■産油国日本 5-1

■日本軍の軍備

□陸軍


 長らく近衛師団、第1〜20歩兵師団から成った帝国陸軍は、諸外国との関係が悪化し始めた1933年から、最初は近代化という名目で拡張期に入った。
 主な名目はソ連の軍備増強への対応、中華地域での内乱拡大だった。
 実際、増強された兵力の多くが、関東軍、朝鮮に駐留した。
 1940年7月、充員招集完了時点の規模は50個師団(201万人)から成った。

 師団数の推移
1933年以前 歩兵師団21個。兵員数26万人。(※神の視点より:この世界は石油による経済拡大もあって宇垣軍縮は別の形で進展)
1933年 戦車師団1個、工兵師団1個増設し、計23個師団体制に。兵員数29万人。
1936年 戦車師団2個、工兵師団1個増設し、計26個師団体制に。兵員数35万人。
1937年 近衛師団2個増設すると同時に自動車化。計28個師団体制に。兵員数40万人。
1938年 欧州情勢を鑑みてという理由で、秋に第101〜120特設師団が編成が決められる。平行して常設師団は全て自動車化が決定。戦時48個師団体制に。
     ※この時点で、各国から強い警戒を向けられるようになる。
     1939年秋の充員招集令により、帝国陸軍の構成人員は140万人から196万人への増強を決定。陸軍航空隊の大幅な増勢も開始。
1940年 対英戦決意を受けて、重武装の第21、22自動車化師団を増設。計50個師団体制に。

※1938年成立はあくまで戦時計画で、ミュンヘン会議以後のヨーロッパでの情勢不穏化がなければすぐに実施されることはなかった。

・防衛戦略

 陸軍の仮想敵はこの半世紀ソビエト連邦(またはロシア帝国)であり続け、1930年代以後は朝鮮北部には常に4個師団が配置されていた。1939年には7個師団にまで増強された。ただし、帝国陸軍が朝鮮半島もしくは樺太でソ連軍の侵攻を受けたとしても、攻勢を受けて立つのはいいが反攻することまでは期待されていなかった。一方で樺太島は日ソ双方手薄なため、防衛に関してはほとんどおざなりだった。
 1930年代中頃の方針では、本格的な地上反攻は優勢な海上戦力でウラジオストクを封鎖・破壊し、艦載航空隊が沿海州のシベリア鉄道を破壊し、ソ連の兵站が立ち行かない状態にさせた後のこととされた。
 朝鮮半島や樺太には敢えて大規模な陸上航空基地を設置せず、陸軍は防戦しつつ後退、のちに空母艦載機(=空母機動部隊)だけが実現できる戦力集中を以ってソ連空軍を撃破するという戦略だった。

 陸軍が保有する大発動機艇は、ソ連占領下の
朝鮮やソ連領沿海州に強襲上陸し反撃するために大量に保有されていた。大発動機艇は17ノット発揮可能な双胴型揚陸艦で、ランプを備え、6トンの105mm砲はもとより8トン程度の軽戦車や装甲車を揚陸できた。
 上陸用舟艇の母艦である専用の揚陸艦
は、1930年代半ばから陸軍予算で順次建造された。開戦時で1万トン級が10隻配備され、そのうち6隻(それぞれ大発30隻搭載可能)が天鴎島に即応状態を高めた上(常時装備を搭載した状態)で配備されている。(※なおこの揚陸艦は、その後世界各国で誕生するドック型揚陸艦、強襲揚陸艦の始祖に当たる。その後日本でも、飛躍的に性能が向上していった。)
 この頃天鴎島は、大油田の存在もあって島内各所に高射砲陣地、沿岸砲陣地が構築され、島内は地下ケーブルで繋がれ、一部には地下要塞が設置されていた。航空隊も配備され、常時1個大隊が駐留するようになっていた。固有の陸軍部隊も、重武装の1個旅団が配備されていた。
 反攻に際しては、もちろん友好国である中華民国の支援もあてにできるだろうと考えていた。何しろソ連の脅威を受けているのは、日本よりも中華民国だった。
 
また、上陸用舟艇を多量に保有することは、フィリピンや蘭領東インド、マレーでも日本軍有利に働くことだろうと考えられていた。つまり陸軍は、かなり前から資源獲得を目的とした侵略戦争に備えていたとも言える。だが資源獲得こそが一つの国是のようなものであり、国益に合致する行為だった。

 こうした戦略のもとで設計された陸軍であるため、1930年代に入ると重火力はもちろんだが機械化が必須のものとされた。(※史実と違い、中国兵との戦いで白兵による突撃が戦果を挙げて、変に勘違いすることもなかったため)
 拡張前の総兵力は、21個師団26万人規模である。日本軍の師団においては諸兵科連合制度を採用し、砲兵や工兵は師団単位でも連隊を有し、かなり大規模な輜重兵連隊も備えた。
 通常は軍直砲兵や軍直工兵の方が重装備で、師団より大きな戦略単位である軍団の指揮下に入った。師団と軍団の工兵連隊及び工兵旅団は人員4万名から成る大所帯で、防衛道路建設などインフラ整備事業で各地の土建業者の民間人労働者と共に働いき、陸軍の広告塔と見なされている。工兵は民間土建業者の技術力向上や特殊な建設機械のレンタルを通じて、日本の建設技術を大幅にベースアップさせた。
 有能な工兵の中には、除隊後に自ら建設会社を立ち上げた者も多数現れている。

・戦車

 1940年代に入るまでの日本陸軍では、10トンを境にそれ以上を中戦車と呼び、1940年時点では以下の3種の中戦車が実戦配備されていた。

名称 前面装甲厚(mm) 主砲 重量(t) 出力HP エンジン 生産開始 生産終了
八九式中戦車 17 28口径37mm 11 120 液冷ガソリン 1929 1936
九三式中戦車 30 50口径37mm 15 200 液冷ガソリン 1933 1940
九八式中戦車 50 57口径75mm 18 240 液冷ガソリン 1939

 九三式中戦車は、日本の発展を受ける形で技術試験も兼ねて開発された。
 九三式中戦車は当時の列強標準の50口径37mm砲を備え、徹甲弾は初速800m/sに達した。採用された液冷ガソリンエンジンは対向試作車両に搭載された空冷ディーゼルに比べて軽量、省スペースかつ高馬力のため、軽減した重量を前面装甲に回すことができた。生産開始当初は、非常に先進的な戦車だった。1940年頃は旧式化が進んでいたため、エンジンを新型に換装して前面装甲を増した改良が施された車両が一部の部隊に配備されていた。
 九八式中戦車は、九三式より少し大きな車体に高射砲を元に開発された試作型だった九○式対戦車砲を改造した主砲を備え、新開発された専門の対戦車砲弾を用いる事で射距離1000mで75mmの30度傾斜した装甲板を貫通した。主砲のサイズに対して砲塔も大型化され、無線機も最初から搭載された。しかし砲塔の大型化は後のタイプよりも徹底せず、40年末からは完全なバスケット砲塔型の改良型が生産されている。

 開戦時のイギリス製戦車「Mk.IV巡航戦車」の多くは北アフリカに配備されており、当初日本軍と戦うことはなかった。
 オーストラリアに輸出されるはずだった「Mk.V カヴェナンター巡航戦車」が少数マレーに配備され、最初に日本軍と戦う英戦車となった。
 ドイツ電撃戦で散々にやられた生き残りの「Mk.I マチルダ I」と少数の「マチルダ II」がインドにも配備されていた。「IV号戦車F2型」以上の主砲威力を有する九八式中戦車といえども、射距離900m以下に詰めなければ重装甲の「マチルダ II」の正面装甲を撃破できなかった。
 インド攻略戦中期から出現した「Mk.III バレンタイン」歩兵戦車は数が多かったが、この戦車の2ポンド戦車砲(40mm砲)では前面に20mmの増加装甲を付けたタイプの九八式戦車に歯が立たたず、しかも鈍足のため易々と屠られていった。他のイギリス軍の戦車も2ポンド砲装備だった。イギリス本国では6ポンド砲(57mm砲)が開発中だったが、インドの戦いには間に合いそうにもなかった。

 1941年には、ドイツから技術導入した4連装Flak38機関砲(一式高射機関砲)を搭載した「一式対空戦車」が旧式の九三式中戦車を改造して製造されるなど、多彩な派生型が生産された。毎分720発の20ミリ砲弾を発射できる1式対空戦車は、対空戦闘はもとより占領地の治安維持においても重宝された。
 九八式戦車に88mm対空砲を搭載した一〇〇式対空戦車が1941年から実戦配備されている。

 (※史実日本におていは、主戦場の中国大陸の主要な橋が重量15トンまでしか耐えられないとみられていたため、中戦車は15トン以下で設計された。しかし、この天鴎世界ではこの制限がなく、重装甲化が可能になった。また、豊富なガソリンを利用できるため、軽量高出力のガソリンエンジンを戦車に搭載できたことは重量軽減に貢献した。)

 重戦車は95式以降試作されず、三菱重工は開発リソースを自走砲開発に投入している。軽戦車については、8トン以下のタイプを重点的に開発している。
 砲戦車(対戦車自走砲)については、
九八式中戦車の車体にヴォフォースの75mm砲を改造して搭載した重量級の対戦車戦闘戦車が1941年に試作車両が完成した。目的はソ連の未知の重戦車に対向する即戦力の整備であったが、対戦車戦では不利な事が分かり試作だけに終わっている。

 1941年前半には25トン級の「一式」、1942年末には世界標準の35トン級中戦車「三式」が開発・量産される事になる。「三式」は戦訓とドイツなどからの技術情報を受けて急ぎ開発された。
 また九八式自身の自走砲化も1941年の試作車両製造以後急速に実施され、1942年夏以後戦場でも姿を現して主に防衛戦で活躍するようになる。

名称 前面装甲厚(mm) 主砲 重量(t) 出力HP エンジン 生産開始 生産終了
九五式軽戦車改 20 2連装20mm 7.5 120 6気筒ガソリン 1937 1944
九九式軽戦車 20 50口径37mm 8 120 6気筒ガソリン 1939 1941

 九五式軽戦車に短砲身37mm砲を備えた初代は、この時期には訓練用に用いられている。1937年、全方位に弾幕を張れる20mm砲搭載型が試作され、敵前上陸時に極めて有効なため採用となった。治安維持にも有効で安価(1台6万円)なため、最終的に2000輌も生産された。
 のちには砲塔を外し、英軍から捕獲したボフォース 40mm機関砲を搭載した改造型がインド戦線に出現した。他にも、105mm野砲を搭載した安価な一式自走砲も生産されている。しかし対装甲車両戦では能力が不足するため、偵察車両としての後継者は重武装の装甲車になっている。

自走砲

 帝国陸軍は、第一次世界大戦とシベリア出兵で貴重な戦訓を得ていた。15cm砲弾以下の砲弾とそれ以上とでは、歩兵の阻止能力が全く異なるというものだった。第一次世界大戦が日本陸軍に与えた影響は大きく、将校が自弁しなくてはならなかった軍刀の携帯が廃れたのもその影響だ。

九五式自走砲:
 既に九○式4t牽引車による牽引式になっていた九四式10cm山砲や九○式10cm対戦車砲、九一式6t牽引車に引かれる九一式15cm榴弾砲、列強標準を越えると言われた九六式15cmカノン砲などが導入されていた。そのため、馬で引く構造になっていた旧式の三八式15cm榴弾砲は、新式砲に比べて軽量ながら廃棄寸前になっていた。
 そこで、試しに九三式戦車の車体に三八式15cm榴弾砲搭載してみたところ、発射速度以外は充分満足できる出来であった。砲そのものが2トン程度しかなく、50口径37mm砲よりも軽いくらいのため、運動性能も問題なかった。垂直に近い角度で落下する15cm砲弾は戦車阻止能力も有するため、英戦車との戦闘でも5km遠方から迎撃戦を挑むことができた。
 のちに三式自走砲が現れてからも、ビルマの密林やデカン高原各地で活躍することになる。

九九式砲戦車(対戦車自走砲):
 1937年に中華民国から不正入手したクルップ製88mm高射砲(Flak18)を転用したといわれる。一〇〇式対空戦車と照準装置以外は同じ砲を利用している。この砲は6t以上もの重さがあるため、九八式戦車でも重量オーバー気味で、不整地走行能力は低下している。牽引式対戦車砲としては、同じ砲を用いた九九式8cm対戦車砲が挙げられる。1941年からは、ドイツから導入された新型で長砲身の88mm高射砲(Flak38)をライセンス生産して搭載した。
 三式10cm対戦車砲が採用されるまで最強を誇る対戦車砲であった。
 このような高度な加工技術を要する火砲を製造できたのは、長年にわたり石油採掘で磨かれた特殊鋼製造技術のノウハウがモノを言った。
 しかしドイツの同種の車両と同様に装甲は薄く、対戦車戦闘では待ち伏せ戦闘が中心だった。このため前面に重装甲を施した砲戦車(→突撃砲)の開発計画が持ち上がるが、九八式戦車の車体では開発不可能なため、後継戦車が登場してからの開発となった。

歩兵装備

 一般的に、歩兵には三八式騎銃が支給された。中華民国への輸出による量産効果により、歩兵銃よりも安価(60円程度)になっていたためだ。1本10円の銃剣は使用機会なしと判断され、1940年の動員組からは省略されている(銃剣の訓練も形だけとなった。)。また、各人が中華民国製の価格5円にも満たない民国15年式手榴弾3個を携帯していた。
 鉄帽は高価なクロムモリブデン鋼で出来ているため1個10円もするが、7.7mm弾の500mからの命中弾に耐える。ただし重量1.9kgとかなり重い。銃剣を省略することになったのも、新型鉄帽が高価なので仕方ないのかもしれない。ちなみに鉄帽は、当時の世界最高水準にあった。
 しかし銃剣がないと不安がる兵士もいたため、一応選択装備として残されている。また一部の兵士は近接戦用に戦闘用ナイフを所持し、分隊火力の一つとして短機関銃も標準装備された。

 また、予算枠及び規模の拡大と近代化、そして輜重連隊の増強に伴って各人の飯盒は食事の一時携帯用となり、全師団が36000食/日の生産が可能な炊事車を随伴させている。炊事車といっても湯を製造できる釜を大きくしたもので、付随する水の簡易浄化装置や灯油コンロなどから成る。トヨタやいすゞ製2トントラック(1台4000円)に搭載された。円筒形の湯釜には12個の蛇口が付いている。主な糧食は(日本本土で加工される精米コストを省いた)乾燥玄米や1930年代後半に発明された乾燥麺にお湯を注いで3分という簡便なものだった。その後、簡易台所に炊飯用と汁物用の大型コンロを載せた贅沢なものが量産されるようになるが、これは経済発展に伴う日本人の食生活の変化と戦争の長期化を物語っている。
 温かい食事は、行軍中は一日2回が原則で、昼食は配給を受ける。一回を湯の配給だけとして、一日1回の場合もあった。
 なお炭水化物だけでは兵士へのカロリー補給はともかく栄養面でバランスが悪いため、通常はタンパク質として鯨缶が一日1個つく。だから、ときどき牛缶が支給されると皆喜んだ。その他副食も日本の発展と兵士への慰撫を目的として、戦時にはかなりの広がりを見せることになる。
 また以上は行軍中の事で、駐留しているときなどは3食が全て温かい食事となる。

 歩兵たちは基本的に、九七式六輪自動貨車(1台9000円)に代表される雑多なトラックに押し込まれて、暑さ寒さに不平を言いながら移動することになる。一等兵は月給12円、二等兵は月給10円の安い俸給では不平が出るのも仕方ないだろう。だが、自動車での歩兵の輸送は、第一次世界大戦頃の日本陸軍なら考えられない事だった。(※おそらく史実の日本兵が聞いたら羨望のあまりブチ切れるだろう)。
 騒々しい空冷ディーゼルだが耐久性はひたすら高いいすゞトラックは、過酷な環境のなかで廃車になるまでに20万キロ以上走る車輌もあったという。
 将官はもう少しマシな5人乗りの九五式四輪駆動車(後に九九式四輪駆動車に変更)に乗ることができた。OHV式強制空冷V型2気筒1.4Lガソリンエンジンを備え、大発(ダイハツ)、日産(ニッサン)、豊田(トヨタ)、日本自動車の4社が共通規格車として量産に当たった。既に後継の九九式四輪駆動車が開発されていたが、高性能のため前線用の高機動車として活用される事が多かった。
 こうした車両の耐久力の高さこそが、日本の技術発展を最も雄弁に物語っていた。
 1938年からは、簡易装甲を装着した半装軌式輸送車両が量産されるようになり、戦車師団、自動車化師団に配備が進んでいく。

師団装備

 6.5mm弾を使う九六式軽機関銃、7.7mm弾を使う九二式重機関銃が主要な機関銃であった。
 重量10kgの九六式は通常2名の歩兵が担いで運搬した。以前は中隊単位で編成される独立した軽機関銃分隊が小銃分隊とは別に作戦行動をとっていたが、6.5mm小銃弾の共通化により分隊支援火器として1小隊に1軽機関銃分隊(5挺保有)が配備されるようになっていた。
 九二式は50kg以上もの重さのため、九二式重機関銃1挺を持つ戦銃分隊(下士官1名、兵士10名、馬2頭)と弾薬分隊(下士官1名、兵士10名、馬8頭)で運用された。歩兵大隊1個につき1個機関銃中隊が付属し、九二式を合計12挺が配備された。また時代の進歩と戦争の進展に伴い、自動車の導入が進んだ。
 師団の機関銃中隊は輜重連隊・砲兵連隊の次に優先的に自動車化したため、以前と同じ”歩兵”師団でも、その戦力は実質的に向上していた。
 また、1小隊は小銃分隊3個、軽機関銃分隊1個、擲弾筒分隊1個から成った。擲弾筒分隊は1門を2名の班で運用した。

 歩兵1個師団では、九二式重機関銃108挺、九六式軽機関銃600挺、八九式重擲弾600門前後、連隊以下が装備する歩兵砲48〜30門、砲兵連隊の野砲や山砲など重砲が48門を装備した。もちろん師団の編成や充足状況によって異なるが、これが最低限の火器装備状態だった。充員召集後の1個師団の人員は24000名に増加。小銃保有数は2万挺弱である。
 上記のように、日本陸軍の師団は単独で作戦行動ができる諸兵科連合部隊であったが、専門性の高い工兵師団・戦車師団・飛行師団等専門部隊のみの師団も編成されるようになった。

 安価であるが故に帝国陸軍の将校・准士官からの人気が高かったブローニングM1910の不正コピー版との呼び声高い南部銃製造所製九四式自動拳銃が陸軍制式拳銃として採用され、1940年からは将校の装備として支給されるようになった。逆に将校の軍刀は、正式装備からは完全に廃止されている。
 1938年頃から多くの少尉が任官されると同時に、俸給の増額要求が高まった。当時の将校は被服や拳銃、双眼鏡も自弁だったため、それらの支給を国庫が負担することで俸給増加を抑制したのだった。

・陸軍の航空機

九七式戦闘機(海軍の九七艦戦とほぼ同じもの):
 引込脚式低翼単葉戦闘機。エンジン出力700HP。最大速度460km/h。この機体を最後に海軍艦載機は空冷エンジン、陸軍は液冷エンジンを主用するようになる。ただし、海軍航空隊では陸軍機と共用した機種もある。また中華民国などにも輸出または供与された。
 中島飛行機製。生産機数は、各種合計で3000機。

九九式戦闘機:
 引込脚式低翼単葉戦闘機。開戦時のエンジン出力1180HP。最大速度578 km/h(T型)。川崎重工製。
 将来の改良に備え、機内には広いスペースが確保されていた。液冷エンジン採用のため尖ったノーズと断ち切ったような翼端の形状が特徴。ドイツ機に似たデザイン的特徴が見て取れる。イギリス兵からは「ジャップ・メッサー」と呼ばれた。しかし航続距離はヨーロッパ機の一般よりも長く、さらに開戦時にはドロップタンクを装備するようになっていた。また日本軍機の特徴として、一撃離脱戦よりも格闘戦能力が高められていた。
 のちに、OHC式液冷倒立V型12気筒エンジンにスーパーチャージャーを搭載し出力を1400HPに向上させたカワサキ212B使用のII型、高高度飛行用のカワサキ212E使用のIII型が登場し、最大速度680km/hの快速を武器に1944年まで活躍した。最終型はさらにチューンしたエンジンを搭載し、一部エースに愛された。日本以外でも、同盟国の中華民国、タイ、自由インドなどにも供与された。
 生産には新星と立川飛行機も携わり、累計8000機以上生産された。愛称は「隼(はやぶさ)」。

九九式双発戦闘機:
 複座長距離戦闘機として設計され、のちに偵察型、高速爆撃機型、高高度夜間戦闘機型など派生型が生まれた。愛知航空機製のアツタ21型液冷V型12気筒(エンジン出力1310馬力)を2基搭載。最大速度605km/h。
 1944年には排気量を38Lに増やしたアツタ41型(エンジン出力1990HP。ただし100オクタン燃料が必要)2基で最大速度710km/h。航続距離3800kmという優秀な戦闘機になる。だが、価格が34万円にもなったため、最終生産型生産機数に限れば800機程度である。
 名前を「屠龍」として夜間戦闘機としても重宝され、電探を搭載して夜の空でも活躍した。愛称は「屠龍(とりゅう)」。

九七式重爆撃機
九七式軽爆撃機
一〇〇式重爆撃機


 爆撃機については、大型液冷エンジンの開発に手間取り低出力のエンジンしか得られず、海軍の陸攻、中攻よりも低性能の機体しかない。また、重複する性能の多数の機種を欲張って生産したため、同時に作戦行動がとれる機種が減少してしまうという運用上の問題も発生した。
 開発と生産は、空冷エンジンにこだわった中島飛行機が主に行った。
 しかし、1940年の開戦時点でわずかに配備されていた最新の一〇〇式重爆撃機ですら航続距離3000km、爆弾搭載量1トンに過ぎず、列強諸国の爆撃機に比べ見劣りした。
 それでも基本的に「戦術空軍」だった陸軍航空隊は問題視せず、大積載量機の開発は低調のままだった。この背景には、当時の日本軍に無差別爆撃または戦略爆撃する相手がいなかった事が深く原因している。爆弾積載量よりも命中精度や機体の機動性が重視されたのだ。そして戦術機としては優秀な機体が多く、一部の機体は地上襲撃機、夜間戦闘機、さらには海上での輸送船団襲撃などに活躍した。
 その後「二式重爆撃機」で、ようやく積載量が1トンを越えるようになる。陸軍が四発重爆撃を開発するのは「四式重爆撃機」を待たねばならなかった。

エンジン分類:
 ダイムラー・ベンツ社のDB6シリーズをライセンス生産した川崎航空機製のカワサキ系エンジンが最も生産台数が多い。12気筒を表す製品番号と派生型の記号から、”カワサキ12A”のように表記された。
 同じくDB6シリーズをライセンス生産した愛知航空機製のアツタ系エンジンも陸軍に供給されていた。こちらは”アツタ21型”のように表記された。1939年からは新星、三菱、東京瓦斯電の3社も液冷エンジン生産に参加し、大量の需要に応えている。
 陸軍機を多く作っていた中島飛行機では、主に爆撃機用の空冷エンジン(護など)の開発に重点を置きすぎた為、戦闘機用の液冷発動機は川崎などから調達せざるを得なかった。

 また、既に民間各社では部品の標準化が進んでおり、機材統一のためのエンジン型式の国家統制は見送られた。


飛行師団の規模

・基本編成
1個飛行師団 = 3個飛行団 = 9個飛行戦隊

1飛行戦隊は3個飛行中隊から成った。
1個飛行中隊=3個飛行小隊=6個飛行分隊
1個飛行分隊は2機から成るため、飛行中隊は12機。1個飛行師団は324機が定数だった。
爆撃機を有する飛行中隊は戦闘機より所属機数が少なく、9機から編成された。
また、通常の1個飛行師団は予備機を100機程度保有した。

開戦時には計66個飛行戦隊が編成され、変則で6個飛行師団に分かれ、作戦機は2400機弱であった。

 

日本の軍備 海軍