●フェイズ23「海南島危機とアジア通貨危機」

 1990年代は紛争の十年だった。
 それまで冷戦構造というイデオロギーによる二大勢力の対立で押さえつけられていた民族、宗教、貧富の差の問題が一気に吹き出した形だった。
 しかし当初は、明るい時代だと考えられた。
 1992年のヨーロッパ連合(EU)成立、日本経済の躍進による北東アジアの大きな隆盛、そのどちらもが世界の新たな時代を予感させた。少なくとも、それまでの米ソによる世界の二極化構造に大きな変化をもたらす切っ掛けになると考えられた。南アフリカでのアパルトヘイト(人種隔離政策)完全廃止も、新たな時代を象徴しているかのように思えた。
 少なくとも、それまで冷戦に真面目に向き合っていると考えていた各列強の人々にとっては、これからは明るい時代なのではと思わせていた。

 しかし、事実は違っていた。
 確かに時代は新たな状況へ移行したが、それは大規模な対立から、無数の小規模の対立に移行したに過ぎなかった。
 特に90年代序盤において象徴的だったのが、ユーゴスラヴィアの崩壊と分裂だろう。
 チトーという強い個性の喪失と、ソビエト連邦という重石がなくなった同地域では、簡単に数十年昔の状況に戻ってしまっていた。結局同地域は民族や地域ごとに7つの地域に分離独立して、ようやく辛うじてての落ち着きを取り戻すことになった。またユーゴ内戦は、アメリカの新たな覇権主義とそれに異を唱える旧東側陣営(主にロシア、日本)との政治合戦の場とされてしまう。殆ど誰もが積極的な軍事介入しないまま推移する結果となった事は、少なくとも欧州情勢において冷戦時代の構図がそれほど大きく違っていない事を物語ってもいた。
 その証拠とばかりに、冷戦崩壊後の東ヨーロッパ諸国には、東側最大の経済国家でもあった日本企業の看板が所狭しと立ち並んでいた。
 ヨーロッパ連合(EU)の拡大と東進も、東欧諸国のロシア離れと日本経済との繋がりの狭間で揺れ動く国が多く、NATO(北大西洋条約機構)の東進はNATOの思惑に反して明らかに進んでいないのが現状だった。
 東欧諸国としては、歴史的、民族的要因からロシアから離れたかったのだが、予測されたほどロシアの退勢が進まなかったが故に現状に甘んじていた。また市場開放前から、日本がロシアを中継して東欧経済に深く根を下ろしていた事も、東欧諸国の西欧への合体を阻んでいた事は間違いないだろう。
 そして日本とロシアの影響で旧西側陣営の東進が進まなかった間に、東欧諸国では自由や市場経済への幻想が幻想に過ぎないことが分かってしまい、節度ある形での欧州連合との連携という形に落ち着きつつある。
 しかし東欧が比較的短期間の混乱から安定に向かったのは、世界的に見ても例外だった。アジアもアフリカも争いで溢れていた。
 その中でもう一つの例外が、旧ソビエト連邦を構成していたCIS諸国及びロシア共和国だった。
 ソビエト連邦崩壊によって、それまで連邦を構成していた15の共和国は独立を果たした。当然各国は、ロシアからの離脱を求める動きを活発化し、ロシアはつなぎ止めに必死となった。そしてここで効果を発揮したのが、ソビエト連邦を中心として旧東側全域に広がっていた日本の経済進出だった。ロシア人が混乱に苦しんでいた約十年間、日本経済は各地での進出を強化すると同時に、旧東側をある程度結び続ける役割を果たしていた。
 一方では、モンゴルからカスピ海にかけての中央アジアでは、日本の経済的影響力が強まったため、むしろ全体としては安定に向かっていた。
 日本は、同地域に直接的な軍事的プレゼンスが難しいので、経済的影響力に的を絞って進出した事が、結果として功を奏した形だった。
 一方では、日本が自らの半影響圏と考えた東アジア地域は、混乱の火種が常にくすぶっていた。
 海南島に逃れ、国連離脱後は誰もが忘れがちだった中華民国政府。東南アジア唯一の共産主義国ベトナム。軍事政権の続くミャンマー。どの国もが一国としてならそれなりに安定していながらも、混乱の火種足り得ていた。
 また中華人民共和国(共産中華)と国境を接する国の全てが紛争予備軍といえ、共産中華の周辺国の後ろに控えている日本もまた紛争当事者の一人であった。
 中でも緊迫していたのが、南シナ海だった。
 南シナ海には、台湾及び各島嶼を保有する日本が圧倒的という以上のプレゼンスを持っていたが、冷戦崩壊と共に複雑になりつつあった。同地域には、大陸側の中華人民共和国、海南島の中華民国、フィリピン、ベトナム、マレーシアが面しており、日本が領有権を主張し実質的支配権を確立していた島々の領有を主張するようになっていたからだ。特に海底資源に関して注目が集まるようになると、各国の声も高まりつつあった。
 そうした状況で最も危険度が高かったのが、中華民国政府の存在する海南島だった。

 もともと海南島は、中華世界では辺境の島と位置づけられていた。近代においては、阿片まみれの遅れた未開の島に近い扱いを受けていた。まともな産業もなく人口も希薄で、鉄鉱石の存在は確認されていたが、価値はほとんどないと判断されていた。
 そうした事態が激変するのは、中華民国政府が亡命して以後の事になる。1949年から71年にかけては、この小さく貧しい島にある中華政府こそが中華の正統な政府であり、日本本土の十倍以上の面積を持つ共産中華は、長い間国家としてまともに認められてすらいなかった。しかし海南島で何とか中華民国政府が存続できたのは、間違いなく後ろにいるアメリカのおかげであり、また共産中華がアメリカとの取引を行うためという政治的行動の結果であった。
 しかしニクソン訪中以後事態は激変し、海南島の中華民国政府は、残りの冷戦時代を気息奄々な生殺し状態で過ごさねばならなかった。何しろ南シナ海は日米の勢力境界線であり、海南島は日本の勢力圏に属している形になっていたからだ。
 一方で、日本と共産中華の対立が激しくなるにつれて、日本が海南島に興味を持つようになっていった。この傾向は、満州紛争、ニクソン訪中と事件を経るごとに徐々に強まり、日米対立が一応の解決を見た冷戦崩壊後に決定的となった。
 日本としては、本土から始まって沖縄=台湾=香港=海南島=ベトナムのラインで、共産中華を両シナ海から完全に閉め出すことができるからだ。また日本と同時期に市場開放政策(ドイモイ)に移行していたベトナムも、海南島に注目し始めていた。
 そして第二次天安門事件以後、再び日本と共産中華の対立が激しくなると、日本があからさまに海南島への経済・軍事双方での支援を強め始めた。明らかに対共産中華封じ込め強化の動きであった。
 なお海南島の総人口は、冷戦崩壊頃までに900万人ほどにまで増加するにはしたが、もし人民解放軍が本気で侵攻してきたら、一ヶ月と保たず中華民国は滅び去る事はほとんど確定事項だった。
 だからこそ共産中華もいつでも潰せると考えて、常に海南島を国際政治の道具としていた。しかし一度本気で戦争を行った日本が相手では、脅しや詐術は通じないのではと考えられた。しかも日本は再びアメリカとの対立も深めており、この機に乗じて海南島を利用して共産中華を叩きに来るのではと恐怖するようになった。第二次天安門事件の時も、非常に高い緊張状態にあった。
 これは日本が両シナ海での資源開発や、その警備のための軍備の増強を図ると共に強まり、さらにベトナムが共同歩調を取ることで強まった。しかも日本などの進出により海南島の経済力も少しばかり強まり、並行して軍備増強も進んでいた。90年代半ばには、簡単な武力侵攻では海南島は陥落しないとまで分析されるようになっていた。
 そうして焦りを強くした共産中華が、広東方面で大規模な軍事演習を行う。
 「海南島危機」の始まりだった。
 ただし、1996年5月にピークを迎えた同危機は、最初は日中の政治問題が関わっていた。

 冷戦崩壊後も、共産中華周辺では、続々と中華離れが進んでいた。東トルキスタンは完全に中央アジアの国となり、チベットはインドと日本の庇護のもと緩衝国家として生き残りの道を模索していた。モンゴルも日本の手厚い支援を受けて、アイデンティティーの復古運動が盛んだ。満州からモンゴルの首都ウランバートルに至る鉄道が、冷戦崩壊後のモンゴルの象徴だった。
 そして95年春には満州国に新たな皇帝が即位し、中華政府とは明らかに違う国家であることを世界中に印象づけた。人工国家も半世紀以上続いてしまえば、立派な独立国だった。そして独立国ではないが、日本の直轄領だった台湾が、96年3月の台湾地方選挙で地元勢力が地滑り的勝利を果たして、自治権拡大に向けて大きく動き出した。
 全て共産中華の関わりのない事象ばかりであり、東南アジアと合わせれば共産中華は無数の有力な仮想敵に囲まれた国家となっていた。
 ロシアは以前として世界最大の核保有国で、日本は総合世界第二の軍事大国、ベトナムは依然として陸軍強国で、インドは新興国として経済発展すると共に強力な軍隊を整えつつあった。
 そして日本が対中華封じ込めの仕上げとして、海南島へのさらなる接近、事実上の国家承認と国交樹立に向けて動くそぶりを明確に示し始めた。しかもこれは、政体を問わず東南アジア諸国も賛同を示しており、誰もが日米以外に自分たちの縄張り(東南アジア)に入ってくれるなという言葉を行動で表した。軍事的恫喝によって、自分たちの縄張りに漢民族を入れないように画策したのだ。
 これに対して共産中華は、これ以上引き下がることはできなかった。先年の満州でも謀略が失敗したことが、彼らを追いつめていた。
 このため人民解放軍は、広東省、コワンシー自治区での大規模な軍事演習に向けての準備を開始した。
 しかも、人民解放軍副総参謀長は日本軍高官との会見において、「海南島問題に日本軍が介入した場合には、人民中華は日本本土に核兵器を撃ち込む」と発言し、日本軍の政治介入を異常なほど強く牽制した。
 そしてこの時は、日本側が先に封じ込め戦略として行動的な活動に出ていたため、日本側も簡単に引き下がる気はなかった。それにこの程度で屈することは、今まで積み上げた自らの評価を覆すことにもなりかねなかった。日本の代表は、打てるものなら打ってみろとばかりに、傲慢な態度を崩さなかった。
 その一方で日本は、対米関係改善の姿勢を示すべく、アメリカとの共同歩調の姿勢を示した。
 しかし日本がアメリカと共同歩調を取ろうとした動きは、当時のアメリカ民主党政権の余りにも緩慢な対中華政策のおかげで実現する事はなく、日本軍が海軍を中心に南シナ海にパワー・プロジェクションを展開する事になる。ただし、中華南部での動きにベトナム軍の動きは活発であり、自らの国境線に大軍を配備して、万が一の事態に備えるべく日本と共同歩調で動き始めていた。
 そして互いに引くに引けなくなった日中は、片や軍事演習を、片や事実上の海上封鎖を開始。南シナ海北部の緊張は一気に高まった。
 そして事件は起きる。
 海南島周辺上空で、日本軍の中型電子偵察機が人民解放軍の殲撃7型戦闘機と空中接触。人民軍機は墜落し、日本軍機は救助信号を発して何とか海南島の飛行場に緊急着陸した。
 これは、日本軍機が海南島に着陸したのは初めての事件ともなり、日本側は回収のためのさらなる部隊派遣を海南島政府(中華民国政府)申し込み、海南島は受け入れを表明。
 この事件に対して共産中華は、日本軍機の領空侵犯と海南島への日本軍上陸を激しく非難。国境南部にさらに軍隊を増強し、対決姿勢を強めた。
 本来ならここで日中の外交が活発化するのだが、第二次天安門事件以後の冷却化しきった日中関係から、国連での代表会談を何度か持つのが限界であり、緊張は高まり続けた。
 しかも近隣のベトナム国境での緊迫度合いも徐々に高まっており、トンキン湾と合わせて互いの睨み合いも緊張を増していた。
 そしてここに、日本軍は軍事的プレゼンスの強化の為に、原子力空母《蒼龍》《鳳祥》を中核とする空母機動部隊を南シナ海に派遣。軍事バランスを一気に日本優位に傾けて、対中外交の常道である軍事恫喝で事態解決を図ろうとした。
 しかしここで、日本軍側に誤算があった。いつも通りなら、これで人民解放軍側が引き下がるだろうからだ。だが今回相対していたのは、主に上海や広東方面の軍管区、つまり中央からの制御がゆるい地方軍閥だった。故に中央からの統制は弱く、過剰な反応に出てしまう。
 日本の空母機動部隊派遣と共に、空を飛び交う航空機の数は俄然数を増し、海南島を挟んだ瓊州(けいしゅう)海峡、ベトナム国境近辺でも緊急出撃回数が激増した。
 この時点で、後手後手に回った感のあった日本政府が、「あの盛りのついた連中を何とかしてくれ」と、国連を介して各国に仲介を要請。ようやく事態の深刻さに気付いたアメリカなどが動き出した。
 以後問題は二国間ではなく国際問題とされ、ようやく共産中華側も事態沈静化に動き出す。これ以上反発すれば、さらなる国際的孤立が、最悪の場合日本との全面戦争が待っているからだ。
 そして空母機動部隊の援護受けた日本軍部隊が偵察機回収のため海南島に到着するも、大きな問題は発生せずに事態は解決へと向かった。
 しかし世界中に海南島問題が慎重を要する問題であることが改めて浮き彫りにされ、日本が画策した南シナ海での中華封じ込めは中途半端な形で計画を保留しなければならなくなった。
 しかも日本は、翌年アジアを席巻した軍事以外の問題で奔走しなければならず、当面共産中華に関心を向けなくなる。
 その問題こそが、「アジア通貨危機」だった。
 
 「アジア通貨危機」に至る経緯は、急速に台頭したヘッジファンドと、各国のドルペッグ制が原因の大元であると言われることが多い。
 そして冷戦崩壊後に日本の開放政策と経済発展に乗って、アジアの多くの国が、ドルと自国通貨の為替レートを固定するドルペッグ制を採用していた。アジア諸国が寄りかかるには、「円」はまだ弱く不安定だった。
 しかもアメリカの長期の景気低迷のおかげでドル安で、通貨相場は比較的安定していた。また、諸国は固定相場制の中で金利を高めに誘導して利ざやを求める外国資本の流入を促して資本を蓄積する一方、輸出で経済成長するというシステムを採用していた。中でもタイ王国はこのパターンの典型的な成長システムであり、加えて慢性的な経常赤字だった。
 そして冷戦崩壊後の世界は、日本の急速な経済発展とその数年遅れの満州国、韓王国の発展に押される形で経済及び市場が拡大し続けていた。インドの躍進も始まっていた。そして東南アジア諸国も、徐々にその恩恵を受けるようになって、借金をしつつも高い経済成長率を達成した。
 しかしアメリカの政策変更による経済成長とドル高によって、アジア各国の通貨が上昇(増価)した。必然的にアジア各国の輸出は伸び悩み、資本を投じていた世界中の投資家たちは経済成長の持続可能性に疑問を抱く様になった。
 そこに目をつけたのが、アメリカ型経済の寵児たるヘッジファンドだった。
 ヘッジファンドが通貨の空売りを仕掛け、買い支えられないアジア各国の通貨は変動相場制を導入せざるを得ない状況に追い込まれ、通貨価格が急激に下落。体力(財力)のない国から、順次IMFの軍門に下っていく事になる。
 中でも、発端となったタイ王国、経済が未熟だった韓王国のダメージは大きく、韓王国ではIMF支援でも足りず、債務不履行(デフォルト)を行うまでに経済が悪化した。そしてアジア経済に対する不安感を招き、投資対象として改めて日本経済が注目されるようになり、合わせて成長しつつあったインドへの投資を産むようになる。
 そしてアジア通貨危機は、単なる経済危機だけでなく東南アジア各国の政権を崩壊させる。当然ながら、ヘッジファンドやIMFを始めとした反欧米感情を招き、自勢力圏(東アジア及び旧東側諸国)の維持のため各国の救済に動いた形になった日本の信頼が高まるという副産物を産んだ。これが後の、ドル、ユーロに代わる機軸通貨造りを目指す大きな道標へとなっていく。
 そしてその日本だが、冷戦時代に構築された対西側防壁と言われた株式市場や先物市場、さらには敵対的企業買収に対する強固な法制度がヘッジファンドに対しても有効だったため、直接的被害はほとんどなかった。損害も、デフォルトによる損失を除けば、「護送船団」を外れたごく一部の企業だけだった。冷戦時代の日本は、西側企業に備えるべく、これらの法制度整備と研究に実に熱心だった。経済官僚達は、『絶対防壁』と自慢したものだった。そう豪語しただけの事はあり、ヘッジファンドに集結したアメリカ最高の頭脳も、この防壁の突破は叶わなかった。少なくとも、大きな利益を得られる状況になかった事は確かだった。
 また日本は、発展に伴う大きな内需があるため、国内経済自体が依然として好調だった。またアメリカと西欧諸国の生産拠点という立ち位置が依然として続いていたため、経済失速は一時的でしかなかった。日本のコピー国家と言われた満州においても、どん欲なハゲタカの侵入は何とか阻止されていた。同じ日本のコピー国家の韓王国が大打撃を受けたのは、一時的な経済の成功に浮かれてアメリカ型経済成長システムへの移行を急ぎすぎたからだというのが一般的評価だった。
 しかし世界経済は、アジア諸国の低迷により景気が後退。世界的デフレも重なって資源余りが発生して、国際価格が大きく値崩れしてしまった。あれ程元気だった投資家やヘッジファンドも自爆とも言える大打撃を受けて、一時的ではあったが意気消沈していた。また共産中華では、通貨危機の頃ようやく外資が戻り始めていたのだが、この度の危機で経済的質が低いとして再び外資が逃亡。今度は自分が悪くないのに、世界的不景気の波をモロに被っていた。
 依然堅調な日本経済と大きな成長曲線に入っていたインド経済が世界経済を牽引している状況だったが、世界的にはほとんどの国が不景気に入っていた。
 そしてソ連崩壊後、資源輸出に頼っていたロシアでも、資源価格の下落による財政危機に向けての動きが出た。だが、ロシア政府は日本そっくりの法制度を整備して国内経済の保護を行っていたため、少なくとも政府の受けた被害は最小限だった。また日本などが、天然資源の輸入に対して様々な支援の手を向けた事も、ロシア経済を最低限ではあったが支える一助となった。また、依然として旧東側陣営で活発に活動している日本企業群が、ロシアや東欧の経済を支える大きな一助ともなっていた。
 そうして我慢しているうちに、アジア通貨危機以後混乱の続いていた投資家達は、ロシア市場に回帰するようになった。

 そしてアジア通貨危機とそれに続く不景気により、世界経済は一端再編成を強いられることになる。
 この影響で結果論的に大きな利益を得ることができたのは、経済失速した国々を事実上の影響下に置くことに成功した日本と、安定成長により外資をより多く集めることに成功したインドであると言われた。経済が復調した筈のアメリカは、自らの金融主義のため自爆して、次の占拠では民主党が敗北する事になる。
 そして自らの革新と経済発展により大きな経済力と国力を手にした日本は、新たな世界の重心となるべく動きを始めるものだと世界は観測した。
 実際この頃の瞬間的な日本の経済覇権は、旧東側に加えて東南アジアにまで及んでおり、しかも旧ソ連と日本の立場を逆にした形に限りなく近い状態となっていた。
 誰かが「バブル」が継続していると言った事も、あながち間違いではなかったのだ。
 しかし経済発展により生活が激変した日本人たちは、もう「帝国」が「帝国」である必要はないのではと考えるようになっていた。
 多くの日本人にとって、別に見栄を張らなくてもよい時代が日常となりつつあったからだ。



フェイズ24「帝國二十一世紀」