●フェイズ24「帝國二十一世紀」

 ミレニアムを越えて21世紀を迎えようとしている頃、いまだ大日本帝国は存続していた。
 勢力圏は日本列島と周辺部、満州、朝鮮、台湾、南樺太、南洋諸島、内蒙古(東部)、それら全てが日本の勢力圏として維持されていた。満州と朝鮮が独立して国連にも加盟し、台湾が自治権を得ていたが、勢力圏そのものは1930年代から大きな変化はなかった。
 全ての地域で日本語が公用語で、基軸通貨も日本円(=円)だった。政治制度の多くも世界的に見ても少し特殊な日本式で、日本独特の戸籍制度すら全ての国が持っていた。何しろ、直接勢力圏全てに近代文明を波及させたのは、明治時代以後の日本人だったからだ。
 大日本帝国単独の総人口は、約1億6000万人(※台湾含む)。満州、韓王国など域内全てを含めると3億7000万人を数え、人口だけなら欧州連合やアメリカ合衆国、旧ソビエト連邦に並ぶか越えるほどだ。東側陣営が西側陣営と渡り合えた一因は、間違いなく日本の存在があったためだ。アメリカにとっての西欧諸国が、ソ連にとっての日本だった。東側陣営とは、よく言ったものである。
 しかも21世紀初頭の数字上の経済力(GDP)も、日本単独で世界第二位にあった。直接勢力圏全てを合わせると、世界全体の13%以上に達する。近隣の影響下にある国々を合わせれば、世界情勢を左右できる十分な経済圏であり国力であった。強大な軍事力と合わせれば、日本が国連常任理事国でない事は七不思議と言われたほどだ。
 その軍事力も、約一世紀に渡りソ連よりも長くアメリカと睨み合いを続けてきただけに強力だった。大陸間弾道弾、潜水艦発射型弾道弾、戦略爆撃機、長距離巡航ラケータなど、強力な核兵器保有量は米ソに次いでいた。核弾頭保有数は、21世紀初頭においても2000発近くに達していた。また通常兵器も戦車軍団、重爆撃機、大型空母、巨大戦艦、原子力潜水艦など見た目にも凶悪な攻撃兵器が豊富だった。他にも国産品や輸入やライセンス生産されたロシア製の優れた兵器もあり、色とりどりの強力な布陣を誇っていた。無論世界有数の武器輸出国でもある。しかもロシア(旧ソ連)と違って、とぎれることなく新兵器の開発と配備を続けていた。さすがは軍国主義国家というところだろう。軍事予算も、国が急速に発展した今日にあっても、国家予算の常に2割以上(GDPの約3%)を維持していた。
 もっとも日本国内に入ると、軍国主義国家という風景からは少しばかり遠い景色が広がる。

 1980年代半ばから開発の始まった新市街は、世界最先端に塗り替えられていた。新都心や副都心と呼ばれる地域を中心に、主要都市の超高層ビル群も増えた。特に帝都東京と商都大阪の変化は、それぞれの臨海部を中心に度を超していると誰もが思うほど超高層ビルだらけとなっていた。地震大国とは思えないほどだった。主に埋め立て地と郊外にある重化学工業地帯も、西側先進国を越えるほどに巨大で立派だった。先端産業の工場群についても申し分ない。東側随一の重工業国であった証であり、近年の様々なイノベーションでの成果だった。
 時代時代の開放政策と第三国との貿易と技術交流もあって、本当の最先端技術以外の技術力も西側欧米諸国と大きな差はなくなっていた。しかも冷戦崩壊後は、科学技術開発には政府、企業とも熱心であり、旧西側諸国との差はなくなりつつあると言われていた。理論科学などの面ではソ連科学の多くを吸収し今なお莫大な投資を行っているため、科学教育への予算傾注と合わせて日本の新たな表看板である「科学立国」の言葉に恥じないものを持っている。少なくとも、金融業と弁護士に頭脳リソースを集中させすぎたアメリカよりも、長期的利点は大きいと言われている。実際、国際核融合実験炉の建設が日本に決まった背景にも、日本企業が世界の商業原子力産業を牛耳る以外に、科学力を重視する日本の国家としての長期的姿勢が伺えるからだ。宇宙での経済的優位などは、早くから有名だった。日本の「HOSI」や「SORA」シリーズの打ち上げロケットは、ロシアのロケットよりも安全性が高いと言われていた。無論欧米よりも低コストだ。
 また、冷戦崩壊前後から始まった開放政策と新規産業の国家的育成により、自動車、家電、電子製品などで世界の工場にのし上がって、大きな飛躍も遂げられた。満州国と合わせて世界の工場と言われる揶揄は、決して偽りの看板ではなかった。90年代からは、異常な勢いで産業の自動化(ロボット導入)も進んでいる。
 さらに、一気に大量投資を行ったコンピュータやソフトウェア産業の躍進も続いている。コンシューマ向けオペレーティングシステムを筆頭として、アメリカと熾烈な競争を行っている。シリコンバレー奇襲と言われた中島電脳のOS攻勢は、アメリカ電子産業の象徴であるIBM社とMS社の覇権を一気に突き崩した。「日本はアメリカを恐れない」という風評通り、理不尽な法であるスーパー301条すら無視してみせた。
 80年代半ば以後、政府の後押しで世界のおもちゃ市場を席巻しているのも、半ば独自に発展した家庭用ゲーム機群や大衆文化(サブカルチャー)の申し子たちだ。急速に先進国化したためか、工業用ロボットの稼働数も、あっという間にダントツの世界一に躍り出ていた。21世紀を迎える頃には、冷戦時代の「ミリタリー・ジャパン」の風評が「ハイテク・ジャパン」へと急速に変わりつつあった。
 人々の生活も大きく変わり始めており、それまでの田畑や山野が巨大な集合住宅や新興住宅地へと急速に姿を変えつつある。兎小屋と言わ続けていた日本の住宅床面積も、西欧諸国を押しのけるように鰻登りで急上昇中だ。
 そうした姿の全ては、新興国から先進国へと脱皮しつつある、かつての軍事国家に他ならなかった。

 だが帝都(首都)を始めとする大都市の全体的な景観は、整然として清潔ながらアメリカ合衆国のような見た目の派手さはに乏しかった。近似値的には西欧諸国に近いが、低層階の小型な木造家屋が多い分だけ西欧諸国よりも貧相に見えた。長かった軍国主義の影響からか、町並みそのものがやや地味だった。憲兵や特高もいまだに存在も続けていたし、街には依然として武装していない軍服姿を見かけることができた。
 加えて国内の流通網、特に道路を用いた流通網がアメリカに比べて貧弱だった。鉄道と市電が大きく発達している以外は、道路を走る車の数は西欧諸国よりも少なく、高速道路網はアメリカや旧西ドイツには遠く及ばない。一方で過剰なほど豊富だった鉄道網は、1980年代から大幅な近代化と合理化、そして省エネルギー化作業に入っていた。鉄道と市電は、西側主に西ドイツからの技術導入によって西側最先端並に大きく発展して、省エネルギーと昨今大きな問題となっているCO2削減に大きく貢献する皮肉を産んでいる。主要鉄道に至っては、国内流通量の増大に対応するべく本格的な電磁超特急の建設工事までが始まろうとしていた。主に東側の高速鉄道も、多くが日本製だ。東西の境目だったベルリンは、東側標準となった新幹線とTGVが同時に見られる希有な地となっている。
 話が少し逸れたが、日本の都市には古い木造家屋も多く人口も過密で、都会から郊外に出るとそこは欧州諸国や東南アジアとはまた別種ののどかな田園風景が広がっていた。大都市以外の都市の多くも清潔で整理整頓されスラムがない事以外は、気分的には東南アジアの諸地域と大きな違いがないのではと思わせる風景が広がっている所もある。それでもGDPは世界第二位であり、一人当たりGDPも西欧列強よりやや低いぐらいで、十分以上に先進国の資格を持つにまでのし上がっていた。
(※2004年統計のGDPは約4兆5000億ドル。一人当たりGDPは2万8000ドル強)
 長い間の停滞からの開発と発展が急速だったため、国全体、国民一人一人の資産面での拡大は、まだまだこれからだと言えるだろう。その証拠とばかりに、日本人の購買力はどの先進国よりも旺盛だった。
 これをアメリカ人ビジネスマンから見れば、さぞ「開発」しがいのある風景が広がっていた事だろう。欧州の民俗学研究者が見れば、東洋文化についての食指を動かされたかもしれない。全ては、資本主義国でありながら常にアメリカ式資本主義と一定の距離を開けていたからであった。
 再び開かれた大日本帝国を青い目の人々が見たとき、そこにはアメリカ型資本主義とは一線を画した、欧州とはまた違った近代資本主義社会が広がっていたのだ。
 そして、日本にそうしたアンバランスさを持たせていたのが、『大日本帝国』という国家そのものであった。

 西暦が20世紀から21世紀へと移り変わる頃、再び日本は西側中心の国際社会の表舞台への十分な復帰を果たしていた。
 もともと日本が再び孤立する原因となった89年の天安門事件の原因と責任は、大規模な混乱を誘発させた中華人民共和国(共産中華)側にあった。また長い間の外交問題とされた満州国は、かつては清王朝の領土であり中華民国の領土でもあった。しかし経緯はどうあれ建国から半世紀以上経ち、政府ばかりか民意の点でも別の国民が育っている地域の復帰を叫ぶ方が、近代国家としておかしいのだ。仮に清王朝の領域を持ち出すのならば、モンゴル、東トルキスタン、チベットの事ももっと問題にしなければならないだろう。
 故に旧西側の欧米各国の多くは、民主化運動弾圧を行った中華人民共和国よりも大日本帝国との関係正常化を先に進めた。欧米のやっかみと日本の強がりが生んだ政治状況だから、喧嘩の仲直りさえ済めば特に問題のない事だったからだ。その証拠に、96年の海南島危機では諸外国はあまりうるさく言うことはなかった。うるさかったのは、世界の警察官を任じるアメリカぐらいだ。
 また90年代の特に前半において、諸外国が日本との関係を望んだ背景には、日本のロシアでの圧倒的優位な経済状況が関係していた。西側諸国は、弱った熊(ロシア)を飢狼(日本)が食い尽くす前に牙を止める手だてを講じたかったが、関係が深くなければそれも叶わないからだ。
 さらには、社会資本と良性の消費者が整えられていた日本自身の国内市場も魅力的なものに育ちつつあった。フランスなどのように、西側諸国や日本の動きにあまり関係なく、日本との関係を維持し続ける欧米先進国もあったほどだ。しかもフランスの場合は、過去の歴史においてロシアとの関係が深かったため、ロシアにも早くから食い込んでいた。旧西ドイツなどが、反ソ(反露)、反日の政治姿勢と民意から、長らくロシアに深入りできなかったのとは対照的だった。
 しかし日本は、なかなか西側社会、特にアメリカ合衆国との全面的な関係復帰に動かなかった。その理由は、日本・アメリカ双方が違いを信頼していないと言う点が一番なのだが、日本人が内政改革や軍部と政府の対立などで長期的に統一した行動がとれなかったという、情けない政治背景が存在していた。
 第二次世界大戦以前から続いていた日本の政治体制は、革新も刷新もないまま続いたため十分に弱体化していたのだ。

 1994年に政権を握った保守革新連合政権は、内政では95年1月の都市型直下型地震で対応が異常に遅いなど政権政府としての無能をさらけ出し、同年4月の満州国でのクーデター未遂の対応では、世界から失笑をかって自滅した。その前に成立したリベラル政党連合による政権も、軍事独裁国家日本を率いるにも改革するにも力不足を露呈して、貴族出身の首相自らが政権を投げ出してこちらも自壊した。
 政権を取り戻した旧翼賛連合による保守内閣は、何とか体制を立て直し内政、外交を軌道修正しようとした。しかし長い間の腐敗のツケが足を引っ張り続けて、政権運営がままならなくなった。しかも97年の韓王国などの金融崩壊などを原因とするアジア通貨危機による不景気で、保守内閣の支持率も大きく低下した。結果、98年の選挙で再び民意により惨敗。そして、別勢力によって再編成されつつあったリベラル政党連合による政権が再び成立する。
 とても一党独裁の軍事国家とは思えない政治情勢であり、また冷戦構造という重石の無くなった日本国民の移り気も相当なものだった。軍国主義日本のふたを開けてみたら、単なる大衆迎合政府しかなかったのだ。しかも政権政党自身も、急速かつなし崩しに二大政党制へと移行しつつあった。それが今まで軍国主義国家に見えたのは、アメリカとの対立という重石があったからに過ぎないのだろう。
 なお、1998年に成立した新たなリベラル政権は、「グローバリゼーション」というアメリカ同様の金融業を主軸に置いた競争型の資本主義導入を図ろうとすると同時に、憲法の改正を柱とする大規模な行政改革を行おうとする。これは前保守政権が、『ハゲタカ』と揶揄された世界的ヘッジファンドにアジア各国が食い物にされたのを、必死で日本に入り込ませないよう押しとどめたのとは対照的姿だった。
 しかしこの時の日本経済は、世界規模となったアジア通貨危機による景気停滞を前にして余剰資金を必要としており、さらなる改革解放は必要不可欠なのではと考えられた。だからこその政権交代だったのだ。また外資も、世界経済全体に比べて依然堅調な日本経済のグローバル化を望んでいた。何しろ98年当時は、余剰資金の逃げ場が世界のどこにもなかった。
 そして各種国内改革と欧米型経済導入は当初は表面的成功をおさめ、当初国民の支持もあり政治の方も成功した。国内景気も、国内で発展した新規産業による輸出の大幅な拡大を中心としてV字回復に転じた。そして気をよくしたリベラル政権は、大日本帝国の負の遺産の清算という自らの次なる公約に向けて本格的に動き出す。
 これは軍事費のさらなる大幅縮小による国家予算の健全化という建前を置いて、これまでの日本の行いを正す事で、平和国家としての新日本を目指すとしていた。彼らの言葉を鵜呑みにすれば、かつての核兵器使用、各地での様々な戦闘行為や軍事的恫喝に対して、無条件で「謝罪」しかねなかった。かつての覇権国家が陥りがちな自虐史観の最悪の例であった。
 そして一見素晴らしく見えるも、国際情勢を無視し現実からあまりにも離れた政策は、保守勢力、軍部、中央官僚、在郷軍人会、さらには支持母体となった財界からも反発を招く。また「リベラル」な日本政府の弱腰は、親密な友好国である満州、ロシア、インドなどから大きな不評を買った。アメリカを始め旧西側諸国ですら、日本の弱みにつけ込むよりも、核のボタンを持つ国の政権政党として強い疑問を投げかけた。国民の多くも、政府の言うなんだかよく分からないリベラルや平和国家という曖昧な言葉に疑問を抱くようになっていった。しかも日本への突然のような欧米型経済の導入は、見せかけの好景気が終わると、国内の旧制度とぶつかる事で大きな混乱に襲われた。当然、リベラル政党は急速に民衆の支持を失い、官僚、財界、軍、全ての勢力の支持を失っていく。そして、2001年2月の『東京争乱』と呼ばれる騒動が、不満と矛盾に対する総仕上げとなる。

 『東京争乱』の発端は、現政権を不満とする極右ゲリラによる大規模なテロ事件だった。無差別爆弾テロが発生した上に代議士事務所など複数が爆破されたのだから、相当悪質で大規模なものでもあった。
 警察(特高)と憲兵の双方が大挙出動するも、事件の性質から双方が譲らず対立。結局政府の命令により警察が取り仕切るも、テロは再発ししかも凶悪化。今度は公共機関が狙われた。少量の火薬と大量のガソリンを用いた車爆弾までもが路上で何度も爆発した。世界中に、大国としての威信を傷つける醜態をさらした。
 憲兵を廃して既存の治安組織の動きを抑制した政府(内務省=警察)の対応は常に後手後手に回り、国民からの信頼を失ってしまう。しかも政府と警察は、テロの規模と装備から軍の不満分子が関与しているのではないかと疑って軍の監視を強化。挙げ句には、現場の暴走で予備拘束にまで発展。当然ながら軍は、上層部から末端の実戦部隊に至るまで反発。しかしテロはその後も続き、警察は国民からの信頼を失いつつあった。
 そしてその後も続くテロ事件に業を煮やした政府は「無能な」警察組織(この場合警視庁)を逆恨みし、遂に事実上の戒厳令を布告。それまで否定していた「信頼できる部隊」を用いた軍隊による帝都警備を命じるに至る。厳戒令も軍による帝都治安出動も、それまでの保守政党ですら行わなかった近代日本史上前代未聞の出来事となった。
 帝都中枢に展開した兵力は、実に3万人。テロリストに対する示威行動も兼ねるとして戦車や各種装甲車、戦闘ヘリなど重武装も多数出動し、展開の規模はかの『二・二六事件』の比ではなかった。
 関東各地の駐屯地から帝都を目指す数百両の深緑色の重厚な車列はまさに圧巻であり、空には早期警戒管制機すらが布陣した。特に空挺部隊を乗せた大型ヘリの編隊飛行は迫力満点で、報道各社がこぞって取り上げた。100機近い軍用ヘリの首都上空での編隊飛行など、アメリカや旧ソ連ですらしたことがなかった。全ての軍部隊の移動は、市民生活への影響を最低限にするとして深夜に行われたが、かえって迫力を増した映像となった。
 この事件を世界中は大きく取り上げ、日本が再び軍国主義へと大きく傾くのではないかという懸念を報じ続けた。そして帝都東京は、冷戦時代に構築されなおも改良を続けられていた『要塞都市』としての姿を遂に現した。強固に武装したサーヴァント達の手によって、自らが軍国主義国家の都、帝都である事を世界に強烈に示して見せた。
 いまだ六本木に陣取る統合総司令部では、かつてない活気が満ちあふれていたという。正規編成の5個旅団が、世界最大級の都市で動き回っているのだから当然だろう。満州紛争やアフガンジェノサイトでも、これほどの密度で日本の軍隊が活動したことはなかった。
 だが奇妙なことに、軍国主義国家大日本帝国において、これほど軍隊が市民社会に溢れた事件は初めてだった。そして式典や公開演習以外で初めて直に見る自国の軍隊の姿は、日本国民に自分たちの国がどのようなものであるかを思い知らせる事になる。

 また一方では、とある政治上の問題が政治の中枢永田町で起きる。
 俗に言う『統帥権』問題だ。
 リベラル政権が「治安出動」という名目で事実上軍を天皇の裁可なく動かしたことになり、これが政治上の大問題とされたのだ。
 誰もがほとんど忘れていた『統帥権』問題だったが、継ぎ接ぎだらけの不磨の大典『大日本帝国憲法』では、政治上の大問題だったのだ。『統帥権』は、憲法上いまだ天皇の手の中に存在した。これは日本の政治上で、この上ない問題だった。
 以後問題はテロそのものよりも政治に移り、帝都の争乱よりも永田町でのなじりあいへと移行。日本国民はもとより、世界中に醜態をさらすことになる。
 幸いにして軍の治安出動と帝都の戒厳状態は一週間ほどで終わり、テロ事件もほとんどが物理的に解決された。テロリスト検挙や摘発に前後して、かなりの規模の戦闘もしくは捕り物があったが、現場レベルでの働きもあって大規模テロは起きずに帝都は平穏を取り戻した。残されたのは、3万人の機械化部隊が浪費した膨大な経費だけだった。
 しかし一方では、政府、軍を取り巻く内政問題は大きく浮き彫りにされ、リベラル政権はテロによる混乱の責任を取るという無責任な辞任を行って政党すらも空中分解。ようやく幕となった。
 多くの人々に、大日本帝国を根本から変えるべき時が来ていると知らせる警鐘が高らかに鳴り響いた瞬間だった。

 2001年4月、総選挙後の日本に新たな内閣総理大臣が誕生した。混乱の中から新たに誕生した宰相は、憲法改正、行政改革、官僚改革、国連常任理事国加入、そして日本の建て直しを旗印に選ばれた。
 彼は「大日本帝国をぶっ壊す」と、言葉巧みなアジを飛ばした。報道機関を巧みに利用した事で、国民からの支持も絶大だった。また、自らの内閣の生みの親の一人となった女性有力政治家を、いまだ絶大な権限を有していた内務省の大臣職に就かせ、組織疲弊が顕著化していた中央官僚主導体制に強引に大きな楔を打ち込むことにも成功した(※ただし女性有力政治家は、無茶苦茶をやった挙げ句に内務省幹部と共倒れの形で早期辞任している)。
 一方では外交も重視し、ロシア、アメリカ双方との関係を強めることでバランスを取って、日本の世界的地位向上に努めた。ロシア共々、かつて西側諸国だけが集まっていた主要国首脳会議と財務相会議への出席が常態化した事でも象徴されている。歴代政権の悲願でもあった国連常任理事国加入に対しても、精力的な活動を展開した。従来からの巨大な軍事力に加えて、大きくなった経済力を武器にして諸外国からの支持獲得に動いた。この過程で、冷戦時代疎遠だったドイツ、ブラジルとの関係が深まっている。
 そして就任の同年9月には、アメリカ合衆国を標的としたイスラム原理主義組織による大規模テロ『9・11テロ』が起き、アメリカの劇的な政策変更を受けて日米関係はそれまでになく良好なものとなった。
 日本が、テロと断固戦う事をいち早く表明した事が効いていた。そして後藤田政権以来十数年ぶりとなる首相の訪米が、日米関係改善の象徴の一つとして世界中の政治関係者の注目を集めた。以後数年間、日米関係は日露戦争以来と言われるほど好転した。テロ組織最大の温床となっていた無政府状態のソマリアや泥沼の内戦状態のスーダン南東部に対する出兵に日本軍が参加したことでも、日本の立ち位置を明確にしていた。
 この時は、日米の空母機動部隊が史上初めて肩を並べて戦列を組んで、ビック・デュオの競演を見せた。
 一方では、それまでのボリス・エリツィンに代わりウラジミール・プーチン大統領が強力な指導力を発揮するようになったロシアとの関係も、以前同様に強いまま維持し続けた。以前からロシアと関係の深く、20世紀末に北樺太・シベリア開発問題で活躍した鈴木宗男が外務大臣となった事が象徴だろう。また日米関係進展後にアメリカが提案した「日米安全保障条約」や「環太平洋条約機構」に向けた動きでは、『愛国主義』を強めるロシアとの共同歩調を重視したため、結局は具体化するまで話は進まなかった。
 そして日本でも、91年以後十年近く続いた政治的混乱の反動から『愛国主義』が蔓延した。これは世界の流れに反発して、経済自体も保守傾向を強めさせる事になる。この時の日本の経済傾向は、アメリカやイギリスが主導する形の金融を中心に据えた新自由主義やグローバリゼーション、つまり極度の傾斜分配型の経済と違い、あくまで製造業や加工産業を主軸に置いた、日本型の政府主導の公平分配経済を目指すものだった。それこそが、日本が軍を主軸としない場合の、国民全ての利益を守りうる『愛国主義』政策足り得たからだ。そしていまだ上昇傾向にある産業界の事を考えるならば、熟成段階を過ぎて久しい欧米諸国と同じ形態をとる必要性はまだなかった。
 しかし、世界の主流から外れていたため、アメリカとの経済的反目も根本的に解消されないままとなった。これは日本の経済と貿易が、いまだアメリカを中心とする旧西側諸国との強い関係に至っていない事も影響していた。しかも日本は、アメリカの抑え付けが緩み始めた反米的中南米諸国との関係を強めたり、今まで以上にインドとの関係を強化するなどして、常に欧米諸国、特にアングロ国家とのつながりを最小限にしていた。
 何しろ日本の20世紀は、アングロ国家との反目とすれ違いであった。故に今後もリスクを可能な限り避けなければならないと、外交上考えていたからだ。国家戦略として、アメリカ国債や外貨としてのドルの保有も、常に最低限に維持されていた。アメリカが何度もドルもしくはアメリカ国債を大量に買わないかと誘ってきたが、日本は外債購入について法律で国民に規制を敷いたほどだった。ドルを買い漁ってこれを外交利用することも十分に可能だったが、まだ日本自身は金融でアメリカと勝負できるとは考えていなかったが故の政治選択でもあった。
 一方では、日本は03年のイラク危機で、独自の情報網を用いてイラクの内情を示した資料を提示し、アメリカのイラク侵攻には欧州連合諸国と共に強く反対して、遂には戦争中止に追い込んだ。インド、イランに「友好訪問」した日本の巨大戦艦の姿は、インドの空母機動部隊の演習共々連日報道の的となった。
 また、アメリカが政治上で必要以上に非難するイランの改革派勢力を支援するなど、アメリカの政策に反する行動を取ることが多かった。インドの原子力商用利用に関しても同様だ。無論ロシアと連携した外交を展開することは、冷戦時代同様に日常となっていた。ロシアの経済的復活に従い、90年代のリベラル政権時代から中止されていた『水爆哨戒』も再開された。つまり、欧州連合以上に独自性の強い大国という立ち位置が変わったわけではなかった。
 また1958年以来根深い対立が断続的に続いていた中華人民共和国との間には、互いに新たな政府の顔が出そろった事で、2003年に政府首脳の相互訪問を46年ぶりに実現。水面下での熾烈な取引はあったと言われるも、和解と協調へと大きな一歩を踏み出した。
 そして21世紀に入り、日本の先進国化とインド、満州など新興国の発展に伴う資源高騰で、資源国家として復活の兆しの見えたロシアとの関係も依然良好だった。しかも経済的にも日本を中心に従来通り満州、韓王国とも結束し、国家連合の建設、つまりは北東アジア版欧州連合にして『大東亜共栄圏』である「東亜連合」設立に向けて大きく動き出してもいた。
 ただし経済的には、アメリカが追い求める新自由主義から常にある程度外れているため海外から日本への投資は鈍く、経済発展速度は少しばかり遅いものとなった。だが日本の中枢は、自国に合わない経済システムを急ぎ取り入れる事の危険性を考えていた。また、自ら発展に大きく寄与したネット社会をうごめく余剰資金に対しても、セカンド・ワンリー並と言われた障壁を取り払うことはほとんどなかった。ヘッジファンドに対しても、常に敵対的だった。日本は依然として、必要な貿易と投資、金融関係以外では旧西側諸国から一歩身を置き、域内内需拡大と生産業を中心に据えた独自の経済を維持した。無論、アメリカとの戦争に備えていたわけではない。今のところ敢えて経済的危険をおかす必要性も少なく、国内及び域内にはまだまだ開発すべきところがあり、当面は内需の充実に重点を置くこともまた重要だったからだ。
 これを世界は「国家資本主義」や「反ウォール街主義」と呼んで、日本の特異性に注目した。日本が詐欺師と言った金融工学に特化したアメリカ人の一部などは、遅れた経済システムに固持していると侮蔑と怒りを露わにした。
 しかし日本経済はインドほど派手ではないものの堅調で、逆に金融に特化しすぎたアメリカ経済の危険性を訴え、地に足のついた経済運営を続けていた。それは騰貴を嫌う国民からの支持を取り付けることにもつながり、政権への追い風となった。
 アメリカの怒りは、何時まで経ってもドルになびかない日本に対する焦りでもあった。
 こうした日本及び日本経済の動きは、2006年にドルを中心とした金融危機という形で姿を現し、結果として守りを固めたままだった日本の新たな攻勢の起点となっていく。

 一方、大幅な改革と憲法改正を掲げた内閣と与党は、2005年の総選挙で再び大勝利を果たした。
 その後、公約通り憲法改定を実施。憲法名称を『大日本帝国憲法』から『日本国憲法』へと改定。合わせて国号も『大日本帝国』から『帝国』の文字を取り払って『日本国』へと変更。憲法内容も大幅改訂され、天皇は統帥権という重い鎖からようやく解放された。そして憲法上の天皇主権の条文はほぼそのままに、『内閣は天皇を補弼する』という条文によって、ようやく日本を完全な民主主義国家とした。
 そして日露戦争戦勝百周年の年に大日本帝国の名が消えた事は、その百年前の戦勝こそが日本が帝国主義の道を明確に歩みだした第一歩だと思えば実に感慨深いものがある。加えて、日本が唯一国家として明確に戦ったロシアを、20世紀半ば以降は盟友とし続けた事にも感慨を抱かせずには居られない。

 了



いいわけのようなもの