御と、その後の新皇帝即位だ。どちらも大きな式典が催され、特に即位式は国家の威信を見せ国民に自分たちが満州国の国民だと知らしめるため、日本よりも大げさな式典が行われるのが建国から三代続いた慣例だ。そしてこの式典を大きな機会と捉えたのが関東軍だった。
 そして様々な勢力が帝都新京の水面下でうごめくも、国家の威信上式典中止はできず、予定通り即位祝賀パレードも行われる事になる。ただし満州国政府は巨大な軍事力が帝都新京を埋め尽くすことを利用して不測の事態に対処しようとし、事実上の戒厳令下で祝賀パレードは行われた。
 そうした強引な動きもあって、共産中華側の反動分子やテロ活動はほとんど抑えられたが、出動した軍の中に毛派共産党シンパが含まれており、それこそが共産中華側の本命だった。ただし関東軍側が式典に送り込んだ部隊の方が遙かに大規模かつ巧妙であり、彼らは式典2日前に一斉に動き出す。それはかつての満州事変を見るように計画的であり、また極めて迅速だった。
 満州国の治安維持及び防衛組織、そして関東軍や満鉄の各治安維持組織が、何よりも共産中華各組織に対して特化していた事を、天敵とされた共産中華自身が見くびっていた証拠であった。
 そしてクーデターの疑いがある反政府的勢力の鎮圧という名目で新京を動いた軍の働きにより、反体制派勢力は制圧され無事祝賀パレードが執り行われた。共産中華の国際的陰謀も比較的早い段階で暴露され、共産中華の国際的信用をさらに下落させることになる。
 これが『満州危機』の概要であったが、カウンタークーデターに動いた軍部隊の行動について事前に連絡が全くなかった事と、事実上の戒厳令が敷かれたこともあって、当初世界中からは軍事クーデターだと間違えられた。何しろ裏で動き回っていたのは、あの関東軍なのだ。
 一方日本政府は、情報が錯綜する中で政府首脳の意見が一致せず、対応が後手後手に回り国際社会で醜態をさらしてしまう。特に関東軍の事実上の独断専行を抑えられなかった失点は大きく、その反動から自身が統制できた軍事力の行使について慎重という以上の行動を取った事は、帝国としての日本の根幹を揺るがすものだった。軍の制御が出来ない軍国主義国家、軍事独裁国家など、本来ならばあってはならないのだ。
 しかも新たな皇帝が即位した満州国は、自力で状況打開を図ってしまう。その延長として、関東軍の削減と権限縮小も日本政府は飲まなくてはならなくなり、事実上の宗主国であったはずの大日本帝国の威信は

大きく揺らいだ。
 満州国が事実上政治的に独り立ちしたことは、帝国が帝国として必要なくなった証の一つでもあったからだ。



フェイズ23「海南島危機とアジア通貨危機」